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私の父は昔からとぼけた人だった。
父のなにげない言動が、どこまでが冗談でどこまでが本気か、子どもながらに戸惑うことが多かった。
そんな父が認知症と診断されたのは、3度目の失踪のあとだった。
まだまだ軽度という診断で、暴れたり、怒ったりすることはなかったが、それでもいつ失踪するか常に気にしなければならず、気が休まる時間がなかった。
しばらくは、もともと静かでとぼけたところが多かった父だったで、認知症と診断されてもあまり違いは感じられなかった。
けれど数年経つと、徐々に表情の変化が乏しくなって、感情の発露がみるみる減っていった。
ただ食べ、黙ってテレビを見て、静かに寝る。
その生命力の希薄さは、まるで植物と暮らしているようだった。
そんな父親の死んだ目に、光が戻った瞬間があった。
それは、ちあきなおみが歌う映像が偶然テレビで流れた時のことだった。
認知症となってからは蚊の鳴くような声しか出さなかった父が、ちあきなおみの歌に覆い被さるように大きな声で歌い始めたのだ。
びっくりした。
父親の奥底に眠っていた記憶が「歌」として発露し、それとともに生命力が蘇った。
ほんの一瞬だったけれど、かつての父が戻ってきたように感じられた。
父の昔のことや、好きなことなど、全然聞いたことがなかったので、かつて、ちあきなおみの歌が好きだったことも知らなかった。
もしかすると本人でさえ忘れていた記憶だったのかもしれない。
認知症という病名をつけられてしまうと、知らず知らずに周囲はそれ前提で接するようになる。
けれど実際には、その波はグラデーションのように、完全に認知症の時もあれば、(ほんのわずかな時間だけれど)意識がはっきりする瞬間もあるということを、父親の介護を経て知った。
けれど、介護する側は「父は認知症だ」と決めて扱う方が楽なので、そのほんの少しの記憶の復活の瞬間を雑に扱ってしまうようになる。
そのうち、父は、ちあきなおみの映像を見ても、なんの反応も示さなくなった。
父のわずかな生命力は、介護のルーティンの中で、ろうそくの火のように静かに消えて見えなくなった。
脳科学的には、人間の記憶は「陳述記憶」と「非陳述記憶」の2つに分けられる。
「陳述記憶」の中には、大きく「エピソード記憶」と「意味記憶」があり、
「エピソード記憶」=「出来事の記憶」
「意味記憶」=「学校の勉強など一般的な記憶」
といった、一般的に「記憶」と言われる意識的覚えたものが含まれる。
一方の、「非陳述記憶」には、主に「技能」「プラミング」「古典的条件付け」「非連合学習」などがあり、
「技能」=「自転車の乗り方」など、身体でコツを覚えること
「プラミング」=無意識の潜在記憶
「古典的条件付け」=「パブロフの犬」など反射の条件付け
「非連合学習」=刺激の繰り返しによる慣れや鋭敏化
といった、どちらかといえば無意識に記憶されているものが含まれる。
認知症になった人は、陳述記憶はどんどん薄れていくが、体に染みついた動きや習慣などの非陳述記憶、つまり生きるために必要な記憶はなかなか薄れないで残っている。
だから、普段からとぼけた人は、認知症を発症したのかどうかが判別しづらい。
映画「父と僕の終わらない歌」のオープニングで、寺尾聰さん演じる父「間宮哲太」が、松坂桃李さん演じる息子「間宮雄太」を横須賀駅まで送った後、家までの帰り道を忘れたというシーンは、まさに認知症を象徴するような場面だ。
車の運転の仕方は覚えているのに、道を忘れてしまう。
本人も家族も、普段からとぼけた人だった場合、余計に認知症に気づきづらい。
この映画が、父の認知症を通じて家族の絆を見せていく物語だということを見事に表現したオープニングで、ストーリーは進んでいった。
そして、エンディング。
コンサートを終えた父・哲太は、誰もいないホールのステージの上で、ギターを抱えて座っている。
父を見つけて近寄ってきた息子・雄太にギターを教えようとする。
息子のことを忘れても、自分の名前を忘れても、「歌う」こと、そして「ギターを弾く」という「非陳述記憶」は失われていなかった。
人間の脳は「生きる」ために存在する。
だからこそ、食べることや寝ることといった「生きる」ために必須の記憶は、どれだけ認知症が進んでも残っている。
けれど、ひとりの人として、間宮裕太の父「間宮哲太」としては、どんどん「生」が失われていく。
息子の雄太はこれからもずっと、父哲太の生物としての「生」が終わるまで、父の記憶の喪失と向き合い続けなければならない。
ラストシーン。
自分のことを忘れていることを知った雄太は、涙ながらに息子のことをどう思っていたのか?を父に問う。
父は幼い自分に、ギターを教え、歌手となる自分の夢を継がせようとしていた。
その父の想いに応えることはできなかった。
自分がゲイであることで、孫を見てもらうことができなくなった。
父の期待に応えることができなかった。
そして、それに対するリベンジの機会を待つことなく、父の中で、自分の記憶が消えていく。
そんな時、親不孝な自分を責める雄太に、父哲太は笑顔で答えた。
「雄太はいつでも自分のヒーローだ」
子どもにとって、父親はヒーローだ。
強くて、なんでも知っていて、なんでもできる、スーパーヒーローだ。
でも、親から見た子どもも、同じようにヒーローなのだ。
いてくれるだけで嬉しくなり、楽しくなり、幸せな気持ちにしてくれる。
夢を継いでくれなくても、孫を見せてくれなくても、そんなことは親にとって些細なことで、生きていてくれるだけでじゅうぶん親孝行な子どもなのだ。
エンドロールで流れる、「smile」が切ない。
🎵
泣いたところでどうにもならないからね
そうすればきっと人生はまだまだ捨てたもんじゃないと気づくよ
ただ笑顔でいれば