コラム:芝山幹郎 娯楽映画 ロスト&ファウンド - 第9回
2015年4月15日更新
第9回:「インヒアレント・ヴァイス」と逸脱する万華鏡
「空白期」を漂う怪人たち
というわけで、話を映画の冒頭部に戻す。出だしは、フィルム・ノワールの定石を踏んでいる。《1970年/ゴルディータ・ビーチ》という字幕につづいて、カウチに寝そべっている私立探偵ドック・スポーテッロ(ホアキン・フェニックス)の姿が映し出される。
ドックは30歳前後の長髪で髭面の男だ。髭の形は、もみあげの先端が太く膨らんだマトンチョップス(なぜかラムチョップスとは呼ばない)。ニール・ヤング(45年生まれ)やW・P・キンセラ(35年生まれ)の顔が頭に浮かぶ。世代でいえば、37年生まれのピンチョンは、ビーチ・ボーイズのブライアン・ウィルソンと同い年だ。ドックもあの世代に属する人と見て差し支えないだろう。
そんなドックの所へ、もと恋人のシャスタ(キャサリン・ウォーターストン。サム・ウォーターストンの娘)が訪れる。いまのシャスタは、不動産王ミッキー・ウルフマン(エリック・ロバーツ。ジュリア・ロバーツの兄)の囲い者だ。ところがミッキーは、妻スローン(セリーナ・スコット・トーマス。クリスティン・スコット・トーマスの妹)とその愛人に資産を狙われ、姿を消してしまったという。そんな彼の行方を探してもらいたいというのがシャスタの依頼だ。
このあたりは、「三つ数えろ」(46)や「過去を逃れて」(47)といったフィルム・ノワールの名作と大差はない。のらくらした男と、過去からやってきたわけありの女。ちがいといえば、ドックの風体にヒッピーの名残があり、マリワナとビールをめったに手離さないことか。ビール瓶には〈ビュルガーマイスター〉というレーベルが貼られている。背後のラジオからは、60年代前半にヒットしたザ・カスケイズの「悲しき雨音」のメロディが小さく流れてくる。
というわけで、ドックの頭のなかは霧に包まれたままだ。が、典型的なヒッピーかとたずねられれば、《1970年》という日付がひっかかる。チャールズ・マンソンの〈シャロン・テート惨殺事件〉や、ローリング・ストーンズのコンサート会場で4人の死者を出した〈オルタモントの悲劇〉は、いずれも69年の出来事だった。
わずか数カ月前(69年8月)に開催された〈ウッドストック・コンサート〉の幸福感は、2つの事件で完全に消し去られた。60年代の理想主義と楽天主義は絶望的な壁にぶつかり、数年後には身も蓋もない商業主義と消費社会が幅を利かせるようになる。いいかえれば、1970年とは一種半端な「空白期」にほかならない。その好例が、シャスタの境遇の変化、ドックの外見と職業の落差、さらにはこのあとつぎつぎと登場する人物たちに共通する奇妙なアンバランスだ。
それらすべてをひっくるめつつ、映画は前に進む。ドックの足もとはおぼつかないが、PTAのタッチは骨太で重層的だ。しかも細部が興味深い。ミッキーが開発中の〈チャネル・ヴュー・エステイツ〉という架空の土地は、LAのサウスセントラル(「青いドレスの女」の舞台だった)がモデルだし、そこへ向かう途中では、メキシコ人がチャベス・ラヴィーンを奪われてドジャー・スタジアムが作られた経緯や、バンカー・ヒルからアメリカ先住民が追い出されてミュージック・センターが設立された過去などが語られる。しかもミッキーは、ユダヤ系なのにナチズムに惹かれ、白人暴走族集団の〈アーリアン・ブラザーフッド〉をボディガードに雇っているらしい。いやはや、実にややこしいが、70年代LAの空気は画面に満ちあふれている。
ややこしい人脈図は、さらに複雑に枝分かれする。調査をつづけるドックの前には、意表をつく怪人が続々と出現する。人権無視に喜びを覚えているかのような刑事のビッグフット(ジョシュ・ブローリン。ジェームズ・ブローリンの息子)。サーフロックのサックス奏者だったのに、なぜか死亡を偽装してFBIの手先になり、トパンガ・キャニオンに潜伏しているコーイ(オーウェン・ウィルソン。ルーク・ウィルソンの兄)。そしてその先に浮上してくるのは、ヘロイン密売組織〈黄金の牙〉と歯科医の脱税組織だ。歯科医のなかには、コカイン中毒のロリコンで、オースティン・パワーズのようなヴェルヴェットのスーツを着ているブラットノイド(マーティン・ショート。この人は芸人一家の出ではない)が混じっている。
こんな連中が雨後の筍のように出てくるのだから、素晴らしく突飛な万華鏡を覗き込んでいるような気分になるのも致し方ない。逆にいうと、観客は物語を見失いそうになる。ミッキーの行方は? ドックとシャスタの関係は? 黄金の牙の実態は?
そこいらのスリラーなら無理にでも回収しそうな話だが、PTAは取って付けたような決着にこだわらない。むしろ彼は、話の展開をいったん棚上げしてでも、魅力的な細部を豊かに繁らせようとする。「インヒアレント・ヴァイス(固有の瑕疵)」という題名にこめられた「アメリカ社会の欠陥」や「人間の弱点」といった面倒な問題を、いきりたって追求しようという構えも見せない。
さすがPTA、と私は思った。布地はほつれる。本はほころびる。卵は割れる。フィルムは褪色し、溶解する。これらはすべてインヒアレント・ヴァイスだ。その問題を、社会学的にあげつらうのはPTAの任ではないし、それに対して虚無的になったり、あるいは逆に「欠陥だらけだが懐かしい世界」に対する郷愁を募らせたりするだけでは別種の退屈がもたらされてしまう。
それならむしろ、フィルム・ノワールという定型を借り、おおよその筋だけは押えた上で、時代の空気をたっぷりまとった複数の怪人たちを好きに泳がせてみてはどうか。泳がせる場所は、楽園とも地獄ともつかぬロサンジェルスが最適だ。横へ横へと水平に広がっていったあの都市は、筋書がどんどん逸脱し、登場人物が限りなく増殖していくこの映画にどんぴしゃではなかったか。
そう、強引に結論づける必要はないのだが、私には、頭に霧がかかったまま右往左往するドックの姿と、とりとめなく迷走しながら、熱狂的な繁栄や底なしの破滅を避けて漂いつづけているロサンジェルスの街がときおり重なって見える。これで十分というわけではないが、これもまたひとつの時間と空間ではないか――ピンチョンもPTAも、似たような言葉をつぶやきつつ、つぎの仕事にとりかかっているような気がしてならない。
【これも一緒に見よう】
■「ブギーナイツ」
1997年/アメリカ映画
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■「マグノリア」
1999年/アメリカ映画
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1998年/アメリカ映画
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■「ジャッキー・ブラウン」
1997年/アメリカ映画
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■「三つ数えろ」
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■「過去を逃れて」
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