ロミー・シュナイダー : ウィキペディア(Wikipedia)
ロミー・シュナイダー(Romy Schneider、1938年9月23日 - 1982年5月29日)は、オーストリア・ウィーン出身の女優。西ドイツ(当時)、フランスの映画界で活躍した。出演した映画の数は60本を超える。
来歴
祖母・両親共に俳優で、15歳の時に母親の出演作でデビュー。
映画『プリンセス・シシー』3部作(1955年 - 1957年)でお転婆なバイエルン王国公女、のちのオーストリア皇后シシーを演じてアイドル的な人気を得る。そして、「シシー(Sissi)」はそのまま彼女の愛称にもなった。
1958年の『恋ひとすじに』で共演した当時無名のアラン・ドロンと恋に落ち婚約。その後、ハリウッドに進出し、第21回ゴールデングローブ賞作品賞 (ドラマ部門)を受賞した『枢機卿』でゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)にノミネートされ、国際的に認められるようになった。また、ルキノ・ヴィスコンティ監督の『ボッカチオ'70』『ルートヴィヒ』やフランツ・カフカ原作/オーソン・ウェルズ監督の『』、マルグリット・デュラス原作/脚本の『夏の夜の10時30分』などにも出演し、高い評価を得た。しかし、アラン・ドロンとは1964年に別れる結果になってしまう。
その他にもウディ・アレン共演作品やクロード・ソーテ監督作品などで活躍するが、私生活においては2度の結婚も離婚に終わり、14歳の息子を事故で亡くすなど不幸が続き、自身も1982年に心不全で亡くなった。
ドイツで彼女の生涯を描いたTVムービー『Romy』(2009年放映)が、ロミー役に、他トーマス・クレッチマンらの出演で制作された。
生立ち
祖母・はウィーンのブルク劇場で活躍した大女優であり、その息子で父・も舞台・映画で活躍した俳優であった。佐々木、pp.6-8母・はドイツ・バイエルン・アウクスブルクの出身。芸能には縁のない家庭の生まれであったが女優を志し、地方の舞台から1930年代に映画に進出、1932年の『』(独・日本未公開)のヒットで映画女優としての名声を確立したユルクス、p.14佐々木、pp.8-10。『恋愛三昧』はのちに娘ロミーとアラン・ドロンのコンビでリメイクされ、2人が恋に落ちるきっかけとなった。 ヴォルフとマグダは1933年に映画で初共演後、9本のドイツ映画で共演し人気コンビとなる佐々木、p.321。共演作を重ねるごとに2人の仲も密になり、1937年に結婚佐々木、p.10。翌年ロミー(ローゼマリー)が、1941年に弟ヴォルフィ(のち医師となる)が生まれた佐々木、pp.16-19ユルクス、p.12。
ロミーはオーストリア国境に近いドイツ・バイエルンのベルヒテスガーデン近く・シェーナウの屋敷で、撮影や舞台で不在がちの両親に代わって母マグダの両親に育てられる佐々木、pp.10-11,p.18。ヒトラーの山荘・ベルクホーフ、ケールシュタインハウスのすぐ近くであった佐々木、p.100,220ユルクス、p.82。ロミー5歳の1943年に父ヴォルフに愛人ができ佐々木、p.21、両親は1945年に離婚するが、母マグダがナチス、ヒトラー寄りの姿勢をとっていたことも離婚理由の1つであったらしい佐々木、p.21,pp.221-223。
地元の小学校を卒業後、オーストリア・ザルツブルク近くのカトリック系の女子寄宿学校に進む佐々木、pp.22-24ユルクス、p.15ザイデル、p.34。お転婆で自立心が強くしばしば問題児扱いされた生徒だったようだが、自身の血筋を早くから意識していたらしく学校劇では才能を発揮、すでに将来の夢を女優に定めていた佐々木、pp.24-28ユルクス、pp.15-18ザイデル、pp.35-52。絵が得意だったロミーは「お芝居の世界で成功しなかったら、装飾美術をやろう」と日記に記している佐々木、p.31ザイデル、p.46。
『プリンセス・シシー』
1953年、14歳で寄宿学校を卒業。ほどなく母マグダ・シュナイダーの主演映画『再び白いライラックが咲いたら』に出演する話がもち上がり、カメラテストに合格、マグダの娘役でドイツ映画界にデビュー。このデビュー作のみ、ロミー・アルバッハ=シュナイダーの名を使っている佐々木、p.34ユルクス、pp.20-21,p.242。佐々木、pp.31-34ユルクス、pp.18-19ザイデル、pp.54-77(以下、「ドイツ」は当時の西ドイツ、「ベルリン」は西ベルリンのこと)
順調に役がつき、3作目の『女王さまはお若い』で主役のヴィクトリア女王役に抜擢される佐々木、p.35ユルクス、p.26。翌1954年、同じ監督でオーストリア皇后エリーザベトを演じたオーストリア映画『プリンセス・シシー』が大ヒット。全ヨーロッパで2500万人を動員し佐々木、p.43、ロミーは16歳にして一躍ヨーロッパ映画界のトップスターとなる。しかし、固定化された(ロミー曰く)「お粥みたいにくっついて離れない」佐々木、p.52“ロミー・シュナイダー=シシー”のレッテルは生涯にわたってロミーを苦しめることになる。
これ以降、ロミーのドイツ、オーストリアでの出演作の役は大衆向け娯楽作の甘い無害な歴史ロマンスのヒロインや清純な乙女といったものばかりになり、女優としての成長を望むロミーはしだいに苛立ちを感じるようになる佐々木、p.44ザイデル、pp.141-164。しかしステージママ化した母マグダと継父の実業家(莫大なロミーのギャラを自身の事業に投資していたが後に破産佐々木、p.127,pp.132-133ユルクス、p.60,pp.107-108ザイデル、pp.377-378)は1956年『若き皇后シシー』、1957年『ある皇后の運命の歳月』とロミーをシシーの続編に出演させた。後に「『シシー・Ⅱ』の出演が決まったと聞かされたとき、目の前が真っ暗になった」ザイデル、p.145とまでロミーは語っているが、嫌々演じたというのに、この2作も大ヒットしてしまう佐々木、pp.46-53。
母と継父は『シシー・Ⅳ』への出演もロミーに強要しようとしたが、20歳のロミーは目の前にギャラとして100万マルク(現在の6億円くらい佐々木、p.323)を積まれても首を縦には振らなかった佐々木、p.57ユルクス、p.33,61ザイデル、p.377。
「私はシシーなんかじゃない。分かっていたのは私だけ。役として演じはしたけど、私は夢のようなお姫さまとは似ても似つかない人間だった」佐々木、p.46ザイデル、p.203,322
アラン・ドロンとの出会い フランスへ
1958年、母マグダの出世作『恋愛三昧』のリメイク『恋ひとすじに』(仏・伊合作)で無名のアラン・ドロンと共演。ロミーはフランス語が話せず、ドロンもドイツ語が分からなかったうえ、ロミーはドロンを悪趣味で気障な男だと感じ、ドロンはロミーを胸くそ悪いやつだと思い、初対面の2人のお互いの第一印象は極めて悪かった佐々木、pp.62-63ユルクス、pp.47-48ザイデル、p.205。しかしパリとウィーンで行われた撮影の間に2人の映画の中での恋は本物となる。ドロンはロミーの無垢・純粋さに、ロミーはドロンの無鉄砲さ・反逆精神に惹かれた。お互いの中に自分にないものを見出したのである佐々木、p.64。
「シシー」的な企画ばかりのドイツ映画界への幻滅と、何かと干渉しようとする母・継父への成長したロミーの反抗も重なり、翌1959年ロミーはパリのドロンのもとへ出奔、同棲する佐々木、pp.66-67ユルクス、pp.51-53ザイデル、p.209。体裁を気にしたロミーの母・継父との妥協策として59年3月、ロミーとドロンはスイス・ルガーノで婚約をマスコミに向け発表するが佐々木、pp.68-69ユルクス、pp.55-56ザイデル、pp.212-213、ドイツと家族を捨て、清純な乙女・お姫さま女優というファンのイメージを裏切ったロミーは、これ以後ドイツのマスコミには裏切り者扱いされ、その確執は彼女の死まで解けることはなかった。
ドロンはルネ・クレマン監督『太陽がいっぱい』(1960年)で一躍脚光を浴び、スター街道を駆け上っていくが、ドイツでの人気が落ちたロミーは逆に仕事が減ってゆく佐々木、pp.69-73ユルクス、p.53ザイデル、p.215。
1960年秋、『若者のすべて』(1960年)に主演したドロンがルキノ・ヴィスコンティ監督をロミーに引き合わせたことが転機となる佐々木、pp.74-75ユルクス、pp.58-59ザイデル、pp.217-219。ヴィスコンティは自身が演出する舞台『あわれ彼女は娼婦』(ジョン・フォード作)への出演をロミーに依頼。まだ初歩のフランス語しか話せないロミーが、パリの大劇場で、しかも初舞台を踏むというのは無謀とも言えたが佐々木、p.76ザイデル、p.219、ロミーは昼夜を徹してフランス語の猛特訓を受け、厳しいヴィスコンティの演出に耐えた佐々木、pp.76-79ザイデル、pp.219-229。そして1961年3月からのでの舞台で、ロミーはドロンと愛し合う兄妹を演じる。舞台そのものは賛否両論であったが、ロミーの演技は高く評価され、ロミーは初めて女優としての充足感を得る佐々木、pp.79-81ザイデル、pp.233-237。
続いて同じヴィスコンティ監督によるイタリア映画『ボッカチオ'70』(第3話「仕事中)に主演。夫と寝るごとに金を要求する妻、というセクシーな役で、ヌードシーンが話題となる佐々木、p.83ユルクス、p.64。続くフランツ・カフカ原作『』(1962年)では監督も務めたオーソン・ウェルズと共演。ウェルズ演じる弁護士の看護婦兼秘書兼愛人のような女、というこちらもドイツ時代とは対照的な官能的な役を演じるユルクス、p.80。
『ボッカチオ'70』がアメリカでも好評で、コロンビア ピクチャーズ社と契約佐々木、p.97、カール・フォアマン監督『勝利者』(1963年)でハリウッドに進出。オットー・プレミンジャー監督『枢機卿』(1963年)ではゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)にノミネートされ、実父のヴォルフ・アルバッハ・レッティとも共演をはたしている佐々木、p.103ユルクス、p.80。
しかし、婚約者のドロンとは忙しくなるにつれすれ違いが重なり、ロミーが『ちょっとご主人貸して』(1963年)をハリウッドで撮影中に破局佐々木、pp.107-110ユルクス、pp.83-86ザイデル、pp.253-264。ドロンは1964年8月、ナタリー・ドロンと結婚する。続く『何かいいことないか子猫チャン』(1964年)も成功したとはいえず佐々木、p.113、ロミーはヨーロッパに戻った。
結婚と出産
1965年4月、継父が出資したベルリンの商業ビルの完成セレモニーに出席した際、ドイツの舞台演出家・俳優のと知り合い、恋愛関係となる佐々木、pp.118-120ユルクス、pp.97-98。マイエンには舞台女優の妻がおり、マルグリット・デュラス原作/脚本の『夏の夜の10時30分』(1965年)で演じた愛欲と三角関係をロミーは現実にも生きていた佐々木、p.121。
ロミーが妊娠したため、1966年5月、マイエンの離婚が成立、2人は共演したテレンス・ヤング監督『トリプルクロス』(1966年)撮影中の1966年7月、南仏のサン=ジャン=カップ=フェラで正式に結婚。ロミーは妊娠4ヶ月だった佐々木、p.124ユルクス、p.103ザイデル、p.270。
1966年12月、ベルリンで息子ダーヴィット・クリストファーを出産。彼こそがロミーの幸福のすべてとなる佐々木、p.128ユルクス、p.103ザイデル、p.284。以後しばらくロミーはベルリンで育児に専念する。のちマイエンの仕事の関係でハンブルクに転居佐々木、p.146ユルクス、p.130。
ロミーがマイエンと結婚したのはドイツの舞台に立ちたいという願望も理由の1つであったが佐々木、p.122ユルクス、p.108ザイデル、pp.279-280,p.294,306,pp.315-316,p.343、ロミーと結婚後のマイエンはことごとく舞台演出の仕事に失敗する佐々木、pp.146-147,p.149,158ユルクス、pp.126-127,p.130。ロミーが出演するはずの舞台プランも全て流れてしまい、他の演出家の元での舞台出演にはマイエンの私情で反対されることが重なると佐々木、p.122、しだいにロミーはマイエンに幻滅を感じるようになる。佐々木、p.133ザイデルpp.330-331
フランスのトップ女優へ
2年近く映画界から離れザイデル、p.292,297、忘れられかけていたロミーに突破口を与えてくれたのは、かつての恋人アラン・ドロンだった。ドロンは監督『太陽が知っている』(1968年)の相手役にロミーを指名佐々木、p.135、。映画は撮影中に発生したマルコヴィッチ事件の話題性もあって、ロミーにとって久しぶりのヒット作となり、ロミーは劇的なカムバックを果たす佐々木、pp.138-139。
翌1969年、『すぎ去りし日の…』ではじめてクロード・ソーテ監督とコンビを組む。この作品はかつての婚約者との共演やスキャンダルといった呼び物がないにもかかわらずヒットしユルクス、pp.127-128、続くソーテ監督『マックスとリリー』(1970年 )では男たちを手玉に取る娼婦を演じてこの映画も成功佐々木、p.152、ロミーはフランスで70年代を体現する女優と目されるようになる佐々木、p.145。1972年、ジョセフ・ロージー監督の『暗殺者のメロディ』で再度ドロンと共演。
1972年、ヴィスコンティ監督が映画において、初めて史実に近いエリーザベトを描くことに成功した大作『ルートヴィヒ』でかつてそのイメージにつきまとわれ、トラウマともなった皇后エリーザベトを再び演じ、名匠ヴィスコンティが絶賛するほどの美しさと演技を見せた佐々木、p.161ユルクス、p.134。
またこの年にはクロード・ソーテ監督の『夕なぎ』で、イヴ・モンタンと共演。2人の男の間でどちらを取るとも決められず、また決めるつもりもなく、男達のもとを去る強い女・ロザリーを演じて『ルートヴィヒ』と並ぶ生涯の代表作の1つとする佐々木、pp.162-164ユルクス、p.138。
しかし、フランスでのロミーの成功に反比例するかのように夫マイエンとの仲は冷却化するユルクス、p.129ザイデル、pp.330-333。マイエンは仕事がうまくいかない憤りやロミーの成功への嫉妬からアルコールと薬物(バルビツール酸系の催眠薬であり鎮痛剤のオプタリドン)に溺れるようになり、夫婦関係の苦悩からロミーもこの頃からオプタリドンを使用するようになる佐々木、p.147ユルクス、pp.109-110,p.138。1972年、ロミーとマイエンは遂に別居。ロミーは息子を連れてフランスに居を移した佐々木、pp.174-176ユルクス、pp.140-142,p.156。
1973年、監督『離愁』、監督『地獄の貴婦人』に主演。『地獄の貴婦人』でのロミーは金のために躊躇なく人を殺し、その死体を硫酸で熔解し処分、自慰シーンまであるというドイツ・シシー時代のロミーからは考えられないような役でザイデル、p.337、しかもドイツ人役であることも加わり、故国ドイツからは「ずっとそっちに行ってろ!戻ってくるな!」といった内容の手紙がわんさと寄せられた佐々木、pp.183-184ユルクス、pp.158-159ザイデル、p.341。
「私は女優である。シシーだって私とは何の共通する部分もなかった。私はシシーとは別人だったのと同様、この主人公とも別の人間である」ユルクス、p.160ザイデル、pp.334-335
2度のセザール賞
1974年、アンジェイ・ズラウスキー監督『L'important c'est d'aimer』(日本未公開)で金のためにポルノまがいの映画に出ざるをえない落ちぶれた女優を演じる。演出についての意見の相違からくるズラウスキーとロミーの対立などから、撮影現場は荒れに荒れたが佐々木、pp.187-191ユルクス、p.161ザイデル、p.336、この映画でロミーは第一回セザール賞主演女優賞を獲得佐々木、pp.229-230ユルクス、p.161、文字通りフランス映画界のトップ女優となる。
翌1975年の、ナチに凌辱されたうえ、火炎放射器で焼き殺される人妻を演じたロベール・アンリコ監督『追想』はフランス全土で336万人を動員し、ロミーの後半生では最大のヒット作となった佐々木、p.208。この1975年7月ロミーとマイエンは正式に離婚。息子ダーヴィットの親権はロミーが持った佐々木、p.226ユルクス、pp.136-143,p.179。そして74年夏頃から交際していた佐々木、pp.195-199ユルクス、pp.162-163,166-170個人秘書のと1975年12月にベルリンで再婚佐々木、pp.227-228ユルクス、p.184ザイデルp.353。マイエンはロミーより14歳年上だったがザイデル、p.270、ビアシーニは逆に11歳年下だった佐々木、p.166。再婚時ロミーは妊娠5ヶ月だったが、その年の大晦日に流産してしまう佐々木、p.228。
1976年、ピエール・グラニエ=ドフェール監督の『』でギリシャを舞台に革命家との愛を貫こうとする外交官夫人を演じた後、ハインリヒ・ベル原作『雪に咲いたバラ』(監督、日本ではTV放映のみ佐々木、p.361)に主演。ロミーのドイツ映画への出演は、アラン・ドロンとの出会いによりフランスへ移って以降の後半生では、事実上この1本のみである。映画の興行成績や批評は芳しくなかったが、ロミーは1977年のドイツ映画賞(ローラ賞)の最優秀女優賞を受賞した佐々木、pp.237-238。これはドイツで受けた初めての、そして唯一の賞だったユルクス、pp.198-199。
1977年『雪に咲いたバラ』の撮影後、再び妊娠していたロミーは南仏・に家を購入、出産に備える佐々木、pp.239-240。1977年7月、第二子サラ・マグダレーナを出産佐々木、p.241ユルクス、p.214ザイデルp.364。
1978年、ロミー&クロード・ソーテ監督コンビの最後の作品となった『ありふれた愛のストーリー』でシングル・マザーとして出産を決意するヒロインを演じ、2度目のセザール賞主演女優賞に輝きユルクス、p.223、またイタリアではダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞を受賞。ロミー・シュナイダーの女優人生の頂点であったが、以後この受賞によって責任を強く自覚しすぎてしまい、自分を追いつめてゆく結果にもなる佐々木、pp.253-254ザイデルp.367。この年4月、前夫のハリー・マイエンが絶望と失意の中、アルコールと薬で身を持ち崩し自殺佐々木、pp.255-257ユルクス、p.110,pp.223-228。この頃から次第にロミーの周囲にも暗い影が漂いはじめる佐々木、p.269。
崩落
1979年、フランスでのロミーの過去の納税義務が問題となったことを発端にフランス国税庁から莫大な額の追徴課税を受け、ロミーは事実上破産してしまう佐々木、pp.261-263ユルクス、pp.173-174,200-208。若くしてスターになり、金銭には無頓着でいつも人任せにしていたロミーは大きなショックを受けユルクス、p.73,143,166,240、年齢を重ねることへの不安も重なり、動揺した彼女はしだいに自分自身や女としての自分の魅力にすら疑いを持ち始め、精神的にも肉体的にも不安定になり、アルコールと薬に手を出すようになる。同時に夫・ビアシーニとの間もギクシャクし始めるザイデルp.375。ビアシーニによれば「80年代の初め、明らかにロミーは変わってしまった」佐々木、pp.263-264。
1980年、フランシス・ジロー監督『華麗なる女銀行家』の時にはすでに、撮影中の出番の合間はトレーラーに引きこもり、一部の気の許せるスタッフにしか会おうとしなかった佐々木、pp.266-267。あるカットでクローズアップを何度も撮り直したとき、ロミーはこう言ったという。「ねぇ、はっきり言いなさいよ。このおばさん、まだきれい?」ユルクス、p.246
皮肉にもこの映画は成功し、ロミーの魅力はまた高く評価された佐々木、pp.267-268ユルクス、pp.245-246。
ロミーは仕事でも私生活でも自信喪失に悩まされ、「私が50歳になるころ、あなたはようやく39歳。私が60歳になるころ、あなたはようやく49歳。うまくいくと思える?」といった発言を繰り返すロミーに年下の夫のビアシーニは徐々に苦痛を感じるようになる佐々木、p.245,275。またオプタリドンの常用により自制心を失い、激しい不安の発作と被害妄想を繰り返すロミーにビアシーニは疲れはててゆく佐々木、p.276。
マルチェロ・マストロヤンニ共演の『Fantasma d'amore』(ディーノ・リージ監督 1980年)の撮影中、ロミーが現場アシスタントの(その後『TAXi』などの映画プロデューサーとして活躍、ペタンもロミーより10歳年下だった佐々木、p.276)を愛人としたことで佐々木、p.276ユルクス、pp.248-249、夫婦間の亀裂は決定的なものとなり佐々木、p.246,pp.278-279ユルクス、pp.253-258ザイデルp.376,379,383、1981年3月、2人は離婚を決意、10月に正式に離婚する佐々木、p.330,371。
1981年5月、腫瘍のため、ロミーは右の腎臓を摘出する手術を受け、右腹には手術による25cmの傷跡が残る佐々木、p.283ユルクス、p.277。
継父のビアシーニになついていた息子のダーヴィットは母の新しい愛人を拒絶し、母に反抗した。母の元を離れ、継父とその両親と暮らすようになり、苦渋と絶望が母ロミーの胸をさらに痛めつけることになった佐々木、p.284-288ユルクス、pp.218-219,251-252,p.254,pp.256-257。
1981年7月5日、14歳のダーヴィットはたまたま留守だったビアシーニ両親宅の垣根を飛び越えたとき、足をすべらせ、鉄製の鋭い角棒に身を貫いて無残な事故死を遂げた佐々木、pp.288-289ユルクス、pp.278-279岸、p.216。4時間に及んだ手術の後、医師が小声で伝える。「遺憾ながら…」。その瞬間、ロミーの叫びが病院の廊下に響き渡った。ビアシーニが回想する。「何という叫びだったろう。金属のようにカン高い、絶望の叫び。私がこれまでの全生涯で耳にした、最も痛ましい声だった」佐々木、p.289
数日後の葬儀はアラン・ドロンが手配したユルクス、p.279。何百通という悔やみ状が届いたが、その中にはフランス大統領・フランソワ・ミッテランのものも混じっていたユルクス、p.280。黒い大きなサングラスをかけ、実弟に抱きかかえられたロミーの映像が残っている佐々木、p.289。
『サン・スーシの女』
ロミーがナチに追われ夫と共に殺害される女性と現代の女性の2役を演じた遺作・『サン・スーシの女』(監督)の撮影はダーヴィットの死後3ヶ月の1981年10月にベルリンで開始された。何度もロミーの病気や息子の死で撮影開始が延期されたが佐々木、p.283,284,291ユルクス、p.264,277、その企画の段階からロミーが関わり佐々木、pp.281-282、自身が演じることにこだわった、楽しみにしていた役であった佐々木、p.284ユルクス、p.276。
息子の死にうちのめされ、心身ともにボロボロの状態だったが、ロミーにとってはカメラの前に立ってしゃにむに働くことだけが、自分に納得のいく唯一の治療だったユルクス、p.281。劇中、ロミー演ずるエルザが引き取る少年・マックス役のウェンデリン・ウェルナーとの共演をロミーは不安に感じていた。死んだダーヴィットを思い出すからである佐々木、p.294ユルクス、p.283。したがってロミーとウェルナー少年との間は始めよそよそしいものだったが佐々木、pp.294-295、撮影が進むにつれ、少しずつ改善されていった。ウェルナーとのカットを全て撮り終えたころ、ロミーは少年を自宅に招き、亀のお守りをプレゼントした佐々木、pp.297-298。マックスがヴァイオリンで『亡命の歌』を弾き、エルザに微笑みかけるクリスマス・ディナーのシーンでは、痩せやつれたロミーのために何度もドレスの寸法を直さねばならず、最初のテストの時から感情を昂ぶらせたロミーはすぐに泣き崩れてしまった。何度も同じことが繰り返され、苦心の末ようやくカメラに収めることができたという佐々木、p.297。撮影はパリ、ノルマンディと続き1981年12月末に終了した佐々木、p.298。撮影終了後、ロミーは娘のサラ、ロラン・ペタンと共にセーシェルに旅行するザイデル、p.387。帰国後の1982年3月、ロミーはパリから西へ40km、イヴリーヌ県の小さな村の古い田舎屋敷を購入し、新居改修完了までの仮住まいをパリ7区バルベ・ド・ジュイ通りのアパルトマンに据える佐々木、p.299ユルクス、pp.6-7,p.290。
4月14日の『サン・スーシの女』の封切りを控え、ロミーもプロモーションに参加、フランス国営テレビのインタビューにも答えている佐々木、pp.300-303。
『サン・スーシの女』はパリ地区で51万人、フランス全土で196万人の観客を動員した佐々木、p.303。次に出演する映画は、アラン・ドロンと共演のサスペンス映画『L'un contre l'autre』(『対決』ピエール・グラニエ=ドフェール監督)になる予定で、1982年6月1日から撮影が開始されるはずであった佐々木、p.304。
突然の死
1982年5月28日夜、ロミーはロラン・ペタン、およびペタンの知人夫妻と、モンパルナスで食事を共にした佐々木、p.308。バルベ・ド・ジュイ通り11番地のアパルトマンに歩いて帰宅後、ロミーは「手紙を書くから先に寝ていて」岸、p.217と翌5月29日1時半頃ペタンを先に寝かせた。その後、正確な時刻は不明だがペタンは目を覚まし、ロミーがそばにいないことに気づく。ロミーはリビングの肘掛椅子で眠っており、ペタンは起こさないよう苦労して、ベッドに運んだ佐々木、pp.308-309。
朝7時半、虫の知らせで急に目が覚めたペタンはロミー・シュナイダーが死んでいることに気づく。ペタンはパニックになったが、救急車も心臓マッサージももう何の効果もなかった。寝室には空になったバルビツール催眠薬の容器、居間にはやはり空になったワインの瓶があった。検視の結果外傷はなく自然死と診断され、司法解剖は行われなかった。死因は心不全、死亡推定時刻は朝5時佐々木、pp.308-310ユルクス、pp.5-7。
葬儀は6月2日、アラン・ドロンの手配でボワシー=サン=ザヴォワールの教会で行われ、親友のジャン=クロード・ブリアリ、6回共演しているミシェル・ピコリ、ロマン・ポランスキーなどフランスの多くの映画人が参列したが、ドイツからの参列者は身内以外は殆どなかったというユルクス、p.39。遺体は故国ドイツに戻ることなく、ボワシー=サン=ザヴォワールの墓地に息子ダーヴィットと共に埋葬されている佐々木、pp.311-312ユルクス、p.39。墓碑には ロミーの本名「ローゼマリー・アルバッハ」と生年・没年月日のみが記されユルクス、p.243、息子の死を信じたがらなかったロミーへの心づかいか、息子ダーヴィットには没年月日が記されていない佐々木、p.313ザイデル、p.386。ドロン自身はマスコミの騒ぎを避けるため葬儀を欠席し、6月14日に墓前で別れを告げた佐々木、pp.312-313。2017年には墓が暴かれる事件が起きている。
1984年、フランス映画界の将来有望な若手女優に贈られるロミー・シュナイダー賞http://french.rose.ne.jp/history/festival_etc/romy_schneider.htmlが創設された。1999年、フランスの世論調査会社CSAの調査ではロミー・シュナイダーが「今世紀最高の女優」に選出される(2位がカトリーヌ・ドヌーヴ、3位がマリリン・モンロー、男優トップはジャン・ギャバン)佐々木、p.372。2001年、時のロシア大統領ウラジーミル・プーチンは英国BBCの取材で、好きな女優は誰かと訊かれ、ちょっと考えてからロミー・シュナイダーの名を挙げた佐々木、p.375。2009年春、フランスのネットプレス・「ネチズン」が実施した調査でも「史上最高の女優」に選出されたのはロミー・シュナイダーだった(2位以下は、シモーヌ・シニョレ、アニー・ジラルド、ミシェル・モルガン、エヴァ・ガードナー、イザベル・アジャーニ、メリル・ストリープ、オードリー・ヘプバーン、ジュリア・ロバーツ、キャサリン・ヘプバーンなど)佐々木、p.375。
成長したロミーの遺児は2004年に女優としてデビュー佐々木、p.330。2021年、母が亡くなったのと同じ43歳のとき、アラン・ドロン、ミシェル・ピコリ、クロード・ソーテ監督らに取材したロミーを題材にした小説『La beaute' du ciel』(『空の美しさ』)を発表した。
2022年8月から東京・渋谷のBunkamuraル・シネマを皮切りに「没後40年 ロミー・シュナイダー映画祭」と題して特集上映が日本全国で開催される。
人物
- かつてロミーはアラン・ドロンに「人生で何をしたらいいか分からない。みな映画のなかでやってしまった」と語ったユルクス、p.316。
- 母国語のドイツ語に加え、フランス語と英語が使えた。また、苦手だったがイタリア語で演技することもできた佐々木、p.97,274ザイデルp.249-250。
- 極度のあがり症で佐々木、p.130ユルクス、p.108,262、特に新しい映画の撮影初日には、不安感から遅刻することが多く佐々木、pp.208-209,p.273、重要なシーンの前などでも緊張のあまり閉じこもって出てこないことがあった佐々木、p.267。撮影中にワインやシャンパンを飲み不安を和らげようとすることも多かった佐々木、p.189ユルクス、p.113,246。
- 一時的にでも恋愛関係になった男性には、共演者では『モンプチ わたしの可愛い人』のホルスト・ブッフホルツ佐々木、pp.50-51ユルクス、pp.47-49ザイデルp.207、『ストライカー/愛と栄光のフィールド』のリチャード・ハリス佐々木、p.149ユルクス、p.129、『離愁』のジャン=ルイ・トランティニャン佐々木、p.174、『L'important c'est d'aimer』の佐々木、pp.192-194ユルクス、p.126がいる。他にも俳優クルト・ユルゲンス佐々木、p.53ユルクス、p.35,47、ブルーノ・ガンツ佐々木、p.169ユルクス、p.117,pp.139-140,p.158、指揮者のヘルベルト・フォン・カラヤン佐々木、p.53ユルクス、pp.47-48、西ドイツ首相のヴィリー・ブラント佐々木、p.132ユルクス、pp.125-126,p.160などとも噂があった。
- は自著で、ロミーは両性愛者であり、同性の愛人にマレーネ・ディートリヒ、ココ・シャネル、シモーヌ・シニョレなどを挙げているがユルクス、pp.37-38,119-123,124-125,p.313、元夫のダニエル・ビアシーニはこれを否定している佐々木、p.322。
- 1971年、ドイツにおける刑法218条(妊娠中絶・堕胎を禁止する法律)に反対する嘆願書に署名し、中絶経験があることを公に認めた佐々木、pp.154-155ユルクス、p.64,131。
- 演劇学校で学んだことがなく、現場叩き上げだったロミーは、「才能は、習得できるものではない。もし才能があるなら、細かい技術はおのずと身についてくる。舞台でどう動くかとか映画でいかに話すか、などということは」佐々木、p.199という考え方を持っていたため、アクターズ・スタジオ系の俳優や、その構築的な演技手法とは終生そりが合わなかった佐々木、pp.115-116,p.258。
- パーティなどでしばしば同席したことのある岸恵子はロミーの印象について、「美しい眼をしていた。美しい眼と、静かな、感動的な表情をたたえる美しい顔をしていた。それに反して、躯全体の風情がガサツで重ったるかった。そこここのパーティや晩餐会で隣り合わせた彼女にも、たくましさや、芯の強さは感じても、たおやかな幽美さがあまりにもなさ過ぎた。でもアニー・ジラルドや、カトリーヌ・ドヌーヴにはない、生の女のコクのようなものがあった。」と自著に記している岸、p.218。
- インタビューでは、好きな監督・映画人にオーソン・ウェルズを、尊敬する人にルキノ・ヴィスコンティを挙げている岸、p.216。ロミーはヴィスコンティを「師匠」と呼び佐々木、p.226、『ボッカチオ'70』のとき贈られたヴィスコンティの母の形見の指輪を常に指にはめ、大切にしていた佐々木、p.84,pp.201-202ユルクス、p.183,214ザイデルpp.240-241。
- 身長161cmと小柄であった。
主な出演作品
公開年 | 邦題原題 | 役名 | 備考 | |
---|---|---|---|---|
1953 | 再び白いライラックが咲いたらWenn der weiße Flieder wieder blüht | エフヒェン | デビュー作 | |
1954 | 女王さまはお若いMädchenjahre einer Königin | ヴィクトリア | ||
1955 | プリンセス・シシーSissi | シシー | 2009年2月13日東宝よりDVD発売。タイトルは『エリザベート ロミー・シュナイダーのプリンセス・シシー』 | |
1956 | 若き皇后シシーSissi - Die junge Kaiserin | シシー | 2010年7月23日東宝よりDVD発売。タイトルは『エリザベート2 若き皇后』 | |
1957 | モンプチ わたしの可愛い人 Monpti | アンヌクレール | ||
シシー ある皇后の運命の歳月 Sissi - Schicksalsjahre einer Kaiserin | シシー | 2010年7月23日東宝よりDVD発売。タイトルは『エリザベート3 運命の歳月』 | ||
1958 | 制服の処女Mädchen in Uniform | マヌエラ・フォン・マインハルディス | ||
恋ひとすじに Christine | クリスティーネ | |||
セクシーガール Die Halbzarte | ニコル | |||
1960 | 太陽がいっぱい Plein soleil | フレディの連れ | カメオ出演佐々木、p.338 | |
1962 | ボッカチオ'70 Boccaccio '70 | プペ | 第3話「仕事中」 | |
The Trial | レニ | |||
1963 | 勝利者 The Victors | レジーヌ | ||
枢機卿 The Cardinal | アンネマリー | |||
1964 | ちょっとご主人貸して Good Neighbor Sam | ジャネット | ||
1965 | 何かいいことないか子猫チャン What's New, Pussycat | キャロル・ウェルナー | ||
1966 | 夏の夜の10時30分 10:30 P.M. Summer | クレア | ||
トリプルクロス Triple Cross | 伯爵夫人 | |||
1968 | 地獄のかけひき Otley | イモジェン | ||
太陽が知っているLa Piscine | マリアンヌ | |||
1970 | 夜明けの舗道 My Son My Lover | フランチェスカ | ||
すぎ去りし日の… Les Choses de la vie | エレーヌ | |||
どしゃ降り Qui? | マリナ | |||
1971 | ストライカー/愛と栄光のフィールドBloomfield | ニラ | 日本ではビデオ発売のみ佐々木、p.327 | |
マックスとリリーMax et les Ferrailleurs | リリー | 当初日本ではビデオ発売のみ。タイトルは「はめる/狙われた獲物」。佐々木、p.3272022年8月「没後40年 ロミー・シュナイダー映画祭」の一環として日本劇場初公開。 | ||
1972 | 夕なぎ César et Rosalie | ロザリー | ||
暗殺者のメロディThe Assassination of Trotsky | ジタ・サミュエルズ | |||
ルートヴィヒ Ludwig | エリーザベト | |||
1973 | 離愁Le Train | アンナ | ||
1974 | ロミー・シュナイダーの 情事Un amour de pluie | エリザベート | 日本ではビデオ発売のみ佐々木、p.327 | |
地獄の貴婦人 Le Trio infernal | フィロメナ | |||
1975 | 最も重要なものは愛 | L'important c'est d'aimer | ナディーヌ | セザール賞 主演女優賞 受賞 |
追想 Le Vieux fusil | クレール | |||
1976 | 限りなく愛に燃えて Une femme à sa fenêtre | マルゴ・サントリーニ | ||
1977 | 雪に咲いたバラGruppenbild mit Dame | レニ | 日本ではTV放映のみ佐々木、p.361 | |
1978 | ありふれた愛のストーリー Une histoire simple | マリー | セザール賞 主演女優賞 受賞 | |
1979 | 華麗なる相続人Bloodline | エレーヌ・ロフ=マルタン | ||
1980 | 華麗なる女銀行家La Banquière | エンマ・エケール | ||
* La mort en direct(SFデス・ブロードキャスト) | キャサリン | |||
1981 | 勾留Garde à vue | シャンタル | ソフト邦題が『レイプ殺人事件』『検察官』『検察官/レイプ殺人事件』等複数存在する。佐々木、p.3292022年9月「生誕80周年記念 クロード・ミレール映画祭」の一環として日本劇場初公開。 | |
1982 | サン・スーシの女La Passante du Sans-Souci | エルザ/リナ | ||
2009 | 地獄 | L'Enfer d'Henri-Georges Clouzot | 1964年に制作が始まるも未完に終わったアンリ・ジョルジュ・クルーゾー監督作の残されたフィルムと関係者の証言で構成されたドキュメンタリー。2009年のカンヌ映画祭で公開され、2022年8月「没後40年 ロミー・シュナイダー映画祭」の一環として日本劇場初公開。 |
注釈
出典
参考文献
- 日野康一編 『ロミー・シュナイダー/ラヴェンダーの香り、慕情のひと』 シネアルバム (55) 芳賀書店、1977年
- ロミーは生前、この日本語の本をバッグに入れ、ボロボロになるまで自分のカタログがわりに使っていたという(文藝春秋編 『わが青春のアイドル/女優ベスト150』 p.465、日野の回想より。(文春文庫、1990年))。
- 岸恵子 『巴里の空はあかね雲』新潮文庫、1987年(自伝的エッセイ。初版新潮社、1983年)
- 『ロミー・シュナイダー/恋ひとすじに』 レナーテ・ザイデル編、瀬川裕司訳、平凡社、1991年
- ミヒャエル・ユルクス 『ロミー・シュナイダー事件』平野卿子訳、集英社、1996年
- 佐々木秀一 『ロミー/映画に愛された女 女優ロミー・シュナイダーの生涯』国書刊行会、2009年
関連サイト
- 日本語版ウィーン市観光局公式サイト -「宮廷家具調度品博物館」の案内で映画『プリンセス・シシー』の事も紹介されている。
- 映画『プリンセス・シシー』記念公式サイト
- Romy Schneider Archiv(ドイツ語、英語)
外部リンク
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