アカルイミライ : 映画評論・批評
2003年1月7日更新
2003年1月18日よりシネ・アミューズほかにてロードショー
世界はもはや禁欲主義で立ち向かえるほど単純ではない
雄二と守は東京のオシボリ工場で働きながら無気力に、だけどいつ引火するとも知れない暴力的な衝動を抱えながら生きている。その暴力は、彼らに説教をたれる全共闘オヤジ=工場長に対してやがて行使されるだろう。
その少し前、2人が工場長の家族と共に囲む夕食の団欒に鈍い衝撃を受ける。なんて苛立たしく、寒々とした光景なんだろう! でも、僕たちの“アカルイミライ”は、このお寒いコミュニケーションの不毛を出発点とする他ないし、いつもなにかにイラつき、暴発の機会をうかがう雄二(オダギリジョー)は、いわば“ダーティ・ハリー”なのだ。
われらがハリー・キャラハンは、44マグナムの代わりに、ゲームセンターのショボい銃を黙々と乱射している。苛立たしい……だけど本物の44マグナムから徹底して遠ざけられた贋物の平和=世界こそが、僕たちの享受する(ある意味とても幸福な)「現実」である。
90年代半ば以降、黒沢清によって採用されてきた禁欲主義的な手法が、この映画において放棄され、ついに封印が解かれる。この世界はもはや禁欲主義で立ち向かえるほど単純ではない。黒沢清はそうした不機嫌な認識を、ずっと不機嫌さに蝕まれたオダギリの身体を通して僕たちに示し、敢然と毒クラゲを野に放つ。世紀末的な倦怠や頽廃のゲームは終わりにしよう……。白々とした“アカルイミライ”がおぼろげに僕たちの視界を覆い始める。
(北小路隆志)