楓 : 映画評論・批評
2025年12月16日更新
2025年12月19日より新宿バルト9ほかにてロードショー
スピッツの宇宙(名曲)を映画的に再構築した“世界”が深い余韻を残す
人は愛する者に何を求め、見ているのだろうか。その人の本当の心や姿が見えているのだろうか。「愛は盲目」(ウィリアム・シェイクスピアの「ヴェニスの商人」に由来)なる言葉があるが、恋に落ち、愛するあまり客観的な判断が難しくなってしまう状況に陥る時がある。愛を“欲望”と言い換えてもいいかもしれない。その対象は何者なのか。
本作は、世代を超えて愛されるスピッツの心揺さぶる名曲を原案に、インスパイアされて描く男女の再生の物語である。別れにはいろいろな形がある。美しさや楽しかった甘い記憶にすがる一方で、恋愛における別れには、人間の愚かさや身勝手さ、弱さが露呈することがあるだろう。それでは、突然愛する人が亡くなってしまう喪失に直面した時、人はどのように対処しようとするだろうか。

(C)2025 映画「楓」製作委員会
福原遥が演じる恋人の恵を事故で亡くしたヒロインの亜子がとる行動と、福士蒼汰が演じる恵の双子の兄・涼がそれに応えようとする想いには、人によって受け止め方が異なるかもしれない。しかし、愛するからこそお互いに伝えられなかった想いが明らかになった時、スピッツの名曲とつながる切ない感動が深い余韻を残す作品に仕上がっている。
さらに本作が秀逸なのは、その名曲を映画的に再構築している点にある。恵と一緒に巻き込まれた事故によって、亜子は世界が二重にぼやけて見える視覚の後遺症に悩まされている。愛する恵(双子の兄・涼)が二人に見えることと双子という設定が重なり合うのだ。それはまるで、亜子がなんとか涼に恵を重ね合わそうとするが決して重ならない現実を表しているように見える。また涼は、恵がかけていた“メガネ”をかけることによって恵になりすまそうとすることとも符合する。
髙橋泉によるオリジナル脚本が、世界を見る“視覚”というものを物語の重要な要素に裏設定していることに気づくと、本作の見方がさらに味わい深いものになる。見えているものが現実なのか、それとも自分の望むように世界を見ようとしているだけなのか。これは人それぞれ意識の仕方、見る対象によって捉え方が違ってくる。それが愛する人と一緒に巻き込まれた事故後の世界となればなおさらだろう。
さらに世界を記録する“カメラ”というものも、もうひとつの重要なアイテムとなっている。恵と亜子が最初に出会った高校時代、屋上で空を見上げる亜子をカメラで撮影したのは誰だったのか――。天体観測が趣味だった恵と一緒に新しい星を発見しようとしていた亜子。そんな亜子の想いを受け止めようとする涼の職業はカメラマンである。彼らの想いはやがて、スピッツの作品世界のように宇宙へと広がっていく。
映画は“世界”をカメラで撮影し、再構築して人々を感動させることができる媒体であり、総合芸術の一つである。スピッツの宇宙(名曲)を本作は映画というもので捉え直し、愛する人の“声を抱いて”新たな人生を歩いていこうとする男女の葛藤を描いていく。また、21年前に日本中を感動の涙で包み込んだ映画「世界の中心で、愛をさけぶ」を手掛けた行定勲監督が、本作のメガホンをとっていることとも重なり合ってくる。
人によって愛=欲望は非常にあいまいな対象かもしれないが、捉え方や選択、想いの強さによって、いかようにも世界は変わるのだということを気づかせてくれる。
(和田隆)





