マルグリット、マルグリットって、ずっと妹かなんかだと思って観てたら、途中でピアノ協奏曲ト長調の2楽章のソロを流暢に弾いてるシーンが出てきて、ああ、これあの曲の初演者で、サンソン・フランソワの師匠だった超大物ピアニストのマルグリット・ロン女史だったのか!!と今更ながら気づいた(笑)。
ごめん! この菅義偉かゲルギエフみたいな顔のおばちゃん(あき竹城っぽくもある)、なんでしょっちゅう訪ねてくるんだろうとかいぶかってて。たぶん登場したあたりの紹介シーンでうとうとしててきき逃したんでしょう……。
ラヴェルの後半生を描きつつ、名曲「ボレロ」の誕生秘話を紹介する音楽映画。
ずっと観よう観ようとは思いながら、観るタイミングを逸していたが、下北沢で再映していることに気づき、N響の第九を聴きに行く前に朝から鑑賞した。
ラヴェルが主人公と聞いて、また最近の映画によくある、やれ隠れゲイだったんじゃないかとか、児童性愛者だったんじゃないかとか、性的不能者だったんじゃないかとか、マザコンだったんじゃないかとか、そういう「生臭い」要素が多かったらホントに嫌だなあと思っていたのだが、そこまでラヴェルの性癖には立ち入らずにきれいにまとめてて、本当に良かった。一応、監督の解釈としてはヘテロだけど無性愛者(アセクシュアル)って設定なのかな?
とはいえ、ラヴェル本人が、あなたの伝記映画つくりましたよって本作のプレミアに呼ばれて、娼館で手袋の衣擦れの音を聴きながら白目剥いてふんふんトリップしてる自分の様子を見せられたら、それこそ「ボレロ」のバレエ初演の百倍くらい激昂したんじゃないかとは思うけどね(笑)。
もう死んじゃってるから、なんでもありですね。
超奥手で、潔癖症で、機械オタクで、鳥好きで、音フェチで、不器用だけど、特定の才能にあふれているタイプとか、今の日本でなら秋葉原界隈や鉄オタやバーダーあたりにいても一向におかしくない手合いだと思うし、こういうハンサムで優秀なのにチー牛くさいインテリは個人的に大好き。
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中学、高校のころから、ラヴェルはお気に入りの作曲家だった。
大学のときやっていた学生マジックのステージショーで、前述したラヴェルのピアノ協奏曲ト長調の第二楽章をBGMに使ったくらいに愛聴していた。
いまはもっぱら、マーラーとかブルックナーばかりを好んで聴くような暑苦しい初老のクラオタだが、高校生のころは本当にラヴェルが好きだった。
当時はお小遣いが月2000円だったので、月1枚CDを買って、残りの金額で100円の本格ミステリを古本屋のゾッキ本で買いあさるのが一番の娯楽だった。
ラヴェルについては、当時定番だった、エンジェル(EMI)のアンドレ・クリュイタンス指揮の管弦楽曲集と、サンソン・フランソワのピアノ曲集&協奏曲集、あとはBMGのシャルル・ミュンシュ指揮盤が愛聴盤だった。
今でも、アレクサンドル・タローのラヴェル・アルバムはよく聴くし、彼が来日したらなるべく演奏会にも足を運ぶようにしているが、サントラのリスト見てたら、今回のピアノの手の吹き替えってやっぱりタローちゃんだったのね!! しかも、何かとラヴェルに食って掛かる若い音楽批評家のラロの役まで演じていたといわれてびっくり。全く気付かなかった!!
口ひげとかまで付けて、めっちゃ演技してるじゃん! タローちゃんふつーにうまいし。
選曲とかにもかかわってるのかしらん?
あと、サントラには前述したフランソワとかクリュイタンスあたりのEMI音源をそのまんま使ってて、映画のなかで流れてた演奏の大半が、自分の持ってるCDから採ったものばっかりだったことを後から知る。まるで気づかない自分の耳の悪さにがっかり(笑)。
でも、演奏シーンの8割がたでは、ラヴェルを演じたラファエル・ペルソナ本人が5か月くらい特訓して実際に弾いているらしい。それはそれですごいな。
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「ボレロ」の曲自体には実はほとんど思い入れがないが(正直、ラヴェルなら他の曲のほうが好き)、作曲の経緯などはよく知らなかったので、とても興味深く観ることができた。
ああいう奥手の天才にとっては、イダ・ルビンシュタインみたいなド厚かましいクライアントが押せ押せで攻め寄せてきて、「無理やり書かせてくれる」シチュエーションが、作曲には必要だったんだろうなあ。
終盤に、自分は「何を書いてほしい」の繰り返しで曲を書いてきたけど、独自のものなんてない、自分は空っぽだ、みたいなセリフがあって、どきっとした。たしかに依頼や強制といった外圧がないと、なかなか仕事ってやる気にならないからね。結局、人に評価されるほどに「周りの期待に応える」形での仕事が増えてゆくことになる。
イダ役のジャンヌ・バリバールが『サンセット大通り』のグロリア・スワンソンみたいなクセの強い演技付けでやっていて、実に楽しそうだった。
あのダンスシーンは、リアルな当時の舞踏を再現しようという意識が高いのかな? 今の感覚からすると動きとかかなりダサいというか、古めかしい感じもしたけど。
「ボレロ」の楽曲の発想源として、工場の機械の規則正しい機動音や、お手伝いさんの歌う流行歌の「バレンシア」が挙げられていたり、そもそも17回の反復というアイディア自体が、編曲用に当てにしていた他人の楽曲の著作権が押さえられていてダメになり、切羽詰まってひねり出した苦し紛れの案だったことなど、いろいろ初めて知る話が多くて面白かった。
ラヴェルの周囲で鳴っているいろんな自然音や人工音、旅先で聴いたジャズやパリの街のシャンソン、それらすべてが「ボレロ」の作曲に悩む作曲家のなかにしみ込んで、「素材」となっていることを示す「音の演出」も巧みだった。
楽曲の使い方は、本当によく考えられていると思った。
たとえば、ふつうなら伸縮自在のテンポで煽り気味に演奏する指揮者の多い「ラ・ヴァルス」の自作自演で、オケにイン・テンポ(一定のテンポ)を維持して最後まで押し切るよう明快に指示していて、へえと思った。そのほうが官能的だみたいなこと言ってなかったっけ?
これは、中盤の「ボレロ」の話で、同じ旋律を同じテンポで17回繰り返す試みの、明らかな前振りになっている。
あと、「マ・メール・ロア」のピアノ連弾版(10歳くらいの子供たちのために作った曲なので簡単なつくりになっている)の「眠れる森の美女」を最初のほうのパーティーでミシアと連弾させて(ミシアの旦那にめちゃくちゃディスられるあのシーンの曲)、そのあと管弦楽編曲版の「マ・メール・ロア」を全体のテーマ曲のように使うやり方もうまい。
「逝ける王女のためのパヴァーヌ」「道化師の朝の歌」(いずれもピアノ版)、「グロテスクなセレナード」、「夜のガスパール」の「絞首台」、ピアノ協奏曲ト長調(両手で弾くほう)、ヴァイオリン・ソナタ、ピアノ三重奏曲、弦楽四重奏曲、「ラ・ヴァルス」などをちりばめつつ、有名な「スペイン狂詩曲」や「ダフニスとクロエ」あたりは使用しないという、こだわりのきいた楽曲採用になっているのも気になるところ。
とくに、オペラ「子供と魔法」と「左手のためのピアノ協奏曲」は、作中でわざわざラヴェルの口から楽曲について言及があるのに、なぜかなかでは流れない。
このへん、どういう意図で誰の意向が働いた選曲なのか、若干興味がある。
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全体としては、落ち着いたフランス映画らしいつくり。
とにかくモーリス・ラヴェル役のラファエル・ペルソナを「綺麗に」撮っていて、それだけで作品は成功している気がする。カメラワークは流麗で、とくに海辺の別荘に作曲のためにおこもりに行くシーンで、建物の前を走る坂を下から仰ぎ見るショットにつなげて、背後の海側を鳥瞰で撮るショットには、たいへん感心した。
一方、淡々としたつくりなので、多少眠たくなる部分もある。
話の時系列がかなりわかりにくいのも、好き嫌いの分かれるところだろう。わざと回想シーンをあちこちシームレスに挟みこんで、単調な展開にならないよう調子をつけているのだが、そのせいで、漫然と観ていると結局いつラヴェルが戦地に行って、その後母親が亡くなったのかがよくわからなくなる。Wikiによれば、
1915年 兵役に就く
1917年 母親逝去、スランプに
1920年 「ラ・ヴァルス」作曲
1928年 アメリカ演奏旅行大成功、同年「ボレロ」作曲
1930年 左手のためのピアノ協奏曲作曲
1931年 ピアノ協奏曲ト長調作曲
1932年 失語症悪化、引退
1937年 脳手術後、予後悪く逝去
ということなので、かなり話の順番がシャッフルされている。
あと、マルグリットがマルグリット・ロンだとわかりにくいのと同様、ラヴェルのミューズとして全編にわたって登場するミシア・セールの扱いも、ちょっとわかりにくい気がする。
なんで人妻でありながら、四六時中ラヴェルの家を訪れてはイチャコラしてるのか根拠がよくわからないのだが、ミシアはそもそもガブリエル・フォーレの弟子で、リストもほめたたえたバリバリの技量をもつ「ピアニスト」としてラヴェルと交流し、さらには、ラヴェルを常に支援しつづけたシパの「実の姉」という立場でラヴェルと付き合っていたのである。
このあたり、もう少しドラマのなかでわかりやすく整理してくれてもいいのにな、とは思った。
なお、ミシアは文学者・画家・音楽家のパトロンとして、パリの芸術サロンの中核にいた超有名人であり、ルノワールやロートレック、ボナールあたりもこぞって絵にしているような「みんなの女神」だった。映画に出てくる嫌味な旦那さんは、彼女の三人目の夫で、スペイン人の画家である。この旦那の愛人とも性的関係を結び、三人で生活していたこともあるというエピソードがWikiに載っていた。ココ・シャネルが唯一心をひらいた親友でもあるという。なかなかに興味深い人物だ。
なんにせよ、ミシアとラヴェルのプラトニックな関係は、観ていて興味深い。
むしろ、ミシアのほうが積極的にラヴェルを誘惑するのだが、ラヴェルが乗ってこないとあえて深追いはしない。結局つかず離れず、長い年月にわたって、ふたりには友人以上恋人未満の関係が持続していたように、作中では描かれている。
ふたりのやりとりは、つねにほのめかしと機知にとんだもので、聞いていていかにもフランス知識人階級の香りがして楽しい。
一見気づきにくいが、映画のつくりとしては、超奥手男のモーリス・ラヴェルと、それを取り巻く5人の女たち――イダ・ルビンシュタイン、ミシア・セール、マルグリット・ロン、お手伝いさん、娼館のお気に入り――のやりとりを描く、ちょっとラノベかギャルゲーみたいな構造になっている(あとは死んだお母さんも)。モテモテなんだけど、絶対手は出さないよ! みたいな(笑)。
通例こういう映画では、カサノヴァみたいな男が何股もかけて罰を受ける『黒い十人の女』とか『女の都』みたいな展開になりがちなのだが、本作の場合は逆に、徹底的に受け身で「手を出さない」安心君が、何かとかいがいしく世話を焼いてくれる女性たちに助けられてなんとかがんばれるという、謎のハーレム状態が維持されている。
似ても似つかない話ではあるが、ちょっと『ダンまち』のベル・クラネルを彷彿させる設定。
女性監督がこれを撮っていることを考えると、こういう性的には無味無臭だけど気障なセリフはいえて、でも母性本能をくすぐるような繊細さを併せ持つ細面の美男子こそが、一番主人公としてはモテるんですよって女性目線でいわれているようで、妙な感じがします(笑)。
ちなみに世間ではラファエル・ペルソナは「アラン・ドロンの再来」と呼ばれているらしい。たしかにクールな美貌の持ち主で、アメリカにはいないタイプ。ぜひ今後とも活躍してほしいところだ。