名もなき者 A COMPLETE UNKNOWN : 映画評論・批評
2025年2月25日更新
2025年2月28日よりTOHOシネマズ日比谷ほかにてロードショー
歌い奏でる喜び、天才と周囲の人間劇、時代の変化を捉えた実録が精妙なハーモニーを響かせる、マンゴールド監督のマスターピース
音楽映画好きにとって最高の贈り物だ。無名の若者がフォークの貴公子“ボブ・ディラン”になったのちエレクトリックに転向して世界に衝撃を与えるまでの5年間を、周囲の人々の喜怒哀楽を交えて描き出す傑作「名もなき者 A COMPLETE UNKNOWN」。3月2日に授賞式を控える今年のアカデミー賞でも、作品賞、監督賞、主演男優賞など8部門にノミネートされている。
ジェームズ・マンゴールド監督は、考察系サスペンス「アイデンティティー」、名作西部劇のリメイク「3時10分、決断のとき」、カーレース業界の実録ドラマ「フォードvsフェラーリ」、さらにはビッグフランチャイズの「LOGAN ローガン」や「インディ・ジョーンズと運命のダイヤル」など、幅広いジャンルを扱いながらも人間劇の要素で共感を呼ぶ映画に仕立てる名匠だ。共同脚本も担った本作では、ジョニー・キャッシュの半生を描いた「ウォーク・ザ・ライン 君につづく道」と時代的な連続性も感じさせる、音楽伝記映画のフィールドに帰ってきた。
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(C)2024 Searchlight Pictures.
原作は、作家イライジャ・ウォルドによる2015年のノンフィクション本「Dylan Goes Electric!」(邦訳題「ボブ・ディラン 裏切りの夏」、K&Bパブリッシャーズ刊)。2018年にマンゴールド監督と主演ティモシー・シャラメを中心に企画が始動するも、コロナ禍、映画業界でのストライキが続いて約5年の停滞を強いられる。だが、製作も兼ねるシャラメは災い転じて福となし、その期間に歌と楽器を猛特訓。ギターとハーモニカをマスターしただけでなく、ディランの映像を研究してその音楽の本質に迫り、自らの演技とパフォーマンスを磨いていった。
結果、シャラメの歌と演奏は音源がそのまま本編に使われるレベルにまで上達し(録音後にミスタッチなどの部分的な修正は行われたが)、「風に吹かれて」「時代は変る」「ライク・ア・ローリング・ストーン」といったディラン曲の数々を歌うシャラメのパフォーマンスは抜群の見所として映画に大いに貢献している。それも単なる物真似ではなく、ディランが曲に込めた魂を尊重しつつシャラメの表現になっている点が感動的なのだ。また、ピート・シーガー役のエドワード・ノートンとジョーン・バエズ役のモニカ・バルバロも見事な歌と演奏を披露するほか、突発的なジャムセッションのシーンやメインボーカルにハモリを重ねるシーンなどで、シャラメとともに歌い奏でることの喜びを印象的に伝えている。
映画で描く期間を、ディランがエレキギターを携えバンド演奏を聴衆に初披露した1965年7月の伝説のステージをハイライトとする5年間に絞った点も、人間劇を好むマンゴールド監督のこだわりだろう。田舎町から大都会ニューヨークへやって来た名もなき若者が、ウディ・ガスリーら著名ミュージシャンに認められ、いつしか彼らをもしのぐ名声を得る過程で孤独と愛を知り、最後にまた次の場所へ旅立ってゆく。
ディランの成功を後押ししたシーガーらフォーク界の期待と動揺、ディランに純粋な愛を求めるシルヴィ(エル・ファニング)が募らせる疎外感など、周囲の人々との間に起きる感情の波紋と衝突もまた、ドラマとしての味わいを深めている。シーガーの妻トシを演じた初音映莉子が、台詞は少ないものの目と表情で的確に意図を表現し、物語の進行上で重要な役どころを担ったことも、日本の映画ファンにとって嬉しいポイントだ。
ディランが大衆の心を動かす名曲の数々を創作した背景として、1961~65年の米国の政治・社会の状況を要領よく描いている。米ソ冷戦とキューバ危機、人種差別の撤廃を求めた公民権運動、ベトナム戦争といった出来事を受け、ディランは戦争に抗い不平等に声を上げるメッセージを込めた詞を書き、歌った。本作はそんなディランの音楽が人々の考え方や行動に影響を及ぼした変革の時代をとらえた実録物としての性格も備える。
そして、これまで述べてきたような音楽物、人間劇、実録それぞれの要素が互いを引き立てて精妙なハーモニーを響かせているのがマンゴールド監督によるストーリーテリングの巧さであり、新たなマスターピースとして長く愛されるであろう映画が誕生したことを心から祝福したい。
(高森郁哉)