「『北北西に進路を取れ』の元ネタとも言えるヒッチコックのイギリス時代の代表作のひとつ。アメリカで開花するヒッチコックの原点の全てがここにある。」三十九夜 もーさんさんの映画レビュー(感想・評価)
『北北西に進路を取れ』の元ネタとも言えるヒッチコックのイギリス時代の代表作のひとつ。アメリカで開花するヒッチコックの原点の全てがここにある。
①同じマデリン・キャロルがヒロインを演じた『間諜最後の日(The Secret Agent)』よりずっと面白かったし、ヒッチコックのイギリス時代の最高傑作と言われる『バルカン超特急』よりも楽しめた。②殺人の疑いを掛けられた男が追跡をかわしながら真相に迫っていくスリルとサスペンスの合間にユーモアとお色気とを散りばめていく手法は既にここで完成していると言っても良いかも知れない。③スパイの親玉の正体が結構早い段階で分かることで、『めまい』同様ヒッチコックが犯人探しのミステリーには余り興味がなかったことを教えてくれるが、プロットの謎はラストシーンまでわからない。当時のロンドンの風俗を描いているだけと思えた冒頭シーンの意味がラストに来て初めてわかる話の構成の妙、何故女スパイがあの場所にいたか納得がいく落ちの付け方等、いま観ても鮮やかである。③最初、てっきり主人公を助けるかと思ったマデリン・キャロルがあっさり警察に引き渡すところはやや意外であったが、再会してひょんなことで手錠で繋がれてしまってからの二人の珍道中が面白い。気が強いが何故か可笑しくて色気のあるマデリン・キャロルのヒロインは、ヒッチコックがアメリカに渡ってからの作品に出てくるヒロインたちの原型だし、手錠で繋がれたままいがみ合いながらもマデリンが濡れたストッキングを二人で協力して脱がして素足を見せるところはそこはかとないエロティズムを感じさせて、これまたアメリカ時代にはもっと複雑化するヒッチコック映画のエロティズム描写の萌芽とも言える。④マデリン・キャロルがやっとロバート・ドーナットの話を信じてよかったなぁ、と思う間もなくマデリンがあっさり敵の手下たちを行かせてしまったと聞いてロバート・ドーナットが怒り出す間の取り方の絶妙さ。先に柵を越えたロバート・ドーナットが柵に手錠が引っ掛かったのでマデリンが柵を抜けられないと分かってもう一度柵を跨いで戻る演出の細かさ。⑤ロバート・ドーナットが敵のボスに打たれて倒れ「えっ」と思ったシーンの後にすかさず、安宿の亭主が自分の一張羅のコート(前のシーンで安宿の女房がロバート・ドーナットを逃がす為に着ていかせた)の胸に入れていた福音書のことを女房に尋ねるシーンを挿入して、ロバート・ドーナットが助かったことを直接描かずに観客に分からせるというシーンの省力方法。ここは後の『海外旅行特派員』の塔から落ちた男が主人公なのか敵なのか敢えて曖昧に描いたシーンの手法に繋がる。⑥ロバート・ドーナットの逃亡を助ける安宿の女房に扮するのは『インドへの道』のペギー・アッシュクラフト(若い!)。こちらはマデリンと違い、何故か直ぐにロバート・ドーナットを信じ逃亡を手伝ってやる。どういう背景で年の違う(嫉妬深い)安宿の亭主に嫁いだかしらないが、ロバート・ドーナットへの仄かな思慕と都会生活への密かな憧れを滲ませて印象的だ、マデリンが表ヒロインとすればこちらは裏ヒロイン。このブロンドの表ヒロインとブルネット又は黒髪の裏ヒロインの構図も後年のヒッチコックの映画に繰り返し現れる。⑦ヒッチコックは私の大好きなアガサ・クリスティは余りお好みではなかったようだが、この映画にはアガサが初期によく書いたスバイ小説(というかスパイ小説の形を借りたミステリー)『The Secret of Chimney』や『The Seven Dials Mystery』と共通した匂いを感じるが、これはアガサの方がジョン・バガンのスパイ小説に影響されたと取るべきか。⑧本作が製作されたのは1935年。アガサの作品としては『Death in the Cloud』か上梓された年。前後にはちょうど『Murder on the Orient Express』『The Three Act Tragedy』『ABC Murders』といった代表作が矢継ぎ早に発行された頃であり、当時のロンドンやイギリスの風俗描写が興味深い。⑨ヒッチコックの映画を観ずして映画を語るなかれというのが私の持論。⑩しかし、『39 Steps』が何故「三十九夜」という邦題になったのか、こちらも大いなる謎である。