シン・レッド・ラインのレビュー・感想・評価
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日本兵もアメリカ兵もかわいそうとしか写らん
確かに長い映画だ。 イントロは戦争を感じさせない。 舞台がガダルカナル島に替われば、そこは太平洋戦争の修羅場の一つになってしまう。 戦争シーンとしてはしょぼい感じだった。 日本軍はもっといたらしいし、戦争ではなく病気で死んだ人が多かったとも聞く。 ときおり聞こえてくる日本語がむなしかった。 なぜ、日本軍はグアム島をはじめ小さな島をいくつも占領したのだろうか? 太平洋戦争自体、経験者も少なくなり知らない人が増える中で、未だに太平洋の島々にはそのときの悲しみが消えていないだろう。 今だから言えるが馬鹿な戦争をしたなあ。
″美(自然)″と″戦争(人間)″のコントラスト
本作は劇場公開時(1999年春)にはじめて鑑賞し、その後、BSやVODでも数年に一度のペースで合計10回は見ているはず。 1998年に公開された『プライベート・ライアン』と比較されることも多かった本作だが、まったく毛色の異なる戦争映画に仕上がっている。 個人的には、戦争映画、とカテゴライズすることにすら躊躇する。 ガダルカナル島の戦いを舞台にした本作にも、迫真の戦闘シーンは当然ある。 だが、どちらかと言えば、 ニック・ノルティ演じる猪突猛進型の中佐と、イライアス・コティーズ演じる部下想いの大尉との葛藤 (イライアス・コティーズが非常に良い味を出してる) ジム・カヴィーゼル演じる優しい二等兵と、ショーン・ペン演じる歴戦の曹長との触れ合い という2つの人間関係を軸に、戦争における日常を繊細に描写しつつ、 ″戦場における人命優先″ ってどういうことなのか、 生命や生活を犠牲にして戦うことの意味はなんなのか、 を問いかけてくる重厚な作品になっている。 戦場に来ている間に妻を他の軍人に奪われてしまう戦友 → 妻役の女優を敢えて耽美的な映像で表現し、陰鬱で殺戮とした戦場との対比が象徴的だ 山頂の日本軍トーチカに対して、歩兵による強襲を再三要求する中佐と、援護が足りないことを理由に拒む大尉 → これは本当にどちらが正しいのか判断が難しいが、結局は中佐のやり方でトーチカを潰す、という結末にしており、大尉は更迭される 善悪や正邪を超えた部分で、見る側に「おまえならどうする(どう受け止める)?」という自問自答が場面ごとに繰り返される。 『地獄の黙示録』や『戦争のはらわた』などとは違った切り口で戦争や人間を浮き彫りにしようと試みた、かなり哲学的な戦争映画と言える。 というか、私はそう受け取った。 他の戦争映画よりも圧倒的に優っているのは、映画の舞台でもあるソロモンの風景の美しさである。 コバルトブルーの海、 深い緑に覆われたジャングルやそこを走る清流、 道なんかどこにもない草原、 心を奪われる映像美がとても印象に残る作品だ。 ″美しい大自然″ と ″人が織りなす醜い所業・戦争″ との対比が心に残る。 『プライベート・ライアン』調の戦争映画を期待した向きには少し物足りない、小難しいものに感じたかもしれない。
勝者だからこその戦争観か?
静かな戦争映画が第一印象。爆発音や阿鼻叫喚は控え目か。それでいて淡々とそれぞれの心の声が聞こえる。これに徹したのはすごいと思う。戦場の実際は表現しきれないと割りきったのかな?
さらに、違和感は戦勝国の驕りというか優越感だね。敗戦側は今この瞬間で精一杯、生きるが最優先だったはず。この目線がしっくりこないのは、敗戦国民の僻みだけじゃないと思う。
愚かな上官も勝てば英雄、負ければ犯罪者。この構図は今も繰り返されるのがなんとも悲しい。戦場に英雄は要らない。
特筆はキャスティング。良く揃った感じ。エイドリアン・ブロディの次の成功を予想させる妙な存在感。ワンカット的なスター登場はおまけだな。
ガダルカナル島の戦い
最初にショーン・ペンの名前だけが出てニック・ノルティやジョン・トラボルタにジョージ・クルーニー等、有名どころ含めたキャスト陣の名が纏めて流れるエンディングロール、全てを俯瞰したように善でも悪でもない存在に思える『カジュアリティーズ』とは正反対の兵士を演じたショーン・ペン、あまり目立たないジョン・C・ライリーとの場面は敢えて意識されたかのように、どの場面も魅了されてしまうショーン・ペンだけを贔屓目に観てしまう個人的感想。 不慮の事故でのウディ・ハレルソンはインパクト大、ジャレッド・レトは死んだのかすら確認出来ず、オヤジの哀愁が漂うニック・ノルティのパワハラが凄まじく、日本を背負ったかのような光石研の存在感。 誰が主役でもなくそれぞれが一兵士として群像劇とは言えない、過酷な状況の中で起こる出来事や各々が思う気持ちを描写しながら、ソロモン諸島の自然な景色を映し込むテレンス・マリックの美的センスと哲学的な文言は戦争映画を観ている感覚を一瞬、忘れさせる。 初公開時に仙台青葉劇場にて鑑賞。
ゲップが出るほどの豪華キャスト
劇場公開時鑑賞。コンディション調整を怠ったこともあり、必死で睡魔と戦うハメに。そしてあっけなくレッドラインの向こう側に…なのに時々物凄く美しいシーン(蝶とすれ違うとことか)がぶっ込まれて覚醒したり、と散々いいように弄ばれて観賞後はボロボロになりました。テレンス・マリックコワイ…。
アメリカ兵の精神的苦悩に日本兵の悲惨さが薄められ…
1999年のロードショー以来だったが、 TV放映を機会に再鑑賞。 戦場の内外を通して「天国の日々」から続く 映像も音楽も静かに美しいタッチは 他の戦争映画にはない雰囲気の作品だ。 ある意味、戦闘シーンよりも非戦闘シーンに、宗教的哲学的観点から戦争の悲惨さを、 また死の意味を浮かび上がらせようとした 作品なのだろうが、問題も感じた。 我々は例えば吉田裕さんのノンフィクション 「日本軍兵士」等からガダルカナル島での 約7割の死者の多くが餓死だったり、 撤退に際し動けない闘病兵の射殺だったこと を知ることが出来るし、 映画の中で海・川・雨の描写はあっても、 ジメジメ感のないジャングルでの戦いの 描写に、ガダルカナルの戦場とは 感じ取れなかった。 リアリティという点では、 例えば何故か7人の小隊が 5つもの機関銃があるトーチカを 攻略出来てしまうシーンや、 日米双方のバランスをとるためなのか、 監督の人間性を信じたいとの表現なのかは 分からないが、日本の小隊がたった一人の アメリカ兵を追いかけ回し 「俺はお前を殺したくない」と語らせる 場面もリアリティには欠けた 安易なシーンに感じる。 冒頭の母親の死の意味に重ね合わせて 設定されたシーンなのだろうが、 もう少し自然な設定は出来なかったのか。 前半のリアリティ溢れる戦闘シーンに 比べて、終盤の日本軍陣地攻撃のシーンも 含めて後半の脚本の練りが気になった。 また、哲学的宗教的観点が前面に出過ぎると、 本来の戦争の罪・悲惨さのリアリティを 霞ませて仕舞わないだろうか。 「この大きな悪、どこから来たのか」などの 神との対話モノローグなど、 キリスト教世界のアメリカ兵の 神との対話などの心的葛藤も、 食料医療品の供給を絶たれたことにより 飢餓や病魔の地獄絵図の中に放り込まれ、 せいぜい家族や身内への想いに終始せざるを 得なかったであろう日本兵に想いを寄せる時、 アメリカ兵の悩みが まだ恵まれたものに感じられてしまう。 戦争に夫を奪われ、 寂寥から離婚してしまう妻のエピソードも、 例えば戦争が引き裂く恋愛劇の名作 「シェルブールの雨傘」を思い出す時、 取って付けた感を受けざるを得ない。 また、強引な戦闘を強いる上官と その命令に悩む部下達との繰り返し描かれる 葛藤も、よく描かれる話で 画一的にしか感じ取れない。 かつてアポロ計画を揶揄した「宇宙0年」 というノンフィクション映画があり、 宇宙開発計画の光と平行して、地上での ベトナム戦争などの陰を描いていた。 この作品では光と陰の設定が逆なものの、 自然とそれと共存する人々のシーンの挿入も 同じ意味合いなのだろうが、これも ありがちな手法にしか感じられなかった。 テレンス・マリック監督にとっては ガダルカナルの戦いは背景を借りたに すぎなく、非常時における人間性の在り方を 描いた作品なのかも知れないが、 戦争映画としては、総じてアメリカ側からの 哲学的宗教的アプローチが、 ガダルカナルの戦場の悲惨さを 薄めてしまったような印象を受ける。 軍曹は「この狂気の世界で何が出来る」と 語った。そう、戦場では哲学も宗教も 無意味だ。戦争は始まる前に防がなくては 全てが無力になり意味を失ってしまう。 マリック監督の満を持しての 20年ぶりの作品とのことだが、 愛したくとも愛しきれないマリック作品で、 彼の美しい映像スタンスでの 哲学的宗教的観点からの 戦時での人間性へのアプローチも、 戦争そのものが持つ地獄性の構造の中では、 真実に迫りきれてはいなかった ように思えた。
「戦争を考える人」向き
戦闘そのものよりも、兵士の恐怖感と絶望感、兵士間の信頼と憎悪などを象徴的な図柄を挿入しながら描くので、映画を見て「考えさせられる」のが好きな人や「学ぶ」のが好きな人に向いてます。 私はそっち派じゃないので、そっち方向はどっちでもいいですが、戦闘シーンは白兵戦なのでライアン二等兵以上にリアルを感じます。ただ、餓島の死闘はあんなもんじゃないハズです。米兵にもWW2最大の損害が出てるし、日本兵は戦闘より飢餓との戦いが凄惨だったので、その辺りをもう少し掘り下げるとよりドラマチックになったはずです。 オスカーの候補になっても恥ずかしくないよ、みたような作品です。ただ。2時間50分は長すぎ、2時間で十分でしょ。戦争映画に興味ない人なら15分で飽きることは300%保証します。
全編が映像の光輝に満ちた比類ない戦争映画
「戦争映画」というジャンルで括るからいけない。すべての評者間の混乱はそこから生じている。 本作は第2次世界大戦におけるガダルカナル島の日本軍対米国軍の戦闘を描いている。だから戦争を舞台にした映画には違いない。 しかし、あまりにも書割的な米国軍人の出世願望や、兵士の妻が故郷で別の男をつくってしまった話とか、やたら戦闘に有能な脱走兵と上官とのかみ合わない世界観とか、「戦争映画」ファンにしてみたら、激怒するしかない、ろくでもない欠点だらけの映画だ。 それに勿体ぶったモノローグにしたって、人間の小ささに比し自然は大きく永続していくとか小学生並みの思想だし…はっきりいって、いいところがほとんどない映画なのである。映像を除いては。 この映画の全編が、とにかく美しい。 背高い草に覆われた丘で、トーチカ攻略に匍匐前進する兵士が触れるとあわてて葉を閉じるねむの木、川岸の砂地にきりりと屹立する苗、戦闘で巣から追い立てられる雛たち…それらの美しさに息をのむ。 兵隊が渡っていく川も、波を切って進む軍艦も美しい。日本軍を掃討するシーンは躍動感に満ちているではないか。 これらを鑑賞し、いわば〈映像的現実〉を体験するためにだけ、この映画は存在する。それは映画本来の使命を全うすることでもあろう。駅に滑りこむ汽車の映像に熱狂したのが、映画のオリジンだった。 戦争の史実や反戦の理念、人間ドラマ…そんなものを本作から引き出すのは、「フォレスト・ガンプ」から人生の教訓を引き出すのと同じくらい馬鹿げたことだ。 だが、それだとBGM映像の環境映画とどこが違うのかということになりかねない。本作はハリウッド映画的枠組みと映像美が最低限でもバランスを取った、稀有な一作ということになるかもしれない。
テレンスマリック節がはまる
テレンスマリックのいつもの回想とも妄想ともとれる1人語り。 自分が何をやってるかわからない精神状態に戦場では陥るのだろう。それがテレンスマリックお得意の1人語りがハマる。 そういう意味で、戦争を題材にした映画では1番好きかも。
ゆったりとした印象
戦争の悲惨な映像と対比させるように、戦場での静かなシーン、 回想での幸せなシーンが長めに設定されているので、 映画を観ながら考える時間を与えられているような感じがしました。 主役級の俳優さんが、ちょくちょく出ていましたね。
戦争映画と言えない戦争映画
テレンス・マリック監督の1998年の作品。 かなり有名な監督みたいね。作品観たのは初めて。 1942年8月、ガダルカナル島での日本軍とアメリカ軍の戦いを描いている。 とは言え、ドンパチがメインのただの戦争映画ではない。 全体を通して詩的な雰囲気が漂う。 これはこの監督の作品の特徴なのかもしれない。 戦闘シーンは余計な脚色が無くリアルに感じるが、登場人物の独白が結構多い。 戦争の悲惨さと、その極限状態の中で人間とは?という問いを問うているのだろう。 もちろん我々日本人の祖父や曽祖父の世代の人とアメリカ人との戦争なので、殺されるのは日本人だ。しかし、アメリカ人も同じくらい殺される。 人種の問題ではなく「戦争」そのものへの問いなのだろう。よって、戦闘の対象が日本人かどうかはどうでも良く、そのことに日本人として引きずられることはなかった。 妻がいる兵士の回想が結構多かったが、最後妻の裏切りとも言える離婚の承諾をしてほしい、ってお願いは、この戦争を経験したものにとって酷過ぎる。 「寂しかったらから」ですまされても・・・本人はそんな感傷など入り込む余地がない世界で戦っているのに。 まぁ、妻側の視点に立てば、その事情を知る由もないわけだが。。 自然とともに平凡に生きているガダルカナルの島民と接していた登場人物の一人が、戦闘体験を経た後で、島民との距離を感じてしまう。 人を殺したことで「人間性」という「シン・レッド・ライン」を超えてしまった。 それが「戦争」という行為だ。まさに魂が毒される。 絶対に経験したいと思わない。 人間にとっての至高は「愛」なのだろうが、それすらどうでもよく、「世界の美しさ(残酷さ)」こそ至高という思想が込められている映画と最後に感じた。 独白含め、神の目からの視点が感じられた映画だったので。 それは私の価値観とも合致するので、私はこの映画が好き、と言える。
有名俳優いっぱい
ミッドウェイ開戦の激戦の影響もあるのだろうか、米軍兵士の中には脱走兵もいたり、士気も高まっていなくて、何のための攻撃なのかを疑問視する声もあった。しかし、戦意高揚させるための指揮官トール中佐(ニック・ノルティ)一人が気を吐いていた。兵卒の中にはやたらと叙勲を気にしている者もいるし、全体的にはバラバラのような気もした序盤。とにかく一人ひとりの独白調で進んでいる戦争映画も珍しい。 全体的に夜の映像が少なく、俳優の顔も見極めやすいし、それだけごまかしの利かない緊迫の映像。爆破シーンはそれほど大がかりじゃないし、むしろ小高い山の日本軍トーチカを奪うための銃撃戦がメイン。 残虐シーンなど悲惨な状況はそこまで訴えてこないし、むしろ兵士の思いが複雑に絡み合い、戦争そのものを俯瞰しているかのような気分にさせられた。やはり日本側が砲台を用意しなかったとか、米側の艦砲射撃や空爆も描かなかったせいかなぁ。 妻からの手紙で離婚届にサインしてください・・・なんてシーンを入れることも、なんだか戦争とはかけ離れてるような気がした。ジョージ・クルーニーの「軍隊は家族!私は父だ」と演説するのも笑っていいのか悪いのか・・・て気分。
見るのはしんどい、でも
美しい海と戦闘シーンが両方静かに見える。 ニュートラルな目で描かれているように感じられて、ずしっと重いものを見た気がしました。 手榴弾を誤って落として死んでしまう兵士に、リアリティも感じました。
戦争の現実の前にシンレッドラインで踏み止まれるかを問う
舞台は南太平洋、ガダルカナル島 パプアニューギニアから東へ約1000キロ 時は1942年8月 敵はもちろん我々の曾祖父である日本軍 ここが太平洋戦争の天王山だった しかし日本軍はまるで準備が出来ていなかったし、米軍も開戦初期のフィリピンの戦いを除けば初めて陸戦部隊同士が激突するということでかなりびびっていた それまで日本軍は連戦連勝で無敵の勢いがあったのだ そこでの戦いをモチーフにしているが、本作は実際の戦史にはあまり忠実とは言えない 第一それの戦いを描く戦争映画でもない 本作のテーマは戦争に於ける人間性の維持とは?といったところか 最後の超えてはいけない一線とは人間性の事だろう 部下を死なせるのを承知で戦果を求める それは帰属する集団の生か死を決する闘争が戦争である以上答えは明白だろうが人間性は破壊されることだろう だから本作はドロップアウトした兵士の人間性にあふれた原住民との島の暮らしから映画が始まり、その日常を長く我々の目に焼き付けるのだ そして戦闘の現実 人間性の一線を超えた中の物語が展開される この迫力はどんな戦争映画にも負けないくらいのリアリティーがある 敗北して捕虜になり廃人同様となった日本兵の姿をカメラはなめていく 呆然とするもの、気がふれたもの、お経を一心に唱えるもの、ふて腐れるもの これは日本兵もまた米軍と同じ人間であることを見せるシーンであり、さらにラストシーン近くでは日本兵が包囲した米兵にお前を殺したくな いと語らせる 日本兵もシンレッドラインの線上で踏みとどまろうとする人間であることをみせる つまり戦争は敵味方双方共に人間性のシンレッドラインの上で戦っているのだということを強調している シンレッドラインを踏み超えた先は一体何が起きるのか それはその後の戦争の現実が示す通りだ それでも戦いは続く しかし原住民の島の暮らしは変わらない とは言え彼らの住居には頭蓋骨がいくつも飾ってある 彼らにも闘争はあり、それは首を狩る戦いなのだ 彼らもまた違った基準のシンレッドラインをもっているだけのことだったのだ 21世紀の戦争は無人機をテレビゲームのように操り、モニターのアイコンを攻撃して敵を殺す時代になった 兵士はエアコンの効いた部屋から出れば、そこは家族の待つ家まで車で直ぐだ 時間がくれば交替して家にかえりビールを飲み子供たちと遊ぶのだ シンレッドラインはより薄くなって目にもう見えないくらい薄い 将軍役のジョン・トラボルタが貫禄があり一瞬彼とは気づかないくらいであったのには驚いた ハンス・ジマーの音楽が素晴らしい 音楽というより環境音楽というべきか 旋律があるわけではなく、ただ重苦しい重低音がずっと流れているだけなのだが、それが催眠効果のような作用をして、観るものの意識を薄れさせて麻痺させる力を及ぼすのだ 正に本作のテーマを補強する最強の「音楽」だった
タイトルに込めた思い
RED LINE には一線を越える、の意味。
THIN RED LINE には少数精鋭、の意味。
そして超えてはならない一線の意味もある。
生と死の境なのか、平常と狂気なのか、光と闇なのか。何故このタイトルにしたのか、その思いは如何に。
(ワーテルローの戦いやクリミア戦争のことは分からないので置いておく)
ラストでウィットが光を失ってしまったことを揶揄したのか、激しい戦火をものともせず日常を送る島民や美しい自然との境なのか。解釈が多数あり、映画をシンプルに観たい人には眠い作品だと思う。
退屈なほど抽象的なシーンも多く、まるで戦争と平和を描く宗教画のような作品。
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