コット、はじまりの夏のレビュー・感想・評価
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静かな少女
親に褒められるのがなんとなく照れくさくて嫌だった──というのがある。「おまえはできる子なんだから」と言われても、だいたい「そう言ってくれているんだな」ということが解るし、そもそもじぶんはできる子ではなかった。
だから心の中で「いや父さん(母さん)あなたは知らないだろうがね、おれはクラスでみんなからばかにされているんだ、父さん(母さん)が想像もできないほどみじめな子なんだ」と口には出さずに回答する。
機春秋を経て50代になったが何も成しえず離婚して低所得に生きているわたしを年老いた親はまだ「できる子」だと言ってほめるのだ。いったいいつできる子なんだろうね。
だけどもし親にdegrade=価値をおとしめられながら育っていたならどうなっていただろう。子供をdegradeしてはいけないのは常識だがそれを平気でやる大人がいて結局世の中には親に毎日degradeされながら生きている子供がごまんといる。
アイルランドの田舎、80年代初頭の設定。育児放棄な親に育てられた姉妹の一人が母親の妊娠を期に酪農を営む親戚に預けられる。そこで少女ははじめて人の愛情にふれるという話。
父親は飲んだくれで口からは嫌味か難癖か苦情しかでてこない。母親は辟易し厭世しながら台所でひとりで泣いているような受動タイプ、子沢山で家は貧困に支配されている。
コットはタイトル通りの静かな少女。意思をうしなったように何もしゃべらない。姉妹の中でも学校でも浮いた存在だった。
彼女が暫定里子として行った先は初老の夫婦がふたりで暮らしている。里母は慈愛に満ちコットを優しく迎え入れる。おねしょも叱らず、毎朝髪を梳き、新しい洋服を買ってあげる。
公民権運動の時代、南部を訪れた北部の白人が集落にいる黒人に声をかけると誰もがみな徹底してへりくだり、まともな会話にならなかったという逸話が残っている。白人の奴隷としてこき使われてきた黒人が、突如、君の身分はわたしと同じになったんだと白人に言われてもそれを実感できず、気分を害する態度をとれば何をされるかわからない──と警戒するのは無理からぬことだ。
ネグレクトの親から愛情豊かな親にあずけられたコットもそれと似たような状態だった。
人から優しくされたことのないコットの生硬が次第にほぐれ、自我が解放されていく様子が綴られる。
酪農家の父親は厳しいところもあるが恩愛があり、コットの寡黙に美点を見いだしてそれを褒め、またポストの郵便物をとってくる使い走りを日課に課す。コットはだんだんそれに夢中になる。息をきらせて取ってくると里父はそれを「前回のタイムを上回った!風のように速かったぞ」と言ってほめるのだ。
初めて人心地に触れたコットはすでに実家に戻りたくはないが、やがて時がきて引き戻される。コットは送ってきたふたりを──速く走ればどうにかなるかのように──走って追いかけ、里父の胸に飛び込んで「父さん」と言う。
どうにもならなくて胸がかきむしられた。
imdb7.7、RottenTomatoes97%と93%。
RottenTomatoesのコンセンサスは「脚本家/監督Colm Bairéadの驚くべきデビュー作である『クワイエット・ガール』は、小さな物語が大きな感動を残すことができるということを、見かけによらずシンプルに思い出させてくれる」というものであり、アカデミー国際長編映画賞(旧外国語映画賞)へのノミネートをはじめ多数の賞をとった。
Colm Bairéadの来歴によるとほとんどドキュメンタリーかテレビの仕事でこれが初長編映画。
映画ではアイルランド語が使われ、wikiによると『アイルランド語映画のオープニング週末興行収入記録を塗り替え、アイルランド語映画史上最高の興行収入を記録した。』とのこと。
英題The Quiet Girl、原題(An Cailín Ciúin)はその「静かな少女」をCatherine Clinchという映画初出演の少女が演じている。
オーディションするためにアイルランド語学校でその公募をしたそうだがプロデューサーたちはリールを見た途端すぐにこの子だと判断したという。
端正だが表情を制限されたような屈託があり主題にぴったりの子だった。
邦題「コット、はじまりの夏」には齟齬がある。どちらかと言えば夏ははじまらない。「コット、はじまりの夏」と言われたらひと夏の体験のような甘酸っぱさのある話を想像するが子供の生活環境を冷徹に描いた話と言える。
愛のお話
まあまあだった
コットが最後まで一貫して誰にも心を開かず、笑顔を一切見せない。心を病んでいるのではないだろうか。見ていて苦しくなる。親戚の二人は彼女を引き取ることになるのだろうか。そうなって欲しい。
映画や物語としてはこれでいいのだろうけど、子どもには安心してリラックスできる環境であって欲しい。心を開いたコットはどんな様子なのだろう。実親の元では愛着障害が起こって、貧困でもあり、厳しい環境だ。
親ガチャ物語
静かで美しい物語
居場所
パンフレットにあったコルム・バレード監督のインタビューに、「ミツバチのささやき」(73)に触れている部分があって、さもありなんという気がしました。直接影響を受けたり、意識していたということではないそうですが、映像の質感や叙情的な雰囲気、そして大人になる前の少女の視点で描かれているところなどに相通ずるものが感じられました。「ミツバチのささやき」や「エル・スール」(82)のように、どのシーンも絵的に美しく、説明は最小限に留め、余白を想像にゆだねるカット割りがとても印象的でした。キャスティングもよかったですね。とりわけコット役のキャサリン・クリンチは、本作が映画デビューという等身大の初々しさが唯一無二の作品を生んだように思えました。似たような物語はたくさん観たことがあると思いますが、この絶妙なバランス感覚の心地よさは、なかなか出会えない貴重なものだと思います。オープニングの「え、何なの、この話は?」と引き込まれる感じから、エンディングの胸の奥に落ちてくる深い感動まで、本当に幸せな映画時間でした。ちなみに、パンフレットの仕上がりもとてもいいもので、作品をより深く知ることができました。
オフビートな一期一会。
「そんなにあったら、アイスクリーム6個くらい買えるわ」
「いいんだ。甘やかしに来てるんだから」
少女は現実を受け入れ、少女の周りも愛が枯渇していない事に気づき、少女は、強く生きる事を揺るぎなくする。まだ、始まったばかりだが、新たな一期一会が少女の未来にはきっと存在する。と感じた。
教育の必要性を「ハイジ」でデフォルメしている。鳥肌が立った。
傑作だと思う。
以下
ネタバレあり
秘密の花園を大いにリスペクトしている。
オフビートな一期一会だったが
自ら
ハグをする様になった。
正直眠かった...
たった、数ヶ月
疾走シーンに魅せられる
ギャンブルにうつつを抜かし、コットに辛くあたる父親。それを見て見ぬ振りの姉たち。学校でも先生から見放され友達もいない様子。一種の諦観を感じさせるコットの暗い目。映画は序盤から彼女の孤独と、なぜ寡黙にならざるを得なかったのか、その背景を丁寧に描き出す。それが親戚夫妻に預けられ境遇が一変するわけだが、必要以上の説明はしない。髪を梳き、熱い風呂に入れ、着替えを出してあげる。そうしたちょっとした行為からコットに注ぐ愛情の深さが感じられる。
最初戸惑っていたコットのその後の行動も然り。アイリンと共に井戸へ水を汲みに行く。その途中の青々とした草原。水面に映し出される二人の姿。ヴェンダースの「PERFECT DAYS」を彷彿させる美しい木漏れ日。これらの瑞々しい自然描写が、言葉以上に彼女の心の平穏を伝えてゆく。
一方、夫のショーン。最初無愛想だった彼が、さり気なくテーブルに置いたお菓子(食事のシーンが多いが、食卓のカットやこうした小道具の使い方は小津的)をきっかけに心を通わせ始める。二人して黙々と牛小屋を掃除したり、郵便箱までダッシュさせてタイムを計ったりする様は、実の親子のようで微笑ましい。特に「何も言わなくていい。沈黙は悪くない」という言葉は印象的。この言葉によってコットは人格を肯定され、初めて自分自身の“声”が持てたのだろう。だからこそ、ラストのあのひと言が強く観客の心に突き刺さるのである。
しかしながら、その後どうなるのかは我々の想像に委ねられる。余韻あるエンディングだ。また、コットを演じたキャサリン・クリンチが良い。透明感溢れる演技で、少女の覚醒と成長を表現していた。シンプルだが静謐な感動をもたらす作品だった。
どこか懐かしい記憶を呼び覚ます、愛おしい作品
ブルーグレーがかったようなアイルランドの広大な風景。
澄む空気に映し出される光がその時々を伝え、冒頭の生い茂る草の場面からふと息を吸いこみ鼻の奥で感じてみたくなる何かがある。
いつも自分の存在を消していたようなコットは、母の出産を理由に親戚に預けられることに。
それはショーンとアイリン夫妻の元で自然光のようにやさしく寄り添う家庭を知っていく特別な時間だった。
そこには陽気な友人たちとの交流、周りの人々を惜しみなく助ける姿、夫妻が支え合い哀しみを越え現実に向き合う様子があった。
そして、アイリンが柔和なゲール語とまなざしで教える〝自分を慈しむこと〟。
ショーンがどこか自分に似たコットの不器用さや寡黙さを対話で肯定し、行動で教えてくれたこと。
自分では選びようもない9歳のこどもの生活環境から初めての感情に触れた体験でコットには笑顔がうまれ、雨粒のきらめきに目を止め、ことりのさえずり、家畜の声に心躍り、川のせせらぎに安らげるようになるのだ。
ラスト、別れのシーンのコットの疾走と放つ〝daddy〟の2つの意味に胸がつまる。
変わらない日常を丁寧に過ごし、愛をもって接することを知った今までとは違うコットが確かにそこにいた。
片方だけではない。
両方を知ったコットは誰よりも強くやさしくなれる。
あの柔らかな響きなカウントを耳の奥にこだまさせてきっと彼女の人生は今始まる。
開かない扉の前に立つようなコットの憂い、夫妻に出会って愛を知り瑞々しくほころんでいく様子をキャサリン・クリンチがピュアな素質のままで魅せ、夫妻を演じる2人が苦悩を秘めながらも寛大な人間性で接する姿が温かくずっしりと心に沁み込む。
成長のなかで感じたことのある機微は人それぞれだ。
その記憶のかけらがじんわりとどこかに重なるときこんなふうに切なく胸が疼くのだろう。
タイトルなし(ネタバレ)
80年代はじめのアイルランドの田舎町。
子だくさんの夫婦に、またひとり子どもが生まれる。
年長の少女コット(キャサリン・クリンチ)は物静かで、父親からは邪険に扱われている。
母親が出産を控えた夏休み、コットはさらに田舎で暮らす伯父伯母夫婦のもとに預けられることになった・・・
というところからはじまる物語で、はじめはコットも伯父伯母夫婦も慣れない仲だったが、伯母はなにかにつけてコットの居場所を与えてくれるようになる。
というの、夫婦には息子がいたのだが、事故で失くしてしまったからだった・・・
物静かな少女コットのひと夏の出来事が、フィルム撮りの柔らかい手触りの映像で綴られていきます。
水汲みや郵便物の確認などの些細な家事がコットの居場所を与える・・・
家族なのだから、ちょっとした家事やなんかを子どもたちもやった方がいいよね。
ま、大人の眼の行き届いている範囲で、ということになるのかもしれませんが。
で、思い出したのは、自分ちののこと。
店舗兼住居で両親は商売をやっていたのだが、わたしの下に3つ違いの妹がいて、その2年後に弟が生まれた。
商売をしていると、家事・育児は大変で、弟が生まれたばかりの頃かもう少し後かは忘れたが、わたしの妹は田舎で暮らす母の姉のもとに預けられた。
伯母のもとには同じ年頃の姉妹がいたので映画とは異なるのだが、妹の田舎の伯母のもとでの生活もコットと同じようなものだったのかしらん。
と、そんなことを思い出した次第。
映画は、瑞々しい映像で綴られる何気ない日常の物語。
全編、アイルランドの言葉がしゃべられており、ラジオなどからは英語が流れるあたりが興味深い。
「THE QUIET GIRL」という原題に『はじまりの夏』とつけた日本タイトルは秀逸。
ラストショットにつながるポスターデザインも秀逸。
救いがない
ほぼ注目していなかったが、隙間時間にぴったり入ったので観賞。
ヨーロッパ映画祭系は苦手なのでかなり不安だったが、まあまあだった。
ラストシーンでは涙も出た・・・・が、背筋を冷たいモノも走った。
あの追いかけてくる姿はターミネーターよりよほど戦慄させられる。
あのラストでは本当に救いがない。
心地よい疼痛が残るのは好きだが、これは胸が張り裂けんばかりだ。
こういうのがゲージツなのかな。
映画を観に行ってこういう気分になるのは私は御免被りたい。
ベースは嫌いじゃない。
ちょっとだけ西の魔女が死んだを想起させられた。
だが、バックグラウンドが深く掘り下げられず、もやもやした感が残った。
また、全体的に陰鬱な上に生理的に受け付けないやつも散見され、
エンターテイメントとは言えないと感じ私にはちょっと厳しかった。
こういう映画の割に(だから?)平日にもかからず観賞者多数。
最初から最後まで物音はほぼなく、
当然エンドロール終了まで席を立つ方はいなかった。
久しぶりに静謐で映画館にいること自体を楽しめた。
終わり方が凄い。
妻に「これたぶん好きなやつ」と勧められてみた。
さすがの眼力。
少々荒れた家の自閉症ぎみ四女が、5人目が生まれるから夏休み中親戚の家に行かされ、、、あらたな家族を見つける話。エンディングもなかなか気持ち良い「振り逃げ」だった。
あの時のDadyはどっちの意味だったんだろう?そんなことを映画館の帰り道に考えて楽しかった、、たぶん監督の思う壺だ。少ないコミュニケーションでお互いに求めあい、補完し合う関係がミニマルで美しい。
まあ血が繋がってるだけで家族とはいへ別人、別人生だから。自分の足を引っ張る様になれば切り捨ててよしと私は思うのであります。
こんなシンプルな話を最高に美しいアイルランドの映像と景色、そして初めて聞くゲール語の会話でぜひ。
The Quiet Girl - 新生キャサリン・クリンチによる静謐ながらも繊細な心の機微を描いた感動作!
コット9歳が預けられる親戚夫婦の家。
コットの父親は典型的なクズ男、母親も出産を間近に控えているためコットの世話まで手が回らない。
で、親戚夫婦に預ける・・・と。
コットを預かる夫婦の奥様アイリンの無償の愛がグッときます。
また旦那のショーンの父親ともいえる愛情の注ぎ方に、心を鷲掴みにされました。
コットのセリフは少ないのですが、
話すと実に賢いと言いますか、知性が滲み出るんですよね。
それがユニークでもわり、ニヤっとしてしまうシーンも多々ありました。
一方で、ショーン・アイリン夫妻の細やかな気遣いが本当に心に沁みるんですよ。
そっとコットの目の前にお菓子を置いて去るショーン、
コットが傷つかぬようにと、新学期のCMをしているラジオを切るアイリン。
もういちいち感動しちゃうんですね。
ラストでコットが走るシーンも、劇中で何回も走るシーンとオーバーラップして
実に効いているなぁと思いました。
最後のセリフ「dad」は、ショーンに向けられているものと私は理解しました。
そう思うと、もうここで号泣です。
涙腺崩壊しました。
アイルランドの美しい景色、美しい画面の色味、自然音、
コットの色の白さも際立ちます。
いや〜猛烈に感動しました。
今年No.1かもしれないフェイバリット作品です。
The quiet boy
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