海賊のフィアンセ : 映画評論・批評
2025年12月23日更新
2025年12月26日よりBunkamuraル・シネマ渋谷宮下ほかにてロードショー
女性蔑視の男社会を蹴散らし笑い飛ばす、不出世の女性監督の傑作
アニエス・ヴァルダ、シャンタル・アケルマン監督と並んで、フェミニスト映画の先駆的な映画作家として知られるネリー・カプランの、1969年の初長編監督作が「海賊のフィアンセ」である。
もっとも、カプランの作風は他のふたりと比べるとより大衆的だ。その華々しい武勇伝(本作のラストシーンを書き変えなければ公開禁止にすると言った検閲機関の担当者に食ってかかり、18禁に変えさせた。ちなみにその後16禁からさらに13禁になり、最後はレーティングなしになったという)に語られる闘争的なイメージとは裏腹に、明るく、自由で、どこまでも突き抜けている。この快活さこそが、コメディを得意とした彼女の持ち味だろう。

(C)1969 Cythère films – Paris
故国アルゼンチンからパリに出てすぐに、御大アベル・ガンス監督の助手として働き始め、ドキュメンタリー作家、脚本家、俳優などさまざまな肩書きを持つ彼女が38歳で撮った本作は実際、今日のキャンセルカルチャーのご時世では作れないのでは、と思わせるような大胆さに貫かれている。
排他的な田舎町で虐げられ、雑用係として生き延びてきたマリーは、母親の死をきっかけに村人たちに復讐することを決め、男たちを(女すらも)誘っては売春行為に及んで金を巻き上げる。目的は金ではなく、あくまでリベンジ。稼いだ金はガラクタに費やし、彼らの妻にバレればなおさら結構とその行動はエスカレートしていくが、あるときマリーは思い立ったようにものであふれた自身の掘立て小屋に火を放つ。
本作についてカプランは、「自分を火刑にするのではなく、異端審問官たちを火刑に処す現代の魔女の物語」と評しているが、「魔女狩り」に合う前に惨めな記憶の詰まった場所を一掃し、さっさととんずらを決めるマリーは、伝統的な男尊女卑社会を覆すラジカルな反逆者であり、なおかつ物質社会にとらわれないアンチ・マテリアリズムの象徴という見方もできる。
このアナーキストをいとも軽やかに、茶目っ気たっぷりに演じているのが、「ママと娼婦」(1973)などで知られるヌーヴェル・ヴァーグのミューズ、ベルナデット・ラフォンだ。彼女のどこかあっけらかんとして悪びれない魅力が、本作に乾いたユーモアをもたらしている。
ちなみに途中、車に貼られたポスターでちらっと登場するのが、ルイス・ブニュエル監督が昼は自ら娼婦になる人妻を描いた「昼顔(1967)」。因習にとらわれない女性に対する、カプラン監督のオマージュが伺える。
見かけは暴走し放題でも、その奥には確固としたビジョンをたたえ、革新的な女性像をスクリーンに刻んでみせたカプラン。「あのピカソも驚いた」というのが頷ける。
(佐藤久理子)