【「アネット」評論】天才的な映画作家の新境地を示す集大成であり、巨大なプライヴェート・フィルム
2022年3月26日 09:00
かつて前世紀末に“恐るべき神童”“ゴダールの再来”という最上級の称賛をほしいままにしたフランス映画界の異端児レオス・カラックスの九年ぶりの長篇「アネット」は、初の全篇英語、しかもほぼ全てのセリフが歌われるという、前代未聞の破天荒なミュージカル映画である。
ロック界で半世紀のキャリアを誇る兄弟バンド・スパークスが執筆したオリジナル・ストーリーをベースに、映画は露悪的なユーモアで観客を熱狂させるスタンダップ・コメディアンのヘンリー(アダム・ドライバー)と国際的なオペラ歌手のアン(マリオン・コティヤール)の破滅的な愛の行方を追う。
当然ながら、カラックスは、「シェルブールの雨傘」(64)やそのオマージュである「ラ・ラ・ランド」(16)のような<生きる歓び>を謳い上げるミュージカル映画特有のロマンティシズムとは一切、無縁に、いきなり見る者をダークな世界へと誘うのだ。
舞台で下卑た悪態をつき、夜の市街、無人の高速道路をオートバイで疾走するヘンリーは得体の知れぬ、制御しがたい自己破壊衝動を抱え、アンも時おり怯えた少女のような不安に満ちた表情を垣間見せる。まったく対照的な二人がベッドの上で唱和しながら繰り返す激しいセックスシーンは、マリオン・コティヤールのビロードのようになめらかで美しい肌が闇の中から浮かび上がり、この上なく官能的だ。やがて二人は結婚、アネットという女の子が生まれるが、これが見紛いようのないパペット(操り人形)なので唖然となる。
「アネット」は、ハリウッドで幾度もリメイクされた「スタア誕生」の<セレブ夫婦間の成功格差>のモチーフの変奏でもあり、一挙にメランコリックで畸形的なロック・オペラへと変貌するのである。漆黒の深々とした闇が支配する世界で、ヘンリーは<緑>を、アンは<黄色>の衣装を身にまとう。繊細かつ大胆な色彩設計の果てに、このグロテスクな<家族の肖像>は、濃密な死の匂いを放ち始める。傷ましさをたたえた絶唱するアンは表舞台から消え去り、イノセントで天上的な響きをもつアネットのアリアとヘンリーの邪悪でドス黒い狂気が壮絶なバトルを演じるクライマックスに至ると、名状しがたい感動を呼び起こさずにはおかない。
冒頭、レオス・カラックスは愛娘と登場し、前口上を述べる。「アネット」は、カラックスという天才的な映画作家の新境地を示す集大成であると同時に、父娘という屈曲に富んだテーマに挑んだ巨大なプライヴェート・フィルムでもあるのだ。
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