光る川のレビュー・感想・評価
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進化する金子雅和監督作品の自然描写
さまざまな表情を見せる渓流と山深くの緑を美麗にとらえた映像と、耳に染みわたるせせらぎや滝の音が作品世界への没入へいざない、大自然に溶け込んだかのような癒しを覚える。川は自分の映画に欠かせないモチーフと明言する金子雅和監督が、岐阜出身の作家・松田悠八の小説「長良川 スタンドバイミー一九五〇」を映画化する企画のメガホンを託されたのは、たぐりよせた運と言うべきか、人知を超えた縁と言うべきか。金子監督作品に参加してきた撮影監督・山田達也、音響・黄永昌らスタッフとのイメージの共有と連携も良好だったのだろう。川の描写と実在感が過去作からさらに進化した印象だ。
「光る川」という題は小説の第2章からとられたものの、金子監督は原作の物語をエッセンスとして残すにとどまり、当地の民話や伝承も取り入れた。さらに過去の長編2作の物語要素も加えている。具体的には、「アルビノの木」での聖なる地から俗世の里へと流れる川の存在、「リング・ワンダリング」での現世と過去を行き来する幻想譚が、“まるで接ぎ木”されたかのようにこの長編第3作でも反復されている。
金子監督作で重用されてきた山田キヌヲ、「リング・ワンダリング」でもヒロインの父親役だった安田顕のほか、華村あすか、葵揚、子役の有山実俊も作品の世界に馴染んでいる。
悲恋の痛みや奇譚の驚きに伴うカタルシスが、渓流の美麗な画と音との相乗効果を生んでいるように感じた。比較的少なめの予算相応で派手さはないものの、日本古来の自然観を継承しつつ新たな感性と映像表現で刷新しようとする意志を感じた。
川というモチーフとフィットした作品
監督の舞台挨拶付き上映で鑑賞。
原作である「長良川スタンドバイミー一九五〇」という小説の映画化の機運が、十数年前から盛り上がっていたものの実現に至らず、今回、金子監督のところに話が回ってきて、やっと制作された映画とのこと。一本の長編作品を世に出す大変さを改めて感じた。
これまでも山や川をモチーフに、ロケーションを大切にしてきた監督らしく、描き出される映像がとても美しい。山のしっとりした空気感や、木々のにおい、ひんやりとした水の感触までもが伝わってくる作品。
伝承と現代とのつながりという大きな歴史や、その中で繰り返される個々人の生涯史、はたまた豊穣と破壊という様々な面から、川というモチーフはフィットしていて、一つの物語の中でうまくまとめられていた。
公式ページのキャスト紹介でもポスターでも、やっぱり纏っているオーラから華村あすかが前面に出てくるが、自分は、それに劣らず少年役の有山実俊が素晴らしかったと思う。
もっというと、ビジュアルだけでは性別も不明な存在が、一連の出来事を通して、性別の曖昧さはそのままに(仏的な性別を超越した存在として)、精神的に少し大人になるという物語だったと感じた。
これまでスタンドバイミー的な作品は、ある意味、性自認とセットで通過儀礼を経るような印象だったが、今作は、性的なものも全く登場しないわけではないのに、登場人物の成長の力点がそこに置かれず、大切な人を守りたいという一点で貫き通しているところが自分はよかった。
文字情報では、代名詞を使うと性別が割と明確に意識されてしまうところを、映像で見せて、観客に判断させる「映像表現ならではのよさ」の
一つかもしれない。
時代をあそこにする必要は?
華村あすか🤩
このところ岐阜県がロケ地だったり、岐阜県や商工会議所がスポンサーの映画をよく観ることが多い気がする。
高山市出身の文人の瀧井耕作の私小説をもとにした「初めての女」
郡上八幡と下呂市の鮎釣りと男女の出会いをテーマにした「重ねる」
そして、この映画は岐阜県のさまざまな名所をロケ地にしており、「長良川スタンドバイミー1950」という地元の小説をモチーフにしたファンタジー映画。
里に暮らす父子家庭の女性と山人の木地師(木地屋)の悲恋物語。
池袋シネマ・ロサでの再上演で鑑賞。
監督の金子雅和さんが劇場の廊下で鑑賞に来たのお客さんに親切に解説したり、談話する様子に真摯な人柄を感じ、なおさらほっこり。
主演の華村あすかさんの横顔がとてもキレイ。
木地師は木を伐採して、ろくろでくり抜く技法でお椀を作る伝統工芸集団だが、山から山を移動する神秘的なサンカのような設定。その青年役の葵揚さんは筋肉がとても美しくワイルド。脇を固める安田顕、渡辺哲、根岸季衣もいつもながらすばらしい。
お椀の水をこぼさずに運ぶのは至難を極め過ぎだったような。
でも、
美しい日本映画だった👍
サンカ(山窩)を描いた映画だと思っていたら、木地師(きじし)の話だった
予告を何度か映画館で見ていた。
サンカ(山窩)の話と思っていた。
予告の中での美しい森の緑と川を見て、マイナスイオンを浴びて森林浴をするつもりで見に行った感じもあったかな。
サンカ(山窩)を描いた映画だと思っていたら、木地師(きじし)の話だった。
今回初めて木地師(きじし)の存在を知りました。
木地師(きじし)とは、轆轤(ろくろ、轆轤鉋)を用いて椀や盆等の木工品(挽物)を加工、製造する職人。
木地師は木地物素材が豊富に取れる場所を転々としながら木地挽きをし、里の人や漆掻き、塗師と交易をして生計を立てていた。
中には移動生活をやめ集落を作り焼畑耕作と木地挽きで生計を立てる人々もいた。
そうした集落は移動する木地師達の拠点ともなった。
(wiki調べ)
1958年の日本のどこかの山村が舞台。
迷信を信じるおばあさんが、孫にあらぬ迷信を吹き込む。
小さい子供にいろんな約束事を説明し、青い淵に行かせる。
特にお椀の水をこぼすなというのは厳しすぎるんじゃないのって思ってしまった。
ラップであれば楽なんだろうけど、お椀の水をこぼさずに山を登るって難しすぎでしょ。
というか、さすがに無茶させすぎだったと思う。
間違った話が伝承されていたのか、なぜかハッピーエンドに。。
その辺は見る人の解釈なんでしょうね。
私は、子供が洞窟を通っている間に過去を遡って過去が変わったと解釈。
華村あすか、可愛すぎる。
今風の顔立ちですよね。。
どこかで見た事があると思ったら、ネトフリのシティハンターに出てた女優さんでした。
マイナスイオンを浴びた気分にはなったかな。
日本昔話のような話。
華村あすか、葵揚、子役の有山実俊の存在感だけの映画でした。
日本の土着伝承はどうしてこうも悲哀の話が多いのか?
華村あすかの透明感と美しさ
日本が高度経済成長期に突入した頃の1958年。少年ユウチャは川の上流、山間部の集落で、林業の父、病床の母、老いた祖母と暮らしていたが、度々台風による洪水に脅かされていた。そんなある日、集落に紙芝居屋の男がやって来て、集まった子どもたちに、古くからこの地に伝わる、里の娘・お葉と山の民である木地屋の青年・朔の悲恋の物語を披露した。その紙芝居とは、かなわぬ思いに絶望したお葉が山奥の淵に入水し、それから数十年に一度の割合で洪水が起きるようになり1番弱い人が犠牲になる、という物。物語と現実の一致を感じたユウチャは、お葉の魂を解放して洪水を防ぎ病床の母を助けようと台風が近づく中、山奥の淵へ向かった。そんな話。
紙芝居の中の話が良かった。
木を求めて山を転々とする木地屋という仕事が有ったんだと知れた。
山の風景、特に滝の淵が美しかった。
しかし、あんな所に子供を1人で行かせる祖母はいかがなものかと思った。
お葉役の華村あすかが透明感あって美しかった。朔役の葵揚は筋肉美が素晴らしかった。お葉の父役の安田顕も存在感あった。
昔話から現在への自然な川の流れ
ユウチャの絵世界物語
2025年映画館鑑賞37作品目
4月19日(土)フォーラム仙台
リピーター割引1200円
監督と脚本は『すみれ人形』『アルビノの木』『リング・ワンダリング』の金子雅和
脚本は他に『外科室』『笑う大天使(ミカエル)』『リング・ワンダリング』の吉村元希
舞台は長良川流域
時代は1958年と江戸時代?
ロケ地は郡上市中心に岐阜県各地
粗筋
山間の集落で暮らす少年ユウチャと家族
紙芝居屋が丁寧に地元で古くから伝わる山奥の青い淵の話
若い里の娘と山を転々と歩いて旅をする林業の若い男の叶わぬ悲恋物語
山奥から流れてきた木製の器を拾ったユウチャ
祖母に迷信で唆されユウチャは古めかしい格好にコーディネートされ1人で天候が悪いというのに明け方に山奥の青い淵まで木製の器を返しに行ってくるハメに
青い淵に辿り着くとユウチャは紙芝居に登場した朔やお葉に出会う
ユウチャの冒険は欧米的価値観では子供に対する虐待だと批判がありそうだが正論だとしてもこれはファンタジーだから無視して良い
今もなおとても危険な長い道のりで登下校する児童が世界にはたくさんいる現実もあることを忘れてはならない
欧米かぶれはバカボンのママの古い友達で充分
ユウチャがなぜかお葉の弟にそっくりで朔に間違わられる
バッチャからの喋ってはいけないという忠告と枝郎の喉の怪我が偶然にも重なる
ユウチャの登場でバッドエンドがハッピーエンドに
ドラえもんの「しあわせな人魚姫」みたい
ユウチャはドラえもんと違って一言も喋らずに改変したけど
理屈っぽい改変って嫌だな
安部浩之(おまえ誰だよ)創作の「泣いた赤鬼つづき」の黒鬼みたいで興醒めしてしまう
オチも手伝ったドラえもんの方はコメディとして楽しめるがディズニーの方は偽善で嫌味で挑発的で寛容の不寛容を強く意識した悪ノリしたリベラルの押し付けが半端なく印象は決して良くない
高飛車で狡い大人は子供のためと正当化するがバッドエンドの物語を受け入れず胸糞悪いからといって作者の思いを踏み躙り勝手に改変してしまう昨今の風潮は我慢ならない
朔を演じた葵揚の体格が素晴らしい
あの腕っぷしは超高校級スラッガーを彷彿させドラフト1位かドラフト2位の前半の方で指名される逸材
新宿をブラブラ歩いていたら「君いい体してるね。自衛隊に入らない?」とスカウトされそうな肉体
古舘寛治主演『逃亡』にも出演していた足立智充
あっちとこっちでは全く別人
役者だなあと感心してしまう
結核にでもかかったのか寝たきり状態の母アユミを演じたのは山田キヌヲ
『カラッと解決 乾太くん』のCMの人である
チョイ役のイメージが強い彼女の芝居をこれだけじっくり観たのはこれが初めて
キャリアが長いだけあってやっぱりお上手
山田キヌヲの出番がもっと多い作品も観てみようと思った
主演作もあるらしいし
配役
里の娘のお葉に華村あすか
木地屋の若者の朔に葵揚
お葉の弟で喉を怪我して声を出せない枝郎に有山実俊
お葉の父親の常吉に安田顕
枝郎とそっくりな少年のユウチャに有山実俊
ユウチャの父親で林業を営むハルオに足立智充
ユウチャの母親で病弱なアユミに山田キヌヲ
1人水飴付き5円で商売をしている紙芝居屋に堀部圭亮
ユウチャの祖母のバッチャに根岸季衣
木地屋の長の松に渡辺哲
木地屋の男の楷に松岡龍平
木地屋の男の栃に平沼誠士
木地屋の男の梗に星野富一
木地屋の女の棗に石川紗世
お葉と結婚したい庄屋の息子の金平に髙橋雄祐
華村推し。
前作ワンダリングを観て印象良かったし、華村あすかのスチールがかっこ良くて見に来た。
オーディションで選ばれたらしいが手足長くて、小顔であどけなく、あごも小さい現代的な美しさの子で山里の娘役大丈夫か?と思ったが演技もなかなかしっかりしてて、透明感あり破綻なく見れた。
顔の形が良いので髪アップが大変似合うなぁ。
今後の成長が楽しみ、新規推し決定である。
さて話はいつもの日本民俗学的ファンタジーで良いのだが、会話というか脚本というかどうもしっくり来ない。常連の役者達なのに何処か現代的、しかも説明的に感じてしまった。絵が美しいし話もシンプルだからもっと絵の力を信じたら良いと思う。言わずに感じる方が深く刺さるよ。終わり方も少々安っぽい感じがしてしまった。
タイトルバックの木版画調のアニメが素晴らしい。
岐阜県の川が舞台
美しい横顔のチラシだったが、金子雅和の第1作、第2作のレビューを見て、難解な作風なのかなと思い、最初は見ないつもりだった。ただし、この光る川のレビューは高評価が多く、あわてて映画館に駆け込む。結果は私の見込み違いで、素晴らしい映画だった。観客はいないわけではないが、少な目でシニアのみ、若い人がいないのは残念。シニアの人たちはどこでこの映画の評判を聞きつけて見に来るのかと思った。中部圏です。昨年の「重ねる」も岐阜県の自然が舞台で良作だったが、本作の自然描写は神秘的で、さも何かを物語るような深遠な川の美しさに引き込まれる。さらにストーリーは昔話と現代とを見事に融合させ、わかりやすく、時間を飛躍させている。古い日本の田舎暮らし、その厳しい環境でたくましく生きる人々。一方、現代でも厳しい現実はある。痛切ながらも強く心に訴えかける物語である。
華村あすかさん
チラシや予告編で華村さんの美しさに惹かれて観に行こうと思いました。
本当に美しかった。
失礼ながらあまり存じ上げませんでしたが、ネットで拝見した現実の華村さんよりもむしろ今作のこの役の方がまとめ髪や着物が似合っていて、所作もお芝居も良かったです。
こんな素晴らしい女優さんがいたのか、これからの活躍を期待したい、活動情報を見たいと思って検索しましたが、SNS等では見られず、どういう感じなのでしょうか。
舞台挨拶にも出ておられないですし、本当にいる人なのか。
役柄同様、神秘的で幻を見るようです。
作品は、過酷な撮影で蜂やヒルの被害もあって大変だったとのことですが、そういうことが分からないくらいの俳優さんの演技、素晴らしい、美しい作品でした。
美しく高品質の絵が印象的
美しい日本を情景を世界に伝える金子雅和監督待望の新作!
過渡期の想像力の現代的な意味について
2024年。金子雅和監督。1958年の岐阜県長良川の上流域。さびれゆく集落の再生のために、人々は神聖な山を切り開こうとしている。しかし、そこにある青い池には古くからの言い伝えがあった。紙芝居でそれを知った少年はその物語にのめり込んでいき、という話。
1950年代はある意味現代社会とはいえ、田舎では言い伝えがリアリティをもっているという前提がある(日本はまだ第一次産業従事者が多数だったはず)。青い池の悲劇やそれを元にした伝説はまだ生きている(祖母の世界)。しかし、近代的な懐疑もお金儲けのために仕方がないという資本主義優先の思考も一般化している(父の世界)。そのうえで、少年はフィクションを通して、フィクションを信じる力を梃子にして、伝説の世界へ飛び込んでいくことで、現実の世界を変えていく。この全体が1950年代という過渡期の物語だ。
2025年の現在、そもそも言い伝えがリアリティをもって受け入れられる素地はない。だから、それへの懐疑もないし、資本主義的思考は当たり前すぎて取り上げられることさえない。この世界では、劇中の少年のように、フィクションを信じる力を梃子にするだけでは伝説の世界に飛び込んでいくことはできないし、現実の世界を変えることはできない。では、この映画はなにをしているのか。
グローバルな価値観が隅々までいきわたった現代社会における文化相対主義的な抵抗、とひとまずはいえそうだ。文化相対主義が持っているアイデンティティ政治の危うさも含めて。相対化の度合いが増えると普遍化の度合いが減る。この映画では「愛」が普遍的なものとして追及されていないのもそのせいかもしれない。
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