このアニメに関して前章、後章、通して言える事は、大きな世界観が横たわっているという事を見逃してはいけない。
それはユングからレヴィ=ストロースにつながる構造主義的世界観に、さらに新たな観点を導入した世界が描かれている点であろう。そしてこのアニメで描かれている世界があまりに巨大である為に、まずこの作品を鑑賞する為には大まかなアウトラインの確認が必要だと実感した。
本アニメ作品に関して浅井にいおの原作未読なため、どこまでが浅野マンガの世界観に忠実なのは自分には判断する材料がない。原作クレジットが打たれている点、小学館がバックアップに入っている事を考えたら脚本家や監督の思想が独走した作品とは考えにくい。それゆえこの映画作品=浅野にいおの世界観として俯瞰する。
ちなみに整理すると・・
本作、監督は『ぼくらのよあけ』の黒川智之
脚本は『猫の恩返し』『映画 けいおん!』『ガールズ&パンツァー 劇場版』『若おかみは小学生!』『きみと、波にのれたら』『のぼる小寺さん』の吉田玲子が担当している。
まず絵柄から言うと萌えキャラベースでメインストリームは少女たち(小学校高学年?から大学生になるまでの)が繰り広げる所謂セカイ系の物語と言えるが、従来のセカイ系と本質が異なる。
まずいつからこの萌えキャラをシリアスな物語に絡めるようになったのかと言うと自分の知る限り🎦映画大好きポンポさんと考える。勿論その前に🎦若おかみは小学生!(2018)や📺ガルパン(2012~)などは存在したものの、所謂セカイ系の特徴である萌えキャラが絡んだ後の世界がその恋愛系の世界に物語の世界が引っ張られていくのが常である。しかし本作品にはそれがない。即ち外挿された現象(侵略者?・UFO)の飛来などに一部5人の少女たちの世界にほとんど影響を受けない。特にその中のコアを占めるふたりの主人公「小山門出(IKURA)」「中山鳳蘭(あの)」の関係は「絶対」と位置付けられ日常生活に揺らぎがない(厳密にいうと修正された日常)。この「絶対」をベースに考えると突然現れたUFOの襲来までもが集団的無意識に、特に厄災の象徴ととらえる事が出来、米軍の民間エリアでのありえない殲滅行為や政府の宇宙人狩りなど、その描写がどんなにリアルでも現実的な軍事オペレーションとはおよそかけ離れている点やさらには多くのアニメへのオマージュもそうであるが現実的な世界の描写とはおよそいいがたい。オマージュの内容については最後に簡単にまとめてみたいが、それらがすべて象徴として描かれているとしたらその荒唐無稽さも理解出来る。
顕著なオマージュにはまず藤子不二雄の『ドラえもん』で、ほんやくコンニャクなどの様々な未来ツールが登場する。特にタケコプターはこの物語のメイン器具でもあり、恐らく作者の高い藤子愛が根底にあり、藤子サイドの著作権問題まで気になるがそこは同じ小学館管轄、抜かりはない事であろう。『ドラえもん』に関しては小道具のみならず設定ももはやオマージュではなくそのものと言うような倒置の仕方をしている。これは先に述べたように現実をイメージしたものと言うより設定自体がメタファである事を如実に物語っている。
またキャラクターについて言えば水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』に登場するようなデザイン(目玉おやじや鬼太郎、ねずみ男などの引用)、かきふらいの『けいおん!』キャラなどの指摘も相次ぐ。また『映像研』の影響やストーリーの展開の壮大さや仕掛けとしては,『魔法少女まどかマギカ』の影響も無視できない。これらアニメ上級者に向けたオマージュの散りばめは逆に『ドラえもん』しか見いだせなかった鑑賞者には小ばかにされたような不快感を与える結果となったかもしれない。
また往年の漫画ファンからは古くは『デビルマン』『漂流教室』そしてアニメにおいての『エヴァンゲリオン』のようにクリエイターの見てきたもの、影響されたものをそのまま倒置する手法に加え、明らかに進化途上での新表現を導入した『AKIRA』『ドラゴンボール』『20世紀少年』など1980年代前後に確立したのニューウェーブコミック的表現、主題も織り交ぜながら日本のサブカル、日本のアニメの「総決算」を見せられつつ、少年誌におけるコミック文化の大いなるテーマとしての「ともだち」はまさに『20世紀少年』の主題であり、3.11の際の日米災害オペレーションの合言葉を経て、今回の起爆としての「合言葉」で使われる②至る。そこで、この合言葉はあくまでも爆破を止める為のパスワードであったはずが、容赦のない破壊の前倒しのキーワードとなっているところも注目である。全てのオマージュがどこへ向かっているのか?この物語の大きな主題の屋台骨となっている。
こここそが読み違えてはいけない点なのだがこの作品が単なる「セカイ系」でないとことの所以である。少女たちの物語は異世界との接点はもつものの決してその世界に影響を及ぼし解決はしない。
最初の接点は5人の中のひとり栗原キホの死である。その日常への介入に対して引きずられるのは元彼の小比類巻の変容である。これ自体も、大切な人を奪った現実に対して屈折した復讐劇へと駆り出されていく様は安倍元首相銃撃事件を先取る予見性を持った表現となってる点が注目される。ここにも予見性、暗示性の中の集団的無意識による作用が見て取れる。レヴィ=ストロースの記号論による予見性、人知を超えた循環性の表れと言っていい。
3.11の震災やコロナ禍の暗喩、ウクライナやガザ地区の実情、この国を覆う閉塞感と展望のないモラトリアム感など、日本の中で渦巻く打開できない閉塞した世界観は🎦インデペンデンス・デイと言うより、全編隠喩的表現の🎦第9地区の方が近いかもしれない。おんたんが大学へ行ってやりたい事として「洗脳しやすいエリートを洗脳して軍を作る」という発言は1980年前後の大学自治の中で多くの大学における宗教団体の青年部がサークルの名を借りて布教活動をした事に由来する。統一教会の原理研、創価学会の第3文明研究会、オーム真理教は大学学内にスカウトでピックアプしサテアンと言う基地まで作ってみせた。そう言った創作背景にある不安と言う名の世界の影と「3.11」と「コロナ禍」、そして「安保」などの社会的、自然災害的事象などの不安要素と絡めてきた現実。そう言ったメタファとしての現実に対し、「小山門出(IKURA)」「中山鳳蘭(あの)」の関係は常に『絶対』である。このアニメにおいて世界は不安がいっぱいでも少女たちの世界は決して変わることのない『絶対』である。これこそ本アニメのメインテーマであり、この作品が単なるセカイ系にカウントされない本質である。
原作コミックは12巻あるので、それでもこのアニメでは結構はしょられていると言うからまだまだ多くの予見された世界が描かれているのかもしれない。
自衛隊や軍需産業の描き方が図式的にすぎないかとか辞職に追い込まれることをビビってる高校教師が平気で女子生徒を自宅アパートに入れか?ドアまで閉めるか?とかの荒唐無稽描写への指摘や、アイドル推し総理とかトランスヴェスタイトなど、モブキャラに徹底的なこだわりを見せて手抜きがないわりとクセになる描写などマニア向けのサービスなのかステレオタイプ的なネットキャラのオンパレードで冷静に考えるとリアリティとは程遠い世界と世界構成員。しかもこれもいくつかの指摘が散見されたがキャラたちの顔のアンチ萌に対して、少女たちの肉体の描写が徹底的に性的でリアリティがありしかも萌系と、かつて見た事のないなまめかしさを持つ。それ故に人間劇としてウルッとする場面や性的なトキメキを覚えるシーンなど妙にその表現とは反対にリアリティがあり没入感が持てたりするのだ。この点を「青春時代に抱えている正義、恋愛、性欲、家庭、成績、進路、友情、イジメとかそういうゴチャゴチャした精神的なクライシスをSF世界観として表現した素晴らしい作品」と評した人の視点も同じ見立てから来ていると思われる。その一方で日本の磨き上げてきた最強ギミックを、宮崎駿とも富野由悠季とも新海誠とも異なる方向で、きちんとまっとうなSFとして仕上げてきている、もしくは最新作の細田守の🎦果てしなきスカーレットに繋がる程のビジュアルエフェクトなど徹底して日本アニメ史の本質を踏襲してきている点も見事である。
そして第二の世界との接点が後半のかどでが人類英知を超えた器具を手にしそれを使っていくうちに自らの自我と独善を暴走させ自滅していってしまう描写である。そこには🎦クロニクルをの設定アイデアを彷彿と連想された指摘もあった事をここに併記しておきたい。冷静に見るとこんなステレオタイプに描かれた人間たちも都合のいいだけの世界も現実には存在しないだろうという考え当然であるが、それがあえての演出だったらすごいと思うと言う指摘と共にここではあえてそれを設定のコアに据えているのだと断言してみたい。なぜならこの後かどでは🎦インターステラーよろしく別の時間軸にスライドする事でかどでとほうらん(おんたん)の関係が再度リセットされて「絶対」となる。逆に言えば、ところどころ友人の死とかUFOの撃墜とか、ストーリーのポイントになりそうなエピソードは一つ一つを掘り下げられる事も、引きずることもなく何事もなかったように話が進んでいく、言ってみれば、えげつないことが起こるけど、スルーしていく日常系アニメとして淡々と進行するまさにこの方向性こそが逆にリアリティを醸し出すと言うアイロニー。その淡々と進行するだけの現実は女子高生たちのクセのありすぎる会話だけでも十分成立しているからこの映画のリアリティに対するこだわりの深さを示すのである。
そして最後にこのアニメの一見すると本筋とは関係ないかのように描かれる「恐怖」はこの「絶対」を背景にしている事を観客は最後に思い知らされる。自分の正義を信じる人間が力を持つことの独善の怖さ、卒業式の日の「仰げば尊し」をバックに侵入者を「殲滅」「駆除」するシーンの怖さ。この「恐怖」こそを描かなかった🎦オッペンハイマーに欠落していたものこそこの「終末観」である。日本では既に🎦AKIRAで描かれてる世界観でもあったのに。
この「絶対」の「恐怖」の一方で描かれているものアンチテーゼとして無抵抗な弱者の殺戮。侵略者と言うレッテル。排外主義者と自己主義者。アイデンティティの喪失と自己発見。異界、異質とのコンタクトは新たな出会いの無い世界。マルチバースにおけるシフターとしての存在の相対性。侵略者=先住者=支配者の相対性。ネガティブサイドからの覚醒。かどでの暴走に繋がる覚醒。やり直しが本質的に無意味との同義性。自分と言う存在によって他者の人生の有り様が変わろうとも、自分の人生は誰のものでもないと言う「絶対性」と「独善性」。侵略者たいするその上位者としての存在の設定。また細かい日常描写ではあるが教師と教え子の禁断愛は閉じた世界での近親者との出会いが遺伝子の反発の健全性を損なう危険性の暗示であるとか、おうらんが僕から私へと移行するアイデンティティの変化には異世界(大葉君)との融合における世界構築の健全性などの暗示とか・・・
前・後編を通じて「絶対」と「相対」への価値観の揺らぎがステロタイプ化された世界(異世界)と何があっても不変を貫く少女たちの日常の絶対世界とを行き来する。この答えのないさまを丸ごと観客に投げつけてエンドロールを迎えるこの作品構成、かつて体験したことがあったであろうか?その答えは各自の胸に去来する日常と今も変わらず周囲で流れる日常との狭間でそれぞれがその答えを見つけるしかないのである・・・・。
最後に二人の絶対的主人公の声を演じた幾多りらとあのの凄さは日本アニメのアイコンとしての力が宿ったかのようで称賛の限りを贈りたい。