吉田拓郎 : ウィキペディア(Wikipedia)

吉田 拓郎(よしだ たくろう、1946年4月5日 - )は、日本のシンガーソングライター、音楽プロデューサー。本名同じ。旧芸名は平仮名のよしだたくろう

竹田企画(事務所)、avex trax(レコードレーベル)に所属。鹿児島県伊佐郡大口町(現在の伊佐市)出身。広島商科大学(現在の広島修道大学)卒業。血液型A型。身長176.5 cm。

フォーライフ・レコードの第2代社長を務めた。

妻は森下愛子(1986年結婚)。元妻は四角佳子(1972年 - 1975年)→浅田美代子(1977年 - 1984年)。

楽曲提供者としては入江剣好きだったモデル・入江美樹小澤征爾の妻)と好きだった女の子の名前(準ちゃんと思われる)を足したもの(、)。のペンネームも用いている。

多くの芸能人や関係者・ファンが「拓郎」と呼び、「吉田(さん)」と呼ばれることは皆無に近い。

人物

日本のシンガーソングライターの草分け的存在でありオリコン芸能人事典-ORICON STYLE よしだたくろう吉田拓郎|アーティスト|株式会社フジパシフィック音楽出版 (archive)、| 吉田拓郎 | Museum of Modern Music (archive)、TAKURO YOSHIDA (吉田拓郎) avex official website PROFILEナタリー - 拓郎から星野源まで、男性シンガーソングライター名盤紹介DIGAとオヤジと音楽と。 ブルーレイ/DVDレコーダー (archive)nikkansports.com> 日刊スポーツ> 吉田拓郎インタビュー【コラム】木田高介の果たした大きな役割|HMV ONLINEMuseum of Modern Music70'sバイブレーション! なぎら健壱インタビューp.3 (archive)、なぎら健壱インタビューp.4 (archive)、1970年代初頭、マイナーであったフォークとロックを、日本ポップス界のメジャーに引き上げた歌手であるBS日テレ - 「地球劇場〜100年後の君に聴かせたい歌〜」#3 ウタビト 吉田拓郎谷村さんの投稿 吉田拓郎登場!! - 谷村新司 Shinji Tanimura Official site『フォークソングの時代』 曲目メモ by 森山良子 - ハイレゾ音源配信サイト井上陽水、唯一無二の世界観で魅せた「UNITED COVER2」東京公演【吉田拓郎「元気です」】 日本の音楽のあり様に革命を起こす - ダイヤモンド・オンライン発売1ヶ月で40万枚を売り上げた吉田拓郎のメジャーデビュー作『元気です。』フォークソングをメジャーに!吉田拓郎 「元気です」 ロック・ポップス/国内ロック・ポップス、70年代の名盤の口コミ今日は一日 三昧(ざんまい)(archive)]iTunes - ミュージック - 吉田拓郎「よしだたくろう 青春の詩」BS-TBS「SONG TO SOUL〜永遠の一曲〜」 結婚しようよ/吉田拓郎 2008年1月24日放送田家秀樹 日本ライブ伝説(1)吉田拓郎と1970年代 野外へ放たれた叫び (archive)吉田拓郎が日本のフォークソングに与えた偉大なる影響吉田拓郎は青春の反抗者だったのか - 旅行人編集長のーと第105回:「ロックと日本の60年」第6章 クイーンを筆頭に、まばゆきロック・アイドルの時代へBS12 トゥエルビ ザ・カセットテープ・ミュージック 第25回 『吉田拓郎の歌詞が好き』「いま、ふたたびのフォーク!! 拓郎・陽水でメジャー化したフォーク史」『ダカーポ』、2007年3月21日号、マガジンハウス、pp.107-119。また、大規模ワンマン野外コンサート、ラジオの活性化、CMソング、コンサートツアー、プロデューサー、レコード会社設立などのパイオニアとして、日本ポピュラーミュージック史において特筆すべき役割を果たした「あの年この歌SP「日本の音楽を変えた4人」『あの年この歌〜時代が刻んだ名曲たち〜』BSジャパン、2016年1月16日放送吉田拓郎 Takuro Yoshida4 (archive) 吉田拓郎 Takuro Yoshida5 (archive)Takuro Yoshida: Shangri-La - The Band Website 奥田民生&吉田拓郎で、鉄道に乗ってさすらいの旅へ 吉田拓郎のDNAを継承する奥田民生の「旅歌」- 日経トレンディネットすべては吉田拓郎から始まった―吉田拓郎展. TAKURO YOSHIDA ARTIST GALLERY TAKURONICLE 1970 >>> Just now126ch SUPER LEGEND 名盤チャンネル 吉田拓郎- Music Bird (archive)、【時代のサカイ目】現代CMソング考 求められる視覚と聴覚への“瞬間刺激” - ZAKZAK読売新聞、2010年1月1日2月にエイベックスへ移籍した『吉田拓郎』にインタビュー!!(archive)吉田拓郎 3年ぶりの首都圏ライブ開催決定 | Musicman-NET (archive)、5月1日 ゲスト:富澤一誠さん - ドコモ団塊倶楽部1月23日の放送は~|J-POP LEGEND FORUM|FM COCOLO大編集後記その八。吉田拓郎が教えてくれた。 | 雑誌・昭和40年男日本における黎明期のロックコンサートとフェスティバル--1950〜70年代前半を中心に井上陽水「能古島の片想い」に見る片想いの美学 | Bizコンパス、島崎今日子『安井かずみがいた時代』集英社、2013年、pp.281-283, 381。日外アソシエーツ『ポピュラー音楽人名事典』は、「ニューミュージックを代表する音楽家」と掲載している『ポピュラー音楽人名事典』日外アソシエーツ、1994年、p.661、ISBN 978-4816912238。。2000年2月号の日経エンタテインメント!の特集「J-POPの歴史をつくった100人」で、“J-POPの開祖”と記される日経エンタテインメント!、日経BP社、2004年2月号- pp.28-29より。

来歴

生い立ち

1946年4月5日に、鹿児島県伊佐郡大口町(のちの大口市、現在の伊佐市)で生まれる。その後、鹿児島県鹿児島郡谷山町(のちの谷山市、現在の鹿児島市)に転居し吉田拓郎・牧瀬里穂・ラサール石井のトキメキ心の故郷三人旅故郷・鹿児島県で思い出の地を巡る(日本テレビ、1997年11月9日)、谷山小学校に二年生まで在学(歌手の西郷輝彦と同期生)。その後は広島県広島市南区西霞町で育つ。拓郎という名前には「故郷を拓け」という意味が込められている。両親は朝鮮羅南からの引き揚げ者。父は鹿児島県伊佐郡羽月村出身で堂前家から吉田家に養子に入った人物で、朝鮮総督府で農林官吏として勤務した後に鹿児島県の郷土史家となった吉田正廣坂根 嘉弘「朝鮮総督府官吏・吉田正廣の経歴と業績」上巻、「経済科学研究」21号、広島修道大学、2018年2月、99-100頁。兄は鹿児島ラ・サール高校出身で、母はラ・サール高校の学生寮で舎監をしていた。拓郎自身は両親の出自については詳細はよくわからず、母方の祖母が広島の出身と話している。1955年に両親が別居し、立教大学に進学した兄は上京、母親は姉と拓郎を連れて広島に転居した。同年4月、広島市立皆実小学校へ転校。鹿児島時代は姉と同じ部屋で生活していたので、姉が大好きな歌謡曲をよく聴いていたことに、拓郎も大きな影響を受けた。立教大学ジャズ研でピアニストを目指した兄が、夏休み等に女性同伴で帰郷したのがきっかけで音楽に興味を持つようになった。幼少期から喘息持ちで体が弱かったため家にいることが多く、母に本を買い与えられていたが、ウクレレを買ってもらい、小学校高学年か中学校に入って音楽を始めた。皆実小学校~翠町中学校の一学年上に長谷川和彦。1962年に皆実高校に入学し、インストゥルメンタルバンドを結成し、ウクレレを担当した。曲を作り始めたのは高校に入ってからで、好きな女の子が出来るたびに、曲を作って渡した。

1965年に広島商科大学(現在の広島修道大学)に入学し、カントリー&ウエスタン部と応援団に入部した。中学の同級生と新たにバンドを結成し、ドラムスを担当した。同年秋に初コンサートを開催し、ビートルズのコピーのほかオリジナル曲も演奏した。この年、メンバーと上京し渡辺プロダクションに売り込むがグループ・サウンズブームも未到来の時代であり、相手にされなかった豊かなる日々 吉田拓郎、2003年の全軌跡、田家秀樹、2004年、ぴあ、p.123。

アマチュア期

1966年大学二年のとき、コロムビア洋楽部主催のフォークコンテストにソロで出場。「テイク・ファイヴ」のリズムパターンに三里塚闘争から着想を得た歌詞を乗せた自作曲「土地に柵する馬鹿がいる」を6弦のエレキギターを12弦ギターに改造して歌唱し、中国大会2位、全国3位となるニッポンのうた漂流記、飯塚恆雄、2004年、河出書房新社、p.107。『平凡パンチ』で「和製ボブ・ディラン」と紹介され広島で知名度が上がるが、広島の音楽仲間からは「あれはフォークでない」「広島を歌っていない」などと批判も出て居心地も悪く、単身上京した。 1967年に広島見真講堂で開催された『第1回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』中国地区大会ロック部門で優勝。米軍岩国基地でも定期演奏し同窓会公式ブログ2019/10/26LOVE LOVE あいしてる、兵隊相手の演奏で初めて音楽の凄さを知ったprofile97 | www.morinaga-hiroshi.com book - 森永博志。しかし、ベトナム戦争の侵略基地である岩国慰問が、参加資格のないプロの演奏と抗議が寄せられ、カワイ楽器在籍バンドでもあったことから、ヤマハの関係者から全国大会への出場を辞退してもらえないかと申し入れられ、出場辞退した。翌1968年にも、『第2回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』に出場し中国地区優勝、ヴォーカル・グループサウンズ部門で全国4位となる吉田拓郎 TAKURO YOSHIDA - 153-0051 ー吉田拓郎オフィシャルサイトー。また、吉田の発案で広島の3つのフォーク団体によるアマチュアフォークサークル『広島フォーク村』を結成ケータイde中国新聞 ケイタイでも読める「広島フォーク村」(archive)、吉田拓郎、ふたつの50年 広島フォーク村と深夜放送と蔭山敬吾ブログ Welcome to GRACELAND & Keigo Kageyama's LABELあの時の歌は…学都遠く - 暴走族 (archive)。レコードも出さないうちに、地元ラジオにリクエストが殺到し、NHK広島に出演したり、中国放送でDJを担当したりした谷口由記「広島出身ミュージシャン年代記(クロニクル)EX FLASH」、光文社、2001年1月30日号、pp.96-98。この頃激しい学園闘争が繰り広げられた広島大学のバリケードで囲まれたステージで『イメージの詩』を歌い『70年代ノート 〜時代と音楽、あの頃の僕ら〜』、田家秀樹著、毎日新聞社、2011年、p.39、終了後、白いヘルメット姿の学生に取り囲まれ激しいヤジを浴びせられた読むJ-POP 1945-1999私的全史、1999年、田家秀樹著、徳間書店、p.121。

1969年には、カワイ楽器広島店カワイミュージックショップ広島 に就職内定したが、上智大学全共闘のメンバーニューミュージックの本、富澤一誠監修、p.47 が自主制作(ユーゲントレーベル)で「広島フォーク村」名義のアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を制作することになり参加した。

1970年3月頃ユーゲントレーベルから『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を自主制作し、手売りで販売した。またエレックレコードが、『イメージの詩/マークII』を無許可でシングルカットし関東広島地域でリリースしたが、吉田の抗議で音源を録り直した。そこでエレックレコードの浅沼勇に口説かれ、「ダウンタウンズ」を解散して上京した。

よしだたくろう期(1970年 - 1974年)

エレック所属期

1970年4月に、インディーズレーベルのはしりであったエレックレコードに契約社員として就職するR−S20夜明け前?-エレックレコード社長のべらんめえブログ、FOR LIFE RECORDS -PARADISE DIGITAL (archive)。エレックはまともな仕事は取ってこれず、愛川欽也が司会をしていた子供番組のオーディションに参加し「イメージの詩」を歌って審査員の子供に落とされたり、NHKのオーディションで藤山一郎に落とされたりしたツアーMC本田 路津子・特別インタビュー(archive)。6月27日に『広島フォーク村アルバム発売記念コンサート』を東京厚生年金会館で開催した際、客はほとんどいなかったが、当時イベントの企画などを手がけていた後藤由多加の目にとまり、コンサートなどで起用される「音楽文化・産業論 2008 I」 講師:後藤由多加 「インディーズ創世記」夢のあがり―ニューミュージックの仕掛人たち―1983年4月、富澤一誠著、音楽之友社、pp.41-42, 51-52。。後藤はこれを機に重要なパートナーとなる。1971年8月7日〜9日、『第3回全日本フォークジャンボリー』に出演第3回全日本フォークジャンボリーから47年目の夏の日 | ニッポン放送ナタリー - 日本初フェス「フォークジャンボリー」映画40年ぶりDVD化あの「中津川フォークジャンボリー」38年ぶり復活へ。10月、後藤とともに、アーティスト主体の音楽制作プロダクション『ポピュラー音楽人名事典』日外アソシエーツ、1994年、p.661、ISBN 978-4816912238『ユイ音楽工房社名は小室等の愛娘・こむろゆいに因む(1月30日 ゲスト:小室等さん、こむろゆいさん - ドコモ団塊倶楽部)。』を設立夢のあがり―ニューミュージックの仕掛人たち―、pp.60-63。11月には広島フォーク村の後輩・大久保一久が組んでいたアマチュアグループのために初の楽曲提供ヤング・ギター・クロニクル Vol.1 吉田拓郎 これが青春、2007年、シンコーミュージックエンタテイメント、p.225。

CBSソニー(オデッセイレーベル)所属期

1972年1月にCBSソニーに移籍し、アーティスト兼プロデューサーとして契約を結ぶ。移籍と同時に発売した「結婚しようよ」がオリコンチャート3位、40万枚以上を売り上げた。それまで長髪の若者たちの反体制的な音楽としてしか見られていなかったフォークが一躍普通の音楽として認知された。それまでサブカルチャーだったフォークが、メインカルチャーへ浮上する分岐点になった。さらに「旅の宿」もヒットしたことで作曲の依頼が舞い込んだ。モップスに「たどりついたらいつも雨降り」や、猫に「雪」「地下鉄に乗って」を提供し、拓郎はフォーク歌手としてだけでなく売れっこの作曲家となり、人気が高まったニッポン放送「坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」2013年6月24日放送、竹内まりや感激!拓郎と初共演「アイドルでした」。2月26日に公開された近代放映製作・東宝配給の映画『百万人の大合唱』(須川栄三監督)の劇中、「今日までそして明日から」を歌唱佐々木淳・丹治史彦編『唄えば天国 - ニッポン歌謡映画デラックス 地の巻』メディアファクトリー、1999年、p.227。6月には長野県軽井沢の「聖パウロ教会」で四角佳子と結婚式を挙げた【1972年8月】旅の宿/よしだたくろう 幸せの絶頂期にリリースしたヒット曲。「町の教会で結婚しようよ」など、若者の新しいライフスタイルを表現した歌は、ブライダル業界にも大きな影響を与えた読売新聞、2009年12月9日、13面。同月、CBSソニーとプロデューサー契約を結び、ワンマンレーベル『Odyssey』を立ち上げたjinz bar - 前田 仁の「歌たちよ、どうもありがとう」第2回あがた森魚が語る「ベルウッド・レコード」と、伝える技術の話

1973年1月には、前年バックバンドを務めた柳田ヒロのグループを発展させ新六文銭を結成。5月23日に、4月18日の金沢公演の夜に女子大生に暴行されたと訴えられ、逮捕される。8日間の拘留後、女子大生の虚偽であることが判明して不起訴となり、6月2日に釈放されたプレイバック芸能スキャンダル史 吉田拓郎「金沢事件」 女子大生の狂言でCM自粛、放送禁止に。釈放の翌日に、神田共立講堂のステージに立つ。しかし、マスコミのバッシングにあい、ツアーのキャンセル、曲の放送禁止、他人への提供曲も放送禁止、CM(スバル・レックス(富士重工)、テクニクス(松下電器))の自粛といった処置がとられた。そんな中でも「明星」編集部は、不起訴後、いち早く拓郎の独占自筆手記を掲載した月刊明星、1973年8月号、集英社、〈独占!よしだたくろう1800字自筆手記〉、pp.82-85。

拓郎は、梓みちよに「メランコリー」、1974年1月15日に、森進一に「襟裳岬」を提供する。この「襟裳岬」は同年の第16回日本レコード大賞を受賞する快挙となったが、当時国民的な大イベントであったレコード大賞の授賞式に拓郎は上下ともジーンズの普段着で登場し、平然と賞を受け取ったため物議を醸した。

吉田拓郎以降

フォーライフ・レコード設立

1975年には、かまやつひろしに「我が良き友よ」を提供、この曲もヒットとなった。1975年5月に、高額納税者番付1974年度納税分で、歌手部門にフォークシンガーとして井上陽水とともに初のランク入りとなる(拓郎5位、陽水7位)『ラインダンス』、井上陽水、新潮社、1982年、p.130日本経済新聞、1975年5月2日、p.16、朝日新聞、1975年5月2日、p.23ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p.102。

6月1日にCBSソニーの拓郎が、ポリドールの井上陽水、エレックの泉谷しげる、ベルウッドの小室等と共に、アーティストの手になる初めてのレコード会社『フォーライフ・レコードを発起した。これを機に「吉田拓郎」と改名する。12月に、オールナイトニッポン最終回で四角佳子との離婚を発表する人気ラジオ番組「緊急ハプニング集」! | アサ芸プラス第90回 新田 和長 氏 5. 加藤和彦氏との音楽的な日々| Musicman-NET。この年森山良子に提供した「歌ってよ夕陽の歌を」は森山の新境地を切り開き"フォークの女王"に戻らせる青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p.160。

1976年4月に、フォーライフ第1回新人オーディションでグランプリを獲得した川村ゆうこをプロデュースし、デビュー曲「風になりたい」を作詞作曲。本楽曲は拓郎自身「自分で作った曲で一番」と述べている日本経済新聞、2006年4月12日、20面。11月に、小室・拓郎・陽水・泉谷ら4人のスプリット・アルバム『クリスマス』を初回プレス30万枚で発売し、オリコンで1週のみ1位となったものの、累計が10万枚にも満たず、フォーライフの屋台骨を揺さぶることとなった。翌年、フォーライフは2年目の決算で8億円の赤字を出す。6月には、小室に代わり、フォーライフ2代目社長に就任する。7月に浅田美代子と2度目の結婚。9月10日に、井上陽水が大麻所持(大麻取締法違反容疑)で逮捕。社長として記者会見で平謝りし、嘆願書を集めて東京地検に日参するなど陽水の救済に尽力した新宿ルイード物語、1988年、富澤一誠、講談社、pp.151-155アサヒ芸能、2009年7月9日号、p.39。

70年代後半には、キャンディーズに「やさしい悪魔」、石野真子に「狼なんか怖くない」を提供。「やさしい悪魔」は、後年、町田ガールズ・クワイアがカバーした。1979年2月、『たくろうオン・ステージ第二集』(1972年12月発売)収録の「ポーの歌」が浜口庫之助の曲の盗作と報じられる。拓郎自身は初めからオリジナル曲とは言っていなかったが『たくろうオンステージ第二集』を無許可でリリースしたエレックが吉田拓郎作詞・作曲とクレジットしてしまったというのが真相である封印歌謡大全、2007年、石橋春海、太田出版、pp.150-151。

1979年『吉田拓郎 アイランド・コンサート in 篠島』が開催され、オールナイトで69曲、約8時間歌い、観客2万人動員した吉田拓郎プロフィール | FOR LIFE MUSIC ENTERTAINMENT,INC.。また、特別出演としてデビュー直後の長渕剛がステージに登壇した。

『TOUR 1980』では過去の曲を一切やらず、全て新曲で通すなど、過去との決別を宣言し、初の海外録音作品『Shangri-La』を発表した。

フォーライフ・レコード社長を退任

1982年6月に、ツアー最中の株主総会で、アーティスト業に専念するため、フォーライフ・レコード社長を退任すると発表された。

1983年に浅田美代子と協議離婚する。

1985年6月15日には、国立競技場で国際青年年 (IYY) 記念イベント「ALL TOGETHER NOW」を小田和正と共に企画運営し、司会を務めて、5万人の観客を動員した。同年、オールナイトライブ『吉田拓郎ONE LAST NIGHT IN つま恋』が開催された。

1986年に、映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』に高杉晋作役で出演。

1986年12月に森下愛子と3度目の結婚。

テレビ出演の増加

1988年1月1日に、プライベート・オフィス「宇田川オフィス」を設立する。

この頃からテレビ出演が多くなり、1989年にNHK総合テレビで放送された『愉快にオンステージ』にホストとして出演。さらに、1993年には、TBS系で放送されていたドキュメンタリー番組『地球ZIG ZAG』の3代目司会者に高橋リナとともに起用された。また、本人自ら出演した『サッポロ☆ドライ』に出演し話題となり、CMソングとなった「すなおになれば」もヒットした。

1988年6月16日、日清パワーステーションにて、ライブハウスでのコンサートを行う。

1989年2月8日、アルバム『ひまわり』を引っ下げて行われた全国ツアーがスタート。同年3月15日に、東京ドームでコンサートを行い、5万人を動員する。

新潟県吉田町の有志団体“若者共和国”からの依頼で、1992年4月に「吉田町の唄」を発売。2004年には吉田ふれあい広場に歌碑が建立される。

1994年8月16日に参加した『日本をすくえ'94 〜奥尻島、島原・深江地区救済コンサート〜』(日本武道館)はテレビ放送され、同年の大晦日には、『第45回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たす。

1996年に、まだCDデビュー前だったKinKi Kidsと共に『LOVE LOVE あいしてる』の司会を務め大きな話題を呼び、翌年の1997年には『LOVE LOVE あいしてる』のバックバンドを務めたLOVE LOVE ALL STARS共に制作したセルフカバーアルバム『みんな大好き』が20万枚以上の売り上げを記録した。

フォーライフ・レコードの契約を解消から現在まで

1999年9月30日にフォーライフ・レコードとの専属アーティスト契約を解消し、2000年4月にインペリアルレコードに移籍する。移籍したのは、交友のある飯田久彦がテイチクエンタテインメント代表取締役社長に就任したからである。

2003年4月に、肺がん手術のためコンサートツアーは延期となるが、手術は無事成功し、秋には復帰コンサートで全国に元気な姿を見せた。ビッグバンドでのコンサートツアーはこの年から2006年まで毎年行われた。

2008年8月3日に母校の広島修道大学(旧広島商科大学)で在学中に作詞作曲した「今日までそして明日から」の歌詞と、1970年代の写真入りの歌碑が披露された。

2009年2月にavex traxに移籍する20歳近く年下の松浦勝人社長に「avexでは若い人のアルバムをたくさんつくってヒットさせてきたけれど、これからやめようという人の音楽は初めてです」と言われ「面白いことを言う男だ」と好感を持ち移籍した。6月21日には、生涯最後の全国ツアー『Have A Nice Day LIVE 2009』(10ヶ所10公演予定)がスタートするが、7月8日開催の大阪公演開始45分前に、体調不良による公演中止が決定した。診察の結果、慢性気管支炎の悪化で約2週間の自宅療養を行うことになり、福岡、広島、神戸の3公演は中止となった。

7月23日にも、つま恋へ移動する車中で体調の異変を訴え、その日の内に残り2公演も中止となる。

2013年1月30日発売の、前年のライブを収録した『吉田拓郎 LIVE 2012』(Blu-ray・DVD・CD付DVD)が、オリコン週間DVDランキング総合6位となり、TOP10入り史上最年長(66歳10ヶ月)を記録する【オリコン】吉田拓郎、66歳でDVD最年長TOP10 P.マッカートニー記録抜く

2017年3月8日に『ニッポン放送「春の新番組」パーソナリティ発表記者会見』にて、新番組『吉田拓郎 ラジオでナイト』をスタートすることが発表された。

シンガーソングライターとして

音楽性

政治性を排除
  • 自身の生き方や恋愛体験などをテーマにした拓郎の歌は、従来のフォークファンからは“大衆に迎合して軟弱な歌を歌っている”“商業主義”“裏切り者”“堕落した”などと批判され、ジョイントコンサートなどの会場では激しい“帰れコール”客が“帰れコール”を浴びせたり、ステージに上がってわめいたりするのが1970年代に流行したのは1971年8月の第3回の中津川フォークジャンボリーでの暴動から。その後のコンサートで、このときのマネをする勘違いが流行った(頭脳警察、2004年8月・須田諭一著・河出書房新社、pp.231-232)。耳を澄まして聴く歌詞に共感できれば拍手をし、気に入らなければ“帰れコール”を浴びせる。フォークと聴衆の関係はそのようなものという考え方があった(ロックミュージックの社会学、南田勝也、青弓社、p.132)。 を浴び、石を投げられることもあった。「アングラこそがフォーク」と信じて疑わない人たちはレコードが売れるとそれだけで商業的だとその歌手を敵視した黒沢哲哉『ぼくらの60〜70年代熱中記』、いそっぷ社、2012年、pp.98-101。
  • 1972年4月22日に日本武道館で行われた「フォーク・オールスター夢の競演音搦大歌合戦1972年4月22日日本武道館、音楽舎主催。文献によっては「音搦大歌合(おとがらみだいうたあわせ)」とするものもある(サンデー毎日、1972年6月25日号、p.43)。拓郎、岡林信康以外の出演者は、三上寛、六文銭、ガロ、はっぴいえんど、遠藤賢司、かまやつひろし、加川良、五つの赤い風船、山下洋輔トリオほか。」なるイベントでは、岐阜の山から降りて久しぶりにステージに立った岡林信康の後に登場した拓郎に激しい“帰れコール”が浴びせられ歌が聞こえないほどであったサンデー毎日、1972年6月25日号、p.43。またビール瓶などモノを投げつけられ本当に帰ることもあったという(慶應三田祭事件)「ドキュメンタリー 頭脳警察」公開記念イベント11月11日編 - BARKS。当時は客席から罵声が飛ぶことは珍しくなく、拓郎のステージに罵声が飛ぶのは日常茶飯事だった60年代フォークの時代 - 日本のフォーク&ロック・ヒストリー1、p.194。拓郎ほど人気を得たアーティストはそれまでいなかった。拓郎はフォークシンガーで初めて女性ファンが付いたスターでイエスタディ '60's - '80's ―音楽記者の取材ノートから―、1989年、永井晶子、CBS・ソニー出版、pp.77-78、雑誌に「よしだたくろうのコンサートには、女学生が多くて、フォーリーブスのコンサートみたいで、とにかくムナクソ悪い」などと書かれた。フォーク仲間からもあまりに「あいつはフォークじゃない」と非難されるので、拓郎は「そんなら、おれはフォークじゃなくていい」と居直った。
  • 反体制、反商業主義こそが、フォークソングの本質という生硬なフォークファンからは大きな批判を浴びたが、拓郎はマーケットに迎合したわけではなく、日々の生活の中で抱くまったく個人的な心情を、より日常的な言葉で歌ったに過ぎない富澤一誠のライブ・カルテ! 第44回 : 「岡林信康と吉田拓郎は特別な存在」。むしろそうすることで、旧態依然としたフォークソングの閉鎖性から訣別しようとしたのである。フォークシンガーが内省的となる傾向のある中で、平凡でストレートに思いを表現する潔さがあったとされる。罵声が飛んでも歌い続ける姿勢が支持者を増やした。全ての若者がプロテスト系のフォークを支持しているわけではなく小西良太郎『昭和の歌100 ―君たちが居て僕が居た』、幻戯書房、2016年、同世代の普通の若者からは絶大な支持を受けたNHKネットクラブ 番組詳細(SONGS「吉田拓郎~今だから人生を語ろう」)吉田拓郎が「SONGS」初登場「いくつになってもラブソングを歌い続けたい」ぼくらの時代、ぼくらの歌、田川律著、思想の科学社、p.110アグネス・ラムのいた時代、長友健二+長田美穂、中央公論新社、pp.155-156NEW MUSIC '81 ニューミュージック事典、学習研究社、p.19。北中正和は「1972年に連合赤軍 あさま山荘事件が起こり、彼らのリンチ殺人事件が発覚すると、学生運動に何らかの共感を抱いていた人たちの気分も引いてしまった。1960年代の余燼はどんどん消えていった。吉田拓郎の人気浮上は、そんな世相の変化を感じさせた」と論じているJポップを創ったアルバム 1966〜1995、北中正和、平凡社、2008年、pp.40-43。寺島実郎は「吉田拓郎の『結婚しようよ』と井上陽水の『傘がない』を聴いたとき、『政治の季節』が終わったことを確認した」と論じている日本総合研究所 || 寺島実郎の発言 問いかけとしての戦後日本-(その5)日本人の心を映し出す歌謡曲の変遷 (archive)。最初はメッセージ・フォークを歌っていて、1971年のフォークジャンボリーでは、同イベントの形骸化批判の口火を切ったにも関わらずにほんのうた 戦後歌謡曲史、北中正和、新潮社、p.165-166、その半年後には「結婚しようよ」をリリースするという"変節"に関して、伊藤強は「1972年には日本はすでに政治の季節を終えていた。終わってしまった季節に対して何を言っても意味はない。吉田拓郎は時代の好みを鋭敏に嗅ぎとったのに違いない」などと述べている伊藤強『TV世代に夢をつれてきた 日本の歌手“50+1”人』、日本テレビ放送網株式会社、1990年、ISBN 9784820390152、pp.265-269。菊池清麿は「吉田拓郎の登場は、自作自演のスタイルはもちろんのこと、世代感をアピールする強烈なリアリティーを持つ新しい若者文化だった。これによってフォークの形態が大きく変わった」と論じている日本流行歌変遷史―歌謡曲の誕生からJ・ポップの時代へ、菊池清麿、論創社、2008年。スポーツニッポンの音楽担当記者だった小西良太郎は、「吉田拓郎が1970年『イメージの詩』でシングル・デビューして、歌謡曲の歌い手がよくやるプロモーション行脚で僕を訪ねて来たのには不審の念を飲み込んだ。それまで会ったフォーク勢は、マスコミにも白い眼を向け、レコードが売れることを拒否、自作の宣伝など以ての外の筈だった。その後吉田が、反抗するメッセージ臭のかけらもない曲を連発すると、案の定戦闘的なファンから猛反発を受けたがしかし、それらの曲が大ヒットすると吉田は時代を歌う旗手の一人になった。吉田はみんなの連帯ソングから"我が道をゆく"個人の精神を取り戻し、狙い撃ちでヒット曲を書き続けた。終始衰えを見せなかったのは、胸中の熱い血と歌声に色濃い覇気、作品にある鮮度、独自の姿勢を貫く意思の強さがあった」などと評している。60年代のカレッジフォークや社会派フォークとは全く異なる地平で自身の「うた」をクリエイトしていた拓郎の音楽が瞬く間に大衆に受け入れられたのは、旧来の〈フォークソング〉が〈フォーク〉へと変貌していく時代の要請であると同時に、ある種の必然でもあった。筒美京平は「吉田拓郎の『結婚しようよ』がヒットしたとき、初めて脅威を感じた」と述べている自由現代社編集部『魂のフォーク・ソング大全集』、自由現代社、2011年、ISBN 9784798217468 p.48。馬飼野元宏は「フォーク史のいくつかの転換期の中でも、吉田拓郎の登場と、その後数年間の活動は日本のフォークシーン最大の山場といえる。拓郎がデビューから5年間に切り開いた功績と音楽シーンへの影響は計り知れないが、何よりプロテストソング全盛だったフォークシーンから時代の舵を奪い取ったことが大きいのではないか」と述べている。恩蔵茂は『ニッポンPOPの黄金時代』という2001年の著書で戦後の日本のポピュラー・ミュージック(ポップス)の歴史を、序章「ザ・ヒット・パレードの興亡」から11章に分け論じているが、第10章である最終章、1970年代から今日(2001年)までのタイトルを「拓郎からJ-POPへ」としている。富澤一誠は「吉田拓郎が出なければ、今のJ-POPはないといっても過言ではない」と述べている5月1日 ゲスト:富澤一誠さん - ドコモ団塊倶楽部ディランがいなければ、吉田拓郎は「文学者」になっていただろう - iRONNA
自作自演スタイルの一般化
  • ダンガリーのシャツにジーパン、ギブソンのギター、ハーモニカ・ホルダーを首にかけ針金を曲げてハーモニカ・ホルダーを作り、首にかけるスタイルも日本では拓郎が最初といわれる(『徳光和夫のトクセンお宝映像!』帰ってきたフォークソング伝説2、BS日テレ、2012年3月14日放送)。、歌詞カードを譜面台に乗せ座って歌うステージに譜面台を持ち出したのも、ニューミュージック界では拓郎が最初といわれる(あいつのクシャミ、1980年、富澤一誠、飛鳥新社、p.49)。、うつむいてボソボソと喋り、時々客席をむいて何かを叫ぶという拓郎のスタイルを多くの若者がまねた週刊現代、2013年3月5日号 pp.136-137 「わが人生最高の10冊」芸能界でコーヒー・ブレイク:私の音楽評論はラブレターだった、吉見佑子、八曜社、1980年、p.10。
  • 泉麻人は「自分の身のまわりの、ほんのちょっとしたことを唄にしてもいいんだ、と、拓郎の出現によって、レコードを聴くばかりでなく、オリジナルの曲を作って唄ってみたい、と思った人は僕らの世代に多いはずだ。そういう身近さが吉田拓郎の何よりの魅力だった」と述べている泉麻人『僕の昭和歌謡曲史』、講談社、pp.132-138。拓郎ほどその生き様と歌がぴったり一致しているアーティストはいない富澤一誠『あいつの切り札―松山千春から吉田拓郎まで36人』、音楽之友社、1981年、pp.224-228。
  • それまで自作自演は一部のフォークだけだったが、拓郎以降、それが一般化した。1970年代から、少なくともフォークやロックは自作自演であることが大前提になっていくが、拓郎はそのきっかけになった。
  • 拓郎の効果でギター、ダンガリーのシャツ、ジーパンが非常に良く売れた本来フォークとは民謡という意味を持つため、日本のフォークとは趣旨もニュアンスも違うと考えた番組製作者が、「ジーンズサウンズ」という名称をラジオ番組のタイトルに付けたことがある。これは拓郎を始め当時のフォークシンガーがジーンズを穿く者が多かったため(永遠のJ-POP、2004年、島敏光、学習研究社、pp.229-230)。。拓郎以前は外国人ミュージシャンのコピーが主流であったが、拓郎以降は拓郎をコピーする若者が増えた7 - _... moment ...._浦沢直樹 - ルーフトップギャラクシーwあの時代の風「佐野史郎、はっぴいえんどと音楽を語る」 PART 2 of SPECIAL INTERVIEW時代に合った新しい映画を出していきたい - INTERNET Watch4 - sotozen-net (archive)。拓郎がフォークの大ヒットを出したことでブームは中学生にまで及んだ放送禁止歌手 山平和彦の生涯、p.9。誰でも拓郎になれる、と当時の若者は信じたラヴ・ジェネレーション1966-1979 新版 日本ロック&フォークアルバム大全、田口史人・湯浅学・北中正和監修、1996年、音楽之友社、p.43。
ニュー・フォーク
  • 『YOUNG GUITAR』誌上で、拓郎のギターは従来のフォークにリズム&ブルースのフィーリングとビートが加わっただけで新しいものではないが、得意なギター伴奏に本当の心の歌を歌い上げている。素晴らしい詩人であり音楽家であり、とうとう日本にも真のフォーク・シンガーが生まれたと評された。
  • 『新譜ジャーナル』は、拓郎ら新たに台頭してきたフォーク・シンガーをまとめて"ニュー・フォーク-第三の流れ"と紹介した。"第三の流れ"というのは、アングラフォーク、カレッジフォークに続く流れという意味である。1960年代のアングラに対して、1970年代の拓郎に始まる第3の波により、ニュー・フォークがメジャーとなった新版 日本流行歌史 下、古茂田信男、矢沢寛、島田芳文、横沢千秋、社会思想社、1995年、pp.63-64菊池清麿『日本流行歌変遷史―歌謡曲の誕生からJ・ポップの時代へ、論創社、2008年、pp.245-246。ニュー・フォーク以外にも、アウト・フォーク、ジーンズ・フォークなどの呼び方もされたが小西良太郎「日本のフォークは、いま... "フォーク"という四文字言葉、それは一体何なのだ」『ニューミュージック・マガジン』、ミュージック・マガジン、1974年8月号、pp.24-27、これらは拓郎登場以降の呼び方である。
  • 拓郎は当時のフォークファンの中では珍しく、若い女性ファンが多かった五つの赤い風船とフォークの時代、なぎら健壱、アイノア、2012年、pp.194-195。なぎら健壱は、「フォークは拓郎の登場を境に硬派路線とアイドル路線に分かれ、拓郎が新境地を次々と開拓して絶頂期を迎えると同時に、フォークは終焉を迎えた」と述べている。
  • 1960年代後半の社会的な内容を含んでいるものが目立ったフォーク・ソングは、拓郎の登場で形態が大きく変わり拓郎以降、個人の心情や風景をうたう歌や、愛の歌が増え、次の時期のニューミュージックへの架け橋にもなっていく日本流行歌変遷史、2008年、論創社、菊池清麿、pp.218-219, 245-246日本のフォーク&ロック史―志はどこへ―、1982年9月・田川律著・音楽之友社、pp.72-73アグネス・ラムのいた時代、長友健二+長田美穂、中央公論新社、p.149, 152-15360年代フォークの時代、シンコーミュージック、pp.201-206, 21470's STAR・DUST、1996年、陣馬虫太郎、ヒット出版社、p.113わが青春の流行歌、1990年、池田憲一、白馬出版、p.107ザ・サクセス・ストーリー 矢沢永吉からY・M・Oまで、1981年、塩沢茂、冬樹社、p.10音楽する社会、1988年、小川博司、勁草書房、pp.49-50。

影響を受けたミュージシャン

洋楽の原点
洋楽の原点はニール・セダカコニー・フランシス、リック・ネルソンやヘンリー・マンシーニなどアメリカンポップスとパーシー・フェイス「夏の日の恋」など映画音楽だった。アマチュア時代のダウンタウンズでのレパートリーはビートルズ、ローリング・ストーンズ、スペンサー・ディヴィス・グループ、サム&デイヴ、オーティス・レディング、サム・クック、ウィルソン・ピケットや後年、拓郎のレコーディングに参加したブッカー・T&ザ・MG'sなどだった気ままな絵日記、pp.48-50。
ボブ・ディラン
楽曲や生き方を含めてボブ・ディランの影響を強く受けたことはよく知られるclub willbe(クラブ・ウィルビー):インタビュー 加藤和彦さんは ...。拓郎は「ギター一本で自分の音楽を発表できることを知って人生変わった。ただし音楽スタイルやメロディが好きで、イデオロギーに憧れたのではない」と話している日本経済新聞、2006年4月12日夕刊、p.20。
"フォークロックの神様"、"『風に吹かれて』のプロテストソングのヒーロー"、"ビートルズにドラッグを教えた反逆者"といったボブ・ディランのイメージは、拓郎が深夜放送のラジオでやたらボブ・ディランの凄さを語り、曲を流したことで日本人に植えつけられたもの、と中森明夫は述べている週刊現代、2012年2月25日号、p.90。拓郎が「ディラン、ディラン」と叫び回ったため、CBSソニーから出ていたボブ・ディランのレコードが、以前の5倍以上売れたという。日本におけるボブ・ディランの最大の普及者でもあるGauguin(ゴーギャン)、2008年4月号・東京ニュース通信社、p.17。中学の時、「吉田拓郎になろう」と決めたという浦沢直樹みうらじゅんは、拓郎を通してボブ・ディランを知ったと話しているディランを語ろう、浦沢直樹・和久井光司、p.38Gauguin(ゴーギャン)、2008年4月号・東京ニュース通信社、p.38【みうらじゅん インタビュー5 米国音楽界の巨人 ボブ・ディラン特集みうらじゅん インタビュー6 日経トレンディネットみうらじゅんの「あぁ、青春ノイローゼ」な10曲|音楽|HMV ONLINE日本崖っぷち大賞、1998年、みうらじゅん泉麻人山田五郎、安斎肇、毎日新聞社、p.183浦沢直樹 - ルーフトップギャラクシーw。なおソニーは1973年に拓郎の選曲でボブ・ディランのベスト盤『BOB DYLAN; Gift Pack Series10』を発売しているディランを語ろう、浦沢直樹・和久井光司、p.48。
高校時代のマドンナのことを歌った「準ちゃんが与えた今日の吉田拓郎への多大なる影響」は、ボブ・ディランの「ハッティ・キャロルの淋しい死」の替え歌である。
山本コウタローが1975年、自著「誰も知らなかったよしだ拓郎」出版にあたり拓郎に「歌謡曲でも何でもいいから、好きな曲を3曲挙げてくれ」との質問には『デソレイション・ロウ (Desolation Row)』『ジャスト・ライク・ア・ウーマン』『アイ・ウォント・ユー』と全てボブ・ディランの曲を挙げたという。
パクリとアンチテーゼ
特に初期の楽曲はボブ・ディランの影響・パクリを取り沙汰される。拓郎自身「おいしいメロディがある」AERA in FOLK あれは、ロックな春だった!、2006年、朝日新聞社、p.43 等、昔からインタビュー等で「盗作した」とはっきり発言をしており1973年12月の対談(小室等対談集、1975年、小室等、財団法人ヤマハ音楽振興会、p.18)。、小室哲哉との対談でも盗作(パクリ)談義が盛り上がった勢いからか、「いっぱい盗作しましたけどね」とはっきり言ってしまっている小室哲哉音楽対論 Vol.2、p.40。
拓郎は関西フォークが嫌いで、関西フォークと自分の音楽の違いを"私たちの歌"と"私の歌"と述べている。『イメージの詩』は、「岡林の『私達の望むものは』に感動はしたが、「"私たちは"と言えない。俺は"俺"っていう歌を作りたい」という意図で作ったと話している。

作詞法

字余りの作詞法
です・ます調の普及者
  • 作詞やラジオパーソナリティとして多く用いた「〜なのです」「〜なのだ」「〜であります」「〜でありまして」「〜でありました」などの言い回しは、です・ます調(デス・マス調)と呼ばれ、松本隆とともにその"普及者"といわれるニューミュージック白書、1977年、p.54よい子の歌謡曲、1983年、よい子の歌謡曲編集部編、冬樹社、pp.116-119音楽界に於ける、です・ます調の"創始者"については『新譜ジャーナル』1977年のユーミンと松本隆の対談で以下のやりとりがある。ユーミン「松本さんの始めたデスマス体(この文献の表記)っていうのは、ゼッタイ新しかったわけでしょ。そういうのを浸透させたっていうのは、拓郎なんかも一端になっているかもしれないけど、松本さんがすごいインパクトを持っていたと思うの」(中略)松本「同時進行で僕と、遠藤賢司とか高田渡が始めていたね」と述べている(『新譜ジャーナル・ベストセレクション'70s』pp.290-291)。。
    • 拓郎の場合は、曲作りだけでなく、多くのラジオレギュラーでもこのような言い回しを多用し、当時のフォーク少年にこの口調を真似られた江口寿史の正直日記、2005年、江口寿史、河出書房新社、p.73。
    • 拓郎自身は自著で「深夜放送でのシャベリ口調は言葉の遊びとしてやたら連発した」「その後、歌謡曲や小説、誌面の見出しなどに"です・ます調"が増えた」「僕は音楽シーンにおける"です・ます"はひとつの革命と信じる。確実に歌の世界が広くなった」 などと述べている。
  • こうした言葉の使い方は歌謡界、職業作家にも影響を与えた。
    • 穂口雄右が手がけたキャンディーズの「春一番」は、他の穂口作品の中で色合いが違う"です・ます調"で作られており、拓郎からの影響を指摘する論調が出た定本 はっぴいえんど、1986年、白夜書房、p.222はっぴいえんどコンプリート、2008年、シンコー・ミュージック・エンタテイメント、p.87失われた歌謡曲、1999年、金子修介、小学館、p.203, 206「Have A Nice Day LIVE2009 吉田拓郎フォト&ロングインタビュー集」p.26。

作曲法

「拓郎節」とも呼ばれる個性の強いメロディライン
  • 拓郎のフォロワーが多く現れた理由としては、拓郎の曲がとっつきやすいといわれるテンションが少なくシンプルなコード進行であり、にもかかわらず非常に個性の強いメロディラインで構成されていることが考えられる別冊カドカワ 井上陽水、角川グループパブリッシング、2009年12月、p.194、【発掘!流行り歌 徒然草】椎名林檎「ここでキスして。」(1999年) 年配には受け入れにくい「違和感」は大化けの予兆 デビュー秘話 (2/2ページ)
    • フォークっぽい雰囲気を持ちながらポップでメロディアスな楽曲は吉田拓郎「古希」初ツアー 「そこらの70歳よりも元気なつもり」、オリジナル・ナンバーだけでなく、アーティストへの提供曲でも拓郎節が滲み出ている昭和歌謡 勝手にベストテン、宝泉薫、彩流社、2009年、pp.48-51。
    • 拓郎節、拓郎調とも称される独特のコード進行については、小室等との対談小室等対談集、1975年、小室等、財団法人ヤマハ音楽振興会、pp.15-20 や、小室哲哉との対談でその一端を言及している小室哲哉音楽対論 Vol.2、pp.38-40小室哲哉との対談は2008年11月5日の日本経済新聞朝刊の社説、1面コラムの春秋にも引用された。。
  • 近田春夫歌謡ポップス・クロニクル 特集アスペクト39、1998年、アスペクト、p.234-239筒美京平を否定する人たちがいた1980年代はじめ、近田が「筒美京平はすごい」と言ったことが筒美神話の始まり(その意味は 考えるヒット4、2001年、近田春夫、文藝春秋、p.161)。 は著書の中で、「無理のない曲で、シロウトにでも作れそうな、しかもプロを感じさせる作曲家こそ天才で森田公一と拓郎にそれを感じる」と述べている定本 気分は歌謡曲、1998年、近田春夫、文藝春秋、p.25。
  • 喜多条忠は、拓郎を「当代一のメロディ・メーカー」と評価しているこの街で君と出会い、1975年、喜多条忠、立風書房、p.145Charは『Char meets ???? 〜TALKING GUITARS〜』での仲井戸麗市とのセッションで「JOHNNY, LOUIS & CHAR (PINK CLOUD) 1979年のライブ盤『フリー・スピリット』に収録されている「籠の鳥」という曲は、拓郎がよく使ったG#sus4から作ったと話している(Char meets???? TALKING GUITARS〜Char×ギタリスト対談集〜vol.1、シンコーミュージック・エンタテイメント、2009年、p.127)。。
  • 小西康陽は、好きな作曲家として"歌謡曲作家としての拓郎"を挙げ歌謡ポップス・クロニクル 特集アスペクト39、アスペクト、p.9、「一発で拓郎の曲と分かる、オリジナルのメロディを持っている、素晴らしい才能」と評している。
  • 小林武史は、「あくまでこれは僕の見方ですけど、『吉田拓郎という作曲法』の人と言っていいんだと思う。何しろ、ものすごいオリジナリティがある。詞がウンヌンより曲作りがものすごい。それは『襟裳岬』一つ取っても分かる。拓郎さんもボブ・ディランから影響されているんだろうけど、Aメロ→Bメロ→サビじゃない構成も普通にあって、"何なんだろう、あれ?"って思う」と話している別冊カドカワ 井上陽水、角川グループパブリッシング、2009年12月、p.98。
  • 福田和也は、「吉田拓郎はメロディメーカーとしても、すごい独特。『襟裳岬』は本当に"話し出す"みたいなどこにもないメロディラインで完璧にオリジナル、山田耕筰のあとは吉田拓郎しかいないんじゃないか、と誰かが書いてた」などと話しているSPA!、2009年8月4日号、p.143、扶桑社、CIRCUS、KKベストセラーズ、2009年12月号、p.89。
  • 佐藤良明は著書の中で、日本語によく馴染み、私的コミュニケーションの雰囲気を作りだす拍どりを「しゃべり拍」と名づけ、「これを1970年代の日本のうたに浸透させたのは、この拍どりを多様した拓郎らフォークシンガーの功績」と論じているJ-POP進化論 「ヨサホイ節」から「Automatic」へ、1999年、佐藤良明、平凡社、p.170。

歌唱法

山本コウタローは、声だけでなくビートの強さ、リズムの良さ、その上歌詞も素晴らしい一方で「イメージの詩」を歌いながら「マークII」のようなポップな曲も歌える幅の広さが衝撃的だったと話している。また自分の歌、メッセージ、スタイルを人にどう伝えられるか、どう守るかといった"自己プロデュース能力"が早くから秀でていたと話している。

小坂忠久保田麻琴荒井由実などのバックでドラマーを務めた平野肇は、拓郎の『今はまだ人生を語らず』(1974年)のレコーディングに参加したが、「ペニーレインでバーボン」に於ける拓郎のボーカルスタイルに驚き、「こんなボーカルははじめてだった。ロックのセッションもずいぶんやったし、いろいろなタイプのボーカリストともやってきたけど、段違いのパワーを感じた。しかも日本語がこれほど突き刺さってくるという驚き。完璧にロックであり、ロックスピリッツに満ちた歌だった」と感想を述べている『僕の音楽物語 1972-2011 名もなきミュージシャンの手帳が語る日本ポップス興亡史』、平野肇、祥伝社、pp.98-99。

織田哲郎は「日本のシンガーで声の説得力が最もあるのは拓郎さんであるというのが持論」と述べている吉田拓郎の古希祝いトリビュートに民生、ミセス、鬼束、ポルノ - ナタリー

YO-KINGは「拓郎さんの男っぽさが魅力でした。独特の拓郎節とでもいうべきメロディー。そして、あの声はやっぱり凄いですよ。説得力というか、迫力というか。きれいに歌おうと思ってない。大声でしゃべっているような感じで歌っちゃうのが、かっこいいじゃんという啓示を受けた気がする」と述べている読売新聞、2010年10月22日夕刊、p.14。

小栗勘太郎は「自分の周りの極私的なことしか描いていないのに、時代の雰囲気が伝わってくる。拓郎の歌のリアリティは、虚飾を排したシンプルな歌詞が直裁に伝わる旋律と拓郎の声の合わせ技の妙」と解説している。

こうした作詞法吉田拓郎のそれまでになかった、話し言葉のような歌が若者たちの心をとらえた(テレビ仕掛人たちの興亡、1990年、田原総一朗、講談社、p.202)。歌詞の中で、自分のことを「おいら」と呼ぶのも拓郎が始まりと思われる(日本崖っぷち大賞、1998年、みうらじゅん泉麻人山田五郎、安斎肇、毎日新聞社、p.180)。1組の男女の別れを切なく描いた詞が、最後の最後に「年老いた男」の俯瞰の目線に変わるこれまでにない詞の展開、方法論を持つ「マークII」(アサヒ芸能、2009年7月16日号、p.189)。 や作曲法、テーマ設定Musicman'sリレー 第66回 武部聡志「青春の詩」に見られるような、自分の身のまわりの、ほんのちょっとしたことを唄にしてもいい(僕の昭和歌謡曲史、泉麻人、講談社、2000年、p.137)。拓郎は、形態こそギターを弾きながら自作曲を歌うという、それまでのフォークと同じスタイルをとりながらも、歌う内容は全く変わっていた。自分の思ったことを歌う、歌いたいことだけを歌うというマイペースの姿勢に変わりはないが、社会問題をテーマにするのではなく、自分の身近な私生活をテーマにした(音楽する社会、1988年、小川博司、勁草書房、p.49)。反体制イディオムと青春歌謡を直結させる手法は新鮮で、現在のロッカーもこの手法を無意識に踏襲(J-ROCKベスト123 1968-1996、1996年、講談社、p.61)。「旅の宿」「襟裳岬」等に共通する"和"の世界 "ジャパネスク"路線も、後のシンガーソングライターたちに無意識下に下敷きにされる(歌謡ポップス・クロニクル 特集アスペクト39、アスペクト、p.122)。例えば、田上雅充の「春うらら」は「旅の宿」をベースに春歌的趣味を加えたもの(決定版「一発屋」大全、2001年、宝泉薫、彩流社、p.166)。フツーの男が、とてもマガオでは言えないような話を平気で自然に歌に出来る力強さ(歌謡曲という快楽 雑誌『よい子の歌謡曲』とその時代、2002年、宝泉薫+ファッシネイション、彩流社、p.26)。ファンに激震!人生、最後ツアー決定|吉田拓郎、楽曲アレンジ、歌唱法などは、その後の日本のフォークとロックに有形無形の影響を与えることとなった演歌にも通じる日本人の歌心に新しいスタイルを提示(織田哲郎ロングインタビュー)。笠井潔は「ユーミン、陽水の前史として拓郎がある。拓郎は自身が考えていること、感じていることを、そのまま歌にして歌うという近代的な表現意識を、非常に直接的に、シンプルな形で典型的に確立した。大衆歌謡としての自己表出という非常に明瞭な方法意識を確立させた。陽水にしても、中島みゆきにしても、60年代歌謡の水準をそのまま高次化したわけではなくて、いったん吉田拓郎に体現されているような近代的表出意識を転回点にした上で、もう一度60年代歌謡の位相に戻ってくるという形をとっている」などと論じている(ポスト歌謡曲の構造、1986年、足立里見著、五月社、pp.20-21)。拓郎は演歌の歌唱法と歌詞法を超えて、身近な言葉を音(メロディ)に乗せえたいちばん最初の人。中島みゆきは、好むと好まざるとに関わらず、拓郎たちが領土化した発声と発想の路線上から出発した(中島みゆき その愛と歌の行方、1991年、菅間勇、春秋社、pp.210-212)。小室等は、日本のフォークソングには拓郎と陽水という二つの大きな流れがある。それはアーティキュレイション(Articulation)でありフレーズ。拓郎の方が陽水よりポピュラリティがあって、日本のわらべ歌や民謡に非常に近いものがある。また言葉に対する感性のセンスがいい。陽水のほうはもっと英語に近いアーティキュレイションでの日本語。拓郎と陽水がやったことの成果、功績は大。二人がいなかったら日本語の歌って違った形になっていたと思う。だからユーミンには失礼だと思うけれど、拓郎と陽水がいなかったら、ユーミンがああいう形であったかどうかって、僕はそう思ってしまう。勿論、ユーミンも才能のある人だから、何らかの発見をしたかも知れないけども、でも拓郎と陽水という実績の上に、今のユーミンがあると思うし、日本の歌もその上にあると思うね。「拓郎、井上陽水、ユーミン、小田和正といった人たちが、非常に洋楽的なエッセンスと日本語の感性をドッキングさせる才能に長け、日本語としての生命力を保ちつつ曲を作るという意味で、エポック・メイキングだった人たちだった思う。拓郎辺りまでは、まだ七五調な日本語感性に踏みとどまっていたが、その後日本の音楽は限りなく英語感性に寄り添っていったと思う」(ジェネレーションF―熱狂の70年代×フォーク、2001年、小室等他、桜桃書房、p.27)。などと論じている。フォークからプロテスト性をそいだ形で「自分の思ったことを自分の言葉で歌う」というテーゼだけを保持し、自身の「私生活」を表現(ロックミュージックの社会学、2001年、南田勝也、青弓社、p.139)。ロック・クロニクル・ジャパンVol.1、1999年、音楽出版社、p.69桑田佳祐、22年ぶりオールナイトニッポン復帰堂本兄弟、2004年2月29日【氷室京介】『WOWOW presents KYOSUKE HIMURO 25th Anniversary TOUR【昭和ロックを語る時が来た】鮎川誠が明かす博多に現れた内田裕也さんとの秘話横浜銀蝿「中森明菜ちゃん、ピンク・レディーさん、三原じゅん子さん…」今だから話せる80年代秘話竹内まりや感激!拓郎と初共演「アイドルでした」 (Internet Archive)、完全引退へ!小室哲哉が“負けを認めた”アーティストとは夫人へのプロポーズは吉田拓郎の「結婚しようよ」‥ノーベル賞の吉野教授 | CBCテレビ動画ニュースサイト【CBC NEWS(CBCニュース)】(Internet Archive)、「作家で聴く音楽」第六回 松井五郎「『エヴァ』作詞家と言われるのは飽きました」 及川眠子が語る、作詞家人生と時代の変化ハードロック! ROLLY(寺西一雄) 山本恭司 Webマガジン 月刊チャージャー(Internet Archive)、中村正人(DREAMS COME TRUE) - J-Wave(Internet Archive)、堂本剛「出会えて本当によかった」吉田拓郎への熱い思い【菅田将暉 機材紹介】2018.2.27@渋谷CLUB QUATTRO “菅田将暉 Premium 1st TOUR 2018”、 「吉田拓郎さんのライブに行ってきた。震えた」、阿部嘉昭ファンサイト: 再帰性と再帰性が反射する--三村京子について石崎ひゅーい×須藤晃「アタラズモトオカラズ」インタビュー (1/4) - 音楽ナタリー小野瀬雅生 インタビュー|MUSICSHELFインタビュー:意識よりも“衝動”に忠実な全12曲を収録! andymori。渡辺プロダクションのお抱え編曲家だった東海林修は「旅の宿」が世に出たとき、ニューミュージックのパワーより、フォークやロックを回路して滲み出てきた日本の土着性を聴き分け「豆腐と障子紙以外に、はじめて日本のオリジナルが出た」と唸ったという。ナベプロにニューミュージックのセクションが創設されたのは「旅の宿」の大ヒットがきっかけ渡辺プロダクション社史「抱えきれない夢〜渡辺プログループ40年史〜」、1999年、「渡辺プロ・グループ四〇年史」編纂委員会、p.345。

多様な音楽ジャンルへのアプローチ

アマチュア時代は長くロックバンド(R&Bバンド)を組んでおりザ・ダウンタウンズ時代の吉田拓郎。秘蔵音源お聴きのがしなく。、ザ・ベンチャーズやボブ・ディラン、サム&デイヴ、ビートルズらを渉猟した拓郎は、フォークのみに依拠したわけではないはっぴいえんど、拓郎、ユーミン…Jポップ創始者たちが唄う“春の名曲”5選Special Interview スペシャルインタビュー - MOMM | MusicMusic Scene VOL.02 田家秀樹、日本ロック大系、白夜書房、〈上巻〉p.194、ミッキー・カーチス、おれと戦争と音楽と、亜紀書房、p.207。多様な音楽ジャンルの楽曲制作が認められるため、元来、ポップス歌手でありフォークブームを巧みに利用したにすぎない、という論調もある流行歌 気まぐれ50年史、1994年、矢沢寛、大月書店、p.103。吉田拓郎が初めてアイドル雑誌に取り上げられたのは『月刊平凡』1971年1月号と見られるが月刊平凡、1971年1月号、平凡出版、〈YOUNG MUSIC RADER 〉「フォーク界に新風を 吉田拓郎さん」、p.124、この記事に「吉田拓郎さんといっても、まだ知らない人が多いかも知れない。現在、広島商科大学に在学中の学生シンガーだ。(中略)今回のLP『青春の詩』は、作詞、作曲、ギター、歌、すべて彼ひとりの作品集。フォークとロックの絶妙なコントラストが、音楽界に新分野をもたらしている」と記述されており、吉田拓郎はデビュー時から音楽性にロックの要素が含まれていたことは、後に音楽評論家が言及しただけではなく、当時のマスメディアからも認識されていた。拓郎は「僕自身、まったくフォークに心酔してなかったのに、岡林がフォークの神様って言われてたけど、それが何か僕の方へ押しよせてきた。しかも神様じゃなくてヒーローとして。広島から出てきたわけの分からん奴が、いきなりヒーローになってしまった。僕にはフォークっていうのは胡散臭く思えて仕方なかった。でもフォーク・ムーブメント自体、僕にはおいしかったんですよ」などと話している。篠原章は「『青春の詩』で試みた反体制イディオムと青春歌謡を直結させる手法は新鮮で、後のロッカーもこの手法を無意識に踏襲している」J-ROCKベスト123-1968-1996、篠原章、講談社、1996年、p.61、相倉久人は、1976年6月14日、21日号の「日本読書新聞」に掲載した「日本語ロック」に関する評論で「アメリカの物まねからスタートしたフォークが、吉田拓郎や泉谷しげるたちの成功によって、ロックやソウルにさきがけて、現代にふさわしい日本語的な表現に到達した」相倉久人『相倉久人の70年代ロック&ポップス教養講座』音楽出版社〈CDジャーナルムック〉、2007年、pp.228-234、スージー鈴木は「吉田拓郎は二面性があって、非常にポップで都会的な曲を作って、ビートルズの洋楽性を日本の音楽界にもたらした人間でもありながら、日本の土着性を表現した曲もたくさん歌っている」、北中正和は「吉田拓郎の音楽の衝撃は、短音階の曲とロック的なサウンドを結びつけたこと」と論じている。矢沢保は「もともと真のフォークソングとは何の関係もない歌手だが、全共闘の協力でLPを出したのを出発点に、CBSソニーという大資本に乗りかえて、自分の身体もろとも、フォークソングを売り渡し、すっかり『現代歌謡曲』にしてしまった。拓郎の場合は、かつて全学連委員長だった香山健一が学習院大学教授におさまりかえって自民党の走狗になり下っているのと、あまりにも似ているように思います」などと批判している。牧村憲一は「拓郎さんは大きく分けるとフォークの世界の人なんですけど、彼の果たした役割というのは、サウンドの世界とフォークの世界のちょうど中間に立ってて、両方をうまく仲介できた」と述べている70'sバイブレーション!Museum Talk | Museum of Modern Music 1960 牧村憲一(音楽プロデューサー) × 松山猛(エッセイスト)× 高橋靖子(スタイリスト)4。拓郎と陽水によって成されたフォークメジャー化の流れが、ニューミュージックやジャパニーズロックへつながっていく。

桑田佳祐は著書で、拓郎の歌謡曲的な部分、コマーシャルソングの音作りに共感したことを曲作りを始めるきっかけとして挙げているロックの子、1985年、桑田佳祐、講談社、p.89。

1988年に拓郎の「たどりついたらいつも雨ふり」をカバーした氷室京介は、物心ついて最初に聴き始めた音楽は、洋楽ではビートルズ、日本では吉田拓郎であるとあかし、自身の中で拓郎はロック歌手であり、ボブ・ディランとかニール・ヤングとかと変わらない存在であると話しているぴあMOOK「氷室京介ぴあ」ぴあ、2013年8月20日発売、p.13。

アルバム製作

ロックバンドと共同でのアルバム制作
  • 1stアルバム『青春の詩』の製作にあたり、エレックレコードの専務兼プロデューサー・浅沼勇は自身が審査員を務めたヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト第2回のボーカルグループサウンド部門で優勝したマックスドラムは再建後のエレックレコード社長・萩原克己。 を起用した。
    • スタジオ・ミュージシャンと呼ばれるプロが歌謡曲歌手の音作りを専門としていた当時では、ひとつのロックバンドがアーティストと綿密に打ち合わせをしながら音を作っていく、という画期的なレコーディングであったエレックレコードの時代(2006年9月・アクセス・パブリッシング).同時期にはっぴいえんどが岡林信康のバック演奏を務めたことは有名だが、レコーディングは、はっぴいえんど主導で行われたといわれている(日本ロック大系、月刊オンステージ編集部、白夜書房、1990年8月、〈上巻〉pp.120-121)。。
    • 浅沼はマックスを起用した理由について「拓郎のフォークの荒削りな良さを消さず、拓郎ワールドを創っていけるタイトなリズムを持つバンドが必要と考えた」と述べている。
アルバム・セールス時代の先鞭
  • 1972年7月21日にリリースしたLPレコード(アルバム)『元気です。』は、フォーク系、ニューミュージック系シンガーとして、またシンガーソングライターとしてオリコン史上初の1位獲得アルバムである。それまでの1位獲得アルバムは、演歌か女性アイドルか、洋楽に限られていて、演歌以外の男性歌手としても初の1位獲得であった。アルバムが売れない時代に当時はシングルは売れても、アルバムは3千〜5千枚売れたらいい方であった(ラヴ・ジェネレーション1966-1979 新版 日本ロック&フォークアルバム大全、音楽之友社、p.282)。、1ヶ月間で40万枚を売り上げるというシングル並みのセールスを記録Lapita 月刊吉田拓郎、小学館、p.34、オリコンアルバムチャートで14週連続(通算15週)1位を独走しアルバム・セールス時代の先鞭をつけたニッポンのうた漂流記、河出書房新社、p.134ビジュアル版・人間昭和史⑦ 大衆のアイドル、1986年、講談社、p.233アサヒ芸能、2009年7月2日号、pp.36-37guts、表現技術出版、1973年1月、p.31「伝説のメロディ 甦る!日本のフォーク フォークル、岡林信康、吉田拓郎、かぐや姫...」BS朝日、2010年4月25日ラガー音楽酒場 / 村上“ポンタ”秀一(ドラマー) | WEBマガジン e-days (archive)。アルバムがシングルレコードの寄せ集めではなく、アルバムとして一つの主張をもった作品として考えられるようになるのは、拓郎や小椋佳井上陽水らフォークシンガーの良質なアルバムの制作と大ヒットからである消費社会の広告と音楽、林進・小川博司・吉井篤子、有斐閣、1984年、pp.40-41。
ライブ・アルバム
  • 拓郎が人気者になった理由の一つに喋りの面白さが挙げられる。また拓郎の独持の口調「○○でアリマス」などの言い回しもよく流行った。1973年に本格的なブラス、ストリングスを加えて行われたライブを収録したアルバム『LIVE'73』は日本のレコード史上最初の本格的なライヴアルバムともいわれる豊かなる日々 〜吉田拓郎、2003年の全軌跡〜、2004年6月、田家秀樹著、ぴあ、p.7。このライブで歌われた楽曲は大半が新曲。まだステージで一度も歌ったことのない新曲をライブで披露するという試みも前例のないものであった。

コンサート・ツアー

  • 1973年秋、タレント売り出しに何千万もかけてテレビ中心に売り込みをかける当時の業界への反発から、日本のミュージシャンで初めてPA、照明などのスタッフを帯同しての全国ツアーを敢行する【LOVE LOVE あいしてる:トーク】地球音楽ライブラリー 吉田拓郎、TOKYO FM出版、p.8。当時、この手法は色々と困難であるという指摘を受けたという。実際、会場が取れないなどの軋轢も生んだが、やがてこのシステムが一般的となった。このことは、従来地元の興行師が仕切って来た運営が縮小し、地方のイベンターや、ぴあに代表されるチケット事業、情報サービス事業など、新たな産業を生み出した情報には色をつけない - asahi.com(朝日新聞社):就職・転職ニュース『ぴあ』の時代、掛尾良夫著、キネマ旬報社、2011年、pp.64-66『70年代ノート 〜時代と音楽、あの頃の僕ら〜』、pp.116-117渡辺芸能ビジネスを創った男、新潮社、pp.153-160読むJ-POP 1945-1999私的全史、田家秀樹著、徳間書店、1999年、pp.143-146明日に向かって走れ、pp.136-137。
  • 1973年10月に神田共立講堂で2日、渋谷公会堂で同じく2日と4日連続で行われた公演も今では珍しくない大ホール連続公演の日本でのさきがけと言われる。最初は日本武道館で1日だけと考えていたが、拓郎自身が「雰囲気もいや。音楽やるのに向いてない」と武道館を嫌い、別の同一会場で、当初1週間連続を計画したが、会場の都合が付かずこのような形態になったヤング・ギター・クロニクル, vol. 2『かぐや姫 青春という夢・恋・歌』、p.76。
  • 1975年8月2日〜3日に開催された「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」は画期的なものだったカルチャーエリア - 富澤一誠の55歳の決心! 234〜240/ Slownet SNS吉田拓郎 - おんがく日めくり | YAMAHA
  • 1979年7月26日〜27日に行った篠島コンサートは、一つの離島を借切るというイベントで、日本のコンサートでは史上初の試みであった外国では、イギリスのワイト島フェスティバルが有名。。先のつま恋と合わせ、常識を覆して深夜に人を集めるという方法で成功を収めたビジュアル版・人間昭和史⑦ 大衆のアイドル、1986年、講談社、p.233。ゲストに小室等長渕剛を迎え、2万4千人を集めた。デビュー2年目の長渕が一時の拓郎のように「帰れコール」を浴びながら最後までステージを押し通した話は長渕の有名なエピソードである『しゃべくり007』、日本テレビ系、2013年3月18日放送(Techinsight » 【エンタがビタミン】「帰れって言う、お前らが帰れ!」長渕剛が伝説の“帰れコール”について真相語る。)俺らの旅はハイウェイ、1990年2月、長渕剛、八曜社、pp.185-198吉田拓郎 Island Concert in 篠島
  • 2006年9月23日、31年ぶりにつま恋でかぐや姫と「吉田拓郎 & かぐや姫 Concert in つま恋 2006」を開催した。

音楽ビジネスへの影響

テレビ出演拒否

  • 1972年「旅の宿」のリリース中に「テレビ出演拒否」を行う泉谷しげる - TKMC ARCHIVES NON EDIT TALKguts、1972年5月号、pp.8-11。理由は、テレビを最大限利用した藤圭子のような既成のプロ歌手とは逆の「テレビを拒否したところにいるプロ歌手でいよう!」と考えた意地だったと述べている。「テレビ出演拒否」は、拓郎を神格化させた大きな要素となるという見方もある。
    • 歌番組への出演を拒否した拓郎のために、テレビサイドは異例のコンサート中継をオンエアしたロック・クロニクル・ジャパンVol.1、1999年、音楽出版社、p.48。
    • 紅白歌合戦の出演について、NHKは1972年にアプローチしたが出演を拒否した。そのため、ニューミュージック系の歌は紅白では聴くことができないという常識が定着した紅白歌合戦と日本人、太田省一、筑摩書房、2013年、pp.123-126、サンデー毎日、1972年12月10日号、p.40、1976年12月12日号、pp.33。
    • 女性誌から週刊誌、月刊誌、ゴシップ誌、新聞と取材申し込みが殺到したが、「自分のいいたいことが正確に伝わらない」とマスコミ取材拒否も行った富澤一誠『ニューミュージックの衝撃』共同通信社、1979年、pp.178-181。
    • 「テレビ出演拒否」「マスコミ取材拒否」「人気絶頂期の結婚」など、拓郎はそれまでのタブーを破り、フォークにポリシーを持たせることで、歌謡曲とは違うという鮮烈なイメージを持たせ若者の心をとらえた夢のあがり―ニューミュージックの仕掛人たち―、pp.64-66ぼくの歌・みんなの歌、森達也、講談社、p.59わが青春の流行歌、池田憲一、白馬出版、p.110, 148Jポップとは何か、2005年、烏賀陽弘道、岩波書店、pp.70-71ロック・クロニクル・ジャパンVol.1、1999年、音楽出版社、p.48。
    • 彼のテレビ出演拒否を受け、フォークシンガーの多くが同様にテレビ出演を拒否したサンデー毎日、1974年10月6日号、「井上陽水のフォークの世界」pp.150-151、戦後世論のメディア社会学、佐藤卓己、柏書房、2003年、p.183。これは各所属事務所、あるいはレコード会社の戦略によるものであった泉谷しげるは「拓郎が『商業主義に染まりたくないからテレビには出ない!』なんてかっこよくいうもんだから、俺たちも『おおっ』ってなっちゃって。気がついたら振り上げた拳を下ろせなくなってさ。『弱っちゃったな、別にテレビ、嫌いじゃないんだけど』」などと述べている(週刊現代2013年9月7日号、「スペシャル対談 大竹しのぶ×泉谷しげる 痛快!居酒屋で人生を語ろう」)。。
    • 拓郎のテレビ出演拒否は後のテレビ界に大きな影響を与えた。1978年から始まった『ザ・ベストテン』は、テレビに出ないニューミュージック系歌手の曲を紹介したいというコンセプトで始まった番組であったがザ・ベストテン、山田修爾、ソニー・マガジンズ、2008年、pp.188-189、『ザ・ベストテン』はこれを逆手に舞台裏の事情を逐一報道、芸能ニュース番組化することで話題を呼んだテレビだョ!全員集合、長谷正人/太田省一、青弓社、2007年 p.75、週刊朝日、1978年12月29日号、p.37。
    • 相澤秀禎は「テレビをあえて拒否し独自の道を進んだ吉田拓郎らニューミュージック系歌手のやり方は、それを貫いたことで成功し定着した。これは多様化しはじめた宣伝作戦の方向性を指し示していたといえる」と述べているアイドル工房―夢のつむぎ方―、1995年、相澤秀禎、スコラ、pp.121-122。
    • 1986年に『メリー・クリスマス・ショー』への出演オファーがなされたが、拓郎は「司会だったらやってやるよ」の一点張りだったため実現しなかった。桑田佳祐は拓郎に歌での出演を希望していた週刊文春 2020年2月13日号 P115。
    • 1996年から音楽バラエティー番組『LOVE LOVEあいしてる』にレギュラー出演し、ジャニーズ事務所のアイドル・KinKi Kidsと共に司会を担当したことで、他のミュージシャンの歯止めが取れたという側面もあった。「出てもいい」と思った大きな理由は、かつては多かった横暴な芸能ディレクターは減り、ミュージシャンに対して理解のあるディレクターが増えたという「テレビの現場の変化」を挙げている。

フォークの地位の向上

コマーシャルソング

ニューミュージック系歌手によるCMソング製作のはしりであるニューミュージック′80 すばらしき仲間たち、立風書房、1980年、p.88【時代のサカイ目】現代CMソング考 求められる視覚と聴覚への“瞬間刺激” - ZAKZAK。早くからCMソングを自作自演し、反商業主義のプロテストソングと一線を画した音楽する社会、1988年、小川博司、勁草書房、p.50。1960年代の異議申し立ての運動と連動していたフォークにおいては、CMソングを作り歌うなどということは、商業的で否定されるべきことだった。拓郎にはそんなこだわりはなく、フォークソング対CMソングといった対立は、まったくなかったメディア時代の広告と音楽 変容するCMと音楽化社会、小川博司、粟谷佳司、葉口英子、小田原 敏、小泉恭子、増田聡、新曜社、2005年、pp.28-29。

僕の旅は小さな叫び
CMソング第一号は1971年歌唱のみの「僕の旅は小さな叫び」ヤング・ギター・クロニクル Vol.1 吉田拓郎これが青春、2007年、シンコーミュージックエンタテイメント、p.216。

松下電器産業「Technics」の立体オーディオ「4チャンネルステレオ」(SC-1550N) の発売に伴い、当時松下電器の宣伝事業部の堀川靖晃が、作詞・山川啓介、作曲・編曲を渋谷毅に依頼してCMソングを製作することになった。本CMソングは、「僕の旅は小さな叫び」という曲であり、作詞期間4週間、制作費約100万円と当時のCMソングとしては多額の費用がかかった。

この年は他にSEIKOとタイアップシングル「サヨナラ僕は気まぐれ」(作詞・作曲・唄。B面「青春の終わり」は作詞・作曲が拓郎で、唄がピピ&コット、三越とのタイアップシングル、非売品)を手がけた他、中外製薬の『新グロンサン』のCMソングを歌い、ACC(全日本シーエム放送連盟)全日本CM フェスティバル・シンギング部門で入賞ニューミュージックの本―日本のフォーク&ロック FM fan コレクション★POPS(2)、1978年、富澤一誠監修、共同通信社、p.61。
HAVE A NICE DAY

1972年には「旅の宿」のヒットに目をつけたフジ・フイルムが拓郎にCMソングの製作を依頼し、拓郎作詞・作曲・歌によるCMソング「HAVE A NICE DAY」を放送した(背景には1970年から国鉄の“ディスカバー・ジャパン”キャンペーンが始まっていたことがある)「セイ!ヤング」1980年1月4日放送フォークソング運動、2001年、辻俊一郎、新風舎、p.76。彼のしゃべり言葉をそのまま生かし、歌に合わせて若者が自由にポーズをとるという内容が、この広告をヒットさせる大きな要因となったブレーン別冊『キャッチフレーズ3000選 戦後30年のヒット広告とコピー発想法』島森路子他、マドラ・グループ編著、誠文堂新光社、1976年、p.65, 128。"HAVE A NICE DAY"は流行語にもなったHIT SONG MAKERS 〜栄光のJ-POP伝説〜 BSフジ 「CMの中のJ-POP」2005年3月11日富士フイルムのあゆみ現代風俗史年表、若森繁男、河出書房新社、p.244テレビだョ!全員集合 自作自演の1970年代、長谷正人、太田省一編著、p.148タイアップの歌謡史、洋泉社、p.87, 136。『Have A Nice Day』第一弾(気ままに写そう編)に続き、『Have A Nice Day』の第二弾(天然色写真編)は、全編広島弁の歌詞で歌われており、方言で歌われたCMソングとして先駆的なものとなる。CMの作詞作曲料は85万円。

1972年、「僕の旅は小さな叫び」で前年に続きACC全日本CMフェスティバル入賞ニューミュージックの本、富澤一誠監修、pp.61-63。同年、りりぃに山発産業フェミニンのCMソングを提供し、スバル・レックス(富士重工)のCMで「僕らの旅」を自作歌唱した。このスバル・レックスのCMもテレビ・ラジオで大量露出し、当初はソノシートの非売品だったが反響が大きく、後にレコード盤が製作されたLapita 月刊吉田拓郎、2003年9月号、小学館、p.38。

これら全てのCMソングのソノシート、あるいはレコードは、全てステレオ購入者のオマケや、懸賞のプレゼントなどの非売品で、正規にレコード発売された物はない。当時はCMソングをレコード化して商売として売り出すという発想がまだない時代であった。

これらをきっかけに企業はフォーク・シンガーをCMに起用するようになったフォーク名曲事典300曲、富沢一誠著、pp.208-209みんなCM音楽を歌っていた、田家秀樹著、徳間書店、p.46すばらしき仲間たち ニューミュージック′80、立風書房、1980年、p.88。広告の世界とは交流のなかったフォークやロックのアーティストがCMに関わるようになったのは「HAVE A NICE DAY」が成功してからである『70年代ノート 〜時代と音楽、あの頃の僕ら〜』、pp.122-1231970年代初頭ではまだ、テレビCMの世界で自らのサウンドスタイルを崩すことなく音楽制作を聞かせることができたのは、拓郎と大滝詠一だけであったといわれる(文藝別冊 大瀧詠一―総特集 大瀧詠一と大瀧詠一のナイアガラ30年史、河出書房新社、2005年11月、pp.176-177)。「Cider'73」からはじまる大滝詠一が手掛けた三ツ矢サイダーの名作シリーズは、拓郎の「HAVE A NICE DAY」に対抗するため、当初サクラカラーがはっぴいえんどにCMソングを依頼したもので、はっぴいえんどの解散でこれは流れたが担当者が大滝の楽曲を気にいり、大滝個人に三ツ矢サイダーのCMが持ち込まれたもの(はっぴいえんど伝説、1983年、萩原健太、八曜社、pp.158-159、牧村憲一『ニッポン・ポップス・クロニクル 1969-1989』スペースシャワーブックス、2013年、p.63、ほぼ日刊イトイ新聞 - 大瀧詠一さんと、トリロー先生の話を。第4回)。。

小川博司は、「吉田拓郎がこの時期手掛けたCMソングはフォークの日常感覚により活性化された。逆に、商業主義的なものとは無縁の存在で、そこに自らの存在理由を見出していたフォークは、CMの世界に一歩踏み込み、ここでも方向転換をとげた。この後フォーク対歌謡曲、広告音楽対レコード流行歌といった区分は、ますます曖昧なものとなり、CMソングがレコード化されることも頻繁になった」と論じている消費社会の広告と音楽、林進・小川博司・吉井篤子、有斐閣、1984年、pp.40-44, 57。

桜井哲夫も、「吉田拓郎が『フォーク』と『歌謡曲』の区分を壊したこと、CMソングに進出したこと、この二つの点こそが拓郎以後を特徴づけることになった。フォーク対歌謡曲、CM音楽対レコード流行歌といった区分は揺らぎ、融合してゆくことになった」と論じている思想としての60年代、桜井哲夫、講談社、1988年、p.128。

新旧の音楽界の交流の活性化

森進一に提供した「襟裳岬」の大ヒットをきっかけに渡辺晋は、拓郎の楽曲の実力を買って、キャンディーズなど多くの自社所属歌手への楽曲提供を拓郎に依頼したアサヒ芸能、徳間書店、2009年6月25日号、p.39、2009年7月23日号、p.189。渡辺プロダクションは、これを機に布施明小椋佳の「シクラメンのかほり」(1975年)、三木聖子へ荒井由実(1976年)の「まちぶせ」など、他社に先駆け積極的にニューミュージック系ミュージシャンの起用を行ったアグネス・ラムのいた時代、長友健二+長田美穂、中央公論新社、pp.157-158。これ以降、楽曲を媒介にして旧勢力と新勢力の両者は交流を始め、演歌界を含む歌謡界がニューミュージック系ミュージシャンの楽曲を取り上げることがブームになり定着していった日本のフォーク&ロック・ヒストリーー(2) ニューミュージックの時代、シンコーミュージック、1993年、pp.27-28別冊宝島編集部「音楽誌が書かないJポップ批評26」、別冊宝島804、2003年 宝島社、p.140音楽CD検定公式ガイドブック(下巻)、音楽出版社、2007年、p.111。これはニューミュージックという言葉をより曖昧なものとしてしまった原因の一つでもあるが、この後阿久悠や筒美京平のように歌謡曲側の作家が、それぞれ桑名正博、Charのようなニューミュージック側の人に曲作りをするという現象も多くなったホットドッグ・プレス、1980年2月号、講談社、p.105『阿久悠 命の詩〜『月刊you』とその時代〜』、講談社、2007年、pp.112-113。またCMソング作家だった小林亜星が作曲した「北の宿から」が1976年、第18回日本レコード大賞等を受賞するというようなケースも出てきた。「襟裳岬」の前までは演歌系歌手は演歌系作家が作る、のようなはっきりした図式があったイエスタディ '60's - '80's ―音楽記者の取材ノートから―、1989年、CBS・ソニー出版、pp.94-95。これらはフォークが歌謡曲に取り込まれた、歌謡曲化したともいえるが、フォークがアンダーグラウンドから脱し市民権を得たともいえる消費社会の広告と音楽、p.41。「襟裳岬」が世に送り出されていなければ、今日のJ-POP自体がかなり異なったものになっていた。「襟裳岬」は両者が邂逅した記念碑的作品であった。拓郎は同年、浅田美代子に「じゃあまたね」を小柳ルミ子にも「赤い燈台」を書き下ろし、シンガーソングライターとアイドルの蜜月という架橋を同時に築く。歌謡曲の進化をもたらした異業種混合のコラボレートの歴史は拓郎の偉業から始まる歌謡曲とフォークの架け橋めざして〜太田裕美さん歌謡ポップス・クロニクル 特集アスペクト39、アスペクト、pp.122-125, 194失われた歌謡曲、1999年、金子修介、小学館、p.89FM雑誌と僕らの80年代、恩蔵茂、2009年、河出書房新社、pp.40-41青二才の頃 回想の70年代、p.105すばらしき仲間たち ニューミュージック′80、立風書房、1980年、p.93週刊朝日1975年12月26日号、pp.35-41スーパーテレビ情報最前線 「吉田拓郎 『復活』への全軌跡」日本テレビ、2003年10月27日放送(archive)。この後、"日本初のアーティストによる"レコード会社フォーライフを立ち上げ、原田真二をプロデュースして、ロックのアイドル化、メジャー化にも貢献原田真二 アルバム『OUR SONG』 インタビュー PAGE2/音楽情報サイト: hotexpress原田真二セレクトのプレイリスト(インタビュー)織田哲郎ロングインタビュー第13回|織田哲郎Project2007

ミュージシャン系プロデューサーの先駆
小室哲哉やつんくのプロデュース活動が活発になった頃、ミュージシャン系プロデューサーの先駆者としても紹介された。拓郎は"日本初のミュージシャン兼プロデューサー"と評される。拓郎がフォーライフを設立した理由もミュージシャンがプロデュース権を強く持つ、プロデューサーシステムの確立を目指してのものであったし『新譜ジャーナル・ベストセレクション'70s』、自由国民社、2003年、pp.222-223、明日に向かって走れ、pp.191-198、もういらない、pp.94-95、拓郎自身、プロデューサー業を手掛け始めた1972年頃からすでにプロデューサー業に対する強いこだわりを持ち、1976年の自著『明日に向かって走れ』でも、プロデューサーとは何かとの持論が長く語られている。職業作詞家との多くのコラボレーションは拓郎が初めてである。現在では見られないR&B+ 浪花節をベースとするコンポーザーである。
かまやつひろし
かまやつひろしとのコラボレーション、1974年、デュエット「シンシア」、1975年のオリコン1位「我が良き友よ」は、拓郎ファンだったかまやつが「一緒にやろう」と長年、拓郎を口説いて実現させたもの。
こうしたロック、演歌やアイドル歌手を含む歌謡曲、子供番組などとのコラボレーションを含めて異種組み合わせの突破口を開いた先駆者でもあったムッシュ!、2002年、ムッシュかまやつ、日経BP社、pp.141-153青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p.142, 152「FM雑誌と僕らの80年代 『FMステーション』青春記」、恩蔵茂、河出書房新社、2009年、pp.41-42「隔週刊 青春のうた ベストコレクション43」、2007年9月18日、p.605, 608。「シンシア」は、拓郎がファンだった南沙織へのオマージュ曲で、同時代に活躍したアイドルの名前・愛称をタイトルに付けて唄うという珍しい楽曲地球音楽ライブラリー 吉田拓郎、p.128。『ミュージックフェア』で共演もしている。
キャンディーズ
1977年、渡辺晋から「キャンディーズを大人にしてやってくれ」という依頼を受け、キャンディーズ の「やさしい悪魔」と「アン・ドゥ・トロワ」のシングル2曲を含む4曲の作曲を手がけた。
もともと拓郎はキャンディーズファンで、キャンディーズのブレイク直前に自身の番組『吉田拓郎のオールナイトニッポン』にゲストで呼んだり(1975年3月4日、ミキちゃんは風邪で欠席)、特にスーちゃんファンで吉田拓郎、田中好子さんとの思い出秘話 - 芸能 - SANSPO.COM (archive)、やはり『オールナイトニッポン』」にスーちゃんを単独でゲストに呼んだこともあるさよならのメッセージ、1978年、キャンディーズ、勁文社、p.188、GO!GO!キャンディーズ― キャンディーズ革命、1977年、文化放送編、ペップ出版、p.188。またキャンディーズが解散宣言をした時「アン・ドゥ・トロワ」のレコーディング中、「本当に解散するの?」と聞いたら、3人口をそろえて「申し訳ありません、事務所を通して下さい」と言われたと自著に書いている。ただし拓郎のアルバム『ぷらいべえと』のジャケットの女の子の絵は、拓郎が週刊誌で見たランちゃんを書いたと言われており真偽は不明。女の子は「やさしい悪魔」のジャケットのランちゃんに似ている。
「やさしい悪魔」は音域の広い難曲で、歌のうまいキャンディーズもレコーディングに苦戦した。これはキャンディーズファンだった拓郎が、レコーディングでキャンディーズに歌唱指導をしたいがために、わざと難しくしたと噂が出た小室等の音楽夜話、FM東京、1977年8月12日拓郎はランちゃんが苦戦したのは、その日が生理だったからとマネージャーに言われたと記している。。「やさしい悪魔」は、それまでのキャンディーズの清楚なイメージを一新、“デビルサイン”を含めた斬新な振り付け、“大人化計画”に応えた詞曲で、キャンディーズ最大のヒットになった(最終的には「微笑がえし」、「わな」に次ぐ3位)1977年発行 キャンディーズ ファンクラブ会報 No.9。キャンディーズファン・石破茂も「音楽的に完成度が一番高い名曲」と話し毎日新聞、2008年4月3日夕刊2面、キャンディーズ自身も「私たちの代表曲」と話している小室等の音楽夜話、FM東京、1977年8月12日。後期キャンディーズは、拓郎抜きに語れない自動改札のアイドルPOP考 VOL.2 - プレイリストから新たな音楽を発見。拓郎も「やさしい悪魔」を自身のアルバム『ぷらいべえと』で、「アン・ドゥ・トロワ」は『大いなる人』でセルフカバー、後者はキャンディーズが解散宣言(1977年7月)した直後のリリースだったため、サブ・タイトルに「ばいばいキャンディーズ」と付け、歌のラストで“さよならキャンディーズ”と歌った地球音楽ライブラリー吉田拓郎、TOKYO FM出版、p.158, 159, 209, 210あの解散宣言の2ヶ月後にリリースされたキャンディーズ「アン・ドゥ・トロウ」、GO!GO!キャンディーズ― キャンディーズ革命、1977年、文化放送編、ペップ出版、p.254失われた歌謡曲、1999年、金子修介、小学館、p.203。
このシングル2曲の他に、「やさしい悪魔」のB面「あなたのイエスタデイ」、1977暮れに発売された5枚組アルバム『キャンディーズ1676DAYS』に収録された「銀河系まで飛んで行け!失われた歌謡曲、1999年、金子修介、小学館、p.90」(いずれも『GOLDEN☆BEST キャンディーズ』に収録)を提供。なお「銀河系まで飛んで行け!」は、事務所の先輩・梓みちよが気にいり、同曲を自身が先にシングルカットしてしまったため、キャンディーズがシングルで出せなかったとされる。
梓みちよ
梓みちよのレコーディングでは「アナタは歌がうまいから困るんです。僕としては、もっと下手に、そう、思い切って下手クソにやってほしいんです」と言うと、梓は『メランコリー』を目一杯下手クソに歌って一言、「これでいいわけ。フン、変なの、アンタたちの音楽」と言ったという。ただ、梓は拓郎はレコーディングには来なかったと話している垣花正のあなたとハッピー!、ニッポン放送、2010年9月20日。この曲の作曲は拓郎だが「緑のインクで手紙を書けばそれはさよならの合図になる」と書かれた喜多条忠の作詞もヒットした。それまでフォークの作詞家だった喜多条に「お前に歌謡曲の作詞はムリだろ?」と言う拓郎の挑発に喜多条が奮起して作詞を手掛けたものWEEK-END Party 〜forever young〜、NACK5、2007年4月20日。1976年、梓も紅白歌合戦で歌う際、この曲の短縮を要求されNHKともめたが出場したスキャンダル 紅白歌合戦、竹中労、みき書房、1979年、p.186。
原田真二
フォーライフ第1回新人オーディション(1976年)に応募してきた原田真二は選考段階では不合格であったが、興味を示した拓郎が課題を再提出させ オデッセイ★原田真二編、1978年、ペップ出版、pp.65-66原田の高校卒業と上京を待って1977年10月、拓郎プロデュースにより「てぃーんずぶるーす」でデビューさせた。デビューにあたり原田の部屋探しから、原田の曲作りのため松本隆瀬尾一三を交えて合宿させたり原田真二インタビュープロの作曲家というものが、いかに綿密な計算をしたうえで楽曲を創作しているかを説明するため筒美京平を盛んに聴かせたり、もともとギターを弾いていた原田を当時は珍しいピアノの弾き語りに変えたり、拓郎自身が始めた"ニューミュージック系の人達はテレビに出ない"という風潮の時代に、原田には一転、パブリシティのためラジオ・テレビの出演や雑誌の取材を積極的に用意した第62回 ニューミュージックもテレビをメインに新戦略FLASH臨時増刊 Extime、p.34。
こうした戦略が功を奏し、シングル3曲が同時にオリコンベスト15位入りてぃーんずぶるーす6位、キャンディ10位、シャドーボクサー14位(期日不明)。(青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p.213、日本のベストアルバム―フォーク&ロックの25年―、1992年、田家秀樹監修、シンコー・ミュージック、p.92)。、ファーストアルバム「Feel Happy」が史上初のオリコン初登場第1位(4週連続)を獲得する快挙を達成し『Jロック&ポップスCD名盤ガイド』立風書房 p.61 フォーライフの危機をも救った地球音楽ライブラリー 吉田拓郎、TOKYO FM出版、p.10アサヒ芸能、2009年7月9日号、pp.39-40。また原田はヤマハ出身の世良公則&ツイストとともに、女子中高生を中心に爆発的人気を呼び、それまでの"日本のロック系ミュージシャン"には付いていなかった女性ファンを開拓し新たな潮流を生み出した1970音楽人大百科 日本のフォーク/ニューミュージック/ロック、学習研究社、p.165どうにもとまらない歌謡曲 −七〇年代のジェンダー、舌津智之、2002年、晶文社、p.145日本ロック大系〈下巻〉、1990年、月刊オンステージ編集部、白夜書房、p.415別冊太陽 日本のロック 50's〜90's、1993年、平凡社、pp.105-106現代風俗史年表、若森繁男、河出書房新社、p.300青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p.213Media View 1970-1999 売れたものアルバム、2000年1月、東京書籍、p.199Jロック&ポップスCD名盤ガイド 2001年 立風書房 p.60, 200, 237。"日本のロック"のメジャー化に多大な貢献があった音楽CD検定公式ガイドブック(下巻)、音楽出版社、2007年、p.11日本ロック大系〈下巻〉、月刊オンステージ編集部、白夜書房、pp.415-417Jロック&ポップスCD名盤ガイド、立風書房 p.200J-ROCKベスト123 1968-1996、講談社、pp.158-160新宿ルイード物語、1988年、富澤一誠、講談社、pp.155-157「隔週刊 青春のうた ベストコレクション43」、2007年10月16日、pp.634-636, 639音楽CD検定公式ガイドブック(下巻)、音楽出版社、2007年、p.11。アミューズは、渡辺プロダクションを退職した大里洋吉が、原田を売り出すために設立したもの第25回 大里洋吉 氏 | Musicman-NET「隔週刊 青春のうた ベストコレクション43」 デアゴスティーニ・ジャパン、2007年10月16日、p.635。
石野真子
石野真子については、阿久悠が他のアイドルとは違う売り方を考え拓郎に作曲を依頼した歌謡曲の時代 歌もよう人もよう、阿久悠、2004年9月、新潮社、p.207。石野はフォークソングが好きで拓郎のファンだったアイドルという人生、石川順恵、1998年1月、メディアワークス/主婦の友社、p.41。「狼なんか怖くない」のレコーディングでは、唄えば唄う程上手くなると石野を徹夜で励まし、デビューに賭けたスタッフからは、レコーディングが終了すると大歓声が上がった「心に残るニッポンの歌」、テレビ朝日系、2009年1月1日石野真子さん(2/3) - インタビュー - ひと - どらく (archive)歌謡コンサートブログ:NHKブログ | スタッフだより | 『時代の歌。曲の音程の上がり下がりが難しくレコーディングに8時間かかったと石野は話している日刊スポーツ、2008年3月26日、p.17アサヒ芸能、2009年7月23日号、p.189。拓郎の曲は難しいとキャンディーズも話していた。
吉田は石野真子に対して、デビューシングル「狼なんか怖くない」「ひとり娘」、2作目「わたしの首領」「いたずら」、そのほか「ぽろぽろと」、「ジーパン三銃士」(すべて作詞は阿久悠)を提供した。
なかにし礼
1977年、なかにし礼にアルバム製作を依頼し、なかにしが全曲作詞・作曲・歌唱したアルバム『マッチ箱の火事』がフォーライフから発売された。このアルバム中の「時には娼婦のように」が翌年、シングル・カットされ、なかにし歌唱の盤と黒沢年男の盤との競作となり、いづれも大ヒットした「昭和歌謡黄金時代 作詞家 なかにし礼の世界」NHK BS2、2012年8月8日放送、なかにし礼「時には娼婦のように」 世間の常識にノン【1978年5月】時には娼婦のように/ヤバすぎてテレビで歌えない?黒沢年男 事故で予感「特集 昭和ですよ!」『kotoba』2013年冬季号、集英社、p.43。歌詞が際どい内容で、黒沢も尻込みして嫌がる程であったが「賛同者は拓郎一人だけだった」となかにしは話している。本曲は、すべてのテレビで放送禁止扱いになるなど物議を醸した『放送禁止歌』森達也、光文社、2003年、pp.70-71。

ラジオ・パーソナリティとして

しゃべり (MC) の魅力
ソノシート制作のきっかけとなった1970年6月の広島フォーク村アルバム発売記念コンサートで拓郎を初めて見たという「ヤング・ギター」初代編集長の山本隆士は「しゃべりが面白く『歌えて、しゃべりも出来る』というスタイルは拓郎が最初じゃないかな」と述べている。田家秀樹は「それまではレコード会社専属の作詞家、作曲家、歌手が音楽を手掛けるのが主流だったが、ラジオ番組がフォークシンガーたちに曲を発表する場所を提供したことで、吉田拓郎らがラジオで一時代を築いた結果、話が面白くて、曲が魅力的であれば誰でも世の中で注目を集められるようになった」と論じている。竹内まりやは「拓郎の話が面白くてラジオをずっと聞いていた。それまでラジオで話が面白い人はいなかった。そこもセンセーショナルだった」などと話している。拓郎は1970年のデビューシングル「イメージの詩/マークII」(両A面)から、ラジオの深夜放送では曲がよくかかっていた。しかし当時のテレビの歌番組は、深夜ラジオ出のお里が知れない新鋭を敬遠するようなムードがあり、テレビサイドから出演依頼の声がかかることはなかった。有名なテレビ出演の拒否は、2年後に「旅の宿」が大ヒットしたことで、それを無視できなくなったテレビサイドからの出演依頼に対する反撥であったため、それまでの拓郎は、コアなモノ好きの若者の支持を集める「深夜世界のカルト・スター」だったのである。
拓郎のファンになったきっかけとして長渕剛のようにギターやハーモニカを掻き鳴らして唄う姿に痺れたという人や、ルックスに惚れた、とにかく曲がよかったという人など色々だが、その他、コンサートでの"シャベリ"、"しゃべり"今でいう"MC"の面白さや歌唱時の声とは違う、喋るの時の低音でよく響く声の魅力を挙げる人も多い総武線猿紀行 総武線猿紀行第282回SISTER JETのそれ行け!カバーボーイ 第四回 Page.2 - プレイリスト、en-taxi 第21号、2008年、扶桑社、p.94吉田拓郎'70-'90ヒストリーブック、p.89。

ホリプロで井上陽水の初期のマネージメントを担当した川瀬泰雄は『拓郎らはしゃべりが上手で、コンサートの半分はしゃべりで客をわかせたりしていた。ところが陽水はぜんぜん受けず。たまにコンサートでポツリと受ける言葉をメモして陽水に渡した。ともかく客に受けることで必死だった』と話しているEt Tu BRUTE?

初期の拓郎の"しゃべり (MC)"は長く、持ち時間50分のステージでたった2曲を演奏し、残り40分がMCというようなこともあったヒットの種、2008年、サエキけんぞう、東京ニュース通信社、p.125日本崖っぷち大賞、1998年、みうらじゅん泉麻人山田五郎、安斎肇、毎日新聞社、p.180。
こうした拓郎の"しゃべり"を当時のアマチュアもよく真似た。この頃のフォークシンガーは自分の思ったこと、「バカ野郎、テメエ、この野郎」「テメエ、ブッ殺してやる」とか、あっさり平気で言っていたニュー・ミュージックマガジン1972年11月号、ミュージック・マガジン、p.94。上京直後は、酒気を帯びてステージに上がることがあり、ステージマナーが悪いと叩かれたguts、表現技術出版、1970年8月、p.12。
拓郎は1972年5月の「guts」のインタビューで「日本のフォークの連中はレコードは最高だけどステージがおもしろくない」と話しており、後年始めたコンサートツアーと共にこうしたコンサート/ライブでの演出スタイル、ステージングに於いても草分けであった別冊宝島1637 音楽誌が書かないJポップ批評60 THE ALFEE、宝島社、2009年、p.123アサヒ芸能、2009年7月16日号、p.190SISTER JETのそれ行け!カバーボーイ 第四回 - プレイリスト近年のコンサート/ライブでは、こうしたMCも重要な構成要素とされるが、小室等は1980年に出した著書の中で、歌と直接関係を持たない、お客さん用のおしゃべりのような、くだらないことを拓郎にやらせた、覚えさせたのはファンに半分責任があると、MCに対する問題提起をしている(出会いは旅のなかで、小室等著、晶文社、1980年2月、p.146)ほぼ同じ内容の記述(新譜ジャーナル ベストセレクション'70s、2003年、自由国民社、p.66)。これは後、多くのレギュラーを持ったラジオのパーソナリティでさらに活かされることになる。
ミュージシャン・パーソナリティ
1971年10月にパックインミュージックのパーソナリティに就任したのを皮切りに、担当した多くのラジオ番組と合わせ深夜放送のミュージシャン・パーソナリティのスタイルを確立したオールナイトニッポンドリームウィーク音楽CD検定公式ガイドブック(下巻)、音楽出版社、2007年、p.29別冊カドカワ 井上陽水、p.205。深夜放送のDJを"パーソナリティと"いう呼び方に変え始めたこの頃から、各局はこぞってフォークシンガーを起用60年代フォークの時代 - 日本のフォーク&ロック・ヒストリー1』、p.116NEW MUSIC '81 ニューミュージック事典、学習研究社、p.19フォークソング運動、2001年、辻俊一郎、新風舎、p.77ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p.120セイ!ヤング&オールナイトニッポン70年代深夜放送伝説、pp.22-29, 56-58嘉門達夫 | OGな人びとVol.27 - OCN TODAY。これは巨大メディア化するテレビに対して、若者のパーソナル・メディアとしての存在に生き残りをかけていたラジオと、この後テレビを出演拒否する拓郎をはじめとするフォークシンガー達が、ステータスを維持するための利害関係が一致した結果であった日本のフォーク&ロック・ヒストリーー(2) ニューミュージックの時代、シンコーミュージック、1993年、pp.25-27。それは商業的にも大きな可能性を秘めた市場の開拓であったタイアップの歌謡史、2007年、速水健朗著、洋泉社、p.83。亀渕昭信は「深夜放送ブームと並行しまして、ちょうどフォークソングも全盛期を迎えました。吉田拓郎さん、南こうせつさん、さだまさしさん、松山千春さんといった、非常にしゃべりのうまい方をラジオのパーソナリティに起用したんですね。深夜放送ブームが去ってからも彼らの力によってラジオ番組は生き延びていったと言えるでしょう」と述べている言葉の達人たち、阿久悠、扶桑社、1993年、p.174、嘉門達夫 | OGな人びとVol.27 - OCN TODAY。また、「中島みゆきさんにしろ、吉田拓郎さんにしろ、自分の内面や生き方を、ちゃんと番組の中で晒していたから、パーソナリティーとリスナーの距離が近くて濃密な関係を築けた。生き方を晒していたことが、曲づくりにもつながって、ファンもそれを支持していた。キャラクターが強く、人間性が出ていたから、長い間アーティストとしての影響力を保てた」などと述べている- MOMM | Music Scene 亀渕昭信03
楽曲のプロモーション
ラジオでレギュラー番組を持ち、ヒットを出すやり方は、その後のニューミュージック系歌手の常套手段となった日本ロック大系、月刊オンステージ編集部、白夜書房、1990年8月、〈上巻〉p.194。また拓郎の場合は自作曲の売り込みだけでなく、フォーク、ロック普及のため、他のアーティストを広く紹介したという功績もある。先に挙げたようにボブ・ディランを広く紹介したという功績は大きいし、ガロの「学生街の喫茶店」やダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「スモーキン・ブギ」の大ヒットは拓郎が自身のラジオ番組でプッシュしたのが大きな理由だったHotwax 日本の映画とロックと歌謡曲 vol.6、p.83, 87関西フォーク70'sあたり、2003年、中村よお、幻堂出版、pp.76-78アサヒ芸能、2009年1月29日号、pp.70-71、アサヒ芸能、2010年11月11日号、p.71大野真澄 連載 - なこと一覧

ディスコグラフィ・楽曲提供・書籍

出演

現在の出演

テレビ

  • 「吉田拓郎の千夜一夜」→「吉田拓郎 YOKOSO」(NHK BSプレミアム、2013年 - )

ラジオ 

  • 吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD(ニッポン放送、2020年4月10日 - )- 毎月第2金曜日に放送

過去の出演

テレビ

音楽番組
  • 愉快にオンステージ(NHK総合、1989年10月23日・1990年1月29日)ホストとして出演。
  • LOVE LOVE あいしてる(フジテレビ、1996年 - 2001年3月31日)KinKi Kidsと共に司会を担当。
  • ワールドカウントダウンスーパースペシャル24時間まるごとライブLOVE LOVE2000〜世界中の子供たちに僕らが愛でできること(フジテレビ、1999年12月31日 - 2000年1月1日)KinKi Kids、篠原ともえと共にメインパーソナリティを担当。
  • 吉田拓郎〜これからも元気です(TBS、2001年2月10日)
  • 吉田拓郎デラックス(NHK-BShi、2002年12月9日)
  • 拓郎マチャミのみんな歌えるスーパーヒット(フジテレビ、2003年10月12日)
  • 吉田拓郎&かぐや姫 in つま恋2006・総集編(NHK-BS2、2006年10月29日)
  • 大いなる明日へ 〜復活!吉田拓郎〜(NHK-BS2、2009年3月22日)
テレビドラマ
  • おはよう(TBS、1972年7月5日 - 1972年10月25日) - マリの兄・吉野役
  • あこがれ共同隊(TBS、1975年) - ゲスト出演
  • なつかしき海の歌(TBS、1975年9月21日) - テレビ局AD・下沢役
  • 男なら!(TBS、1979年9月4日) - 本人役で第22話にゲスト出演。
  • しあわせ戦争(TBS、1980年10月8日) - ミュージシャン・岸本衆役として第6話にゲスト出演
  • 幕末青春グラフィティ 坂本竜馬(日本テレビ、1982年11月16日) - 高杉晋作役
  • マッハブイロク・Big大作戦(フジテレビ、2000年6月29日) - 本人役
バラエティ
  • 地球ZIG ZAG(TBS、1993年4月 - 1994年3月)隊長(司会)を担当。
  • 吉田拓郎のお喋り道楽(TBS、1997年4月4日 - 9月26日)
  • T×2 SHOW(テレビ朝日、2000年10月 - 2002年9月)高見沢俊彦と共に司会を担当。
旅番組
  • 吉田拓郎・牧瀬里穂・ラサール石井のトキメキ心の故郷三人旅故郷・鹿児島県で思い出の地を巡る(日本テレビ、1997年11月9日) - 牧瀬里穂ラサール石井と共演。
  • 吉田拓郎&中村雅俊・よみがえれ青春!シッチャカメッチャカ!広島の旅(TBS、1999年7月25日) - 中村雅俊と共演。
  • 吉田拓郎&中村雅俊・欲張りワガママ四国旅(テレビ朝日、2003年9月20日、2004年7月10日) - 中村雅俊眞鍋かをりらと共演。
ドキュメンタリー番組
  • 吉田拓郎TV特番『吉田拓郎 〜これからも元気です〜』(TBS、2001年2月10日)
  • スーパーテレビ情報最前線『吉田拓郎 「復活」への軌跡』(日本テレビ、2003年10月27日)
  • プレミアム10『今日までそして明日から〜吉田拓郎・35000人の同窓会〜』(NHK総合、2006年10月23日)

ラジオ

  • パックインミュージック(TBSラジオ、1972年4月 - 9月)
  • たくろうの気ままな世界(TBSラジオ、1972年10月 - 1973年5月)
  • バイタリス・フォークビレッジ(ニッポン放送、1972年)
  • 吉田拓郎のオールナイトニッポン(ニッポン放送、1974年4月 - 1975年12月、1980年10月 - 1982年3月)
  • セイ!ヤング(文化放送、1978年4月 - 1980年3月)
  • ヤングタウンTOKYO・サタデーナイトカーニバル(TBSラジオ、1980年4月 - 1981年10月)
  • フォーエバー・ヤング(TOKYO FM、1985年1月 - 1988年2月)
  • 吉田拓郎 CLUB25→吉田拓郎 CLUB26→吉田拓郎 CLUB26プラスワン(TOKYO FM、1995年1月 - 1996年12月)
  • 吉田拓郎のオールナイトニッポンDX(ニッポン放送、1997年10月 - 1998年3月)
  • 吉田拓郎 それイケ!(ニッポン放送、1998年4月 - 1999年3月)
  • 吉田拓郎のSuper Music Stadium(ニッポン放送、2000年10月 - 2001年3月)
  • 吉田拓郎とアスリートな彼女たち(ニッポン放送、2001年10月 - 2002年3月)
  • セイ!ヤング21(文化放送、2002年10月 - 2003年3月)
  • 吉田拓郎 わがままベスト10(ニッポン放送、2003年10月 - 2004年3月)
  • 俺たちのオールナイトニッポン40時間スペシャル(ニッポン放送、2008年2月24日)
  • 吉田拓郎 残暑お見舞い申し上げます(ニッポン放送、2008年8月)
  • 坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD(ニッポン放送、2009年12月 - 2013年9月)
  • 元気です!吉田拓郎(ニッポン放送、2010年10月 - 2012年3月)
  • 吉田拓郎 ラジオでナイト(ニッポン放送、2017年4月2日 - 2019年3月31日)

映画

  • 女子学園ヤバイ卒業(1970年) - 本人役
  • 百万人の大合唱(1972年) - 本人役
  • 刑事物語 くろしおの詩(1985年) - 屋台のラーメン屋の客役
  • 幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬(1986年) - 高杉晋作役
  • 微熱少年(1987年) - カメラマン役

CM

  • サッポロビール「サッポロ☆ドライ」(1988年) 広岡達朗と共演
  • TaKaRa「純」レジェンド(1994年)
  • オートレース(1994年)
  • セルラー電話(1994年)
  • アサヒビール『アサヒ黒生』(1997年)
  • サンヨー食品「カップスター」(1999年)
  • P&G『ジョイ』(1999年)
  • ユニクロ(2001年)
  • 黄桜おやじ倶楽部「辛口一献」(2007年)

関連書籍

  • 気ままな絵日記/吉田拓郎著/角川文庫(1983年)
  • 明日に向って走れ/吉田拓郎著/ 角川文庫(1983年)
  • 俺だけダルセーニョ―いまもどりたい自由な世界/吉田拓郎著/ 集英社(1984年)
  • 自分の事は棚に上げて / 吉田拓郎著 /小学館(1992年)
  • 自分の事は棚に上げて ふたたび/吉田拓郎著/小学館(1994年)
  • 吉田拓郎*お喋り道楽/吉田拓郎著/徳間書店(1997年)
  • もういらない / 吉田拓郎著]/祥伝社(2002年)
  • 晴れときどき拓郎 : Younger than yesterday / 吉田拓郎著 ; 文化放送「セイ!ヤング21」編 /小学館(2003年)
  • 豊かなる日々 : 吉田拓郎2003年の全軌跡 / 田家秀樹著 /ぴあ(2004年)
  • 吉田拓郎 / 田家秀樹監修 /改訂版/TOKYO FM出版(2007年)
  • 吉田拓郎終わりなき日々/田家秀樹著/角川書店(2010年)
  • 誰も知らなかった吉田拓郎 / 山本コウタロー著 /イースト・プレス(2009年)
  • 吉田拓郎とつま恋と僕 / 木下晃著 /講談社(2010年)
  • いつも見ていた広島 : ダウンタウンズ物語 / 田家秀樹著 /小学館(2007年)

NHK紅白歌合戦出場歴

年度/放送回 曲目 出演順 対戦相手 備考
1994年(平成6年)/第45回 外は白い雪の夜バックバンドは宮川泰(キーボード)、日野皓正(トランペット)、日野元彦(ドラム)、大西順子(ピアノ)、石川鷹彦(アコースティックギター)、渡辺香津美(エレキギター)、金沢英明(ウッドベース)、吉田建(ベース)、さらにバックコーラスとして五木ひろし森進一前川清という豪華の顔ぶれのステージとなった。 11/25 松田聖子 後半トップバッター

関連人物

主な共演者・サポートミュージシャン(レコーディングを含む)

あ行*青山徹*浅川マキ*朝倉真司*新井英治*荒井由実*石井宏太郎*石川鷹彦*石川鉄男*石山恵三*伊藤明夫*稲葉政裕*井上慎二郎*井口喜典*今井マサキ*今泉正義*岩崎元是*内山修*エルトン永田*遠藤賢司*大嶋吾郎*大滝裕子*大西順子*大村雅朗*岡沢章*奥野恵*小倉博和*小田原豊*小原礼か行*加藤和彦*金沢英明*鎌田清*鎌田裕美子*かまやつひろし*神本宗幸*川上恭生(KYON)*菊谷淳子*岸義和*木田高介*木戸やすひろ*国吉良一*栗林稔*小出道也*後藤次利*駒沢裕城*小室等さ行*斎藤ノヴ*坂井リエコ*坂崎幸之助*佐藤竹善*佐藤準*澤田駿吾*重田真人*島村英二*清水信之*清水仁*陣内大蔵*陣山俊一*鈴木茂*砂原俊三* 隅山時一*瀬尾一三た行*高中正義*高橋研*高見沢俊彦*田口清*武部聡志*武部秀明*田代耕一郎*館野江里子*田中章弘*田中清司*田辺和博*チト河内*常富喜雄*坪倉唯子*トータス松本*徳武弘文*富倉安生*富田京子*鳥山雄司な行*中川雅也*中沢厚子*中島みゆき*中西康晴*中村哲*成沢彰三*西川進*納見義徳*野村義男
は行*浜口茂外也*林立夫*土方隆行*日野皓正*日野元彦*平野融*Bro.TOM*古川望*古川昌義ま行*松尾一彦*松田弘*松任谷正隆*松原正樹*美久月千晴*南こうせつ*宮川泰*宮田繁男*宮下文一*村石雅行*村上秀一*森高千里や・ら・わ行*矢島健*柳田ヒロ*山川恵子*山田秀俊*山中雅文*山本拓夫*湯川トーベン*よしだけいこ*吉田建*吉田美奈子*米倉利紀*若子内悦郎*渡嘉敷祐一*渡辺格*渡辺香津美グループ*愛奴*THE ALFEE*オフコース*かぐや姫*トマト ストリングス*トランザム*猫*ハイ・ファイ・セット*バズ*ピピ&コット*マックス*六文銭外国人*エリック・ワイズバーグ*ガース・ハドソン*ジェイク・コンセプション*デヴィッド・リンドレー*ブッカー・T・ジョーンズ*マーク・ゴールデンバーグ*ラス・カンケル*リーランド・スカラー

3度の結婚

四角佳子
最初の四角佳子との結婚は、拓郎が路上で4人を相手にケンカしてメチャクチャにぶちのめされたのを四角が介抱したのがきっかけ。四角との間には三度の結婚歴で唯一の子供(娘・一般人)がいる「たくろうLIVE'73」ライナーノーツより。
二人の結婚式は1972年6月、軽井沢の教会で行われたが、婚約発表も自身のラジオ番組、パックインミュージックの中だけ、マスコミの取材・会見も一切しなかった。おめでたい結婚でマスコミを拒否するということも当時の常識では考えられないことだった。当時はスターが結婚したら人気は間違いなく落ちる、というのも世の常識だったが逆に人気が上昇した。

拓郎の酒癖の悪さは有名で、上京当時は酔って週に1度はケンカをやったという。

浅田美代子
二人目の妻となった浅田美代子は拓郎自身もファンで、当時21歳で人気絶頂期だった浅田を自分の持ち番組にゲストで呼び、その後結婚した。最初にこの二人の交際報道が出た時は、まだ四角との離婚は成立しておらず、この結婚には内田裕也・樹木希林夫妻の奔走があったという【1973年5月】赤い風船/浅田美代子 危なっかしが“いい宣伝”に ...
後に浅田が芸能界に復帰し「オシャレ30・30」等のトーク番組でその時のことを詳しく話し、当時の拓郎の行状が明らかになった。ゲスト出演して電話番号を交換すると後日(浅田の誕生日の前夜に)拓郎から電話がかかってきて「今、小室等さんと飲んでるんだけど、誕生祝いしてあげるから0時過ぎたら来なよ」と誘われた。マネージャーからは会ってはいけない、と釘をさされていたが、言われた酒場に行くと拓郎一人しかいない。「小室さんは?」と聞くと「ああ今帰ったよ」と言った。
一説には男子トイレの前で拓郎が通せんぼをして「俺と結婚しろ!」と浅田に迫ったところ、浅田は恐怖と照れと喜びが混ざって頭の中が真っ白になり、思わず「ハイ」と承諾してしまった、とも言われている。なお拓郎からプロポーズを受けた浅田美代子の返事は 「……ハゲない?」だったこの話は少し前があって、二人が付き合っている頃、拓郎の実家に行ったら、拓郎の祖父ら先祖の写真が飾られてあって、その人たちがみなハゲていたため、こういう返事になったとのことである(トーク番組での浅田の発言)。
ちなみに、浅田は吉田を「たくぶた」と呼ぶことがあった。

以上、2度の結婚式の披露宴の司会は、いずれも山本コウタロー南こうせつのコンビが務めた「1979年篠島ライブ」での山本のMC。

森下愛子
その後再び同じパターンで森下愛子とも結婚した。二度目のオールナイトニッポンのゲストで呼んだ時、森下は警戒し親友の竹田かほり(現在は甲斐よしひろの妻)と一緒にやって来た。森下は当時、根岸吉太郎との結婚が噂されていたが急転、拓郎と再々婚した。
「吉田拓郎&中村雅俊・欲張りワガママ四国旅」テレビ朝日、2003年9月20日、2004年7月10日放送 や『坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』2013年4月15日放送 での、拓郎と中村雅俊の話では、拓郎と森下をくっつけたのは中村。中村から拓郎に夜に電話があり「いま、森下さんと飲んでるんだけど来ませんか」と誘われ、朝8時まで3人で飲んだ。中村はTBSのドラマの撮影が朝8時から大船であったので、「拓郎さん、ホテルに行っちゃいなさい」とアドバイスしてその場を去り、2時間半遅れで大船に到着した。拓郎と森下はその後ホテルに行ったと話している。
一方「オシャレ30・30」に出演(1988年5月15日)した森下自身の話では、ラジオにゲスト出演した2、3年後に偶然?美容室で(当時、アンドレ・ザ・ジャイアントみたいな頭をしていた)拓郎に会って「今レコーディングやってるんで、見に来ませんか」と誘われて行ったのが付き合い始めた切っ掛けというOSHARE 30・30 VOL2、日本テレビ放送網、1989年6月、pp.186-187。他に古舘の「拓郎さんみたいな人を相手にするの大変でしょう?」という質問に対して森下は「いいえ、前のお二人が角を取って下さったみたいで、今はとても扱いやすいですよ」と答えていた。これらもフォーク・ロック系ミュージシャンとアイドル、あるいは女優との結婚の先駆けであった週刊朝日、1982年2月12日号、p.136歌謡曲という快楽 雑誌『よい子の歌謡曲』とその時代、2002年、宝泉薫+ファッシネイション、彩流社、p.172。ただ、「(ドラマ『純と愛』の)主人公のような夫がほしいなぁ」とも吐露。拓郎さんは違うのか?と問われ「まだまだ調教が必要。」と答えている2013年3月1日NHK総合『あさイチ』内のインタビュー映像にて。。
その他
自分の持ち番組に、自身がファンのアイドル・女優をゲストで呼び、その後結婚というパターンを長渕剛石野真子との結婚の時にした俺らの旅はハイウェイ、1990年2月、長渕剛、八曜社、pp.214-215よい子の歌謡曲、1983年、よい子の歌謡曲編集部編、冬樹社、pp.120-121歌謡曲という快楽 雑誌『よい子の歌謡曲』とその時代、2002年、宝泉薫+ファッシネイション、彩流社、p.19。こちらをセッティングしたのは当時、オールナイトニッポンの構成作家をしていた秋元康。ハワイの教会で行われた長渕と石野の結婚式の仲人を務めたのは拓郎と浅田夫妻(当時)であった。

交友関係

ミュージシャン

浅川マキ
浅川マキのファンだった拓郎は、アマチュア時代に広島から上京し、渋谷ジァン・ジァンで唄う浅川を見に来ていたという浅川マキ、幻の男たち、講談社、1985年、pp.151-158。拓郎のブレイク直前には二人でジョイントコンサートも行っている吉田拓郎と浅川マキ・ジョイントコンサート1972年吉田拓郎、かぐや姫、井上陽水、山崎ハコ、ガロ、ケメ、イルカ、リリー。写真家・TAMJIN(田村仁)が拓郎の写真を長く撮り続ける切っ掛けとなったのは、田村が撮った浅川マキのファーストアルバム『浅川マキの世界』の写真を拓郎が気に入り撮影の依頼をしたのが始まりで、中島みゆきも同じ理由TAKURO YOSHIDA ARTIST GALLERY. TAKURONICLE 1970-Just nowパンフレット、pp.14-15。
浅川マキは著書『幻の男たち』の中で拓郎とのエピソードを書いている。1980年代半ばに雑誌で拓郎の「女ともだち」を拓郎自身が写真で撮るという企画があって、拓郎は田村と共に浅川の部屋を訪れ浅川を撮った。撮影後、拓郎が「前にこの部屋に来た、新宿で一緒に飲んだ帰りだった」といった。しかしこれは拓郎の記憶違いで、拓郎が来たのは拓郎の深夜放送にゲストで呼ばれた日の後、と書いている。
THE ALFEE
1981年、オールナイトニッポンの番組企画で、拓郎のメドレー曲の製作を依頼された"墨田川高校の拓郎"こと坂崎幸之助(覆面バンド・BE∀T BOYS)は「待ってました」「俺しかできないだろ」と、遊びで製作に励み、歌も生ギターの弾き方もMCもコピーする徹底ぶり見せた。高校時代の青春・拓郎と仲良くなれた坂崎は、「僕のフォーク人生はこれで終わってもいい」と思ったという。この完成度から、1988年に形を変えて復活した際は大人気となり、レコード発売や全国ツアーを行った音楽的日乗 スローハンドVol.2、p.17地球音楽ライブラリー アルフィー、2004年、TOKYO FM出版、pp.336-339別冊宝島1637 音楽誌が書かないJポップ批評60 THE ALFEE、p.34。
高見沢俊彦が、現在のようにピンでテレビやラジオに出演するのは『T×2 Show』(テレビ朝日系、2000年10月 - 2002年9月)の司会を拓郎と担当してから。それまでは積極的にテレビには出ず、出演依頼も断り、場を仕切るなど考えもしなかったが、高見沢の面白さに目を付けた拓郎から「お前はテレビが性に合う」「将来必ず財産になるから」「俺の横にいるだけでいい」などと説得されやむなく出演した。ところが進行役は全てやらされたという。しかし、今では心の底から拓郎さんには感謝している、と述べている。また高見沢の“王子”キャラは拓郎がそう呼んだのがきっかけで始めたもの【ビジョン】THE ALFEE、高見沢俊彦の本音「今さら路線変更できない」実は「王子」に抵抗があった : タカミー王子の秘密 : 生き方!【エンタがビタミン♪】「ロックには見た目も大事」。高見沢俊彦、堂々宣言。還暦になっても王子を貫く!高見沢俊彦 | ロングインタビュー | R25.jp。高見沢は“王子”キャラの元祖である別冊カドカワ 総力特集 高見沢俊彦、2007年、角川ザテレビジョン、pp.12-13, 31あきらめない夢は終わらない、2004年、高見沢俊彦、幻冬舎、pp.181-183, 201-203。アルフィーにとっても拓郎はキーパーソンとなる別冊宝島1637 音楽誌が書かないJポップ批評60 THE ALFEE、p.18, 34。
飯田久彦
拓郎と同じく歌手出身のレコード会社社長経験者という共通点もあり、懇意にしている。
拓郎がフォーライフ・レコードからインペリアルレコードに移籍したのは、飯田がテイチクエンタテインメント代表取締役社長に就任したからである。また、飯田がエイベックスの取締役に就任した後、拓郎も飯田を慕いエイベックスに移籍した坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD内の発言より。
泉谷しげる
泉谷は、エレックレコードの後輩で、エレックを抜けた拓郎の代わりに売り出されたスターだった。世の中が泉谷の歌を下手だと言った時も「うまい、うまい」と褒めてくれたという。エレックが倒産しフォーライフを設立した時も、拓郎は泉谷を引き入れ、フォーライフが内部抗争を始めて泉谷が辞める時も懸命に引き留めたわが奔走―IT'S MY LIFE、1988年、泉谷しげる、ロッキング・オン、pp.59-60, 90-96泉谷しげるの治外法権、1994年、泉谷しげる著、徳間書店、pp.61-63坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p.27。
1999年のかまやつひろしの還暦を祝うパーティーで、その泉谷やユーミン井上陽水堺正章桃井かおり、アルフィー、今井美樹石井竜也NOKKOらが集まってま、いいか、1999年、森山良子、毎日新聞社、pp.234-235 東京飯倉のキャンティで会食したおり、拓郎が酔って「お前らみんな音楽を愛していない」などと延々とまわりに絡むので、泉谷が「しつこいぞ」とブチ切れ、フォークを持ってテーブルを乗り越え拓郎に掴みかかり大乱闘となったニッポン放送「三宅裕司のサンデーハッピーパラダイス」2008年8月31日放送。まわりの男は、堺正章や、かまやつひろしのような小僧ばかりで(拓郎談)誰も止められず、ユーミンからは「やれ!やれ!」とケンカをけしかけられるわで引くに引けず(泉谷談)、ようやく森山良子が「外でおやんなさいよ」と一喝、ケンカをやめさせた泉谷しげると吉田拓郎の喧嘩にも遭遇…ムッシュかまやつ『ARTiST』で秘話明かす兎猫豚(うびょうとん)のみらい日記 2011年07月12日 スーパーバンド!吉田拓郎と泉谷しげるが12年ぶりに和解 ラジオで大げんか懐かしむ ORICON STYLE

犬猿の2人ついに…泉谷しげると吉田拓郎が12年ぶり和解。この、かまやつひろしの誕生日パーティーで、拓郎が酔ってネチネチカラんで泉谷とケンカ→森山良子が一喝、という流れはフォーライフから泉谷が抜けた1970年代後半頃にもあり、最後のケンカの1999年以来、泉谷と拓郎は断絶状態になっていたが2011年7月、12年ぶりにラジオで再会し和解した。

忌野清志郎
拓郎は、1971年7月からライブハウス・渋谷ジァン・ジァンで定期コンサートを始めたが、当時拓郎の前座をよく務めていたのが「ぼくの好きな先生」や「2時間35分」などをアコースティックでやっていたRCサクセションだった。忌野清志郎は当時、拓郎が嫌いで出番が終わると顔も見ないで帰っていたという小室哲哉音楽対論 Vol.2、pp.313-314<TKMC ARCHIVES NON EDIT TALK>。とは言っても、特に確執があったわけではない。拓郎はこの頃の事を振り返り「RCとはあの頃よく同じステージに立ってたよ。弾き語りで歌も暗いイメージのフォークソングが多い中で、アコースティックでもポップでR&B的な存在は見ていて楽しかった」と語っているオールナイトニッポンGOLD 2012年10月8日放送分。逆に、拓郎は清志郎が好きだったようで、NHK-AM『若いこだま』 のDJ等を務め、1970年代のニューミュージック系ミュージシャンの売り出しに功績のあった吉見佑子が1970年代の後半、まったく売れていなかったRCサクセションの廃盤になっていたアルバム『シングル・マン』の再発に業界を奔走した時も、拓郎は「オレはRCが好きだ」と自身の番組「セイ!ヤング」でRCの曲をプッシュした芸能界でコーヒー・ブレイク、吉見佑子、八曜社、1980年、pp.98-105。
清志郎は『LOVE LOVEあいしてる』にもゲスト出演(1998年12月5日)しており、アルバム『Hawaiian Rhapsody』で拓郎に「こころのボーナス」を提供したきくち伸インタビューMusicman'sリレー 第68回 吉田建氏JP MUSIC - CD詳細・試聴
清志郎がテレビで奥田民生と初共演した時には、「オマエ広島(出身)かぁ 何だ、それで吉田拓郎に顔が似てるのかぁ〜」とムチャを言ったこともあった。
小田和正
同期でもある小田は、拓郎を盟友と呼び認めているYES-NO 小田和正ヒストリー、小貫信昭、角川書店、2000年、pp.86-87吉田拓郎、小田和正と30年ぶりラジオ! - 芸能 - SANSPO.COM。初めて会ったのは、コンサート会場の通路。ギターの弦が切れて予備がないため、面識のない拓郎に頼むと「あ、いいよ」と快く貰えたのがきっかけ。小田が売れたのはずっと後だが、拓郎は既に大スターだった。初期の拓郎について小田は「ラジカルなイメージだけかと思えば、実はそうではなく、すごくロマンチックでナイーブな、でも強い言葉を持ってるシンガー」と評していた。その後、拓郎のラジオ番組でゲストに呼んだ小田に初体験の話を聞き、小田ファンから大量のカミソリを送りつけられる事件があり『ザ・ビッグヒットトゥモロー』エフエム東京、1984年10月13日放送、付き合いが少々濃くなったのは、前記の1982年に小田が"日本グラミー賞"を作ろうと奔走したときから。結局この構想はミュージシャン仲間の賛同が得られず頓挫したが、これは1985年、国際青年年(IYY)記念イベント"ALL TOGETHER NOW"(6月15日、国立競技場)の下敷きとなり、亀渕昭信の音頭取りもあって、これの運営に拓郎と小田は大きく関わった。コンサートのオープニングアクトでもあった拓郎のバックバンドはオフコースが務めた。
この後、1994年の長崎・普賢岳噴火災害救済コンサート(3月13日、長崎市公会堂)、「日本をすくえ'94」(8月16日、日本武道館)、1996年の阪神・淡路大震災救済支援コンサート(9月14、15日、神戸ワールド記念ホール)と、三度のチャリティコンサートを拓郎と小田、泉谷しげるで企画運営当初は泉谷が1人で募金ライブを敢行、これに拓郎が「スーパーバンド」という概念を加え、その後泉谷と拓郎、小田が軸となって「スーパーバンド」としてチャリティコンサートを行う(アサヒ芸能、2009年8月20日号、p.97)。。復興支援を目的とした「スーパーバンド」の発案は拓郎という。長崎・普賢岳噴火災害救済コンサートは、ギター・泉谷、ベース・拓郎、キーボード・小田、ツインドラム・浜田省吾大友康平が基本メンバーのスーパー・バンドを結成し、井上陽水忌野清志郎さだまさし南こうせつなどのゲストミュージシャンの曲を演奏するというものだったが、即席バンドで短期間の合宿ではなかなか上達せず、どんどんコードが簡略化されて、さらに拓郎が「親しくない奴と2日以上いられない」とダダをこねたりでピンチを迎えたArchive(アーカイブ)普賢岳チャリティライブ | Echofield。しかし、なんでも弾ける坂崎幸之助がこのピンチを救い、無事開催できたという。同じ1994年8月16日には、日本武道館で「スーパーバンド」による「日本をすくえ'94」チャリティコンサートが行われた。このコンサートのドキュメンタリー番組「日本をすくえ'94」が、小田和正のナレーションで同年9月14日にテレビ朝日系『水曜特バン!』枠でテレビ放送されたアーティスト ファイル UNION MUSIC OFFICE ユニオン音楽事務所。この中で拓郎の傍若無人ぶりにオロオロする泉谷と小田がテレビに映し出された。長崎でやった「スーパーバンド」のメンバーが全員揃うということで拓郎は引き受けたのだが、うち数人が参加出来ないという話になって、さらに出演が確定していないミュージシャン、出演交渉もしていないミュージシャンの名前がスポーツ新聞に出てしまい、各所属事務所から苦情の電話が掛かり出演交渉が暗礁に乗り上げ拓郎が激怒、「まわりに迷惑をかけてまでやることはない」「コンサートは中止だ」などと泉谷と小田に迫った。泉谷は「オレと拓郎、小田、伊勢正三、大友康平の5人だけでもやりたい」と「何とか開催したい」という二人の意見を却下し続け、最後に小田が「流そう(中止しよう)」と言うと、それまで散々中止すると言っていたのに拓郎は「やる。俺が決めた」と言い出した。泉谷は「拓郎は、いざ練習が始まると、この曲はイヤだ、あれは歌わないって言い出す。あまりにわがままなんで、そこまで言うならオレと小田さんで会見やって武道館は中止と発表しようと。ところが、やめると言うとイヤだと言うんだよ。あれは振り回された小田さんもショックだったんじゃないか」と当時の思い出を話した。日本武道館時の「スーパーバンド」は、この後メンバーを加えたもの。こうして拓郎と小田は苦労を共にした間柄となって、打ち上げの席で酔った拓郎が小田の膝枕で寝るということもあったという。それでも泉谷は拓郎を引っ張り出して、東日本大震災支援ライブのため「スーパーバンド」を蘇らせたいという。
2000年4月3日放映の「LOVE LOVE あいしてる」にゲスト出演した際、小田は拓郎を「コイツ、コイツ」と呼び「拓郎さんをコイツと呼べる人がいるなんて」とKinKi Kidsを驚かせた。他に1994年の対談でも小田は「拓郎の曲っていうのが、近い将来、また"くる"と思う」と話していたTIME CANT' WAIT、1990年、小田和正、朝日新聞社、pp.67-69YES-NO 小田和正ヒストリー、2000年、小貫信昭、角川書店、pp.85-86, 132, 148-152, 240, 262Complete Shogo Hamada―浜田省吾事典、TOKYO FM出版、p.205LOVE LOVE あいしてる吉田拓郎・お喋り道楽、pp.90-91風のようにうたが流れていた、小田和正、宝島社、pp.122-123, 126-127坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p.74シンプジャーナル ベストセレクション'80s、pp.160-163, 166-167。
2013年12月25日放映された、小田がMCを務める『クリスマスの約束』(TBS)に拓郎が初出演し、小田は「1970年代、多くの若者が背伸びして何かを求めていたあの時代、歌には強いメッセージが求められていました。そこに、カリスマと呼ばれるシンガーがいました」と拓郎を紹介した【ライヴレポ】小田和正『クリスマスの約束』で、吉田拓郎と共演。ミスチル桜井とは新曲を共作し披露
かぐや姫
山田パンダは師と仰ぐ拓郎を年上と思っていたが、年下と分かり、デビュー時に自ら一歳さばを読み、拓郎と同学年としてきた。彼をずっと同い年だと思ってきた拓郎は会うたび「おい!馬鹿野郎!」と呼び続けてきた。パンダは、30年以上たった2005年に還暦を迎えた際、年齢詐称していたことを公表した。2000年に、かぐや姫が22年ぶりに再結成したのは、1999年の「南こうせつ サマーピクニック」で、井上陽水とゲスト出演した拓郎が、南こうせつと伊勢正三を見て「陽水も俺もいる。何でかぐや姫がいないんだ?」と、山田パンダを無理やり東京から九州まで呼びつけたのがきっかけだった坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、pp.142-145, 149。
まだ3人が高円寺の風呂のない部屋に3人別々に住んでた時に、拓郎はすでにスターになっていて豪華マンションに住んでいた。3人は「神田川」みたいに拓郎のマンションの前を通って風呂屋に本当に行っていたが、ある日、拓郎がベランダで長い髪なびかせて、朝ブローをしてるのを目撃し、山田パンダは「あんなマンションに住んで、朝ブローして。あれが夢だ、こうせつ」と南こうせつにプレッシャーをかけていた。また、かぐや姫の最初のアルバムに拓郎が参加したが、かぐや姫のアルバムなのに3人の写真より拓郎の写真のほうが大きく掲載されており、「吉田拓郎プロデュース」という字が大きく載っていた。
加藤和彦安井かずみ
加藤との出会いは1971年、拓郎がセルフプロデュースしたアルバム『人間なんて』のレコーディングに加藤が参加してから。これは木田高介の紹介だったと思うという。このレコーディングで加藤は、拓郎が知らなかったボトルネック奏法やジェームス・テイラー奏法などを披露し拓郎を驚かせた。このアルバムの制作に先立ち、拓郎がスリーフィンガーで作った「結婚しようよ」を「パックインミュージック」で弾き語りで流したところ、大きな反響があり、シングル化の予定をしていた。ところが、この「結婚しようよ」の弾き語りバージョンは「今日までそして明日から」によく似ていて、「同じだとつまらない、何か他のアレンジはないか」と考えていたため、この「結婚しようよ」や「どうしてこんなに悲しいんだろう」「自殺の詩」などの編曲(アレンジ)を加藤に頼むことにした。
加藤はまだ売れていなかった頃の拓郎を認め、大切なギター (GIBSON J-45) を15万円で気ままな絵日記、pp.120-121 譲ったこのギターから石川鷹彦の演奏で知られる「リンゴ」等、多くの楽曲が生み出された(アサヒ芸能、2009年7月2日号、pp.36-38、マニア・プチ対談「吉田拓郎のギターを語る」)。。この2人は非常に仲がよかった日本ロック学入門、1986年、相倉久人、新潮社、p.88。
小田和正が、1982年に"日本グラミー賞"を作ろうと奔走し、六本木で拓郎やユーミン矢沢永吉さだまさしらを集めて飲み会をした時、加藤が「拓郎は生意気なのは許せるけど松山千春が生意気なのは許せない」と怒って帰ったというエピソードがあるTIME CANT' WAIT、1990年、小田和正、朝日新聞社、pp.67-69YES-NO 小田和正ヒストリー、2000年、小貫信昭、角川書店、pp.148-151。
安井かずみとは、加藤と知り合う以前から付き合いがあり、仕事を一緒にしたのは、1973年の猫の「戻ってきた恋人」の作詞を頼みに行ったのが最初。拓郎は安井に気に入られ、柳田ヒロ加賀まりこを交えた4人で毎晩、六本木のディスコに行っていたという文藝別冊 追悼特集加藤和彦、河出書房新社、2010年、p.196。安井の自宅は「川口アパート(プール付き)」(川口松太郎が造った高級マンション)と呼ばれ加賀まりこ野際陽子コシノジュンコや当時のトップモデル・シャロン宮田、ナンシー村井ら多くの業界人が集った。そこは大使館のような世界で、拓郎はカルチャー・ショックを受けた晴れときどき拓郎 Younger than yesterday、2003年7月、小学館、pp.280-282。誰にも紹介してもらえず、「絶対に東京に負けてはならない」との思いをさらに強くした。同業者だった安井には「あなたたちが来てから日本はすごくつまらなくなった」「あなたの詩って男のエゴばかり、女のことなんか何も分かってない」と言われ大ゲンカとなり泣かれて、「拓郎にいじめられた」と言い触らされたこともあったという。
安井と加藤が結婚してからは家族ぐるみで付き合いがあり、1986年には、安井と加藤のプロデュースによりアルバム『サマルカンド・ブルー』を出した。ただ、拓郎はこの二人の作品は自分のイメージと違うので、本当はやりたくなかったが、「NYでレコーディングするから」「(拓郎が好きな)ホイットニー・ヒューストンに会わせてあげるから」などと口説かれて仕方なくやったと話している。そのときは結局、シンディー・ローパーに会わされて終わった「坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」2009年10月20日。
1994年に安井が亡くなり、拓郎は「安井の言葉はとても響き、すごい大事な人を失った感じがある」と述べている吉田拓郎・お喋り道楽、1997年10月、徳間書店、pp.80-88晴れときどき拓郎 Younger than yesterday、p.292。1年後に加藤が中丸三千繪と再婚してからは、拓郎は加藤とは疎遠となり、以後は、全く付き合いがなかった文藝別冊 追悼特集加藤和彦、p.177。これは加藤が中丸のために、安井に近かった人を意図的に遠ざけたためである。加藤と付き合いはなくなっても拓郎は、「若者たちが自分の手でつくる『日本の若者のポップシーン』の先駆けとなったのは、フォーク・クルセダーズであり加藤和彦に間違いない」と、まわりに話し続けていたという地球音楽ライブラリー吉田拓郎、pp.24-25, 66-67。
2009年10月、加藤和彦が亡くなった後、拓郎は「坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」で加藤を追悼し、加藤との思い出を話した。
かまやつひろし
拓郎は、「東京へ来てから女、アルコールなど軟派系の遊びは全部かまやつさん。今日の僕があるのは、かまやつさんのおかげ。身体はガタガタですけど」と言う。かまやつは、当時流行の最先端を行っていた業界人らと付き合い、拓郎を安井のマンション「川口アパート(プール付き)」等、そういう人達が集う場所に連れて行った。
KinKi Kids
KinKi Kidsとの出会いは音楽バラエティ「LOVE LOVE あいしてる」(1996年 - 2001年)での共演がきっかけで、度々テレビやラジオで共演し、プライベートでも交流をするほど仲良くなった。「LOVE LOVEあいしてる」で、KinKi Kidsへのギター指導を企画されたときは全くその気にならなかったというが、彼らが休憩の合間の時間に階段で一生懸命練習しているのを見かけ、それ以来熱心に指導したというラブ ラブ KinKi Kids、スタッフKinKi、1997年、太陽出版、pp.12-24。番組の企画を通じて二人のギター・作詞法・作曲法は数年かけながらも徐々に上達していき、2000年には堂本光一作曲・堂本剛作詞・吉田拓郎プロデュースのシングル「好きになってく 愛してく」を発売するまでに至った。
堂本光一は「拓郎さんとの出会いが音楽を教えてくれた」「番組で拓郎さんに、いきなり『曲を作れ!』と言われて。初めて作った曲を持っていったときに『よく作ったね』って言ってくれたのは、今も忘れない」「拓郎さんは俺たちに『あ、自分にも、曲が作れるんだ』って思わせてくれた」「今、俺が曲を作っているのも、あの当時のことがキッカケ。たぶん、あの出会いがなかったら、今まで作った曲たちも生まれていなかったと思うよ」等と話している『ポポロ』2009年4月号、麻布台出版社、p.124。
堂本剛も「自分の思ったことを歌詞にしてメッセージとして投げるという男の人生を目の当たりにして、音楽の自由を感じた2011年11月12日NHK-FM「今さらですが突然KinKi Kids生放送」」「拓郎さんと出会ったことにより楽器を弾くことにも繋げて頂いたTBSテレビ『カミスン!』2011年11月7日放送」等と話している堂本剛が開拓したジャニーズ「アーティスト路線」 - Real Sound
武田鉄矢
拓郎に憧れて上京し、エレック・レコードに入った。ところが入った途端、拓郎はCBSソニーに移籍してしまった。付き合いが始まったのは、だいぶ後の武田が映画を撮り始めてからで、1982年からの映画『刑事物語』の主題歌「唇をかみしめて」を拓郎が手掛けたり、1985年、映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』に拓郎は高杉晋作役で出演した。これは坂本竜馬を演じた武田が「ずっと背中を追いかけてきた拓郎に一回、こっち側を向いて勝負して欲しい」と相手役として遮二無二拓郎を説得したもの。最初は「お前、頭からアブラをかぶっているのか?頼むから近づくな!」と酷く嫌われていたというアサヒ芸能、2009年7月30日号、p.187。また武田は拓郎を高杉晋作役で起用した理由について、「拓郎の声はアジテーターの声であり、たった一声で千とか万の若者が後について行くような声。それは高杉晋作もそんな声だったんじゃないかと思うという持論で、俳優では出せないと思い拓郎にお願いした」と説明している吉田拓郎・お喋り道楽、pp.159-176。
武田は拓郎を"我々団塊のトップアイドル、カツコ良かった"と表現しているニッポン放送「テリーとたい平のってけラジオ」2009年4月17日放送。武田はテレビドラマへの進出について「僕は吉田拓郎さんみたいな歌手になりたかった。でも、どうあがいてもなれなかった。それで仕方なく横に流れたんですね。それはテレビに出るということだったんです」と話しているプレイボーイの人生相談 1966-2006』、週刊プレイボーイ編集部、集英社、2006年、p.123。
中島みゆき
中島は拓郎を尊敬しており、彼女の楽曲に数曲、拓郎調の楽曲があるといわれることもある中島みゆき読本、pp.132-133。1980年8月10日、NHK-FMで『拓郎105分』という特番が放送された。この番組は長年(プロデビュー10周年)音楽業界に貢献してきた拓郎を讃え、他のミュージシャンが拓郎に感謝状を贈るという内容であった。この番組で、学生時代に拓郎の追っかけをしていた中島みゆきが、拓郎のことを「よた、よた」と呼んでいた中島みゆきデータブック、1995年、落合真司、青弓社、p.20魔女伝説―中島みゆき、1982年、こすぎじゅんいち、CBS・ソニー出版、p.80中島みゆき・言葉の向こう側、1998年、落合真司、青弓社、p.92。与太者の意味か与太郎の意味か、または、「よしだたくろう」の姓と名の頭文字(「よ」と「た」)を取った呼称であるという説もあるが理由は不明。
拓郎も中島を尊敬していると公言している。彼女のライブでバックミュージシャンとしてギターを弾きたいと数年前からオファーしているが実現しておらず、彼女がオールナイトGOLDにゲスト出演した際に直接オファーを試みたが、ライブの間じっと演奏してられるかなど質問返しされて結局YesともNoとも答えてもらえなかった。拓郎によると「どうしても『悪女』を歌う中島みゆきのバックでギターを弾きたい」らしい。この時のゲスト出演について、中島に「瀬尾さんが行くって言うから来た」とコメントされると「なんだよそれー!」と拗ねていたらしい模様が放送された。拓郎は、自身のソングライティングが不調に陥った1995年、中島に直に楽曲提供を依頼。拓郎が詞曲の両方を他人に依頼したのは初めてのことで地球音楽ライブラリー 吉田拓郎、p.83, 212産経新聞、1996年9月25日夕刊、p.8最初は詞だけの依頼だったが、拓郎に今さら頭が上がらず、色々注文を付けられ詞も曲も書くことになったと中島は話している(満月みゆき御殿 『GB』中島みゆきファイル from 1980、1999年、萩原健太他著・ソニー・マガジンズ、p.287)、渡された曲が「永遠の嘘をついてくれ」で、拓郎からの当初のリクエストは「夢のない遺書のような曲を」であったが、全く逆の疾走感に溢れる実年ソングとなった中島みゆき読本、音楽出版社、2009年、p.128。この曲の歌詞が中島の拓郎に対する感情を思わす内容であったため、両方のファンから様々な憶測をよんだ。2006年のつま恋コンサートで、シークレットゲストとして登場した中島がこの曲で拓郎とデュエット、このコンサートの名シーンの一つとなった地球音楽ライブラリー 中島みゆき、2006年、財団法人ヤマハ音楽振興会監修・TOKYO FM出版、pp.194, 217-218。
長渕剛
長渕剛が本格的に音楽の道を志すきっかけになったのは、フォークコンサートでトリを務めた拓郎の歌を聴いて大きなショックを受けてからで、「拓郎はカッコ良かった。オレたちの世代にとっては、みんなの憧れだった」と話している俺らの旅はハイウェイ、1990年2月、長渕剛、八曜社、pp.8-9, 75-85NEXT、1984年1月、富澤一誠、潮出版社、p.106-108]長渕剛インタビュー堂本兄弟、2004年2月29日吉田拓郎 Island Concert in 篠島。長渕が最初にユイ音楽工房に所属したのは拓郎がいたからである

第90回 新田 和長 氏 4. 歴史の瞬間と渦の中で〜「目利き」であることの重要性| Musicman-NET

1979年に愛知県篠島で行われた拓郎のオールナイトコンサートに出演した長渕が、拓郎ファンから「帰れコール」を浴びながらも歌い続けたエピソードはよく知られる。長渕は「あのステージがなかったら今はなかった」と話している。
ただ、1994年に長渕と桑田佳祐が揉めたときは、拓郎は桑田の方の肩を持つ発言を行い、長渕をトーンダウンさせた長渕剛vs桑田佳祐、矢吹光、1995年3月、三一書房、p.154。2012年の拓郎の3年ぶり復活ライブの最終日(NHKホール)の際には自ら拓郎の楽屋を訪ね、久々の再会を果たしている。そのことが後日、坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLDで語られた(その場には山下達郎&竹内まりや夫妻や南こうせつもいたらしい)。
桑田佳祐原由子
桑田佳祐は1985年の著書『ロックの子』の中で、「フォークは大嫌いだったが唯一、拓郎が好きだったのは、拓郎の歌謡曲的な部分だった、拓郎のコマーシャルソングの音作りに共感したことが、自身が曲作りを始めるきっかけ、拓郎を聴いて『これなら曲が作れる』と思った」などと述べており、1980年8月10日にNHK-FMで放送された『拓郎105分』では、一番影響を受けた拓郎の曲として「Have a Nice Day」(1972年富士フイルムCMソング)を挙げた。1985年のサザンオールスターズのアルバム『KAMAKURA』には、拓郎からの影響を思わせる『吉田拓郎の唄』という楽曲を収録している「“エリー”って誰?」意外と知らないサザントリビア10( トリビア ... - 女性自身)。2003年夏に拓郎が癌治療で休業中には、『吉田拓郎の唄』の批判めいた歌詞部分を大幅に変更、拓郎をより賛美する内容にしてライブで歌唱し、遠い地から拓郎にエールを送った吉田拓郎の闘病中に桑田佳祐が励ましの唄を歌った伝説ライブパフォーマンスとは?2017年11月17日 エキサイトニュース。拓郎は、2008年2月24日の「俺たちのオールナイトニッポン40時間スペシャル」の放送で療養中、桑田から復帰を願いギターのテレキャスターを贈ってもらったエピソードを披露した。桑田も、同年3月11日の「桑田佳祐のオールナイトニッポン」で、その経緯について触れ「ふらっと入った楽器店にあったギターを見た時、拓郎さんがバーンと浮かんだ。拓郎さんにこれを弾いてもらいたいと思った」「高校の頃、色んなフォークが流行ってたんだけど、拓郎さんだけが輝いて見えた。私が今ここにいられるのも拓郎さんが物凄く大きな切っ掛けになっている」などと話した2008年3月11日「桑田佳祐のオールナイトニッポン」。1986年ごろに拓郎の自宅へ招かれ、酔っぱらって無断でビートルズのピクチャーレコードを持ち帰ってしまい、のちにこのことを後悔し前述のフェンダーテレキャスターを送る共にそのピクチャーレコードを拓郎本人に返したが、レコードについては拓郎が「君とのいい思い出にしよう」という理由で送り返したというエピソードがある桑田佳祐と吉田拓郎との隠された過去。今日までそして明日から。 - Techinsight 2011年3月『桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜』2009年5月18日放送分。
一方の拓郎も桑田及びサザンオールスターズの才能や影響力を称えており、良好な関係が続いている 大衆に寄り添うサザンの真骨頂見せつけた『無観客ライブ』 その圧倒的パフォーマンスは今後のさまざまな方向性示した東京中日スポーツ 2020年7月23日配信 2020年10月18日閲覧。
原由子も拓郎の大ファンで、中学の時、深夜放送で拓郎の四角佳子との結婚宣言を聞き、布団で泣いたという原由子『娘心にブルースを』1998年、ソニーマガジンズ、p.171。
浜田省吾
広島フォーク村時代からの先輩・後輩である浜田省吾とは、師弟関係にある別冊宝島編集部「音楽誌が書かないJポップ批評26」、別冊宝島804、2003年 宝島社、p.28。拓郎は、1970年にプロデビューして上京した後も、広島フォーク村のイベントなどに出演するため、度々帰郷。この頃は、スーパーの階段の催し場やレコードショップの横、などで歌うこともあったComplete Shogo Hamada―浜田省吾事典、1996年、TOKYO FM出版、p.379。こうした折に付いてまわったのが浜田で、空港までの送り迎え等も浜田の仕事であったあいつのクシャミ、1980年、富澤一誠、飛鳥新社、pp.24-25。浜田らが「愛奴」を結成してCBSソニーのオーディションを受ける際も拓郎の自宅を訪れ相談。「愛奴」プロデビュー前の1974年、拓郎の全国ツアーのバックバンドに「愛奴」を起用し浜田はドラムを担当した第137回 高橋信彦氏 | Musicman-NETComplete Shogo Hamada―浜田省吾事典、pp.26-27「Have A Nice Day LIVE2009 吉田拓郎フォト&ロングインタビュー集」pp.48-49。「愛奴」の起用はザ・バンドに断られたため回ってきたもの。拓郎はツアーの直前にボブ・ディランとザ・バンドのコンサートをロサンゼルスまで観に行き、そこでザ・バンドを真ん中に、ディランがステージの端で歌うステージングに驚き、同じように「愛奴」を真ん中に、拓郎が端で歌うというステージングをやったが、浜田のドラムがヘタ過ぎて目立ち、同じようには出来なかったという。
浜田は、1997年に拓郎の50歳を祝って拓郎のデビュー曲「イメージの詩」をカバーした(拓郎自身も、コーラスとアコースティクギターで参加している)。ちなみに1985年に開催された『吉田拓郎 ONE LAST NIGHT IN つま恋』でもドラムでゲスト参加していたりと、長きに渡って交流を持ち続ける坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、pp.70-71。
松本隆
職業作詞家としてデビューしたての松本隆にCBSソニーの、これまた若いディレクター/プロデューサーだった白川隆三から担当の新人歌手・太田裕美売り出しのため作詞依頼がきた。これに拓郎は「お前ら(太田+松本+白川のトリオ)は売れない」と酔って松本に毒付いた。結局このトリオ+作曲家・筒美京平での4曲目のシングルが大ヒットした「木綿のハンカチーフ」で無事拓郎を見返せた。太田は拓郎をいっぱいいじめたという松本隆対談集 KAZEMACHI CAFE、ぴあ、p.70アサヒ芸能、2009年7月23日号、p.189。
拓郎はその後、原田真二の売り出しに松本隆を起用した他1978年、初の二枚組アルバム『ローリング30』制作にあたり、ほぼ全曲の作詞を松本に依頼し二人で箱根の山に篭り、一人の作詞家との完全な共作がどれ程のものになるのか、という試みを行っている地球音楽ライブラリー 吉田拓郎、p.41コンサートMC。松本はこの時の拓郎との共同作業を通してより物語性を深め、1980年代にアイドルのヒットメーカーとして本格的に花開くことになる。松本にとってもマイルストーン的な作品となっている地球音楽ライブラリー、p.43。
森山良子
森山は、まだ無名時代の拓郎を自身のラジオ番組(キョーリン・フォーク・カプセル、ラジオ関東?)に度々呼ぶなど、拓郎を可愛がったという。
森山は1971年から1972年にかけて結婚、長女(森山奈歩)出産のために休養した。そのブランクのために1973年はパッとせず。この時代になると拓郎らシンガーソングライターが台頭してきて当時、"歌謡曲歌手"というイメージがついていた森山は、アルバムが売れない状況になっていた。1974年の賛美歌アルバムの完成と「ある日の午後」のヒットで盛り返した森山に1975年、「襟裳岬」を大ヒットさせた拓郎が前記の恩を返す形で「歌ってよ夕陽の歌を」を提供。曲もヒットしたことで森山のイメージは再び"フォークの女王"に戻った(同曲でNHK紅白歌合戦に出場)青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p.160和田誠インタビュー その三、1989年、和田誠、話の特集、pp.122-142。
山下達郎竹内まりや
山下達郎は拓郎について「僕と拓郎なんてある意味、今の音楽界で両極端、対極じゃないか」と過去に発言しているどーもとドーモ、2000年、KinKi Kids、新潮社、p.177。山下は拓郎がプロデュースした1975年のTBSドラマ『あこがれ共同隊』の主題歌「風の街」に、山田パンダのコーラスとしてレコーディングに参加した。この時、拓郎にそのコーラスの歌唱指導をされて以来、拓郎とは一回も口を聞いたことがないと話していた山下達郎のJACCS CARDサンデーソングブック2002/5/26

2012年8月13日の「坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」で、坂崎から「拓郎さん、日本ではどんな音楽が好きなんですか?」という話題が出た中で、「みんな意外なところでね、俺、山下達郎とか好きなんだよ、あいつのボーカルが好きなんだよ、達郎の声とか(彼の)奥さんの竹内まりやの声は、かなり俺(胸に)クるんだな。あそこの夫婦のファンだね。これ、このラジオで本邦初公開だけど」と告白した。この発言がきっかけとなり、同年10月1日の同番組で、お互いソロアーティストとしての立場で初共演を果たしたナタリー - 山下達郎、本日ANNで吉田拓郎とメディア初共演今夜よる10時からの『坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』に山下達郎初登場!何と吉田拓郎さんとメディア初共演が実現!。この放送で山下は"私的吉田拓郎史"を言わせてもらえば2時間は喋れると話し、18歳の時、東長崎のレコード店でアルバイトをしていた時、ちょうど拓郎のアルバム『元気です。』(1972年)が出た頃で、その『元気です。』とカーペンターズの「ア・ソング・フォー・ユー」の2枚が飛ぶように売れて10枚問屋に注文しても1枚しか来なかったという思い出や、前述の「風の街」のレコーディングで拓郎に歌唱指導された話、その時のしこりで1975年のつま恋にもコーラスとして参加を要請されたが「絶対イヤ」と断った話などをした。拓郎の方はそんな話はまったく知らず、山下を認識したのは1980年代になってから、毎年行くハワイで「LOVELAND, ISLAND」(1982年)を聴いて、こんなウェストコースト風サウンドを歌いこなせる日本人ボーカリストがいるのか、と感激したのが最初と話した。ちなみに、この日の出会いがきっかけとなり、番組後には互いのメルアド交換をし、夫妻ともどもメールするほどの仲になっている吉田拓郎×竹内まりや、ラジオで初共演!

2013年6月24日には竹内が「坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD」に単独出演し、番組内で拓郎の名曲「どうしてこんなに悲しいんだろう」を竹内のアレンジにより3人で演奏した。
その他ミュージシャン
  • イルカは、2007年他界した夫の神部和夫ともども、最も古くからのフォーク仲間で全国をドサ回りした間柄。当時は2人が所属したシュリークスが非常に人気があり、拓郎のほうが前座だった。神部はいい声の持ち主だったが、拓郎が出てきてから「もう自分がうたっているような歌の路線はこれからはダメだ。綺麗にうたっていくんじゃなくて自分のメッセージをガンガンうたっていく世の中に変わったな、これからは俺の時代じゃない」と話していたという坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p.102。イルカがソロデビューして曲作りを始めた時、拓郎は自宅の居間で親身になってアドバイスしたというここは私の学校、2003年11月、祥伝社、p.66とんがらし、1975年9月、八曜社。シュリークスの持ち歌で、イルカのレパートリーでもある「クジラのスーさん空を行く」は、神部の詞、拓郎の作曲。
  • 古井戸の金崎芳樹(加奈崎芳太郎)が1971年8月頃、エレック・レコードに入社が決まり、一度会社に挨拶に行こうと事務所を訪ねると、部屋の隅でダンボールの梱包をしているオジさんと、奥の机で電話している拓郎がいて、拓郎に「社長さんはどこですか?」と聞いたら梱包をしているオジさんが社長で、拓郎は電リクをしていた音楽的日乗 スローハンドVol.1、2006年、自由国民社、pp.103-104。加奈崎も仲井戸麗市も、拓郎さんには可愛がってもらいましたと述べているフォーク対談集、1974年、富澤一誠、アロー出版社、p.178坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p.118。
  • 1971年11月6日、慶應義塾大学で行われたコンサートは、俗に"慶應三田祭事件"と呼ばれる。これは頭脳警察伝説として有名だが、はっぴいえんどの事務所と確執のあった頭脳警察が観客をアジりながら、えんえんと演奏を続けて居座り、次に出たはっぴいえんどの大滝詠一が「前のバンドが僕らのぶんもやってくれたので」と言ったため観客が反撥、石の飛ぶ中1曲だけ「はいからはくち」をやって帰ってしまったもの。その次の出番だったのが拓郎で、一人で全部を受けとめる羽目となり、ビール瓶が飛んで来て1曲も演奏できないまま引き下がった。このことを全く知らなかった大滝は後で拓郎に「お前らよお、あれ、あの後も観客を静めるのに大変だったんだぜ、俺は」と散々言われたという。拓郎は頭脳警察にも憤慨していたが、その後、PANTAと話す機会を得て好意を持ちパックインミュージックで『頭脳警察セカンド』からシングルカットされた「いとこの結婚式」という拓郎のヒット曲を意識したような曲をプッシュしたり、頭脳警察をゲストで呼んだりしたがこの曲はヒットしなかった頭脳警察(2004年8月・須田諭一著・河出書房新社)pp.164-166定本 はっぴいえんど、1986年、白夜書房、p.60, 139-140, 193吉田拓郎・お喋り道楽、pp.219-220関西フォーク70'sあたり、2003年、中村よお、幻堂出版、p.78ロックミュージックの社会学、南田勝也、青弓社、p.122ロック・クロニクル・ジャパンVol.1、1999年、音楽出版社、p.89ナタリー - ドキュメンタリー頭脳警察公開記念イベントで貴重発言続々haruomi hosono 1971
  • 小室等が1972年頃、グループを組もうと女性ボーカルを捜してりりィを決めかけていたが、その後りりィは長い旅に出てうやむやに。りりィはあの時、連絡がついていたら「今頃は私が拓郎と結婚してたんじゃないかな」と話している(小室と拓郎が非常に近い関係のため)小室等対談集、1975年、小室等、財団法人ヤマハ音楽振興会、p.122。
  • 丸山圭子は1972年、コンテストで優勝するとCBSソニーとエレックレコードからスカウトが来た。当時ソニーは郷ひろみ天地真理らがいてばりばりアイドルの時代。普通だったらソニーを選びそうだが、エレックは拓郎がいて、まわりから(これからは)シンガーソングライターみたいに曲をつくりながら歌っていったほうがいいよと言われてエレックに入ったという_... m o m e n t ...._丸山圭子ロングインタビュー。しかしまもなく拓郎はソニーに引き抜かれる。
  • 山本コウタローは1973年、一橋大学卒業時に「たくろう・スーパースター」という拓郎をテーマにした卒論を書いた。しかし内容に不満が残ったため、プロデビュー後、鹿児島や広島にまで足を運んで取材し、2年後に出版したのが「誰も知らなかったよしだ拓郎」という題名の本であるゆるふわ愛され音楽ニュースサイト - ナタリー 山本コウタローの名著「誰も知らなかった吉田拓郎」文庫化。"現役ミュージシャンが書いた現役ミュージシャンの伝記" という非常に珍しい本でわれらフォーク世代、1975年、三橋一夫、山本コウタロー他著、荒地出版、pp.35-36 特にアマチュアだった広島時代について詳しく書かれており、拓郎について書かれた文章の多くは、かつてはこの本を参考にしていた。何故、吉田拓郎でなければいけなかったかについては、日本の音楽を変えていく、次の世代に大きな波及力を残していくアーティストは、吉田拓郎以外には考えられなかったと述べている。
  • 加川良との交遊。→「加川良の手紙」。この他、加川は拓郎の「金沢事件」を揶揄した『2分間のバラッド』という曲を作っている加川1974年のアルバム『アウト・オブ・マインド』に収録。
  • 井上陽水石川セリが出会ったのは、石川と松任谷由実がゲストで出ていたラジオの生放送(TBSラジオ、林美雄のパックインミュージック、1975年11月26日)のスタジオに、石川のファンだった陽水と拓郎が酔って乱入したのが最初石川セリ公式サイト Seri Ishikawa Officialもう書いてもいいですね。、2005年、廿楽正治、有朋書院、p.170。陽水は「あの時、オレたちは赤坂でウロウロしてて、拓郎の頭の中に"今日はユーミンがラジオに出てる"というひらめきがなければ、まったく違った人生をオレは歩いていたでしょう」と話している井上陽水 FILE FROM 1969、pp.180-181。
  • NSPが高専仲間の3人組となったのは、拓郎が1971年に組んだ3人組のミニバンドの路線を狙ったのがきっかけ。NSPは当初ロック志向であったが、フォークブームでロックがまったく受けず、フォークグループに転換した。オリジナルを作り始める前のレパートリーは拓郎の曲が中心だったというNSP『八月の空に翔べ』、八曜社、1978年、pp.29, 148-149。NSP1973年のデビューアルバムに収録された「僕の夏休み」というオリジナル曲に"ギターを弾いてマークツーを二人で歌うはずだったのに"という歌詞が出る。きくち伸はその歌詞に出てきた「マークII」ってどんな曲なんだろう?、と本屋で調べて、よしだたくろうを知り、以降拓郎を追いかけるようになったと話している。
  • 岡本おさみの詞を使うことになったのは、岡本からの売り込みによるものこの歌 あの歌手(下)、読売新聞社文化部、1997年、社会思想社、p.108。岡本との曲作りは手紙や電話でのやりとりで、プライベートでのつき合いはほとんどなかった朝日新聞、2010年12月4日、be on Saturday-e1、2、うたの旅人:新婚旅行で書いた詞 「旅の宿」、BS朝日 - うたの旅人 旅の宿 2010年12月4日放送うたのことばが聴こえてくる、1984年、岡本おさみ、八曜社、p.165AERA in FOLK あれは、ロックな春だった!、朝日新聞社、p.44。岡本が送ってきた詞に数年後、拓郎が曲を付けて世に出ることがあったという。「襟裳岬」に関しては、拓郎にかなり歌詞を変更されたため共同作業だったと思うと岡本は述べている旅に唄あり、1980年10月、岡本おさみ、八曜社、p.14-15。
  • 1970年代半ばに、よくペニーレインなどで拓郎と飲んでいたガロの大野真澄は、拓郎から「一人でやれ、一人でやれ」といつも言われていたため、ガロの解散、所属レコード会社の倒産もあって1976年、フォーライフ入りした。この頃大野は、新曲より水原弘服部メロディなど、昭和の歌謡曲のカバー・アルバムを作りたかった。ところが当時は全編カバー集を作っても売り方がわからない時代、スタッフから「そんなの作ってどうするの?」と言われ実現しなかった。ところが翌年1977年、拓郎が有名なカバー・アルバム『ぷらいべえと』を出したため大野は「別に僕のアイデアを使ったとは思わないけどね」と述べている音楽的日乗 スローハンドVol.2、2006年、自由国民社、p.29。
  • 1976年、ペドロ&カプリシャスに在籍時の髙橋真梨子と酒を飲み、ソロになると聞いて盛り上がり、「一緒にやろうよ」などとフォーライフに来ないかと熱心に口説いた。拓郎の自宅近くまで二人で歩き、高橋は「フォーライフに入る」と約束した。ところがその後高橋が所属した事務所が、レコード会社はビクターと決めていて「お願いしますフォーライフで」と頼んでも社長から「ダメ!」と言われ、それっきり縁がなくなった。拓郎は「それはビクターに行かれてよかったと思います。フォーライフに来てたらえらいことになってた」と話した「吉田拓郎 YOKOSO」NHK BSプレミアム、2013年6月12日放送。
  • 松任谷由実は、デビューしたての頃(その当時の姓は「荒井」) "女拓郎" と呼ばれたと松任谷由実、ルージュの伝言、1984年5月、角川書店、pp.8-11週刊朝日、1979年3月12日、p.16、【yumiyoriな話】第36回 最終回 井上陽水さん YOMIURI ONLINE(読売新聞、2011年8月13日17面)。このため、それまで聴いたことがなかった拓郎の曲を聴いた。感想は、「私のやったことは拓郎やかぐや姫とは違う。私のつくった曲は今までにない新しいものと思った。拓郎らの音楽とは違う、これを区別する例えとして"四畳半フォーク"って言葉を自分が考え出した」と自著で述べている。
  • 松任谷正隆は、1971年の拓郎のアルバム『人間なんて』にミュージシャンとして参加しプロデビューしたMusicman-NET 第87回 松任谷正隆氏.31951年11月19日 日本をリードする音楽プロデューサー松任谷正隆が生まれた日
  • 中村雅俊とは、1975年『俺たちの勲章』の挿入歌「いつか街で会ったなら」のレコーディング以来の付き合い吉田拓郎・お喋り道楽、1997年10月、徳間書店、pp.270-285。『俺たちの勲章』は、中村主演の『われら青春!』と同じプロデューサーで、気心知れていたため、大ファンだった拓郎に音楽を頼めないかと、中村がプロデューサーにお願いしたもの俳優、音楽、人生...尽きぬ話が語り明かされる!明日4日(水)BSプレミアムで放送『吉田拓郎YOKOSO "中村雅俊"』ニッポン放送『坂崎幸之助と吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』2013年4月15日放送、中村雅俊、坂口良子さんとの思い出語る - 芸能社会 - SANSPO.COM、テレビ東京『L4 YOU!』2013年4月10日放送、「L4YOU!」- ゲストトーク〜中村雅俊〜。中村雅俊がニューミュージック寄りのイメージがついたのは拓郎の楽曲提供が切っ掛けだった青春のバイブル、富澤一誠、シンコー・ミュージック、p.161。「拓郎は憧れ以上の存在だった」と中村は話している垣花正のあなたとハッピー!、ニッポン放送、2010年8月24日。1999年7月25日には『吉田拓郎&中村雅俊の蘇れ青春!広島の旅!』という番組がTBSで放送された。
  • 矢沢永吉とはキャロル時代から付き合いがあり、矢沢はソロデビューした1970代後半に、フォーライフの社長となった拓郎にマネジメントのことを聞きに夜よく電話してきたというアサヒ芸能、2009年7月2日号、pp.38-39。こうした関係からか、当時は拓郎以上にテレビもラジオも出なかった矢沢が拓郎のラジオ「セイ!ヤング」(1979年7月7日放送)と「オールナイトニッポン」(1981年6月6日放送)の2度ゲスト出演した。「オールナイトニッポン」では、拓郎が矢沢を「永ちゃん」「永吉君」「永吉」「オマエ」(矢沢も拓郎を「拓郎」「オマエ」(矢沢が年下))と呼んだ。「自分の曲をプライベートで聞くか」と聞かれた矢沢は「あまり聞かない」と答えたが、拓郎は「よく聞く、それも寝るとき自分の曲を聴きながら寝る」と言っていた吉田拓郎オールナイトニッポン・ゲスト矢沢永吉
  • 拓郎に憧れ多大なる影響を受けたと語る所ジョージLOVE LOVE あいしてる:1999/06/19 は、『LOVE LOVEあいしてる』に三度ゲスト出演した。1997年11月29日に初めてゲスト出演した際、拓郎の曲の中で「恋の唄」が好きだから、もう歌わないならを自分が作詞・作曲したことにさせてほしい、その代わりに自分の曲を10曲あげる、と交換条件を申し出たLOVE LOVE あいしてる:1997/11/29坂崎幸之助のJ-Friends1、2008年、自由国民社、p.100。「恋の唄」は、拓郎自身も一番好きな歌と公言していたが、所の申し出を承諾し、所はお返しに「精霊もどし」という、グレープの「精霊流し」をパロディにした曲を渡した。二度目のゲスト出演した際、所は、自分が作った曲のことを「拓郎さんもすごい歌を作りますね」とネタにして笑わせたLOVE LOVE あいしてる:1998/09/26。後に、この曲を、所に返した坂崎幸之助のJ-Friends1、p.100。所は「恋の唄」の2番を書き加えた曲を、1999年、自身のアルバム『洗濯脱水』に収録している。所はJASRACに登録されている作詞者・作曲者名も書き換えようとしたが、認められなかったという。所は拓郎曲のパロディ楽曲を複数発表している(『LIVE 絶滅の危機』)。
  • 元19で現3B LAB.☆Sの岡平健治の父親は、拓郎らと広島フォーク村に参加したミュージシャンであった19インタビュー。広島フォーク村の実質の活動期間は2年程であったが、1978年に第II期広島フォーク村として再び活動を行った。この時に参加したミュージシャンには上綱克彦(元柳ジョージ&レイニーウッド)や原田真二、村下孝蔵らがおり、広島フォーク村の拓郎の一応の後輩となる青い瞳のステラ、1962年 夏.../柳ジョージ&レイニーウッド - 広島FM 食卓ON楽中国新聞、2007年7月29日、p.10AERA in FOLK あれは、ロックな春だった!、朝日新聞社、p.82広島フォーク村
  • 拓郎のフジテレビ系音楽番組「夜のヒットスタジオ」への初出演は1980年6月30日。その約8ヶ月前の1979年11月12日に出演が予定されていたが、直前になって曲目等の件でスタッフと折り合いがつかなくなりキャンセル。この時に拓郎の代役として「夜ヒット」初出演を果たしたのが、まだレコードデビューして間もなかったCHAGE and ASKAであり、この出演を機に一気に彼らの知名度が上昇し翌80年の「万里の河」大ヒットの土壌が育つこととなった。彼らも拓郎、陽水を聴いていた世代。飛鳥涼は「いまだに陽水さんに会うと緊張するし、拓郎さんに至っては話もできない」と話している小室哲哉音楽対論 Vol.1、p.105。
  • 「テレビ出演拒否」のきっかけを作った布施明からは30年後に正式に謝罪を受けた。ただし最近も布施サイドから曲の依頼があるが「俺は絶対に書かない」と言っているという話もあるFLASH臨時増刊 Extime、p.30。また2006年、つま恋の復活コンサートの大成功で、この年の『紅白歌合戦』の目玉とも言われた拓郎が出場を辞退したのは布施が出るからとも言われた週刊新潮、2006年12月14日、p.44。
  • 松山千春は「拓郎が嫌い」とラジオや自著で発言「らいぶ」、学習研究社、1996年6月、p.29。これを聞きつけた拓郎も「松山が嫌い」と発言する事態となり、犬猿の仲ということになっていた。2000年7月29日に「LOVE LOVEあいしてる」に松山がゲスト出演。並んで座ったが2人の会話はなく拓郎は終始無言で、松山の独演会となった。拓郎嫌いの理由については、岡林信康が好きだったが岡林のあと岡林は、はっぴいえんどとロックをやり始めたため、怒ったフォークファンが怖くなり対人恐怖症になって歌を辞めると宣言し渡米、帰国後も京都の寒村に穏棲したりし表舞台に立たなくなった(バンザイなこっちゃ!、2005年・岡林信康著・ゴマブックス、p,227, 278、ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p.127)。ニューミュージックの本、富澤一誠監修、p.127 拓郎派と加川良派に分かれ、加川良のほうが好きになったため、好きの反対なら「拓郎→嫌いだろ」と説明した【LOVE LOVE あいしてる:トーク】。松山以外にも拓郎は「LOVE LOVEあいしてる」、注目の第1回放送(1996年10月5日)のオープニングで、唐突に「さだまさし嫌い」と発言したトーク 特別編集版 - 【LOVE LOVE あいしてる:トーク】。1997年9月20日放送の同番組で、さだまさしがゲスト出演したとき、拓郎はさだが嫌いな理由を「ヴァイオリンを弾くから」と説明している。
  • 高橋ジョージが最も影響を受けた番組は、拓郎が司会を務めていた「バイタリス・フォークビレッジ」(ニッポン放送)という。このラジオとは別に、テレビに出た拓郎がレコードとはまったく違うアレンジで「旅の宿」を弾くと頭の中が真っ白になるほどのショックを受け「こんなスゴいことができるなんて...これはギターを買わないとダメだ!」と急いで通販でギターを買ったのが本格的に音楽を始めた切っ掛けという東北ロックンロール物語、2008年、高橋ジョージ、ワニブックス、pp.61-62。
  • 篠原ともえとは、「LOVE LOVEあいしてる」で共演する前に、番宣番組で共演しているが、篠原の濃いキャラに嫌悪感を抱いた拓郎は完全無視を決め込み、それでもめげない篠原に「なんだお前!?触るんじゃねぇ!!」と激怒し、追い払った。さらに「LOVE LOVEあいしてる」に篠原もレギュラー出演することを聞いた拓郎は、「アイツが出るなら、俺は番組を降りる!!」と断言。しかし、それを知らない篠原は、ほぼ毎日のように拓郎と接触し、何とかして仲良くなろうと思っていた。その努力が実ったのか、拓郎の口p.から「お前はウルサイけど、いないと寂しい。」との言葉が出て以来、仲が深まるようになった。ちなみに篠原は拓郎のことを「音楽の大先生」として尊敬しているが、初めて会ったときにブチ切れされた時、篠原は「もう芸能界で生きていけない」と思ったらしい。
  • YO-KINGは拓郎ファンとしてよく知られ、私設のファンクラブにも入っていたという真心ブラザーズ4週連続企画 『YOUNGER THAN YESTERDAY』 - 第3週目ラジオ「PLATOn」出演記 - C-faculty - 中央大学エコレゾトーク - エコレゾ ウェブ。YO-KINGは「僕の世代には、拓郎さんをそんなに聞き込んだ人はいない。だから、そこがおもしろがられているんだと思います。それでデビューから20年以上もやってこられたんじゃないかと思います」などと話している。YO-KINGも一番好きな曲という「流星」を2001年にカバーしている。

ミュージシャン以外

注釈

出典

参考文献

著書

解説書等

関連項目

  • 1970年の音楽#デビュー - 同じ年にデビューした歌手

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2020/12/16 03:30 UTC (変更履歴
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