深淵の井戸に、うたい添える――「眩暈 VERTIGO」【コラム/スクリーンに詩を見つけたら】
2022年11月30日 14:00
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古今東西の映画のあちこちに、さまざまに登場する詩のことば。登場人物によってふと暗唱されたり、ラストシーンで印象的に引用されたり……。古典から現代詩まで、映画の場面に密やかに(あるいは大胆に!)息づく詩を見つけると嬉しくなってしまう詩人・大崎清夏が、詩の解説とともに、詩と映画との濃密な関係を紐解いてゆく連載です。
今回のテーマは、2019年1月に96歳で他界したアメリカ前衛芸術の父ジョナス・メカスを、盟友であった日本の詩人・吉増剛造が悼む姿を追ったドキュメンタリー「眩暈 VERTIGO」(井上春生監督)です。
二〇年近くも前になるだろうか、吉増剛造さんの詩の朗読会を、一度だけ聴きにいったことがある。来場者を迎えながら、吉増さんは床いちめんに銅板を並べて、錐のようなもので、いい音を響かせながら、何か文字を穿っていた。詩が読まれる準備のようなことがもう、そこで始まっていて、その姿を見ることが、私たちの身体にとって詩を聴く準備になっていて、吉増さんがどこからどこまで、何を演じているのかわからないことが、美しかった。
「眩暈 VERTIGO」は、吉増さんがジョナス・メカスの一周忌にニューヨークを訪ねるドキュメンタリーだ。詩人であり、映像作家でもあり、大切な友達であったメカス(吉増さんは、メカスさんと呼ぶ)のあとを追って、吉増さんはニューヨークを歩く。自らもカメラを手に馴染ませて(折々に制作されてきた映像作品「gozoCine」()の機材だろうか ※本来の「e」の表記は、アキュート・アクセント付き)、寡黙な天使のような微笑みをたえず浮かべているメカスさんの息子セバスチャンに会い、遺品整理のほとんど終わってしまった、不在の匂いの濃く漂う部屋に滞在して、また別の日に訪れたその部屋で、眩暈に倒れる(この私の書きかたの乱暴さを、私はいったいどうしたらいいだろう。映画のピントが合わせているのは、こんな乱暴な被膜とは、まったく別の被膜なのだ)。
この映画から、詩をひとつ取りだして引用しようとは思わない。吉増さんの声も、セバスチャンの声も、ふたりが会話する声も、書かれた詩を朗読して重なりあういくつもの声も、ホテルの部屋でカメラに対して独り言のように呟かれる声も、ひとつの巨きな(おおきな)不在に触れて震えていて、どこからどこまでが詩なのかわからなくなってくることが、この映画の詩情だと思うから。
そのかわりにひとつ、別のところから吉増さんの言葉を引用してみたい。
ああそうかあ、中也ももしかしたら、……「歩行」とか「徘徊」とか、前に進んだり曲折することを考えるけど、もう一回戻ってみて振り返って同じ道を辿り直すっていうのをやってる可能性もあるなあ。その辿り直す、もう一回戻って何かやってみるそういう歩み直しをしていく、……ベンヤミンの遊歩やボードレールよりも、辿り直し、書き直し、綴り返しということもあるのかも知れません。その試みに入って行くのだと思います。
※吉増剛造『詩学講義 無限のエコー』(慶應義塾大学出版会)より
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この一節は、ある一篇のニーチェの詩の邦訳に表れた「うたい添える」という言葉を軸に、民俗学の成立を捉え直そうとする吉増さんの思考の過程として、「柳田國男の声の方へ」という章に出てくる。けれどもいま私はこの箇所を読み直しながら、これは確かに、メカスさんに「会いに」行った吉増さんがニューヨークを「歩行」し「徘徊」する、歩み直していく、その行為のことをも指し示しているな……と感じる。吉増さんはひとりのニーチェになって、「うたい添え」にいったのではないだろうか、メカスさんからのメッセージを受け取って、その声に触れられて、ひとつの楽器となって――
歌を聞いて、その歌の性質がどういうものだかわからないような、そういうまどろみというのかぼんやりした状態の中で、それを聞いているわたくし自身の心もまた、弦を張った楽器なのであって、……その夜の手に触れられて、独りひそかに舟歌をうたいそえる、……ってね。聞いてるだけじゃないのね。
※原文は「うたいそえる」に二重波線・同上
ここにすでに「まどろみ」「ぼんやりした状態」という言葉が出てきていることは、偶然ではないのだろう。眩暈から回復した吉増さんが、ホテルの部屋で自分の状態を自ら手当てしていくようにカメラの傍で語る、その語りの声のなかから、詩の言葉を掬いあげるようすは、やはり「ぼんやりした状態」を慈しむように進行していく。
そうして書かれ、あの巨大な不在を豊かに湛えた部屋の窓辺で朗読される一篇の詩の冒頭、「眩暈!メカス!」と発される声は、まるでスクリーンに文字を穿つように、優しく私の背骨を正すように響く。声によって聴くことでしか味わえない詩のすがた、ほかのどこでもない、ある特定の場所で響くことによって立ち上がる「深淵の井戸」――この言葉こそ、あの「ぼんやりした状態」のなかから掬いとられたのだった――のすがたが、この映画には、記録されている。
古い、揺れてばかりいる映像のなかで、メカスさんはどこにいても、ずーっと楽しげに、にこにこ笑っている。まるで、いま生きているひとの悲しみをその笑顔で抱きしめようとして、ついさっき未来から到着したひとのように。
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