コラム:佐々木俊尚 ドキュメンタリーの時代 - 第86回
2020年8月21日更新
第86回:僕は猟師になった
主人公は、罠猟師の千松信也さん。京都大学に在学しているころから狩猟をはじめ、いまは運送会社に務めながら京都北部の山で狩猟を続けている。著作も多くあり、日本の狩猟ブームを牽引するひとりだ。本作はNHKで放送されたドキュメンタリーを映画化したものである。実にNHKらしい丁寧なつくりで、千松さんがイノシシやシカを罠で狩る日々が細部まできちんと描き込まれている。
イノシシを解体し、枝肉にするシーンが出てくる。腹からナイフを入れると湯気が立ち上り、臓物を取り出し、腹を洗い、分厚い皮をはいでいく。びっしりと旨そうな真っ白な脂が巻いている。本体から外されて枝肉になると、だんだんと日ごろ私たちがスーパーで買う食肉に近づいてくる。
罠にかかった獲物の命を止める瞬間も、作品内で何度となく出てくる。罠にかかったままの生けるイノシシはきわめて危険で、近寄ってくる猟師に必死に立ち向かう。もし罠のワイヤーが足からはずれれば、その鋭く硬い牙で突き抜かれかねない。実際、国内ではクマよりもイノシシの牙による死者のほうが多いという話を以前、猟師から聞いたことがある。足の腿などを貫かれると、山中で失血死にいたってしまう危険があるのだ。
だから千松さんの側も必死の覚悟で、イノシシに近づく。銃は持たないから、木のこん棒でイノシシの頭を叩いて昏倒させ、抱え込んでナイフで心臓を貫き、「止め刺し」を行う。鮮血が吹き、命は終わり、このシーンを美しいと思うか残酷と思うかは、人によってそれぞれだろう。
狩猟に対して日本では、情緒的かつ両極端な対立ばかりが目立っている。一方では狩猟は「自然と共生し、自然の恵みを少しだけいただくというすばらしい営み」と賛美され、一方では「獣を罠で捕まえて撲殺するなんてかわいそう。許せない!」と非難される。
狩猟免許をとる人は特に都会で急増しているのにもかかわらず、いざ猟師がブログやSNSなどで狩猟や解体の様子を発信すると、やたらと炎上してしまうという二律背反した状況は、まさにそういう分断を表しているようだ。そこで本稿では、そうした情緒的な対立とは一線を引き、なぜいま狩猟という行為がにわかに脚光を浴びるようになっているかという背景事情を解説していきたい。
ポイントは二つある。ひとつめは21世紀に入った日本では自然の領域が急速に拡大し野生の鳥獣は増え、一方で人間の生息領域は縮小しているという現実だ。ふたつめは、しかしながら増え続ける鳥獣に、私たちは対処する方法をあまり持っていないという問題である。
ひとつめから説明しよう。私は東京と長野、福井の3拠点移動生活を送っていることに加え、毎月のように登山に出かけており、中山間地域に足を運ぶことが多い。そこでいつも気付かされるのは、限界集落や里山が急速に消滅していっていることだ。山あいの集落には人がいなくなり、里山は放置されたまま蔦がからまってジャングルのようになっている。乗客がいないからバス路線も減り、人々の足もますます遠のいている。
山あいの集落が放置された結果、それまで山奥にいた野生の獣は柿や栗を求めて集落にまで降りてくるようになった。麓の住宅街にまで彼らは進出してくるようになって、街なかで獣がふんだんに目撃されるようになった。それにともなってマダニやヒルなどのあまりありがたくない生き物も住宅街にまで進出してきている。
もはや自然環境は「破壊されていくもの」ではなく、中世の古い時代のように人間社会を脅かす凶悪な存在へと変化しつつある。もちろんマクロに目を転じれば、地球温暖化やエネルギーなど重大な問題が横たわっているが、日本列島における自然と人間の関係というミクロな視点では、20世紀のころに盛んに言われた「自然環境はどんどん悪くなっている」というようなクリシェ(決り文句)はもはや通用しない。日本では、森の面積は史上類を見ないほどに増えているのである。
福井の山あいで農業を営む私の知人は、波状的に襲ってくるイノシシから田んぼを守ることに日々必死になっている。特に盛夏は山中に食糧が少なくなるため、イノシシは山から下りてきて実りつつあるイネを食う。電気柵やさまざまな対策をとっているが、それでも侵入はなかなか食い止められない。
本作でも、農業の鳥獣被害は全国で160億円にのぼるという数字が示されている。農業だけではない。南アルプスなどの国立公園では、増えすぎたシカが樹木の幹皮を食い荒らし、立ち枯れさせてしまう被害が増えている。
これにどう対処するか。オオカミがとっくに滅亡した日本の山では、シカやイノシシに天敵はほとんどいない。だから人間の猟師が駆除するしかない。しかしここで問題がひとつある。イノシシやシカを駆除しても、その肉はほとんど食べられないままに捨てられているのだ。冬の狩猟期間以外にも、有害鳥獣駆除という制度があって獲物の耳や尻尾などを役場に持っていけば数千円~数万円の報奨金が出る。
しかし野生の獣の肉は、所定の食肉処理場で処理されなければ、スーパーなどに流通することはできない。現実には駆除された獣の肉は山中にそのまま放置されていたり、本作で描かれているように焼却施設で「火葬」され、骨は産廃業者に引き渡されていたりする。せっかくの野生の生き物の肉が、ほとんど活かされていないのだ。
もちろん獣肉を放棄せず、ちゃんと食べている猟師はたくさんいる。本作の主人公千松さんもそのひとりだ。しかしイノシシは一頭しとめれば数十キログラム、コジカでも数キログラムぐらいはある。自家消費だけでは食べきれない。かといって山中でさばいた肉は流通できないので、結局は個人的な人間関係でレストランや友人知人宅におすそ分けされて行くという程度でしか消費されていない。
ここで問いたいのは、次のようなことだ。日本の山で増え続けるイノシシやシカの被害を、放置しておくことはできない。それを狩猟し駆除することは「正しくない」と言えるだろうか? 加えて狩られたその肉は、ほとんど食べられないまま捨て去られている。これは「正しい」のだろうか? 駆除せざるを得ない鳥獣を狩猟し、その肉をきちんと食べるという行為は、どう判断されるべきなのだろうか?
そういう問いを思い起こしながら、本作を観ていただきたいと思う。
そのうえで、狩猟という行為のその先の未来についても、さらに考えていきたいと私は思っている。知人に中央官庁に勤務しながら猟師をやっている人がいるが、彼が前に面白い話をしていた。東日本大震災が起きて東京がグラグラと揺れた時、偶然自宅にいた彼は、思わず保管ロッカーから銃を取り出してつかみ、生活道具一式を入れたリュックサックを抱えて、「これだけあれば、オレはどんなことがあっても大丈夫だ!」と震えながら思ったという。
コロナ禍が起きたころ、私は文春オンラインに「アフターコロナ」社会はどうなる? 「ミニマリスト」から「プレッパー」の時代へという記事を書いた。身軽になるだけでなく、ある程度は備蓄やリスク分散の発想がライフスタイルに必要になってくるのではないかと考えた内容だ。
本作で、千松さんは「自分の食べるものを自分で獲る」と語っている。これからも災害や感染症が多発するであろう21世紀には、こういう自己完結的なライフスタイルも検討しなければならない時期に来ているのかもしれない。その判断材料としても、本作はさまざまに考えさせられる哲学をはらんでいると思う。
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■「僕は猟師になった」
2020年/日本
監督:川原愛子
2020年8月22日から、ユーロスペースほか全国順次公開
筆者紹介
佐々木俊尚(ささき・としなお)。1961年兵庫県生まれ。早稲田大学政経学部政治学科中退。毎日新聞社社会部、月刊アスキー編集部を経て、2003年に独立。以降フリージャーナリストとして活動。2011年、著書「電子書籍の衝撃」で大川出版賞を受賞。近著に「Web3とメタバースは人間を自由にするか」(KADOKAWA)など。
Twitter:@sasakitoshinao