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この映画が面白いとまだ言えない僕は、帰ってからジャルジャルのコントをみようとした。そしてYoutubeであれこれ探しているとあるものを見つけた。
「俳優なのにマネージャー顔の奴」
主演の小西を演じた萩原利久も参加しているものだ。ベストタイミングだと思い、だらだらみていると、なんだかこの映画の全てが詰まっていると感じた。そして16分ほどしかないにも関わらず、途中でみるのをやめてしまった。そう、とても面白くなかったのだ。
このコントが面白くないのは、一辺倒のすかし笑いだからだ。
コントでは映画監督ージャルジャル福徳が、ある映画で俳優をキャスティングするために、カフェで打ち合わせをするのだが、その俳優がマネージャー顔で、登場人物たちの間でディスコミュニケーションが起こるのである。
俳優なのにマネージャー顔の奴やないかい。これを何回みさせたら気が済むのだろう。ツッコミ役は映画監督のみであり、そのツッコミも他の者にリアクションを与えるものではなく独り善がり。かといって他の者も映画監督のツッコミをただ傍観しているのみ。それは現実ならそうする姿なのか?でも現実であり得そうだけど、そんなことはないコント空間≒フィクションである。そのあわいが、コントの彼らとコントを演じている彼らのあわいを生み出し、シュール≒すかし笑いをもたらすのだろう。でも一辺倒のパターンを繰り返してもうんざりするのみだ。そしてこのことは本作にも言えるはずである。
この映画は結局、何の話なのだ?
小西の人物造形はジャルジャル福徳を意識したものだから、私小説を翻案したものなのか?でも違うやないかーい。では小西と花の恋愛物語なのか?そうみえるけれど、違うやないかーい。本当は、反戦映画なんです。いや、そんなこと言われても頭に??が浮かぶだけで、そんなすかし語りをするなら、真っ向から何かを語れよとしか思えない。
本作でデモの描写があったり、ラジオから戦争のニュースが流れてきても、全く響かないのは、どこまでいっても小西の内的な物語でしかないからだ。
小西は外界に関わっているようにみえても、大学空間に閉じ籠もっている、自室に閉じ籠もっている、自分の心に閉じ籠もっている。小西は外界から幾重にも層を重ねて、自己の内面に向かう。問題は小西の内面でしかないし、語られるのもそれのみだ。デモもせいぜい大学構内でしか行われない。それのどこに外界に働きかける力があるのだろう。小西の内面物語なのに、反戦映画もどきの奴は、全然面白くない。
本作の3人の長セリフは素晴らしいと思いつつ、彼らには他者が必要ないことも明らかにしてしまっている。
さっちゃんは銭湯のバイト終わりに小西に告白をする。さっちゃんー伊東蒼は素晴らしい演技をしている。しかし重要なのは、さっちゃんにそう告白された小西がどのようにリアクションするかではないのか?しかし本作では呆然と立ち尽くすのみ。さっちゃんも映画もリアクションを求めない。それでいいのだろうか。
長セリフは他者のリアクションを必要としない。語り手が一方的に言いたいことを言えばいいだけだ。そこで生まれるのは、吐露による心情の整理であり、正しいか分からない自己解決のみだ。そんな自己にしか関心しかなく、躁状態の様に過剰に語りを行う、彼ら/の物語を、大学生の恋だと解釈すればいいのだろうか?でもそれは幼稚であるし、彼らのドラマを、不意に命を無くしかねない戦争状態とトレースして語ってみても、浅はかにしか思えない。
「乱入」が、本作にとって重要な描写だと思っていた。
小西の前に花が現れるのもそうだし、彼らが仲良くなるのも騒がしい授業への乱入と抜け駆けである。サクラはキャンパス構内に乱入する。そしてデモ隊が構内に乱入するように、戦争が小西の内的世界に乱入したかのようにみえる。
しかし自己では統御できない異質な他者が乱入することによって、幾重の層を打ち破るかにみえる物語は、結局、上述のように他者を必要としない物語になってしまっており、全くすかされている。
小西と花の会話をスプリット・スクリーンでやるが、凡庸なカットバックで十分だし、バカズームがされても、単純に河合優美の顔を撮りたいだけじゃんという印象しかない。サイズの微調整のためにカメラは動くし、フィクションであることを再認識させる異化効果も感じられないから。音についても、あるべき音が聞こえない/くぐもる、逆に聞こえないはずの音が聞こえるという、不快さしか残らない設計になっている。この不快さは、内面世界の閉塞や過剰意識という意図があるのだろうけれど、何か卓越した表現があるようには思えない。ただ最初の雨の音はタイミングしかりよかったが。
そしてここまで長セリフのように語るレビューは一体何なのだ?お笑い考察かのようにもなっていてうんざりだ。