「ヴァージニア・ウルフや原作へのリスペクトに溢れる死と生を対置したドラマ」めぐりあう時間たち 徒然草枕さんの映画レビュー(感想・評価)
ヴァージニア・ウルフや原作へのリスペクトに溢れる死と生を対置したドラマ
1 ヴァージニア・ウルフとは何者か
1882年生まれ1941年没の英国の女性文学者。ジェイムズ・ジョイスらとともに、「意識の流れ」のモダニズム手法により小説の在り方に変革をもたらした。
ロンドン・ブルームズベリーの自宅に、姉や兄とともに文化人社交サークル、ブルームズベリー・グループを形成し、新しい文化・思想の発信地の役割を担う。
グループの中心は兄であるケンブリッジ学生トービーや、画家の姉ヴァネッサとヴァージニアで、メンバーには「4月は最も残酷な月」で知られる詩人T.S.エリオットや、有効需要の原理で経済学に革命を起こしたジョン・メイナード・ケインズがいた。
私生活ではレナードと結婚したが、男性との性生活が営めず、ヴィタ・ウエストら複数の女性と恋愛関係を結び、晩年には「戦争は男性が引き起こすもので、女性が国家に影響力を持っていれば戦争はなくなる」というバカげた戦争論『3ギニー』を発表。
また、父母の死後、精神病に悩まされ、22歳、32歳の時に自殺未遂事件を起こし、最後には1941年に59歳で入水自殺する。
以上の履歴から彼女は今、「前衛芸術家、フェミニスト、レズビアン、リベラル知識人の文化的アイコン」となっている。
2 『ダロウェイ夫人』の内容
1925年に発表されたウルフの代表作である。ジョイス『ユリシーズ』と同じく、意識の流れを人間の現実と捉えて、英国上流階級の女性がパーティを開く一日の感覚、感情、記憶等を辿るとともに、これと第一次大戦で心に傷を負った男の狂気と死を対置させることにより、生への肯定的な志向と否定的志向という人間存在の振幅の大きさを描く。
当初、表題は「時間」と予定され、ウルフは「この本で私は生と死、正気と狂気を描きたい」と日記に記している。
狂気を代表するのは当初、ダロウェイ夫人本人と構想されていたが、やがて第一次大戦でシェルショック、今でいうPTSDにより精神を病んだセプティマス・ウォレン・スミスとされた。
セプティマスは「雀たちがギリシャ語でさえずっている」と妄想し、死に追い詰められていくのに対し、ダロウェイ夫人は俗物だが、「もう恐れるな、灼熱の太陽を、激しい冬の嵐を」と念じつつ、「パーティとは人生への捧げものだ」と人生を肯定する。
ウルフの狙いは両者を対置させて描くことであり、いずれかを勝たせいずれかを退けるものではなかった。
3 小説『めぐりあう時間たち』について
米国の作家マイケル・カニンガムが1998年に発表。原題が「時間」というのを見てもわかるが、『ダロウェイ夫人』の「本歌取り」的作品である。つまり、ウルフの小説を換骨奪胎して、類似の設定で類似のキャラクターを登場させ、別の内容を語ろうとしている。
本作の訳者高橋和久は「1980、1990年代の小説には、文学史上の『古典』に『寄生』し、その続編もしくは前史という体裁をとった作品がずいぶんと発表され、それがポストモダン小説のひとつの潮流となっていた」といい、本作もウルフの設定、人物ばかりでなく、文体まで模倣するなどしており、その一つであると指摘する。
確かに、ダロウェイ夫人がロンドンのバッキンガム宮殿周辺を歩き回れば、本作では「ダロウェイ夫人」というニックネームの女性がニューヨークの中心街ソーホーやグリニッチ・ヴィレッジを歩き、花を買い求めると、二人ともその途中でバカのような知人(ヒュー・ウィットブレッドとウォルター・ハーディ)に出会う。以後、ウルフ作品と類似の出来事が頻出するのである。
小説はこの「ミセス・ダロウェイ」のほか、「ミセス・ウルフ」「ミセス・ブラウン」を登場させる。
ミセス・ダロウェイはエイズと精神を病むかつての恋人、詩人リチャードの面倒をみるほか、何年も会っていなかった昔の友人ルイスに会う。彼らはウルフの小説のセプティマスとピーターに相当する。
ミセス・ウルフはヴァージニア・ウルフ本人で、狂気に陥るのを恐れるとともに、使用人に威圧されながら小説『ダロウェイ夫人』を執筆する。
ただ一人、1950年前後の米国の理想的家庭の主婦ミセス・ブラウンは、小説『ダロウェイ夫人』を読んでいる心を病んだ女性だが、彼女を登場させる必然性がよくわからない。子供リッチーの意味もまたしかり。
ところが詩人リチャードが自殺した後、本作はそのフルネームが「リチャード・ワージントン・ブラウン」であることをさりげなく示す。この瞬間に影の薄かったブラウン夫人とその子リッチーがいっきょに主役に浮上し、本作の独創性が際立ってくるのである。
「失われた母親であり、挫折した自殺願望者であり、一切を置き去りにして立ち去った女」ミセス・ブラウンの息子リッチー=リチャードは、心を病んだ挙句、ミセス・ダロウェイに向かって「でもやっぱり時間はやってくるだろう。一時間、また一時間と。それを何とかやり過ごす。するとなんてことだ、次の時間がやってくるじゃないか。吐き気がしそうだよ」と言い残して、ビルの5階から飛び降りていく。ああ、あの子が数十年後にこうなったのかと読者は驚愕し、沈黙せざるを得ないのである。
彼の通夜に訪れたミセス・ブラウンを迎えたミセス・ダロウェイがどうしたか。
「怒りと悲しみに満ちた女性。悲哀に満ちた、目眩めく魅力に満ちた女性。死に恋した女性」を前に、彼女は夜食を用意して、「こちらへどうぞ。準備万端整いました」ともてなし、小説は終わる。ウルフ作品とは異なる「パーティ」の主催者として、人生への捧げものを提供するのだ。見事だと思う。
4 映画作品について
ヴァージニア・ウルフという作家とその代表作の本歌取りをして、素晴らしいドラマを構築した原作は、いかんせん複雑すぎる。ましてやその映画化である本作にいたっては、ヴァージニア・ウルフの伝記や『ダロウェイ夫人』、さらにカニンガムの原作を読んでいなければ、そのあらすじさえ理解できないに違いない。
映画を見ているだけでは理解できないのでは、作品として評価しようがない。普通ならそうだろう。
ただ、本作にはウルフやその作品に対するリスペクトがあり、死と生を対置したドラマがある。その志をよしとしたい。