チャールズ・チャップリン : ウィキペディア(Wikipedia)

サー・チャールズ・スペンサー・チャップリン(Sir Charles Spencer "Charlie" Chaplin, KBE、1889年4月16日 - 1977年12月25日)は、イギリス出身の映画俳優、映画監督、脚本家、映画プロデューサー、作曲家である。 愛称は「チャーリー」。

映画の黎明期において、数々の傑作コメディ映画を作り上げ、「喜劇王」の異名をもつ。同年代に活躍したコメディアン、バスター・キートンハロルド・ロイドと並び、「世界の三大喜劇王」と呼ばれる。チャップリンは、ハリウッドにおいて極めてマルチな才能を示した人物であり、徹底した完璧主義で知られていた。その作品は、笑いとユーモアの陰に鋭い社会諷刺、下町に生きる庶民の哀愁や怒り、涙までも描かれている。

生涯

前半生

1889年4月16日、イギリス・ロンドンのケニントン地区、ランベスのイースト・レーンで生まれた。 父はチャールズ・チャップリン・シニア、母はハンナ・チャップリンで、ともにミュージック・ホールの俳優である。1歳のときに両親は離婚し、以降は母親のもとで育てられた。

5歳のとき、オールダーショットの劇場での公演で、舞台に立っていた母ハンナが喉をつぶしてしまう。そこで支配人は、チャーリーが舞台裏で様々な芸で母親の友人たちを笑わせているところを見たため、彼を急きょ舞台に立たせることにした。チャーリーはそこで歌を歌って大喝采を浴びた。これがチャーリー・チャップリンの初舞台となった。しかし、これによって母親は二度と舞台に立つことができず、チャップリン家は貧窮生活に陥った。そして1896年頃に母親は精神に異常をきたし施設に収容された。

どん底生活を余儀なくされたチャーリーは、4歳違いの異父兄シドニーといくつかの貧民院や孤児学校を渡り歩き、生きるために床屋、印刷工、ガラス職人、新聞やマーケットの売り子とあらゆる職を転々とし、時にはコソ泥まで働いた。その傍ら俳優斡旋所に通い、1899年に木靴ダンスの一座「エイト・ランカシア・ラッズ」に加わった。1901年、父チャールズ・シニアがアルコール依存症で死去。

1903年、『ロンドン子ジムの物語』のサム役、『シャーロック・ホームズ』のビリー役を演じ、地方巡業にも参加。その後、様々な劇団を転々とし演技のスキルを積んでいった。

1908年、兄の勧めで名門劇団に入り、寸劇『フットボール試合』のけちんぼ役、『恐れ知らずのジミー』などで成功。一座の若手看板俳優となった。この頃15歳のコーラス・ガールヘティ・ケリーに恋をする。

1909年、パリ巡業。1910年、寸劇『スケート』や『ワウワウ』に主演し好評を博す。 アメリカおよびカナダ各地を巡業。ことにボックス席の酔っ払いが騒動を巻きおこす『マミング・バーズ(唖鳥)』は当たり役となり、以後『ロンドン・クラブの一夜』と題されて成功をおさめた。

映画界へ

1913年、カーノー劇団の2度目のアメリカ巡業の際に、映画プロデューサーマック・セネットの目にとまり、週給150ドルの契約で、「キーストン・コップス」で有名なアメリカ・カリフォルニアの映画会社キーストン・スタジオに入社する。翌1914年、『成功争ひ』で映画デビュー。セネットに「面白い格好をしろ」と要求され、チャップリンは楽屋にいって山高帽に窮屈な上着、だぶだぶのズボンにドタ靴、ちょび髭にステッキという扮装で、2作目の『ヴェニスの子供自動車競走』に出演。以降『独裁者』(1940年)までこの扮装が彼のトレードマークとなった。

キーストン社のトップスターであるフォード・スターリングやメーベル・ノーマンド、ロスコー・アーバックルらと共演し、たちまち人気者となったチャップリンは、同年に『恋の二十分』で初めて監督・脚本を務めた。この年だけでチャップリンは35本の短編と、『醜女の深情』というマック・セネット監督の長編に出演している。

国際的スター 

1915年、シカゴのエッサネイ・スタジオに週給1,250ドルの契約で移籍。自身で監督・脚本・主演した作品を14本作り、チャップリン演じる浮浪者が繰り広げるドタバタコメディは人気を博した。エッサネイ社第2作の『アルコール夜通し転宅』でエドナ・パーヴァイアンスが起用され、以後8年間、公私ともに良きパートナーとして過ごす。

1916年、週給1万ドルにボーナス15万ドル、年額67万ドル(アメリカ大統領の年俸の7倍)という破格の契約金でに迎えられる。ここでは製作の自由を与えられ、よりよい環境とスタッフのもとで12本の傑作を世に送った。

この年に兄シドニーが弟のマネージャーとなり、運転手として日本人の高野虎市が雇われた。チャップリンは、「ミューチュアルで働いていた頃が、一番幸福な時期だったかもしれない」と語っている。またこれらの作品はアメリカのみならず、イギリスやフランス、日本など世界各国に配給され、高い人気を得た。

1918年、ハリウッドのラ・ブレア通りに自身の撮影スタジオを設け、(後にワーナー・ブラザースと合併)と、年間100万ドル超の契約を結び、名実ともに世界的ビッグスターとなる。一作ごとにかける時間と労力を惜しまず、マイペースで作品を作れる環境を整え、多くの名作を生みだした。また同年には、第一次世界大戦にイギリスや日本などとともに参戦した、アメリカ政府の発行する戦時公債促進キャンペーンに尽力し、プロパガンダ映画『公債』を製作。16歳の新進女優ミルドレッド・ハリスと初めての結婚もした。

1919年、盟友のダグラス・フェアバンクスメアリー・ピックフォード、監督のD・W・グリフィスとともに配給会社ユナイテッド・アーティスツ(現メトロ・ゴールドウィン・メイヤー傘下)を設立し、俳優がプロデューサーを介さず映画製作が出来る公益な場を提供する。

1921年、全米で大ヒット中の映画『キッド』を携え、故郷ロンドンヘ凱旋帰国。たいへんな歓迎ぶりで、小説家H.G.ウェルズや各界著名人と親交を結んだ。パリ、ベルリンと、戦後のヨーロッパの各都市を一巡したチャップリンは、戦禍の傷跡を人々の間に目の当たりにする。帰国後、口述で『My Trip Abroad』をしたためる。

1923年、初の自身が出演しない監督作品『巴里の女性』をユナイテッド・アーティスツから発表。

1925年、『黄金狂時代』が記録的な大ヒット。

1928年、『サーカス』を製作し、同年度の第1回アカデミー賞において、同作で脚本、演技、監督、製作に対して名誉賞を受賞した。だがチャップリンは授賞式には欠席し、後日、賞の授与の際も、「わずかの人間で決めた賞なんて、そうたいした名誉ではない。私の欲しいのは大衆の喝采だ。大衆が私の仕事を賞賛してくれるならば、それで十分だ」と語り、もらったオスカー像はドアのつっかいにされていた、と息子のチャールズJrは回想するC.チャップリンJr著『わが父チャップリン』p.41。なお、この受賞に伴い、ノミネートされていた喜劇監督賞と主演男優賞が取り消された。同年、母親が死去。

1931年、トーキー隆盛の中、サイレントの孤塁を守って3年がかりで撮った『街の灯』が興行的な成功をおさめ、人気のピークを迎えていたチャップリンは、一年半に及ぶ世界旅行へと出立。10年ぶりに訪れたロンドンではチャーチルや劇作家のバーナード・ショーと、ベルリンでは『街の灯』のプレミアに招聘したアインシュタインやマレーネ・ディートリヒと再会を果たす。

1932年、イギリスの植民地であるシンガポールにジャワ島、バリ島を経て兄シドニーとともに日本へ。神戸や東京を訪問するものの、訪日中にたまたま発生した国粋主義的な士官によるクーデター未遂事件である五・一五事件の巻添えになりかける。「日本に退廃文化を流した元凶」として、首謀者たちの間でチャップリンの暗殺が画策されていた。

1936年、機械文明と資本主義を批判した『モダン・タイムス』と、1940年にナチス政権下のドイツをあからさまに批判した『独裁者』を発表。

1941年12月にはアメリカが第二次世界大戦に参戦したことで戦時体制下に入ったために、戦時中は映画製作の停止を余儀なくされた。

赤狩りとハリウッド追放

1945年8月に第二次世界大戦が終結し、まもなくソビエト連邦をはじめとする東側諸国との冷戦が始まったアメリカで、『モダン・タイムス』以降の一連の作風が「容共的である」とされ、非難の的とされた。

特に1947年公開の『殺人狂時代』以降はバッシングも最高潮に達し、1950年代に入り、ジョセフ・マッカーシー上院議員指揮の下、赤狩りを進める下院非米活動委員会から、(上院議員の指揮の下で下院の委員会が動いたというのは論理的におかしい。要根拠)他の「容共的である」とされた俳優や監督とともに何度も召喚命令を受ける。しかし、1948年にフランス映画批評家協会は彼をノーベル平和賞に推薦した。

1952年、ロンドンで『ライムライト』のプレミアのために向かう船の途中、アメリカのトルーマン政権の司法長官から事実上の国外追放命令を受ける。自身の意にはそぐわなかったが、スイス・ローザンヌのアメリカ領事館で再入国許可証を返還した。

アメリカの一般国民はこのチャップリンの追放劇に激しく抗議。決定した司法長官のもとに国内だけで数万通に及ぶ抗議の手紙が殺到した。マグラネリーは特別に、「チャップリン氏がアメリカにとって危険な人物である証拠は存在するが、今は明らかにできない」と声明を出した。

この追放劇はチャップリンの名声を利用しようとした世界各国の右派、左派両方から政治的に利用される結果となった。

スイスに

アメリカを去ったチャップリンは、映画への出演もめっきり少なくなるが、スイスのブドウ畑を臨む広大な邸宅「マノワール・ド・バン」に移り住み、妻ウーナや8人の子供たちと晩年を送る。世界的な名士として、クララ・ハスキルやパブロ・カザルス、ジャン・コクトー山口淑子周恩来らと交友関係を持った。

1965年にエラスムス賞を受賞。その頃に公刊された『私の自叙伝』は空前のベストセラーとなった。1969年、3女ヴィクトリアのために新作を構想。「ザ・フリーク」(The Freak)の台本にとりかかる。また旧作を再公開するため、バックグラウンドミュージックの作曲を続けた。

1971年、フランス政府によりレジオンドヌール勲章、パリ市議会からは名誉市民の称号を与えられる。

再びアメリカへ

1972年、第44回アカデミー賞で名誉賞に選ばれ、授賞式に出席するため、20年ぶりにアメリカの地を踏んだ。授賞式では数分間のスタンディングオベーションで迎えられ、プレゼンターのジャック・レモンからオスカー像を受け取った。自身作曲による“スマイル”(『モダン・タイムス』)も会場のゲスト全員で歌われ、「チャップリンは単なる名前以上のもの。チャップリンは映画用語の一つである」とアカデミーの会長ダニエル・タラダッシュ(Daniel Taradash)は述べた。また、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームから名前が消されていた事実も、この20年ぶりの帰国によって、ロサンゼルス市議会が11対3で星印を残すことに可決した。これらのことはアメリカとの事実上の和解となった。

同年には『ライムライト』がアメリカで再公開され、翌年の第45回アカデミー賞で作曲賞を受賞した。本作は1952年に東海岸で封切られたが、アカデミー賞の選考基準であるロサンゼルスでの公開はされていなかったので、この年度の受賞対象作品となった。

1975年、それまでの活動を評価されエリザベス2世よりナイトに叙され「サー・チャールズ」となった。 しかし、左寄りとされた思想や女性問題で叙勲がかなり遅れたことが分かっている(後述)。

1976年の秋、スイスの「」の公演に車椅子姿で目撃される。これはチャップリンがスイスに居住して以来、毎年欠かさない鑑賞行事であった。

死去

1977年のクリスマスの朝、スイス・ヴェヴェイの街を見渡せる村、コルズィエ=スュール=ヴェヴェイの自宅で死去。88歳だった。

生前は隣村に移住していたイギリスの俳優ジェームズ・メイソン(1984年没)と親交を深めていた。両者は死後、村の墓地に3メートルほどの距離で埋葬された。

死後、金銭目的で墓から柩が持ち出される事件があったが、柩は墓地から17キロメートル離れたレマン湖畔のトウモロコシ畑で発見された。後日、主犯のポーランド人ロマン・ワルダス(Roman Wardas)と、ブルガリア人ガンチョ・ガネフ(Gantscho Ganev)の2人が逮捕された1978: Charlie Chaplin's stolen body found

ヴェヴェイのレマン湖畔にはチャップリンの銅像が建立された。なお、ロンドンのレスター・スクウェアにも同型のチャップリン立像がある。

作品の特徴

役柄

チャップリンの最もよく知られている役柄は「小さな放浪者=The Little Tramp」である。窮屈な上着に、だぶだぶのズボンと大きすぎる靴(ドタ靴)、山高帽に竹のステッキといったいでたち。パーマ頭にチョビ髭の人物で、アヒルのように足を大きく広げてガニ股で歩く特徴をもつ。ホームレスだが紳士としての威厳をもち、優雅な物腰と持ち前の反骨精神でブルジョワを茶化し、権力を振りかざすものを笑い飛ばした。

この独特の扮装と役柄は、映画出演2作目の『ヴェニスの子供自動車競走』(1914年)で初めて登場している (チャップリン本人も当初、観客に受け入れられるとは思わなかったという)。

以後、このTrampは年代とともに徐々に変化し、滑稽味の中にもペーソス(悲壮感)を湛えたハートフルなキャラクターに成長。貧しくとも人間としての誇りを失わない永遠の“放浪紳士チャーリー”が誕生する。アメリカの反動的なマスコミから、「危険思想をバラ撒き、健全な市民階級に毒素を注入している」などと揶揄されたが、プロレタリアートの立場から資本主義社会に対する不平等への“怒り”を表現するスタイルは終始一貫している。

作風

初期は15~30分前後のショート作品が主体で、放浪者のキャラクターも心優しさよりは寧ろコミカルな動き一辺倒で笑わせる非道なドタバタが主流であった。貧困階層の市民として、当時の世相や政府を風刺したものが多く、また思想的にはアナーキーでドライな作風が多い。

しかし、1917年の『チャップリンの勇敢』・『チャップリンの移民』あたりから、社会的弱者に対する同情が彼独自のヒューマニズムとなり、コメディー路線に新たな境地を切り拓く。

1918年の『犬の生活』でよく知られる「心優しき放浪者」が完成された後、『担へ銃』では戦争の愚かさと一兵卒の悲哀をユーモアのなかに描き、『偽牧師』(1923)では、宗教を笠に着る偽善を巧みに暴いてみせた。また『サニーサイド』(1919)では、甘美な夢と痛ましい現実が交錯し、初の長編『キッド』(1921)ではドタバタも控えめに、ドラマ性重視のコメディリリーフを試みた。捨て子と実母との再会までの奇跡を、実の親子以上の絆で結ばれた二人の物語となって、観客の胸を打つ。

さらにリアリズムに徹した意欲作『巴里の女性』(1923)。アラスカ・クロンダイクの金鉱発掘者たちのドラマ『黄金狂時代』(1925)。曲馬団の少女に恋をして奮闘する『サーカス(1928)』などで、高い芸術性が評価されるようになる。また、背中を向けてひとり悄然と、しかし朗らかに歩み去っていくラストシーンは、初期の『失恋』(1915)で初めて登場して以来の定石であるが、エドナ・パーヴァイアンスとの出会いから生み出されたと言われる。

以降、美しいものへの憧憬と、放浪者のまなざしが社会の歪みや冷酷さへ向けられると、その作風もまた大きく変わってゆく。

街角で出会った盲目の花売り娘に、無償の愛を注ぐ『街の灯』。大不況のさ中に苦悶する労働者の実態を通し、幸福とはなにかを問い掛ける『モダン・タイムス』。ナチス・ドイツが台頭するヨーロッパで、ヒトラーをこてんぱんにカリカチュアした『独裁者』。“チャーリー”スタイルから脱却し、反戦メッセージを含ます異色のブラック・コメディ『殺人狂時代』。落ちぶれた老芸人が、足の不自由なバレリーナと再起の舞台を賭ける『ライムライト』。現代アメリカの矛盾点を鋭くえぐった『ニューヨークの王様』など。

フランスの映画監督ジャン・ルノワールは 「チャップリンはただ一つの作品をつくったのだ」 と言っている。

専属のキャメラマンに、エッサネイ時代から『殺人狂時代』までの長きにわたりが務めた。

出演者には同じ俳優を起用することが多く、ヒロイン役にはエドナ・パーヴァイアンスが1915年から1923年までの全35本の作品に出演している。そのほかのヒロイン役としてはジョージア・ヘイル(『黄金狂時代』)、ヴァージニア・チェリル(『街の灯』)、ポーレット・ゴダード(『モダン・タイムス』『独裁者』)、クレア・ブルーム(『ライムライト』)などが挙げられる。助演者にはチャップリンの右腕で良き親友でもあったヘンリー・バーグマン(全20本に出演)をはじめ、アルバート・オースチン、アラン・ガルシア、エリック・キャンベル、ジョン・ランドレオ・ホワイトなどが常連出演した。またマック・スウェイン、フィリス・アレン、チェスター・コンクリンハンク・マンといったキーストン・スタジオ出身の喜劇俳優たちも長くチャップリン映画で活躍した。

ペーソス

チャップリンに関して伝えられる物語の一つに、彼が子供の時に見た食肉処理場から逃げ出した羊の話がある。周囲の人間は慌てて羊を追いかけるのだが、羊も必死で逃げるから羊も人間も右往左往、あちこちぶつかってはひっくり返った。そのおかしな光景に周りの人間は腹を抱えて笑ったが、やがて羊がつかまえられたとき、「あの羊、殺されるよ…」と泣きながら母のもとに走って行った。喜劇と悲劇が紙一重になっているチャップリンの作風の原点となっている『自伝』より。。

“永遠の放浪者チャーリー”のモデルとされる人物には、幼少のころに見たルンペンたち、ミュージック・ホール時代のスターたち、草創期の映画スターたち(特にフランスの喜劇王マックス・ランデー)など多くのモデルがいる。チャップリンの母ハンナは、タウンハウスの地下部屋から通りを往く足だけ見える人々の心情をパントマイムで表現し、幼い彼に人間観察の大切さを教えたという。

映画の中で笑いの起爆剤となるドタ靴について、淀川長治は著書や講演の際に、「寒い雪の中を教会の慈善スープを貰いに、チャップリンの小さな身体には大きすぎる母親の靴を履かされた思い出」などを語ることがあるが、作り話であった。

チャップリンの幼少期の経験は、後に作られる数々の作品の中で断片的に投影されていく。

劇団の巡業で渡米する際、母親の入国許可は下りなかったが、ハリウッドで成功してからは母を呼び寄せることができた。風光明媚な海岸の一軒家に住まわせ、面倒見のいい夫婦と経験豊かな看護婦を雇った。しかしハンナは最後まで息子の成功を理解できぬまま、1928年に亡くなった。「もう生活の気苦労はなかったはずなのに、この先何か問題が起こるのではないかと、常に不安そうな表情を浮かべ心配していた」と後年チャップリンは回想している。

反ファシズム

チャップリンは、ドイツ・ナチ党の指導者で、選挙を経て同国の総統となり、その後独裁体制を敷いたアドルフ・ヒトラーに強い反感を持ち、1940年に発表した『独裁者』ではヒトラーを痛烈に批判している。

ただ、『独裁者』製作時のアメリカはまだ第二次世界大戦に参戦しておらず、国内にはドイツ系市民を中核とする親ナチ派が歴として存在していた。ファシズム色を濃くし、ユダヤ人への弾圧強化、オーストリアやチェコスロバキアを併合していった上に、第二次世界大戦を引き起こしたヒトラーに対してさえ、「共産主義の防波堤」と称賛する者もいたほどで、チャップリンの元には連日のように製作中止を求めるクレーム、暗殺を仄めかす脅迫状が届いた。

しかし、そんな陰の圧力にも屈せず公開させると、批評家からは概ね好評で、熱烈な反ファシストを宣言していたF・D・ルーズベルト大統領からホワイトハウスに招かれるなど、それまでのチャップリン映画中、最も興収を上げた作品となった。

なお、この映画に出てくる床屋のイメージからか「チャップリン=ユダヤ人」と捉える人も根強くいるが、チャップリンはユダヤ人ではない。 チャップリンはカーノー劇団所属時での寸劇や、ごく初期の作品でユダヤ人を小馬鹿にするギャグを使っており(挨拶の際、ユダヤ人特有の長い顎鬚で涙を拭ったり引張ったりする)、ある人には「ユダヤ人と思われて光栄だ」などとも語っており、それが「チャップリン=ユダヤ人」説の原因になった。

完璧主義者

監督、主演だけではなく脚本や演出も担当し、『街の灯』以降の全作品、1918年からの『キッド』、『黄金狂時代』、『サーカス』などの一連のサイレント作品をリバイバル上映用に再編集して、自ら劇伴を作曲したこと、わずか数秒のシーンを納得のいくまで何百テイクと撮り直したことなどから、業界随一の完璧主義者と呼ばれた。特に『街の灯』における花売り娘との出会いのシーン(正味3分ほど)では、一年以上にわたって342回ものNGを出した。この映画は完成までに534日かかっているが、たった一つの場面だけに368日が費やされている。前作の『サーカス』においては、地上数十メートルの高さでスタントなしで綱渡りを披露したことも例に挙げられる。

また、唯一のシリアスメロドラマ『巴里の女性』(1923年)においては、映画作家としての手腕を発揮し、後世の映画人に与えた影響は大きい。最後に撮った『伯爵夫人』(1967年)同様、監督にのみ徹し主演はしていないが、後者はソフィア・ローレンマーロン・ブランドという二大ビッグスターを起用し話題にはなったものの、コメディに不向きなマーロンを抜擢したのが良くなかったのか、「時代おくれ」 「偉大な天才の凡作」という評価が多かった。一方『巴里の女性』は、永年の相手役エドナ・パーヴァイアンスを大女優にすべく製作されたもので、それまでのハリウッド製娯楽映画にはみられなかったソフィスティケートされた演出が話題をさらい、当時の批評家やインテリ層を唸らせた。しかし一般受けせず、興行成績も芳しくなかったため、長らくのお蔵入りとなる。この「幻の名作」がサウンド版として再び世に出たのは1976年、チャップリンの死の前年のことであった。

技術や音楽的な特徴

出演した作品はサイレント映画がほとんどで、こういったことから「チャップリンはトーキーを軽蔑し、サイレントに固執していた」という印象が強いが、軽蔑していたのではなく放浪者のイメージが声で崩れることを恐れたとされる。

1929年には、アメリカの大半がトーキー(サウンド)映画に移行する中で、「パントマイム芸こそが世界共通語」だと疑わぬチャップリンには信念があった。実際1931年の『街の灯』では、サイレント形式にこだわりつつも、全編にわたって初めて音響効果を伴うサウンドを付けた。 続く1936年の『モダン・タイムス』では、ストーリー上必要な部分にだけトーキーを使い、1940年公開の『独裁者』で初めて、完全なトーキーに踏みきった。全編カラーのシネマスコープ作品は『伯爵夫人』のみである。

音楽家になる夢を捨てきれず、1916年にチャーリー・チャップリン音楽会社を設立し、自作の曲3曲を出版した(「Peace Patrol」、「Oh!That Cello」、「There's Always One You Can't Forget」)。しかし2000部刷った楽譜は3部しか売れず、すぐに頓挫してしまったらしい。1925年には、をバックに2曲(「Sing A Song」、「With You Dear In Bombay」)をレコーディング。ゲスト・コンダクターとして指揮をとり、ヴァイオリンのソロパートも自ら演奏した。

正式な音楽教育は受けていないため、譜面の読み書きは出来なかったという意見もあるが、サイレント映画における伴奏音楽の重要性を早くから認識し、『キッド』を上映の際には全ての劇場にキューシートを配付するなど、音に対して万全であった。チャップリンの作曲は、思いついたメロディをピアノで弾いたり口ずさんだりしたものを、専属のアレンジャーが写譜する形を取った。撮影の合間を縫っては、かけだしの頃に独学で習得したチェロやヴァイオリンを奏で、アイディアに行き詰まると自宅に備え付けられたハーモニウムを何時間でも鳴らしたという。 そこでチェロ、ヴァイオリン、ピアノ、ハーモニウムを自在に演奏し、音楽会社まで設立した人間が、「譜面の読み書きは出来ない」というのは無理があり、チャップリンが全く出来なかったことはオーケストレーションとアレンジであったと考えるのが妥当である。 ただ、多くのチャップリンについての伝記には依然として、「譜面の読み書きは出来ない」と書かれている。

チャップリンは後期ロマン派の爛熟した時代に生まれ、現代音楽の黎明期をリアルタイムで接し「前衛の時代の終焉」の時代に没したため、特に音楽的な語彙の豊富な映画監督になった。ロンドンの街角で辻楽士が弾く「スイカズラと蜂」という流行歌に魅せられた幼少期から、ミュージック・ホールに根ざした大衆音楽に慣れ親しんだ彼だからこそ書けるメロディーラインが、そこにはあった。アメリカの風刺画家を通じて知り合ったタイユフェール、ナチス政権を逃れてハリウッドに定住していたストラヴィンスキーやシェーンベルク、ハンス・アイスラーと分け隔てなく交流したことも、彼にインスピレーションを与えた。またレオポルド・ゴドフスキーとは友人であり、一緒に写った写真が残されている。チャップリンの作曲は「ずぶの素人」にでも分かりやすい同じフレーズの反復を多用したが、これはゴドフスキーが「古きウィーン」でみせた作曲法と全く同一である。この点、プロの作曲や難解な和声イディオムを前面に押し出したヒッチコックとは対照的である。 『独裁者』及び『黄金狂時代』のサウンド版で、ワーグナーブラームスといったクラシックの既成曲を大胆なアレンジで聞かせているのも、センスの良さが窺える。『ニューヨークの王様』の出だしからアメリカ国歌を直裁に引用したのも、最後まで反骨精神を失わなかった証である。

チャップリンの作曲した楽曲としては、“スマイル”(Smile)(『モダン・タイムス』)や“エターナリー”(Eternally)(『ライムライト』)が有名。プッチーニのアリアにも似た美しい“スマイル”は、最初歌詞が付けられていなかったが、1954年に歌詞が付けられ、ナット・キング・コールの歌により大ヒットした。その後はマイケル・ジャクソンやエルヴィス・コステロらによってカヴァーされ、今日でもスタンダード・ナンバーとして多くのアーティストにより歌い継がれている。また、『モダン・タイムス』の劇中においてチャップリンが歌ったデタラメ語による“ティティーナ”(Titina)は、ロサンゼルスのラッパー、J-Fiveによってサンプリングされ、ラップでも歌われた。

近年は生のオーケストラをバックに、チャップリンの色褪せぬフィルム・ミュージックをスクリーンとともに愉しむ機会が世界的に増えてきた。指揮者のカール・デイヴィス(Carl Davis)やティモシー・ブロック(Timothy Brock)が基あるオリジナル・スコアを忠実に復元したものが、劇場で新たな命を吹き込まれ、「ライブ・シネマ」という形で甦っている。

『ライムライト』で助監督を務めたロバート・アルドリッチは、フランスを訪れた際に映画評論家時代のフランソワ・トリュフォーのインタビューで、チャップリンを「説明不要に偉大な芸術家だ」とチャップリンへの尊敬を語った上で「しかし、彼は少しテクニックを疎かにする面もある」と評している「ロバート・オルドリッチ読本1 - カリフォルニア・ドールズ / 合衆国最後の日」.遠山純生.通販番号RS121112-03.2012年11月12日.EAN 2122101000050.boid.。

家族

  • 父:チャールズ・チャップリン・シニア
  • 母:ハンナ・チャップリン
  • 異父兄:シドニー・チャップリン
  • 異父弟:ウィーラー・ドライデン

チャップリンは生涯に4度の結婚を行ったとされる。〈〉は妻との間に生まれた子。()内は結婚期間

  • 最初の妻:ミルドレッド・ハリス(1918年 - 1920年)※当時16歳で結婚
    • 長男〈長男〉:ノーマン・スペンサー・チャップリン(1919年生、生後3日で死去)
『キッド』制作中の1920年3月、ミルドレッドは精神上の虐待を理由に離婚申し立ての訴訟を起こし、『キッド』のフィルムを差し押さえようとした。それを逃れるため、チャップリンは州を越えたソルトレイクシティへ逃避し、ホテルの一室を借りて編集作業を行った。同年8月に裁判が開始し、11月にミルドレッドに10万ドルの慰謝料と共有財産折半の条件を飲んで離婚が成立した。
リタとは『キッド』などで共演しており、『黄金狂時代』のヒロインに起用したことで、関係が始まった。1924年にリタの妊娠が発覚し、リタの両親が激怒。カリフォルニア州法では未成年女性と関係を持つと強姦罪に問われ、最高30年の刑になるため、リタの両親はそれをタネにチャップリンに結婚を強要し、11月にメキシコで密かに式を挙げた。これにより、リタは『黄金狂時代』のヒロインを降板し、代わりにジョージア・ヘイルが務めることとなった。
ただし法的な籍はいれておらず、内縁関係であったという。
  • 4人目の妻:ウーナ・オニール(1943年 - 1977年)※18歳になった誕生日に結婚
    • 長女〈長女〉:ジェラルディン・チャップリン(1944年生 - 、女優で『ドクトル・ジバゴ』、『チャーリー』などに出演。女優としては最も有名)
    • 四男〈長男〉:マイケル・チャップリン(1946年生 - 、『ニューヨークの王様』に出演)
      • 孫:ドロレス・チャップリン(女優、J-FIVE Modern Times のミュージックビデオに出演)
      • 孫:カルメン・チャップリン(女優)
    • 次女〈次女〉:ジョゼフィン・チャップリン(1949年生 - 、女優で『カンタベリー物語』に出演。日本チャップリン協会最高顧問)
    • 三女〈三女〉:ヴィクトリア・チャップリン(1951年生 - 、女優、『独裁者』のメイキングフィルム(カラー)を発見した)
    • 五男〈次男〉:ユージーン・チャップリン(1953年生 - 、レコーディング・エンジニア、ノック・サーカス(Circus Nock)芸術監督)
      • 孫:(モデル、実業家でもある)
    • 四女〈四女〉:ジェーン・チャップリン(1957年生 - )
    • 五女〈五女〉:アネット・チャップリン(1959年生 - 、モーリス・ベジャール振付によるバレエ「Mr.C」(1994年)に主演)
    • 六男〈三男〉:クリストファー・チャップリン(1962年生 - )

スキャンダル

チャップリンの華やかな女性遍歴を指摘する声も多々あるが、映画史家デイヴィッド・ロビンソンによると、チャップリンは女性との関係において、「ハリウッドの標準としては慎ましやかなものだった」という。3度の結婚が未成年者であることから、ロリータ嗜好があったというのは後の人間による憶測に過ぎない。

1922年に婚約説が流れたポーラ・ネグリ。『黄金狂時代』のヒロインジョージア・ヘイル。新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストの妾のマリオン・デイヴィスといった女優との浮名も流している。

『サーカス』制作中の1927年、リタ・グレイに離婚訴訟を起こされ、自身の私生活を公表される。示談金62万5000ドルを支払うことで終結し、離婚が成立するが、この騒動は当時38歳のチャップリンを心労で白髪にさせるほどのものであった。後年に執筆した自伝では彼女についてほとんど触れられていない。後にリタは「じゃあ私が書きます。」と自分で赤裸々な暴露本を書いた。また、撮影スタジオの火災や、1928年には最愛の母の死もあり、チャップリンにとってあまり良い時期ではないようだ。

18年間チャップリンの元で秘書として仕え、身の回りの世話を任されていた日本人高野虎市は、3番目の妻(事実婚)とされるポーレット・ゴダードのあまりの浪費癖に辟易し、1934年に彼のもとを去っている。

1943年、女優ジョーン・バリー(英語版)には子供の父権認知訴訟を起こされる。血液判定ではチャップリンの子ではないと判定されたが、血液検査を無視した滅茶苦茶な裁判の結果、1対11の陪審員評決で扶養義務を負うことになった。バリーは、これ以前に銃を携行してチャップリン邸に押し入るなど奇行がみられた。

また戦争への出兵拒否、ソ連を助けるための第二戦線開始のアジ演説をしたことでFBIから牽制を受けるなど、チャップリンをめぐるゴシップはマスコミの餌食となり、第二次世界大戦から冷戦期のアメリカでは、その平和思想もあいまってネガティブ・キャンペーンの的となった。

チャップリンと日本

  • 大正時代から日本では「変凹君(へんぺこくん)」「アルコール先生」という愛称で親しまれた。これは当時の日本人にはチャップリンの名が発音しにくかったことから、配給会社がチャップリンが演じるキャラクターには酔いどれ役も多かったことからそのようなあだ名で紹介をしたためである。
  • 正月興行として恒例だったニコニコ大会では、ロスコー・アーバックル(通称デブ君)、メーベル・ノーマンド、チェスター・コンクリンマック・スウェインベン・ターピンなど花形の喜劇役者がお目見えする中、ひと際子供たちに人気があったのがチャップリンだった。
  • チャップリン喜劇を得意とした映画説明者(活動弁士)に大蔵貢、杉浦市郎、松竹で活躍した俳優・小倉繁は“和製チャップリン”といわれた。
  • 日本で公開されたチャップリン映画は日中戦争中に公開された『モダン・タイムス』(1938年/昭和13年封切)までで、大東亜戦争による空白期間を経て、戦後初のチャップリン作品は『黄金狂時代』サウンド版だった(1946年/昭和21年)。第二次世界大戦中の1940年製作の『独裁者』は1960年(昭和35年)に封切られた。
  • チャップリンが映画の中で使用したステッキは寒竹製で日本の職人が作ったものである布とステッキの素敵な関係(柳谷廣之) 繊維と工業 Vol.69 No.12、2019年12月10日閲覧。。滋賀県草津市の特産品でしなりが強い。ただし最初からステッキを使っていたわけではなく、当初は雨傘を用いていた。
  • チャップリンの日本好きは運転手(後に秘書)として採用した高野虎市の影響が大きい。彼の仕事ぶりを高く評価していたため、一時家の使用人がすべて日本人で占められていた。2番目の夫人リタ・グレイは、「まるで日本の中で暮らしているかのよう」と評した。ただ、その次にチャップリンに身を寄せていたポーレット・ゴダードと高野は、ゴダードの浪費癖をめぐって衝突し、高野は辞任した(高野解雇説は『チャップリンの影』のなかで大野裕之が資料を元に否定)。
  • サーカス』の製作中、映画監督の牛原虚彦が高野の紹介で弟子入りしていた。撮影されたシーンの出来をチャップリンが試写室で確認する際、彼も見学することができたという。非常に勉強になったと後に淀川長治との対談などで振り返っている。
  • プロレタリア作家・小林多喜二は小樽映画鑑賞会の会員としてその機関誌「シネマ」に次々と映画批評を執筆した。。
  • 文豪・芥川龍之介はその随筆で、「あのチャーリー・チャップリンもやはり社会主義者の一人である。もし社会主義者を迫害するとすれば、チャップリンもまた迫害しなければなるまい」と述べている『澄江堂雑記』第十七節「チヤプリン」。。
  • 1932年(昭和7年)5月14日に初来日。アジアで唯一の先進国で、大きな市場であった日本は無視できない市場であった。東京駅には推定4万人の群衆が押し寄せた。当時の新聞記事は「何のことはない、震災当時の避難民の喧騒と怒号が渦巻いていた」と伝えた。翌日には首相官邸で歓迎会に出席する予定であったが、ただならぬ五・一五事件に遭遇して、多大な衝撃を受けた。歌舞伎座や明治座で念願だった伝統芸能を鑑賞。初代中村吉右衛門や六代目尾上菊五郎、二代目市川左團次の楽屋を訪ね、所感を述べた。また喜劇役者の曾我廼家五郎とは、互いに富士山を色紙に描いて交換しあう。 記者会見で「各国の文化水準は監獄を見れば解る」との持論から、5月20日に小菅刑務所(現・東京拘置所)を視察。「恐らく設備、明るさの点からいって世界一」と絶賛した。またその際、「私はどの国でも猥褻犯の質問をします。この犯のパーセンテージでその国の国民性がわかる」と話したという読売新聞 2018年3月5日 P.8 「時代の証言者」『冤罪のち次官 村木 厚子 28 最終回。帝国ホテルに定宿し、和牛ステーキをえらく気に入った。また箱根の富士屋ホテル、横浜のホテルニューグランドに逗留。日本橋の「花長」では海老の天ぷらを36尾も平らげ、その後の来日でも好んでエビ天を食べたことから、「天ぷら男」のあだ名がついた。さらに「花長」で修行した板前が乗船しているということで、帰国時の船を氷川丸に決めたのはこの時だった。なお、花長での記録は現在も破られていないという。
  • 5月19日に五・一五事件で殺害された犬養総理の葬儀が総理官邸の大ホールで執り行われた。その際にチャップリンは「憂国の大宰相・犬養毅閣下の永眠を謹んで哀悼す」との弔電を寄せた。この事に驚く参列者も多かった。
  • その1932年の初来日の際、通訳を務めたのは当時読売新聞文芸部長を務め、後に小説家に転身した小野金次郎で、小野金次郎がチャップリンからもらったサイン入りポートレートは孫である俳優の小野武彦が自身の自宅に保存していることを明かしている『ウチくる!?』(フジテレビ 2013年3月10日放送)にて小野武彦自身の述懐。。
  • 1936年(昭和11年)3月に再来日。ユナイト映画の大阪支社に勤務していた淀川長治が、神戸港に停泊するクーリッジ号で、45分の単独インタビューに成功。同年5月には、当時の愛人ポーレット・ゴダードとの新婚旅行を兼ねた世界漫遊の途中で3度目の来日。船上でジャン・コクトーと合流する。京都に足を運び、最高級の老舗旅館「柊家」に宿泊。名所旧跡を訪ね、西陣で絹のガウンを購入した。銀ブラ、浅草、相撲見物と愉しみ、足早に離日。チャップリンは船のタラップを駆け上り、やおら振り向くと、帽子をつぶして、セントヘレナ島へ流されるナポレオンのポーズをとって、見送りの人々をドッと笑わせたという。
  • 3度目の来日は戦後で1961年(昭和36年)7月にウーナ夫人、長女のジェラルディン、長男のマイケルを連れて4度目の来日。通訳を務めたのは山口淑子。渋谷の東横ホールで、五代目中村富十郎の『義経千本桜』を鑑賞。日光東照宮では靴下に草履ばきで、指が入らず突っ掛けて、お参り。藁ぶき屋根の農家や、風情ある銭湯を見つけるとふらり立ち寄り、お茶をご馳走になったり、脱衣場に居合わせた人々にビールやアイスクリームを振る舞ったという。高度成長期で変貌著しい東京の風景には失望するも、チャップリンがもっとも愛したと言われる京都に来て、「古き良き日本の姿」を見て喜んだと伝えられる。
  • この時は岐阜を訪れ、鵜飼を鑑賞した。鵜匠山下幹司の絶妙な手縄さばきに「ワンダフル」を連発。幻想的な篝火にも魅了され、「鵜飼は一遍の詩であり、鵜匠は詩人である」と言い残した。
  • 4度目の来日の際にも再び岐阜を訪れたが、すっかり変わり果てた鵜飼の姿に「戦前はこんなのではなかった……」と落胆した。岐阜市内での鵜飼のポスターには、鵜とチャップリンが共にいるデザインが採用されたりもした。下呂温泉の白鷺橋には記念のブロンズ像が2001年に設置された。
  • 第44回アカデミー賞の授賞式に先立って行われたニューヨークでの歓迎会では黒柳徹子と面会している。彼女と対面した時、チャップリンは大変感激して「キョウト、フジヤマ、ウカイ」と感涙した。
  • 1970年(昭和45年)の大阪万博の時に、日本側が招聘を試みたが実現しなかった。1972年(昭和47年)のリバイバル上映時も来日が企画されたが実現せず、代わりに次女ジョゼフィンが来日した。
  • 晩年マスコミから遠ざかり、スイスに隠棲していたチャップリンに、幸運にも接する機会を得た著名人としてタレントの萩本欽一、ヴァイオリニストの前橋汀子がいる。萩本は1971年、フジテレビの番組企画でヴヴェイのチャップリン邸にアポなしで訪問。4日粘ってやっと会えたという。この辺りの経緯は、萩本のページに詳しい。前橋汀子は1976年の秋、ヴヴェイのクニーサーカス公演にウーナ夫人ら家族とともに姿を見せたチャップリンに、サインをもらう写真が残されている。
  • 1972年(昭和47年)、世界中でチャップリン回顧ブームとなる中、日本では東宝東和が「ビバ! チャップリン」と銘打ち、『モダン・タイムス』を皮切りに代表作10本(併映小品あり)を順次公開すると、異例の大ヒットを記録した。
  • 1977年の11月、「チャップリンと私」という作文を募った雑誌ロードショーの企画で、優秀賞に選ばれた読者がスイスのチャップリン邸を訪問するツアーが敢行された。喜劇俳優の伴淳三郎も参加し、一行はウーナ夫人に温かく迎えられたものの、チャップリン本人には会えなかった。置土産に持参した市松人形は、永くチャップリンの自室に飾られたという。
  • 1977年12月、月曜ロードショーを急遽変更し、チャップリンの追悼番組「さようなら喜劇の王様」を放送。前橋は解説者の荻昌弘の横でアシスタントを務めていた。また翌、1978年の「欽ドン! 追悼チャップリン特集」で、1971年放送の「拝啓チャップリン様・コント55号只今参上!」のダイジェストを放送している。
  • ロングランは続き、1986年(昭和61年)に国内での上映権が一旦切れた後は、衛星放送や市販ビデオ、レーザーディスクなどで楽しむ他はなかった。しかし2003年(平成15年)、日本ヘラルド映画が『犬の生活』以降の国内上映権を再購入し、同年5月から朝日新聞と日本ヘラルド映画の主催で「Love Chaplin! チャップリン映画祭」が全国各地の映画館で行われ、後にDVDソフトとしてデジタルリマスターされた版が日本ヘラルド映画(発売元)、ジェネオンエンタテインメント(販売元)からリリースされた。これらチャップリンの名作は、現在KADOKAWAよりブルーレイディスクが出ており、最良のクオリティーで視聴可能である。
  • ビデオテープが普及する前、権利なしのチャップリンの映画は家庭用8mmや16mmフィルムでよく見られていた。アメリカのブラックホーク社が大量のクラシック映画を一般家庭用に分売しており、輸入業者を通じて手軽に入手できた。マツダ映画社や公共図書館などの弁士付き上映会でも頻繁にかかっていた。
  • テレビでもチャップリン映画は盛んに放映されており、古くはフランキー堺(「チャップリン小劇場〔NHK〕」)や愛川欽也(『キッド』)によるナレーション入りで、90年代は永井一郎小松政夫が吹き替えた短編コメディーの放送があった。
  • 生誕100年となる1989年、NHKスペシャルで若き日のチャップリンを描いたイギリス発テレビドラマ(吹き替えはハンナ役に木の実ナナ、チャーリー役に浪川大輔)と、チャップリンの未公開NG映像で構成された『知られざるチャップリン』が放送された。それは本編をかなり短縮して2部構成にし、元のジェームズ・メイソンのナレーションをカットして、加賀美幸子アナウンサーと萩本欽一が番組進行に当たっている。淀川長治の解説映像も別録りで付いていたが、大半は萩本欽一のアテレコとトークが占めていた。
  • 郵政民営化以前の1989年、郵便局のMMC貯金POSTのイメージキャラクターに起用され、実写ではないイラストのチャップリンが動くCMが放送されていた。
  • 2006年に日本チャップリン協会が設立された。名誉会長は黒柳徹子、最高顧問にジョゼフィン・チャップリン、名誉顧問に山口淑子、会長に大野裕之が就任、本部は京都大学にある。2006年3月25日から4月2日まで、「チャップリンの日本」と題して、高野虎市遺品展と国際シンポジウムが京都市で開催され、大きな話題を呼んだ。国際シンポジウムではジョゼフィン・チャップリン、黒柳徹子、チャップリン研究の権威デイヴィッド・ロビンソン、大野裕之、ハリウッドの日系人俳優クライド・クサツらが講演した。2007年3月には、京都市で日本チャップリン協会の主催で、「チャップリンと戦争」と題して、第二回チャップリン国際シンポジウムが開催され、チャップリンの孫のチャーリー・シストヴァリス、市川染五郎、大野裕之らが講演した。第三回にあたる2009年3月には、次男のユージーンが招かれ、父親との思い出を語った。
  • 手塚治虫は、生前「どうすれば、人々の記憶に残る漫画が描けるのですか?」という質問に対して「とにかくチャップリンの映画を観ろ。あれにすべての答えがある」と決まって答えている。また「私の漫画の手法はチャップリンなしに考えられない」と語っており、ヒゲオヤジのキャラクターの足の先が太くしゃんと立てないのはチャップリンの真似であったと明かし、さらに画面のコマを斜めにして、それまでの漫画の常識を壊したのも『黄金狂時代』のラストの真似だったと明かした。自著においても、ウォルト・ディズニーと同等にチャップリンを敬愛している旨を述べている。
  • 日本におけるチャップリンの評論家としては長く淀川長治が代表的な存在だったが、淀川の死後は劇団とっても便利の大野裕之がチャップリン評論家の第一人者となった。まだ20歳代の大野は「Love Chaplin! チャップリン映画祭」(劇場パンフレット執筆)、「Love Chaplin! DVDコレクターズ・エディション」(ライナーノーツ執筆)の監修を行い、2005年7月にロンドンで行われたチャップリン国際会議にも、日本を代表して出席した。
  • 黒澤明は自身の「映画ベスト100」企画で、『黄金狂時代』と共に北野武『HANA-BI』を入れて、同じコメディアンで映画の監督・主演も行うビートたけし(北野武)に「チャップリンと重なることがある」と評している『増補新版 黒澤明ムック』A5/ソフトカバー 304ページ ISBN:978-4-309-97730-0 Cコード 9474 2010.01.15。このベスト100の初出は『文芸春秋』1999年4月号。その他に日本版『PLAYBOY』2008年3月号にも再録され、2014年4月には文藝春秋より黒澤和子の解説つきで『黒澤明が選んだ100本の映画』ISBN-13:9784166609673 として出ている。 。またチャップリンは日本映画は黒澤の三船敏郎主演・京マチ子出演の『羅生門』しか見ていないが「非常に高い水準の作品」と絶賛。
  • 三谷幸喜は小学生の頃、「ビバ! チャップリン」シリーズを見てファンになり、自分の描いた似顔絵を持って会いに行ったが会うことはできず、秘書に手渡したら1ヵ月後にサイン付きで送り返してくれたと語っている。
  • 爆笑問題の太田光は幼少期からチャップリンの大ファンであることが知られており、著書などでもチャップリンへの尊敬を語ることが多い爆笑問題の死のサイズ.2000/06/23.ISBN 9784594029333.扶桑社.「オー!!マイ神様!!」 2017年11月14日(火)放送 「オー!!マイ神様!!」 2017年11月14日(火)放送内容

フィルモグラフィー

キーストン時代

  • 1914年『成功争ひ』Making a Living
  • 1914年『ヴェニスの子供自動車競走』Kid Auto Races at Venice
  • 1914年『メーベルの窮境』Mabel's Strange Predicament
  • 1914年『泥棒を捕まえる人』A Thief Catcher
  • 1914年『夕立』Between Showers
  • 1914年『新米活動屋』A Film Johnnie
  • 1914年『もつれタンゴ』Tango Tangles
  • 1914年『彼がお好みの娯楽』His Favorite Pastime
  • 1914年『痛ましの恋』Cruel,Cruel Love
  • 1914年『幻燈会』The Star Boarder
  • 1914年『メーベルの身替り運転』Mabel at the Wheel
  • 1914年『恋の二十分』Twenty Minutes of Love(初監督作)
  • 1914年『キャバレー御難の巻』Caught in a Cabaret
  • 1914年『とんだ災難』Caught in the Rain
  • 1914年『つらあて』A Busy Day
  • 1914年『チャップリンの衝突』The Fatal Mallet
  • 1914年『彼女の友人である追いはぎ』Her Friend the Bandit
  • 1914年『ノックアウト』The Knockout
  • 1914年『メーベルの多忙な一日』Mabel's Busy Day
  • 1914年『メーベルの結婚生活』Mabel's Married Life
  • 1914年『笑ひのガス』Laughing Gas
  • 1914年『小道具係』The Property Man
  • 1914年『チャップリンの画工』The Face on the Bar Room Floor
  • 1914年『レクリエーション』Recreation
  • 1914年『男か女か』The Masquerader
  • 1914年『チャップリンの独身』His New Profession
  • 1914年『両夫婦』The Rounders
  • 1914年『新米雑役夫』The New Janitor
  • 1914年『髭のあと』Those Love Pangs
  • 1914年『チャップリンのパン屋』Dough and Dynamite
  • 1914年『アルコール自動車競争の巻』Gentlemen of Nerve
  • 1914年『アルコール先生ピアノの巻』His Musical Career
  • 1914年『逢引きの場所』His Trysting Place
  • 1914年『醜女の深情』Tillie's Punctured Romance - 監督=マック・セネット、主演=マリー・ドレスラー、アメリカ映画史上初の長編コメディ
  • 1914年『夫婦交換騒動』Getting Acquainted
  • 1914年『アルコール先生原始時代の巻』His Prehistoric Past

エッサネイ時代

  • 1915年『チャップリンの役者』His New Job
  • 1915年『アルコール夜通し転宅』A Night Out
  • 1915年『チャップリンの拳闘』The Champion
  • 1915年『アルコール先生公園の巻』In the Park
  • 1915年『チャップリンの駈落』A Jitney Elopement
  • 1915年『チャップリンの失恋』The Tramp
  • 1915年『アルコール先生海水浴の巻』By the Sea
  • 1915年『チャップリンのお仕事』Work
  • 1915年『チャップリンの女装』A Woman
  • 1915年『チャップリンの掃除番』The Bank
  • 1915年『チャップリンの船乗り生活』Shanghaied
  • 1915年『チャップリンの寄席見物』A Night in the Show
  • 1915年『チャップリンのカルメン』Burlesque on Carmen
  • 1916年『チャップリンの悔悟』Police
  • 1915年『彼の更生』His Regeneration 西部劇スターのの主演作で、チャップリンは2分に満たない短時間の出演のみ。プロット上の絡みは無い。

ミューチュアル時代

この期に製作された短編のアウトテイクスが奇跡的に残されており、『知られざるチャップリン(チャップリン・その素顔と未公開映像)』(Unknown Chaplin)というドキュメンタリーの中で見ることができる。NHKでも一部放映された。

  • 1916年『チャップリンの替玉』The Floorwalker
  • 1916年『チャップリンの消防夫』The Fireman
  • 1916年『チャップリンの放浪者』The Vagabond
  • 1916年『午前一時』One A.M.
  • 1916年『チャップリンの伯爵』The Count
  • 1916年『チャップリンの番頭』The Pawnshop
  • 1916年『チャップリンの舞台裏』Behind the Screen
  • 1916年『チャップリンのスケート』The Rink
  • 1917年『チャップリンの勇敢』Easy Street
  • 1917年『チャップリンの霊泉』The Cure
  • 1917年『チャップリンの移民』The Immigrant
  • 1917年『チャップリンの冒険』The Adventurer

ファースト・ナショナル時代

  • 1918年『犬の生活』A Dog's Life
  • 1918年『公債』The Bond
  • 1918年『担へ銃』Shoulder Arms
  • 1919年『サニーサイド』Sunnyside
  • 1919年『一日の行楽』A Day's Pleasure
  • 1921年『キッド』The Kid
  • 1921年『のらくら』The Idle Class
  • 1922年『給料日』Pay Day
  • 1923年『偽牧師』The Pilgrim
↑ここまでは全作品米国ではパブリックドメイン(音楽を除く、米国以外では許諾が必要)↑

ユナイテッド・アーティスツ時代

※:米国ではパブリックドメイン(米国以外では許諾が必要)
  • 1923年『巴里の女性』A Woman of Paris(監督のみ、主演=エドナ・パーヴァイアンス)
  • 1925年『黄金狂時代』※The Gold Rush
  • 1928年『サーカス』The Circus
  • 1931年『街の灯』City Lights
  • 1936年『モダン・タイムス』Modern Times
  • 1940年『独裁者』The Great Dictator
  • 1942年『黄金狂時代』サウンド版(1925年の『黄金狂時代』にチャップリン自身の作曲とナレーションを施したもの)
  • 1947年『殺人狂時代』Monsieur Verdoux
  • 1952年『ライムライト』Limelight

イギリスでの作品他

  • 1957年『ニューヨークの王様』A King in New York
  • 1959年『チャップリン・レヴュー』The Chaplin Revue - 『犬の生活』、『担へ銃』、『偽牧師』の3本をまとめ、チャップリン自身の作曲とナレーションを施して再編集した映画
  • 1967年『伯爵夫人』A Countess from Hong Kong - 監督のみ、唯一のカラー作品、主演=ソフィア・ローレンマーロン・ブランド
  • 1922年『Nice and Friendly』 - ハネムーンのためにカリフォルニアにいたマウントバッテン伯爵夫妻への結婚式の贈り物として制作された。映画館では公開されなかったが、2004年にワーナーが制作したDVDコレクションに収録された。

受賞歴

部門作品結果
キネマ旬報ベスト・テン1924年芸術的に最も優れた映画『巴里の女性』
1926年外国映画ベスト・テン『黄金狂時代』
1952年外国映画ベスト・テン『殺人狂時代』
1960年外国映画ベスト・テン『独裁者』
アカデミー賞1929年名誉賞サーカス
1940年作品賞『独裁者』
主演男優賞
脚本賞
1947年脚本賞『殺人狂時代』
1971年名誉賞-
1972年作曲賞『ライムライト』
ニューヨーク映画批評家協会賞1940年主演男優賞『独裁者』
1952年主演男優賞『ライムライト』
ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞1940年演技賞『独裁者』
1947年作品賞『殺人狂時代』
ボディル賞1949年アメリカ映画賞『殺人狂時代』
1959年名誉賞-
英国アカデミー賞1952年総合作品賞『ライムライト』
1976年アカデミー友愛賞-
ブルーリボン賞1952年外国作品賞『殺人狂時代』
ナストロ・ダルジェント賞1953年外国監督賞『ライムライト』
ヴェネツィア国際映画祭1972年栄誉金獅子賞-
リンカーン・センター映画協会1972年Chaplin Award Gala-
全米監督協会賞1974年名誉終身会員賞-

その他の受賞・勲章・称号

  • 1954年:世界平和評議会平和国際賞
  • 1962年:オックスフォード大学名誉博士号
  • 1962年:ダラム大学名誉博士号
  • 1965年:エラスムス賞
  • 1971年:パリ名誉市民
  • 1971年:レジオンドヌール勲章コマンドゥール
  • 1975年:大英帝国勲章KBE

その他

著作権問題

上記の主要な作品の内、1952年までの作品は著作権の保護期間(公開後50年)が終了したと考えられたことから、幾つかの作品が激安DVDで発売された。これに対し、製作者(版権継承者)のリヒテンシュタインの法人は、米国でパブリックドメインとなった作品を含む全作品の著作権が2015年(監督没後38年)まで日本で存続すると主張して発売業者を相手取り、発売差し止めと在庫の廃棄を求める訴えを東京地裁に起こした。2007年8月29日に東京地裁で原告全面勝訴の判決が下った。このうち、『殺人狂時代』は2017年、『ライムライト』は2022年まで保護期間が存続するとされた。発売業者は知財高裁に控訴したが、2008年2月28日に控訴棄却の判決を下した。2009年10月8日に最高裁判所第一小法廷は発売業者の上告を棄却、判決が確定した。

トピックス

  • 2014年、チャップリン死後に金銭目的で遺体を誘拐したおマヌケな二人組のドジな犯行劇(実話)を基にしたフランス映画『チャップリンからの贈りもの』が公開された。
  • 1952年から亡くなるまでの25年間、スイスでの日々を諜報機関ファイル、アーカイブクリップ、ペトゥラ・クラーク及び家族へのインタビューなどで記録した『Charlie Chaplin : The Forgotten Years』(2003)、1972年の再渡米を軸に、チャップリンとアメリカの関係を苦い視線から描いたフランス制作のドキュメンタリー『チャップリン20世紀の伝説』(2014)などもある。

注釈

出典

著作(訳書)

  • 『チャップリン自伝』 中野好夫訳、新潮社、1966年
    • 『チャップリン自伝〈上〉 若き日々』 新潮文庫、1981年、改版2005年
    • 『チャップリン自伝〈下〉 栄光の日々』 新潮文庫、1992年。解説淀川長治
  • 各 新訳版『チャップリン自伝 若き日々』 中里京子訳、新潮文庫、2017年4月
  • 『チャップリン自伝 栄光と波瀾の日々』 中里京子訳、新潮文庫、2017年12月
  • 『小説ライムライト チャップリンの映画世界』 集英社、2017年
    デイヴィッド・ロビンソン編、大野裕之監修、上岡伸雄・南條竹則訳

関連書籍(日本語)

  • 大野裕之 『チャップリン 作品とその生涯』中公文庫、2017年。文庫書き下ろし
  • 大野裕之 『チャップリン再入門』 日本放送出版協会〈生活人新書〉、2005年、ISBN 4-14-088141-0
  • 大野裕之 『知るを楽しむ 私のこだわり人物伝 チャップリン-なぜ世界中が笑えるのか』 日本放送出版協会、2006年、ISBN 4-14-189148-7
(NHK教育テレビ『知るを楽しむ』のテキスト、モーツァルト併録。 大野がチャップリンの魅力を語った4回シリーズ)
  • 大野裕之 『チャップリンの日本』 日本チャップリン協会、2006年
  • 大野裕之 『チャップリン暗殺 5.15事件で誰よりも狙われた男』 メディアファクトリー、2007年、ISBN 978-4-8401-2090-6
  • 大野裕之 『チャップリン・未公開NGフィルムの全貌』 日本放送出版協会、2007年、ISBN 978-4-14-081183-2
  • 大野裕之 『チャップリンの影〜日本人秘書・高野虎市』 講談社、2009年、ISBN 978-4063397598(100周年記念出版)
  • 大野裕之編 『チャップリンのために』 とっても便利出版部、2000年
    チャップリン自身と淀川長治・江藤文夫・澤登翠・小松弘・千葉伸夫・大野裕之の著作を収録
  • 『チャップリンと戦争 『チャップリンの独裁者』展 チャップリン没後30年記念』
    デイヴィッド・ロビンソン企画・監修/日本版・大野裕之編・監修、伊藤恵一・林愛沙訳、日本チャップリン協会、2007年
  • 橋本勝 『チャップリン イラスト版オリジナル』 現代書館「FOR BEGINEERSシリーズ」、1986年
  • 『サイレント・コメディ全史』 新野敏也ほか、喜劇映画研究会編・刊、1992年、ISBN 978-4906409013
  • マック・セネット 『〈喜劇映画〉を発明した男 帝王マック・セネット、自らを語る』 石野たき子訳・新野敏也監訳、作品社、2014年、ISBN 4861824729

品切・絶版書籍

  • デイヴィッド・ロビンソン、宮本高晴・高田恵子訳
    • 『チャップリン』 文藝春秋(上下)、1993年
    • 『チャップリンの愛した女たち』 文春文庫。同時刊
  • 『チャップリン その映画とその時代』 鈴木力衛・清水馨訳、岩波書店、1966年
  • 岩崎昶 『チャーリー・チャップリン』 講談社現代新書、1973年
  • 淀川長治 『私のチャップリン』 ちくま文庫、1995年 - ※初版はPHP
  • 江藤文夫 『チャップリンの仕事』 みすず書房、1989年
  • ロバート・パリッシュ『わがハリウッド年代記 チャップリン、フォードたちの素顔』
    鈴木圭介訳、筑摩書房、1995年
  • C.チャップリンJr./N.&M.ロー『わが父チャップリン - 息子が見た喜劇王の素顔』 木槿三郎訳、恒文社、1975年
  • 『世界の映画作家19 チャールズ・チャップリン』 キネマ旬報社、1973年
  • 『世界の映画作家26 バスター・キートンと喜劇の黄金時代』 キネマ旬報社、1975年
  • 小林信彦 『世界の喜劇人』 晶文社、1978年/新潮文庫、1983年 - ※加筆・再編版
  • 初版は中原弓彦の名義「喜劇の王様たち」校倉書房、1963年
:*中原弓彦「笑殺の美学―映像における笑いとは何か」大光社、1971年
  • 杜こなて 『チャップリンと音楽狂時代 - クラシックとポピュラーをめぐる近・現代史』 春秋社、1995年
  • 森田拳次『伝記まんが チャップリン』講談社、1976年
  • 『チャップリンの世界―その人と作品』英知出版、1978年
  • 『チャップリン―その愛と神話 (デラックス・シネアルバム 7) 』芳賀書店、1978年
  • 『チャールズ・チャップリン永久保存版』近代映画社、1978年

歴史ミステリ小説

  • 川田武 『五月十五日のチャップリン』 光文社文庫、2005年
  • 日下圭介 『チャップリンを撃て』 講談社ノベルス、1986年/光文社文庫、1993年
  • 千葉伸夫 『チャプリンが日本を走った』 青蛙房、1992年、新装版2017年
  • 土橋章宏 『チャップリン暗殺指令』 文藝春秋、2017年/文春文庫、2020年
  • 松田十刻 『チャップリン謀殺計画』原書房、1998年/『チャップリン謀殺指令』 新人物文庫、2010年
  • 森毅 『泣いてチャップリン』 幻冬舎メディアコンサルティング、2019年
    ※以上は、1932年(昭和7年)の5・15事件来日時を舞台にした歴史ミステリー。

関連項目

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2020/12/15 11:54 UTC (変更履歴
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