劇場公開日 2026年1月9日

CROSSING 心の交差点 : 映画評論・批評

2026年1月6日更新

2026年1月9日よりBunkamuraル・シネマ渋谷宮下、アップリンク吉祥寺ほかにてロードショー

未完のまま交差し続ける言語と存在の映画

長年ジョージア映画の上映に携わってきたはらだたけひでは、労作とも言える大著「ジョージア映画全史―自由、夢、人間―」(2024)において、ソ連崩壊以降のジョージア映画史を辿りながら、現代ジョージア社会が抱える深い断層を浮かび上がらせることに成功している。そこで言及されるディアスポラの問題、若者の国外流出、そしてLGBTQをめぐる根深い抑圧は、単なる社会的背景にとどまらず、ジョージア映画を貫く主題そのものとして位置づけられている。

そのなかで、LGBTQをめぐる抑圧を描き出した一例として、はらだが挙げているのが、ジョージア系スウェーデン人監督レヴァン・アキンの過去作「ダンサー、そして私たちは踊った」(2019)である。はらだによれば、この作品は、民族舞踊という伝統的身体表現と同性愛という主題を衝突させることで、若者たちの未来不在の感覚を、明確な対立構造のなかで可視化した点において、こうした問題群を正面から引き受けた作品であった。その切迫感は、2019年のトビリシ(ジョージアの首都)公開時に起きた右翼勢力による抗議行動が象徴するように、社会的現実と直接的に結びついていたのである(447-448頁参照)。

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こうした文脈のなかでアキンによって製作された新作「CROSSING 心の交差点」は、同じ問題系を共有しながらも、異なるアプローチを選択している。本作が採用するのは、対立や告発ではなく、「旅」という形式である。社会的主題は、登場人物たちの移動として分散され、複数の運動として編み直されていく。そこでは、問題は解決されるべき対象ではなく、移動のなかで露呈し続けるものとして提示される。

本作には、三つの旅が描かれている。第一に、叔母とその友人による旅がある。それは行方不明の家族を探す旅であり、同時に失われた共同体へと回帰しようとする試みでもある。しかしこの旅は、過去への回収には至らない。探される家族は不在のままであり、共同体はもはや完全な形では立ち現れない。ここで描かれるのは、回帰の不可能性そのものである。

第二に、トランスジェンダーである弁護士の旅がある。これは、法的な承認や名前、権利を獲得しようとする未来志向の運動である。しかし制度は、常に彼女の経験に遅れてやってくる。法は存在していても完全には機能せず、主体は宙づりにされたまま移動を続ける。この旅は、権利獲得の物語であると同時に、制度の未完性を示す旅でもある。

第三に、親を失った子どもたちの旅がある。彼らは旅をし、歌いながら物乞いをする。そこには理念も希望も語られない。ただ生き延びるための移動があるのみである。この旅は、最も切実でありながら、未来という語を奪われた旅でもある。生存のための移動は、物語化されることを拒む。

これら三つの旅は、互いに交差しながらも、ひとつの物語へと単純な形で回収されることはない。だがこれらの旅が、それぞれ異なる世代や立場に属しながらも、同一の時間軸や価値観のもとに統合されないことこそが、本作品においては重要なのである。本作において旅は、世代間の継承や連続性を保証する装置としては機能しない。むしろ、世代ごとに異なる断絶のあり方を露呈させる運動として反復される。家族を探す者、法的主体として承認を求める者、生存そのものに追われる子どもたち。彼らは同じ空間を移動し、しばしば画面上で交差するにもかかわらず、同じ未来を共有することはない。ここで描かれているのは、連帯の不可能性ではなく、連帯が常に未完の可能性として保持され続ける状況である。三つの旅に共通しているのは、到達や解決ではなく、「不在」と「未完」が持続するという点である。家族の不在、法の不在、未来の不在。「CROSSING 心の交差点」は、これらの欠如を補完することなく、むしろ人々の運動によって拡張していく映画である。

この不在の主題は、映画冒頭で提示される言語の問題の記述によって、明確に枠づけられる。「ジョージア語とトルコ語には、文法上の性差がない」という一言は、単なる言語的トリビアではない。性別を指示しない言語構造は、ジェンダーと帰属をめぐる本作全体の問いを先取りしている。

ここで想起されるのが、イギリスの比較文学者ダニエル・ヘラー=ローゼンが言語の忘却について論じた大著「エコラリアス」における次の一節である。「ある言語が別の言語に変化する時には、常にその残余があるが、誰もそれが何かを思い出すことはできない。言語の中には話し手よりも多くの記憶が残っていて、それは生き物より古い歴史の厚みの痕跡を示す地層に似ている。それは必然的に、言語が通ってきた幾つもの時代の跡を残している」(関口涼子訳、91頁)。言語は、話し手の意識を超えた不在の記憶を内包している。本作で交わされるのは、ジョージア語、トルコ語、英語という三つの言語である。しかしそれらは完全に訳され合うことはなく、常にズレや沈黙を孕む。言葉は通じるが、完全には一致しない。この言語的ズレは、三つの旅が一つの統一的な物語に収束しない構造と正確に呼応している。

CROSSING 心の交差点」は、ジョージア社会に横たわるディアスポラ、ジェンダー、世代断絶といった問題を、「答え」としてではなく、「移動し続ける問い」として提示する。旅は、目的地に到達するためのものではない。不在とともに生き延びるための形式として反復される。その意味で本作は、社会映画でもロードムービーでもある以前に、未完のまま交差し続ける言語と存在の映画なのである。

小城大知

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