「人の醜悪さが際立ち、再鑑賞をためらう気持ちと、クッキーマシン等に惹かれる気持ちの葛藤。」シザーハンズ とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)
人の醜悪さが際立ち、再鑑賞をためらう気持ちと、クッキーマシン等に惹かれる気持ちの葛藤。
ヒロインが、良い人っぽくなっているけれど、一番醜悪。
小学生だって、もっとましな道徳観を持っている。
エドワードを思っているように描かれているが、エドワードを利用しようとするジムを非難して、一見、善人なのだが。
自分が逮捕される、犯罪者として見られるのが嫌だから、エドワードの冤罪を晴らさない。エドワードに「逃げて」とうやむやにする。
その時の気分に流されて行動するだけの、超自己中。
街の人たちの勢いに押されて言えなくても、ジムの問答無用のハラスメントに対抗できなくても、両親に告げることはできるはずだ。そのチャンスはあった。
だのに、やらない。やれない気持ちは理解できる。
でも、その罪悪感を愛と勘違いし、かばってくれた優しさに漬け込む。
最悪なのが、キムは自分のその醜悪さに気づいていない。
エドワードに合わせて「拾ったお金でプレゼントを買う」ことの正当性を主張する。
盗んだお金で買ったプレゼントを喜べない私とは価値観が違う。というか、価値観が違うで済ませてよい問題なのだろうか?
ジョイスも醜悪。
自分の思い通りにならぬからと言って、虚偽の噂をばらまく。
でも、これは一般社会でもよくあること。エドワードに事実を皆に暴露されて、自分が責められないように、先手必勝。
街の住民だって、長年知っているジョイスと、知り合って間もないエドワードの言うことのどちらを信じるか。長年知っていて、かつ敵に回したくない方の言い分を認めるふりをするのは、社交的なスキルの一つ。それを知っていて、やっているジョイス。
そして、エドワードの駆逐に一番熱心になるのもジョイス。自分の汚点を知っている人は排除したい気持ちも共感はできるが。
そして、すべて自分の欲求耐性の無い、問題解決スキルの無い、人への思いやりもないジム。
パワハラ男がそうであるように、自分より上と思う人には逆らえない。
ついでに、キムの想いが、エドワードに移ったことを認められないストーカーぶりも披露する。キムへの愛と言うより、自分のもので自分を飾るアクセサリーだったものを取られたから取り返す。
街の人の反応をひどく言うレビューが多いが、ジョイスを除いて、私にはごく普通。
街の人は、”セキュリティを壊して家宅侵入した”エドワードを見ている。裏事情は知らない。
街の人は、怒りに任せて、街のオブジェを切り倒しているエドワードを見ている。
街の人は、ケビンの顔を傷つけているエドワードを見ている。それが、本当は助けようとしたとしても、実際には傷ついている。
最近、不審者情報がメールで送られてくるようになった。
たとえ、それが知り合いでも、情緒不安定で、よく切れる刃物を振り回している姿を見たら、安全を確保してほしいと願うのは、いけないことなのだろうか。当然の反応かと思うが。
それでも、魔女狩りのように積極的に排除しようとする人々と、ことの成り行きを見守ろうとする人々が混在して…。
それに対して、エドワードを街に連れてくるペグ。
この妻にして、この夫ありのビル。
そして、素直な反応で、たぶん、一番エドワードをニュートラルに見て受け入れていたケビン。
自分たちの常識の壁はなかなか破れないし、ちゃんと事実を確認せずに勝手に決め込んだりするが、その中で、みんなWinWinになるように、心を砕き、方法を探し、行動する。
そして、エドワードを心配する警官。
エドワード。
手が鋏というハンディキャップが目立ちやすいが、本当に、エドワードを社会から疎外させているのは、その知識の無さ。イノセントと言えば、ファンタスティックだが、社会ではやっていけない。
社会で生きていくためのルールや、感情のコントロールや、マナーを知らない。問題解決スキルもない。ジョイスが仕掛ける罠だって、街で暮らすティーンエージャーなら、気が付いて防御できるだろうに。あの修理屋のように。
創造主は、自分の趣味のスタイルで、エドワードを教育するが、エドワードに合わない。
マナーを学ぶのなら、実技だろうに!
エドワードがかわいいのは画面から溢れてくるが、自分が死んでから、エドワードがどのように暮らすのかは考えていない。必要な躾は行っていない。
エドワードを見ているうちに、本人の特性に合わない教室にいて、本当に学ぶべきことを学べない子どもたちを思い出してしまう。
人生に大切なのは偏差値・学歴だけではない。ワークシートをこなすばかりで人生経験が足りず、生きる力がない。
見通しを持って行動できないから、その場の気持ちで、損な役目を押し付けられてしまう。
自分を認められて大切にしてもらう感覚がないから、信頼できる人・信頼できる行動をとれる人を見極められずに、利用されやすい。そして、貧困や犯罪に堕ちていく。
そして、エドワードは引きこもる。
世にたくさんいらっしゃる引きこもりしている人達ともかぶる。現実に引きこもっている人達も、エドワードのように、世間からどれだけ傷つけられているのか。
そこに、ペグやビルやケビンのような人がいれば、まだ、一緒に暮らせるのか。でも、最終的にペグも、近所の人たちの動向に、「どうなるか考えなしに、やっぱり連れてくるんじゃなかった。」と言っていた…。
街ははパステルカラー。家のインテリア・エクステリアも、女性たちの衣装も、基本、パステル色調の、ワンカラーか、バイカラーが主流。家具等には最小限の差し色はあれど、服に飾りや模様等の差し色はない。
エドワードが住む城との対比かと思い、最初はその色合いにもファンタジーの世界観と思っていたが、物語が終盤になるに従って、パステルカラーが、内に醜悪なものを隠し、表面だけ美しく見せている象徴に見えてきて、異臭を放つような醜悪なものに見えてきてしまった。
監督は何を描きたかったのだろうか。
ハンディキャップがあるもの/コミュ障の純粋さ?傷ついた心?
盗んだお金でプレゼントすることを、あれだけ尊いと主張されても、それを純粋な気持ちとは思いたくない。尤も、エドワードには落としたものを使う=盗みとは思えないだろうけれど、少なくともキムにはその判断は欲しかった。
社会で、やっていい悪戯・ズルと、やってはいけない悪戯・ズル。
聖人君子では生きられないが、それでも、人が人と一緒に生きていくためには、その線引きはあるはずだ。
人柄が良いから好きになるわけではないところが妙ではあるが。
それでも、エドワードのように、自分を傷つける人を好きになると、こういう結果になる。
そして、キムが、自分がどれだけエドワードを窮地に陥れているのか、それを解消する方法があるのに取らないでいる自分の卑怯さに気が付かずにいるところが悲しい。
★ ★ ★
それでも、心くすぐられるシーンは多い。
誰が掃除するの?と突っ込みながらも、見ていて楽しいクッキー製造マシーン。
鋏の手で皿の料理を食べようとするエドワードは、ギャグの演出?ナプキン使いまであって、”マナー”をおちょくっているのだろうか?
そして、ペグを演じるウィーストさん。声、ふるまい、お姿。あのスーツと帽子も、おとぎ話の世界を作り出してくれる。
ビルを演じるアーキン氏の包容力がありながらもすっとぼけた常識。強いお酒を「レモネード」と言って、ストローで一気に飲ませる父!
創造主を演じるプライス氏。エドワードがかわいくって仕方がない表情。クッキーマシンを見ているときのわくわく感。こちらも楽しくなってくる。