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見放題やレンタルなどサブスクで「ゆきてかへらぬ」を楽しむ方法をまとめて紹介します!
「ゆきてかへらぬ」の配信サービス一覧
配信サービス | 配信状況 | 月額料金 | |
---|---|---|---|
| 見放題 / レンタル / 購入 | 600円(税込)~ | 今すぐ見る |
「ゆきてかへらぬ」の配信サービス詳細
おすすめポイント
Prime Videoで幅広い種類の映画、TV番組、ライブTV、スポーツを今すぐ視聴。いつでも、どのデバイスでも、高品質なコンテンツをストリーミング再生。
配信状況
見放題 / レンタル / 購入
無料期間
30日間
月額料金
月額プラン600円(税込)/年間プラン5,900円(税込)※広告フリー月額390円
ダウンロード可否
可能
複数端末同時視聴
可能
※会員特典対象動画を同時に3本までストリーミング再生可能/同じ動画は一度に2台までの端末でストリーミング再生可能
特典
(ポイント付与等)
Prime会員となり、無料のお急ぎ便で購入したり、100万曲以上の音楽が揃っているPrime Musicへのアクセス、容量無制限のAmazon Photosも利用できる
支払い方法
クレジットカード(Visa/Mastercard/JCB/American Express/Diners)、携帯決済(docomo/au/SoftBank)、あと払い (ペイディ)、PayPay(ペイペイ)、Amazonギフトカード、パートナーポイントプログラム(JCBのOki Dokiポイント)
映画作品数
20,300本以上
ドラマ作品数
3,200本以上
アニメ作品数
1,200本以上
※2025年5月時点の情報です。最新情報は各社サイトにてご確認ください。
作品紹介

解説・あらすじ
大正時代の京都と東京を舞台に、実在した女優・長谷川泰子と詩人・中原中也、文芸評論家・小林秀雄という男女3人の愛と青春を描いたドラマ。
大正時代の京都。20歳の新進女優・長谷川泰子は、17歳の学生・中原中也と出会う。どこか虚勢を張る2人は互いにひかれあい、一緒に暮らしはじめる。やがて東京に引越した2人の家を、小林秀雄が訪れる。小林は詩人としての中也の才能を誰よりも認めており、中也も批評の達人である小林に一目置かれることを誇りに思っていた。中也と小林の仲むつまじい様子を目の当たりにした泰子は、才気あふれる創作者たる彼らに置いてけぼりにされたような寂しさを感じる。やがて小林も泰子の魅力と女優としての才能に気づき、後戻りできない複雑で歪な三角関係が始まる。
広瀬すずが長谷川泰子、木戸大聖が中原中也、岡田将生が小林秀雄を演じた。「探偵物語」「ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ」の名匠・根岸吉太郎監督が16年ぶりに長編映画のメガホンをとり、「ツィゴイネルワイゼン」の田中陽造が脚本を担当。
大正時代の京都。20歳の新進女優・長谷川泰子は、17歳の学生・中原中也と出会う。どこか虚勢を張る2人は互いにひかれあい、一緒に暮らしはじめる。やがて東京に引越した2人の家を、小林秀雄が訪れる。小林は詩人としての中也の才能を誰よりも認めており、中也も批評の達人である小林に一目置かれることを誇りに思っていた。中也と小林の仲むつまじい様子を目の当たりにした泰子は、才気あふれる創作者たる彼らに置いてけぼりにされたような寂しさを感じる。やがて小林も泰子の魅力と女優としての才能に気づき、後戻りできない複雑で歪な三角関係が始まる。
広瀬すずが長谷川泰子、木戸大聖が中原中也、岡田将生が小林秀雄を演じた。「探偵物語」「ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ」の名匠・根岸吉太郎監督が16年ぶりに長編映画のメガホンをとり、「ツィゴイネルワイゼン」の田中陽造が脚本を担当。
レビュー

R41さん
投稿日:2025-05-24
何とも言えない雰囲気を漂わせる作品
文学 特に詩に魅了された時代
大正時代という設定のようだが、セリフに「シベリア抑留」というミスがあった。意図的かもしれないが、その意味は解らない。
この物語は実在した中原中也と長谷川泰子、そして泰子と関係していたのではないかと言われている小林英雄の三角関係をフィクションとして描いている。
概ねこのことを知る人に、この物語の背景を隠すために、中也という名前を最後に出したのだろう。
あれがなければ気が付かなかった。
長谷川とか中原という名前さえ、しばらく登場しなかった。
そしてこの映画は、長谷川泰子が70歳のときに発表した自伝的小説をもとにしているようだ。
さて、
この作品の時代背景 詩という言葉が持つ世界観や情景
それは読み手の主観で変わるはずだが、そこにこそ真実が隠されていると疑わない中原と小林やその世界を牽引してきた人々
表面上の意味だけで言葉を無意味に並べ立てることを良しとしない。
このような文学的というのか詩に憑りつかれた中原中也
経験よりも先に言葉があり、意味があり、風景に感じる哲学的な想いや物事の理を考えずにはいられない。
誰かとあるテーマについて論じあい、それはまさに「剣道で真剣を使うようなもの」であり、竹刀のような中途半端な想いを真剣で切って捨てまくるように、言葉を遣って相手を畳みかける。
経験していないこと
中原にとってそうだとはいいにくく、またよくわからないのが、恋だったのかもしれない。
3つ年上の泰子
坊やと呼ばれる。
詩人として天才だと言われていた中原
感じたことを言語化することと、それを読んだ人が似たような感情や情景を思い浮かべることができることは、言葉が持つ最大の力だろう。
そこに確かな感情があることで、それが読み手に伝わるのは、発信者が持つ感受性の力であり、これを言霊と呼ぶのだろう。
だから他人が同じ言葉を使用しても、そこにその感情が伴わなければ言霊はなく、読み手に思いは届かない。
坊や 子ども 17歳
彼が持つ感情を言語化する能力は、子どもゆえの純粋さがあるからだろう。
同時に感情に任せて喧嘩することもあり、決してその溢れ出す感情を抑え込もうとはしないことこそが、中原の人間性であり泰子が彼と一緒にいた理由だろう。
彼は常に本心を表現しようとする。
長谷川康子
彼女にあったトラウマ
母の精神崩壊と入水自殺
母の本気の狂気
それは幼い泰子にとって強烈な出来事だった。
その狂気の血が自分にも流れているという。
中原が親友富永の吐血を見ながら何もしなかった泰子を責める。
「君には愛がないのか?」
「私、泣きたい。人のために、自分のために」
泰子は「泣いたことがないかもしれない」と言っていたが、中原の詩を聞き涙を流した夜があった。
泰子は気が狂った母親と無理心中というトラウマによって、感情にブレーキがかかってしまったのだろうか?
自分自身の気持ちを言葉で表現することができないし、したいとも思わない。
体裁を繕う嘘
本心とは逆の言葉を遣うこともある。
「嫉妬」
坊やと言いながら、女郎を買ってくると言った中原の頬を打つ。
この嫉妬は何度か登場する。
嫉妬とは人が最も隠そうとする感情かもしれない。
天才的詩人である中原の詩は確かに泰子の心を打った。
しかし、言葉は所詮言葉であって「それ」そのものではない。
泰子は本当の人間の心の闇を覗いた者だ。
母 彼女の狂気
そこに付ける言葉などない。
ただ、どうしようもなくなった女の狂気があった。
言葉は、共通語として利便的なだけであり、「それ」そのものに対する表現の一部でしかない。
「それ」を言葉にした途端、それそのものとは別物である「言葉」に置き換えられ、その人にだけ感じた唯一の「それ」は消えてしまう。
中原たちは「それ」を再発見するために言葉を遣って詩を書くのだろう。
しかし、実体験して感じた「それ」はもう言葉で作り上げることなどできない。
泰子は言葉にできない自身の感情を、他人が勝手に分析しようとすることが堪らなく嫌いだ。
泰子はしばらく同棲していた中原のところから小林のところへ移った。
それは、「私に対する愛情があるかどうか」が指針となった。
幸せと不幸 泰子が使った言葉 指針
中原には純粋な感情があった。
それを言語化することに夢中になっていた。
そして中原は、
自分以外のことは非常によく言語化できるのに、自分自身のことはよくわかっていないことを泰子は見抜いていた。
泰子に言い当てられた本心 ビー玉のような心
言い当てられたことに対する怒りをぶつけてくる始末
「わかったような口をきくな」
心を言葉にできない泰子だが、人間の闇の深さを体験している。
それさえも言葉にできない。
いつも詩を作ることに心を奪われている中原
しかし、
泰子にとって大切だったのは、もっと必要とされたいこと。
小林は泰子を必要としていた。
ところが何でも分析したい小林は、泰子の心まで分析しようとする。
泰子の心の奥底にあった母
何でも言語化したり分析したりすることに夢中な二人だったが、傍にいる泰子の本当の心の奥底を感じることもできなければ、それを言葉にすることさえできない二人。
泰子は、中原が当てつけに持ってきた柱時計の時打ち音に激しく反応した。
「同じ時計の音でつながっちゃう」
感情の言語化
何かを感じる心
中原の意図を感じた泰子
同じ時計の音 繋がり
別れても心に残る中原
それを「モノ」によって置き換えられたことに対する激しい嫌悪感
確かに中原は泰子の本心の一部だったのだろう。
決してそれを否定できない泰子
否定しても否定しても現れて来てしまう「本心」の存在
それは消したいと思っても永遠に残り続けている幼い時の出来事 母の狂気
小林は「二本のつっかえ棒」という言葉で3人の関係を表現した。
そして泰子に対し離別を宣言した。
この時の泰子は、あの時の母と同じになったのだろう。
泰子は、奇しくもあの時の母を自分自身で表現したかったということに、やがて気づくことになったように思う。
あの苦しいトラウマをもう一度再現したことで、「終わったのよ。私たちの不幸が」という言葉に繋がるのだろう。
毒を以て毒を制す つまり、痛みを以て痛みを消したのだ。
言葉にできない泰子の長い葛藤とそれからの解放
これを作品として表現した映画の持つ力
そして彼女自身が見つけた自己「表現」の方法
何でも言葉に置き換えて表現したい中原と小林
このコントラストを監督は表現したかったのかもしれない。
それ故この物語には明確な「別れ」が必要だったと解釈した。
だから中原の死と小林との別れ「さようなら」をはっきり描いた。
小林は泰子に、いつか中原が言った「散る花びら」のことを語る。
そこにあった「散るのか、それとも散らすのか?」という問いかけ。
この言葉は奥が深い。
起きる出来事に対する運命的解釈と意識的解釈
そしてこの言葉は、泰子のトラウマである母と同じ道を辿ってそれを終わらせたことが、運命だったのか意識していたのかということにもつながるように感じた。
潜在意識と顕在意識 または運命
棺に納めた赤い手袋
彼の母の手編み
中原は裕福だったがもしかしたら父は早くに亡くなったのかもしれない。
赤という女の子の色は、母が望んだのは女の子だったのかもしれない。
しかし、中原にとってその時期ほど幸せだったことはなかったのだろう。
学問 知識 言葉 そんなものを知ったと同時に、純粋な当時の気持ちを言語化しようとした瞬間に、中原は本当に大切なものを見失っていったのかもしれない。
母の手編みの手袋
オレの心臓
その大切なものを別れの記念に持たせることは、中原にとって泰子との別れがどんなものだったのかが伺える。
泰子とは真逆の幼少期
世の中にあるすべてのものは、自分自身の中にある。
対局さえも同居している。
感情や本心ほど自分の中心にあって見えない。
出来事や他者の振る舞いに感じる、反応するものこそ、自分の心
それそのものを言葉や何かに置き換えることはできない。
表現とは、それそのものではなくそれを受取った感想
この感想が連鎖するので多義的となるのだろうか?
中原や小林のように、どんなに言葉をつなぎ合わせるように考えても、自分自身というものが見えない。
泰子の「同じ時計の音でつながっちゃう」というセリフに込められた、記憶と感情の連鎖。
求めているものには決して追いつくことができず、逃げたいものからはすぐに追いつかれてしまう。
タイトル 「ゆきてかへらぬ」
今この瞬間に沸き上がった感情は、言葉にしてもそれに追いつくことなどできない。
過去も変えることなどできない。
過去のトラウマは、似たモノによってたちまち当時の感情が襲ってくる。
追いかけても捕まえることはできず、逃げようと思っても襲われてしまう。
これこそがこの世の理だとこの作品は言っているのかもしれない。
文学 特に詩に魅了された時代
大正時代という設定のようだが、セリフに「シベリア抑留」というミスがあった。意図的かもしれないが、その意味は解らない。
この物語は実在した中原中也と長谷川泰子、そして泰子と関係していたのではないかと言われている小林英雄の三角関係をフィクションとして描いている。
概ねこのことを知る人に、この物語の背景を隠すために、中也という名前を最後に出したのだろう。
あれがなければ気が付かなかった。
長谷川とか中原という名前さえ、しばらく登場しなかった。
そしてこの映画は、長谷川泰子が70歳のときに発表した自伝的小説をもとにしているようだ。
さて、
この作品の時代背景 詩という言葉が持つ世界観や情景
それは読み手の主観で変わるはずだが、そこにこそ真実が隠されていると疑わない中原と小林やその世界を牽引してきた人々
表面上の意味だけで言葉を無意味に並べ立てることを良しとしない。
このような文学的というのか詩に憑りつかれた中原中也
経験よりも先に言葉があり、意味があり、風景に感じる哲学的な想いや物事の理を考えずにはいられない。
誰かとあるテーマについて論じあい、それはまさに「剣道で真剣を使うようなもの」であり、竹刀のような中途半端な想いを真剣で切って捨てまくるように、言葉を遣って相手を畳みかける。
経験していないこと
中原にとってそうだとはいいにくく、またよくわからないのが、恋だったのかもしれない。
3つ年上の泰子
坊やと呼ばれる。
詩人として天才だと言われていた中原
感じたことを言語化することと、それを読んだ人が似たような感情や情景を思い浮かべることができることは、言葉が持つ最大の力だろう。
そこに確かな感情があることで、それが読み手に伝わるのは、発信者が持つ感受性の力であり、これを言霊と呼ぶのだろう。
だから他人が同じ言葉を使用しても、そこにその感情が伴わなければ言霊はなく、読み手に思いは届かない。
坊や 子ども 17歳
彼が持つ感情を言語化する能力は、子どもゆえの純粋さがあるからだろう。
同時に感情に任せて喧嘩することもあり、決してその溢れ出す感情を抑え込もうとはしないことこそが、中原の人間性であり泰子が彼と一緒にいた理由だろう。
彼は常に本心を表現しようとする。
長谷川康子
彼女にあったトラウマ
母の精神崩壊と入水自殺
母の本気の狂気
それは幼い泰子にとって強烈な出来事だった。
その狂気の血が自分にも流れているという。
中原が親友富永の吐血を見ながら何もしなかった泰子を責める。
「君には愛がないのか?」
「私、泣きたい。人のために、自分のために」
泰子は「泣いたことがないかもしれない」と言っていたが、中原の詩を聞き涙を流した夜があった。
泰子は気が狂った母親と無理心中というトラウマによって、感情にブレーキがかかってしまったのだろうか?
自分自身の気持ちを言葉で表現することができないし、したいとも思わない。
体裁を繕う嘘
本心とは逆の言葉を遣うこともある。
「嫉妬」
坊やと言いながら、女郎を買ってくると言った中原の頬を打つ。
この嫉妬は何度か登場する。
嫉妬とは人が最も隠そうとする感情かもしれない。
天才的詩人である中原の詩は確かに泰子の心を打った。
しかし、言葉は所詮言葉であって「それ」そのものではない。
泰子は本当の人間の心の闇を覗いた者だ。
母 彼女の狂気
そこに付ける言葉などない。
ただ、どうしようもなくなった女の狂気があった。
言葉は、共通語として利便的なだけであり、「それ」そのものに対する表現の一部でしかない。
「それ」を言葉にした途端、それそのものとは別物である「言葉」に置き換えられ、その人にだけ感じた唯一の「それ」は消えてしまう。
中原たちは「それ」を再発見するために言葉を遣って詩を書くのだろう。
しかし、実体験して感じた「それ」はもう言葉で作り上げることなどできない。
泰子は言葉にできない自身の感情を、他人が勝手に分析しようとすることが堪らなく嫌いだ。
泰子はしばらく同棲していた中原のところから小林のところへ移った。
それは、「私に対する愛情があるかどうか」が指針となった。
幸せと不幸 泰子が使った言葉 指針
中原には純粋な感情があった。
それを言語化することに夢中になっていた。
そして中原は、
自分以外のことは非常によく言語化できるのに、自分自身のことはよくわかっていないことを泰子は見抜いていた。
泰子に言い当てられた本心 ビー玉のような心
言い当てられたことに対する怒りをぶつけてくる始末
「わかったような口をきくな」
心を言葉にできない泰子だが、人間の闇の深さを体験している。
それさえも言葉にできない。
いつも詩を作ることに心を奪われている中原
しかし、
泰子にとって大切だったのは、もっと必要とされたいこと。
小林は泰子を必要としていた。
ところが何でも分析したい小林は、泰子の心まで分析しようとする。
泰子の心の奥底にあった母
何でも言語化したり分析したりすることに夢中な二人だったが、傍にいる泰子の本当の心の奥底を感じることもできなければ、それを言葉にすることさえできない二人。
泰子は、中原が当てつけに持ってきた柱時計の時打ち音に激しく反応した。
「同じ時計の音でつながっちゃう」
感情の言語化
何かを感じる心
中原の意図を感じた泰子
同じ時計の音 繋がり
別れても心に残る中原
それを「モノ」によって置き換えられたことに対する激しい嫌悪感
確かに中原は泰子の本心の一部だったのだろう。
決してそれを否定できない泰子
否定しても否定しても現れて来てしまう「本心」の存在
それは消したいと思っても永遠に残り続けている幼い時の出来事 母の狂気
小林は「二本のつっかえ棒」という言葉で3人の関係を表現した。
そして泰子に対し離別を宣言した。
この時の泰子は、あの時の母と同じになったのだろう。
泰子は、奇しくもあの時の母を自分自身で表現したかったということに、やがて気づくことになったように思う。
あの苦しいトラウマをもう一度再現したことで、「終わったのよ。私たちの不幸が」という言葉に繋がるのだろう。
毒を以て毒を制す つまり、痛みを以て痛みを消したのだ。
言葉にできない泰子の長い葛藤とそれからの解放
これを作品として表現した映画の持つ力
そして彼女自身が見つけた自己「表現」の方法
何でも言葉に置き換えて表現したい中原と小林
このコントラストを監督は表現したかったのかもしれない。
それ故この物語には明確な「別れ」が必要だったと解釈した。
だから中原の死と小林との別れ「さようなら」をはっきり描いた。
小林は泰子に、いつか中原が言った「散る花びら」のことを語る。
そこにあった「散るのか、それとも散らすのか?」という問いかけ。
この言葉は奥が深い。
起きる出来事に対する運命的解釈と意識的解釈
そしてこの言葉は、泰子のトラウマである母と同じ道を辿ってそれを終わらせたことが、運命だったのか意識していたのかということにもつながるように感じた。
潜在意識と顕在意識 または運命
棺に納めた赤い手袋
彼の母の手編み
中原は裕福だったがもしかしたら父は早くに亡くなったのかもしれない。
赤という女の子の色は、母が望んだのは女の子だったのかもしれない。
しかし、中原にとってその時期ほど幸せだったことはなかったのだろう。
学問 知識 言葉 そんなものを知ったと同時に、純粋な当時の気持ちを言語化しようとした瞬間に、中原は本当に大切なものを見失っていったのかもしれない。
母の手編みの手袋
オレの心臓
その大切なものを別れの記念に持たせることは、中原にとって泰子との別れがどんなものだったのかが伺える。
泰子とは真逆の幼少期
世の中にあるすべてのものは、自分自身の中にある。
対局さえも同居している。
感情や本心ほど自分の中心にあって見えない。
出来事や他者の振る舞いに感じる、反応するものこそ、自分の心
それそのものを言葉や何かに置き換えることはできない。
表現とは、それそのものではなくそれを受取った感想
この感想が連鎖するので多義的となるのだろうか?
中原や小林のように、どんなに言葉をつなぎ合わせるように考えても、自分自身というものが見えない。
泰子の「同じ時計の音でつながっちゃう」というセリフに込められた、記憶と感情の連鎖。
求めているものには決して追いつくことができず、逃げたいものからはすぐに追いつかれてしまう。
タイトル 「ゆきてかへらぬ」
今この瞬間に沸き上がった感情は、言葉にしてもそれに追いつくことなどできない。
過去も変えることなどできない。
過去のトラウマは、似たモノによってたちまち当時の感情が襲ってくる。
追いかけても捕まえることはできず、逃げようと思っても襲われてしまう。
これこそがこの世の理だとこの作品は言っているのかもしれない。
鑑賞日:2025年5月24日 VODで鑑賞
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