●はじめに
2018年11月2日、現代最高のジャズ・トランペッター、ロイ・ハーグローヴは49歳の若さで亡くなった。映画『ロイ・ハーグローヴ 人生最期の音楽の旅』は彼の最後のツアーとなった同年秋のヨーロッパ・ツアーを追いつつ、彼のキャリアをたどるアーカイヴ映像、そしてミュージシャンたちのインタビューを編集して構成した作品です。
本作は、人生最期となった2018年夏のヨーロッパ・ツアーに密着。体調が万全でない中、ステージで命を燃やすようにトランペットを演奏する壮絶な姿が克明に描かれています。また、ロイ自身の口からだけでなく、彼と親しかった数々の音楽仲間たちの貴重な証言が綴られます。49歳で急逝した天才トランペッターが、命の限りに音楽に情熱を注ぐ姿をとらえた、心震わす傑作ドキュメンタリーです。
わたしはかつてケンウッドの店頭販売員として、丸井とか大学生協に派遣されて、店頭でオーディオ製品を売りつけていた関係で、いろいろなジャンルの音楽を聴きまくっていました。それでもロイ・ハーグローヴについては、全く知りませんでした。今回本作で初めて彼の演奏に触れて、驚いたのです。トランペットでこんなに中低域に膨らみを持った音が出せるのかと。
それがよく分かるのは、劇中最後にロイが演奏する〈セイ・イット〉です。この曲は、コルトレーンのバージョンが有名で、ジャズを聴かないわたしでも、 コルトレーンの演奏は癒しに満ちていて好きな演奏です。それをロイがトランペットで演奏すると、金切り音は一切出さず、まるでサックスで演奏しているのと変わらないくらいのふくよかな低音域に溢れている音だったのです。
本作は、前途したとおり彼の死の直前のツアーに密着して撮影したもので、ロイはその直後の2018年11月2日夜、腎障害により透析治療を受けていた最中に心不全のためニューヨークの病院にて死亡しました。ひょっとしてあの〈セイ・イット〉の人生を達観したような安堵に満ちた演奏は、彼自身が帰天する時期が近いものと悟っていたのかもしれません。
セイ・イット/John Coltrane
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●ロイ・ハーグローヴについて
ロイ・ハーグローヴは、1969年テキサス州ウェーコ生まれ、2018年11月2日ニューヨークで死去。10代でプロ・デビューし、ジャズの伝統を受け継ぐ正統派かつエネルギッシュなプレイで、瞬く間にシーンの寵児となったトランペット奏者です。若くしてソニー・ロリンズ、ハービー・ハンコックなどの巨匠に起用される一方、自身のバンド「ロイ・ハーグローヴ・クインテット」を率いて活躍。さらに、エリカ・バドゥ、ディアンジェロ、クエストラヴ、モス・デフ(ヤシーン・ベイ)など、同世代のR&B/ヒップ・ホップのアーティストと交流し、“ネオソウル”と呼ばれた新しいブラック・ミュージックの潮流の創出に貢献しました。
そして、プロジェクト「RHファクター」では、ジャズとR&B/ヒップ・ホップを本格的に繋ぐ先駆者となり、ロバート・グラスパーに連なる現代ジャズ・シーンの礎を築きました。華やかなキャリアの一方、その生涯は病と隣り合わせで、晩年は腎障害により透析治療を受けながらの活動だったのです。
●本作の問題点
本作について、多くの映画評では、ロイとマネージャーのラリーとの確執が前面に描かれ過ぎるという苦言が目立ちます。冒頭近くで、まるで脚本で描かれたようにラリーが撮影を止めろ、と怒鳴り込んできたシーンは衝撃的です。ただロイの長年の友人で本作のエリアン・アンリ監督が言うには、ロイとラリーは特別な関係で、強い絆で結ばれていて、まるで親子のようだったとも語ります。親しいからこそ、映画撮影中にもお互いがいいたいことをぶつけ合ったのかもしれません。そしてロイを守りたかったら、本作を潰しにかかったかもしれません。その結果、ロイの死後の本作の編集期間中に、突如ラリーがロイの作曲した楽曲の使用を許可しない、と言ってきて、アンリ監督は編集をもう一度最初からやり直さざるを得なくなりました。結局、彼の曲を16曲削って他の人が作った曲に差し替えたそうなのです。
ヨーロッパ・ツアーに密着中の映像では、そんな展開を予想してかどうか、ロイはライブの前に路上で撮影しようということになっていた予定を、疲れからキャンセルしたあと、わざわざ自分で楽器を持ち込みスタッフの部屋を訪れて、スタンダードを何曲も吹いてくれたのです。そのうちの1曲が前途した〈セイ・イット〉でした。このホテルの窓辺での即興シーンが残されたシーンは、本作の演奏シーンの不足を大いに補ってくれたのです。それどころか、演奏曲順まで考え抜いていたロイが考えたストーリーを、監督が追いかけたような結果となったのでした。
作品完成後、アンリ監督はラリーの一件についても、今となっては彼に感謝していますと述べています。彼が楽曲を使わせなかったおかげで、じゃあどうすればいいのだろう、と必死で考えることが出来たからというのです。
●本作のもうひとつの重要テーマ
この映画は、いろいろな側面を持っています。ロイの最後のヨーロッパ・ツアーの記録であり、ロイ・ハーグローヴという音楽家のバイオグラフィー映画でもあり、さらには、音楽家とはなにか、芸術とはなにか、宗教と人間の関係、生きることとはなにか、といった深遠なテーマについての素晴らしい言葉がたくさん散りばめられています。そうした複数のレイヤーを持っている映画だな、と思いました。
そして本作では、ミュージシャンたちがスピリチュアルな話をしています。フランク・レイシーがスーフィズムの話をして、ハービー・ハンコックが仏教の話をして、ロイが神の話をして、と。アンリ監督は最初は意識していなかったそうなのですが、出来上がってみると、スピリチュアリティの問題は、この映画のサイド・テーマと言えるほどに重要だったのだと思っていると述べています。
本作では個々の宗教というより、精神性と人間の関わりみたいなことが多々語られている作品です。最後の方で、アンリ監督がロイに「死後はどうなると思う?」と尋ねると、ロイは「世界を創造した神様に会えるかな」と答えます。あの言葉がとても印象的でした。ロイの言う「ゴッド」はキリスト教の神のことなのか、それよりさらに普遍的なものなのかはわかりません。
アンリ監督が語るには、「彼のお母さんが敬虔なクリスチャンで、そうした環境で育ち、若い頃は教会で演奏もしていました。でも、音楽でもそうでしたが、彼はとてもオープンな人間だったので、キリスト教に限らないスピリチュアルな物事への関心も強く持っていたと思いますね。」ということでした。
●最後に~なぜロイは腎臓移植を受けなかったのか?。けれども作品中にロイ本人が、アンリ監督の「腎臓移植を受けないの?」と尋ねたときに、「移植手術をすると6か月は休まなくてはいけない。今はその時間がない」と答えたんです。それをインタビューで答えたのは2018年の5月2日で、亡くなったのはぴったり6か月後の11月2日でした。もしかしたらロイは自分の死期を悟っていたのかもしれません。
無理矢理休ませて移植手術を受けるようにしていれば、30年ぐらいは長生きできたのではないか、と思うと、なぜロイがそれを選ばなかったのかと疑問に思う人も多いことでしょう。けれどもアンリ監督が語るには、「ロイはトランペットのこと、音楽のことしか考えていなかったようなのです。なので、ラリーに生活のすべてを委ねていたんです。ロイは家賃や税金の支払いも自分ではしていませんでした。考えているのは音楽のことだけ。でも、その代償も大きかった、とは言えますね。」ということでした。
そんなジャズに一大旋風を巻き起こしたロイ・ハーグローヴという音楽家の存在を知り、彼の芸術に捧げた信念に触れることができる作品といえるでしょう。