コラム:佐藤久理子 パリは萌えているか - 第11回
2012年10月18日更新
第25回東京国際映画祭、注目のフランス映画2作品
東京国際映画祭が10月20日から開催される。そのラインナップのなかで、出色のフランス映画2作品をここで取り上げたい。
1本は、今年のベルリン映画祭のオープニングを飾り、フランスでおよそ54万人の動員を集めたブノワ・ジャコーの「マリー・アントワネットに別れをつげて」。1789年、フランス革命で陥落寸前のベルサイユ宮殿の3日間を、マリー・アントワネットに仕えた若い読書係の女性の目を通して語る。といってもその視点はかなりユニークだ。ここで描かれるアントワネット(ダイアン・クルーガー)は、既婚のポリニャック夫人(ビルジニー・ルドワイヤン)に肉体的な欲望を抱く女性であり、読書係(レア・セドゥー)は、そんな王妃に心を奪われているのだから。だが考えてみれば、貴族が放蕩の限りを尽くしていたベルサイユ王朝で、性のモラルが乱れていたとしてもなんら不思議はないだろう。実際、原作者のシャンタル・トマは、綿密なリサーチにもとづいて執筆したといわれる(原作の題名は「王妃に別れをつげて」)。
もっとも、ジャコー監督はそれをスキャンダラスに描くことはせず、あくまで品位とエレガンスを失わない。絹のあでやかなドレスからのぞくふくよかな胸元、蝋燭のほのかな灯りに映える艶やかな肌、控えめななかに欲望を滲ませた視線など、間接的な描写でふつふつとエロティシズムを掻き立てる。王妃が読書係の前で見せる、素足に部屋着姿でくつろぐいかにも親密な様子は、後の思いがけないストーリー展開の布石となる。ここでは、読書係はまるで憧れのスターか先輩にプラトニックな恋心を抱く可憐な女子高生のようであり、王妃はそんな彼女を意のままに操る策略家。さらにそんな王妃すらも、その肉体で思うがままにしてしまうのが、恐るべきポリニャック夫人だ。
刻々と危険がベルサイユに迫る中、自分同様ギロチン・リストに載ったポリニャック夫人を救おうと、王妃は読書係に最後の過酷な注文を下す。サスペンスのなかにさまざまな人間模様が浮き彫りにされる極上のタペストリーだ。さらにそこに滲むのは、当時の貴族社会に対する監督の批評精神である。享楽的な宮殿生活の裏には、ネズミが這う使用人たちの貧相な寝床があったことも、本作は示唆する。すでに30年以上にわたるキャリアを築いて来たジャコー監督にとっても、代表作のひとつと言えるだろう。
もう1本は、最近「カルロス」が日本で劇場公開されたばかりのオリビエ・アサイヤスの新作「5月の後」。今年のヴェネチア映画祭に出品され、脚本賞に輝いた。英語題はより抽象的な「Something in the Air」だが、原題は邦題と同じ意味の「Après mai」。5月とはフランスで1968年に起こった五月革命を指す。本作はすなわち、革命に遅れて来た世代、70年代初頭に青春期を迎えた若者たちの物語だ。
学生と労働者たちが蜂起した五月革命の敗北により、巷には虚無的な雰囲気が漂っている。未だ反体制的な活動はするものの、もはやそれが何かをもたらすことなどなく、ヒッピー的なライフスタイルも一時的な逃避でしかないことを主人公たちは知っている。遅かれ早かれ、彼らは将来の道を選ばなければならないのだ。監督はすでに「冷たい水」(94)でこの時代の若者を描いているが、今回は当時同世代だった彼の半自伝的な物語であり、せつなさとノスタルジーが“空気の中”に散りばめられている。さらにロックミュージックに詳しいアサイヤスらしく、タンジェリン・ドリーム、シド・バレットなど70年代当時のムードを象徴する音楽が効果的に用いられ、時代色を醸し出す。現在フランスで注目株のロラ・クレトンを始め、若手キャストたちのアンサンブルも魅力的だ。
アサイヤスが当時のユース(若者たち)にこだわり続けるのは、彼らが今の若者たちにはない思想的探究精神、消費文化に対する批判的な視点を持ち得ていたから、というのは言い過ぎだろうか。“正しい生き方”とは何かを模索する彼らの姿勢は、その一途さゆえに胸を打つ。(佐藤久理子)
筆者紹介
佐藤久理子(さとう・くりこ)。パリ在住。編集者を経て、現在フリージャーナリスト。映画だけでなく、ファッション、アート等の分野でも筆を振るう。「CUT」「キネマ旬報」「ふらんす」などでその活躍を披露している。著書に「映画で歩くパリ」(スペースシャワーネットワーク)。
Twitter:@KurikoSato