【「あんのこと」評論】絶望的な物語の中に記された微かな希望の在処
2024年6月9日 08:00
「あんのこと」(2024)は、物語の主人公である杏(河合優実)の背中から始まる。その後ろ姿はどこか力無く、自ずとわたしたちは彼女の表情を想像しはじめる。やがて、彼女の姿を正面から撮影したショットを目にすることで、彼女の絶望を確信するのだ。表情や眼差しだけでなく、全身から漂わせる言葉よりも雄弁な絶念。それは「彼女と心の中でしっかりと手を繋いで絶対に離さない」と述懐する河合優実の信念が、役に宿っていると感じさせる由縁なのだろう。あくまでも本作は実際の事件を基にしたフィクションだが、彼女が演じるのは母親から暴力を振るわれ、生活のために売春を強いられるという過酷な人生を歩んできた21歳の女性。杏に対する演技アプローチには、モデルとなった女性への敬意を感じさせるのである。河合優実は「ナミビアの砂漠」(2024)などの演技と併せて、本年度の演技賞を席巻するはずだ。
街を彷徨う杏の姿に寂寞感が漂うのは、陽が落ちた時間帯に撮影されたという映像の印象によるものだけではない。街に人の姿がないのは、「あんのこと」がコロナ禍を描いた作品であるからだ。ラジオのニュースからは、「武漢」「蔓延」「WHO」「感染」「無症状」など、聞き覚えのあるキーワードが流れてくる。それゆえ、「あの時、どうだったのか?」という其々の思い出が、脳裏に去来するのである。コロナ禍は世界的な現象だったため、老若男女や富の有無、国籍や人種を問わず、誰もが経験を共有できる出来事だった。当然のことのように思えるが、人類が斯様な社会状況を等しく経験することは、歴史上においても極めて稀なのである。新型コロナウィルスは世界的な流行であった一方で、状況は千差万別だったという一面もある。誰もが必死に前へ進もうとする世相の中で、杏のような女性が経験した事象は、「その中のひとつ」として片付けられてしまったきらいがある。そのことは、着想を得た事件が新聞の小さな三面記事という扱いだったことに象徴される。
また、善悪の二元論だけでは断じられない現実社会の複雑さが、この映画には描かれている。佐藤二朗が演じる刑事と、稲垣吾郎が演じる週刊誌記者の存在はその象徴だろう。わたしたちは、どちらの立場にもなり得るし、どちらの立場も選ばないことができる。その正解があえて提示されないのは、明確には白黒をつけられない灰色の存在であることを、ふたりに対して自覚してしまうからだ。肝要なのは、社会のシステムから見放された杏が言葉少なだという点。彼女の内面を言語化し難いからこそ映像で表現しているわけだし、言葉で説明できないからこそ事件の顛末に対して「果たして、どうすればよかったのか?」とわたしたちは考える。それは、絶望的な物語の中に微かな希望の在処が存在しているからなのである。
例えば、社会全体でセーフティネットを整備してゆくこと、社会でセカンドチャンスという機会を求めてゆくこと、報道のあり方に対する均衡を模索すること、教育や労働の機会を均等にすること。社会における相互理解と共助を含めて、わたしたちがやれることは多岐にわたる。「あんのこと」の終幕では別の“うしろ姿”が映し出されるが、わたしたちが想像する表情が、映画のファーストショットとは異なるものであることが重要なのだ。新聞に記された小さな記事を、映画にしなければならないとの義憤にかられたという入江悠監督。思い返せば、「ビジランテ」(2017)や「ギャングース」(2018)、或いは出世作「SRサイタマノラッパー」(2009)においても、社会の底辺で必死に生きようとする人々の姿を描いていたではないか。五輪選手たちに敬意を表しながら、コロナ禍における東京オリンピックの開催を告げる轟音と飛行機雲に、わたしたちは何を想うべきなのか。そこに去来する想いもまた灰色だったりするのである。
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