ギルバート・グレイプのレビュー・感想・評価
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いつの時代も愛される名作に
ラッセ・ハルストレム監督のハリウッド1作目であり、若かりしレオナルド・ディカプリオがオスカー助演男優賞にノミネートされた秀作ヒューマン・ドラマ。ジョニー・デップが「普通の」人間を演じているのも新鮮。
家族のためと自らを片田舎に縛り付ける青年ギルバートが自由奔放な少女ベッキーに触発されていく様を暖かく見つめる。
知的障害を持つギルバートの弟をディカプリオが演じているが、見事ななパフォーマンスを披露している。彼の芝居の巧みさはこの映画の質を大きく引き上げている。ベッキー役のジュリエット・ルイスの透明感ある存在感も素晴らしい。
古典的な家族愛の物語であり、青年の成長物語であり、人の尊厳を問うヒューマニズムでもある本作。いつの時代に観られても人の心を動かす普遍性が溢れており、古典の1本に将来はなるかもしれない。
【90.1】ギルバート・グレイプ 映画レビュー
【作品の完成度】
本作は、1990年代のアメリカ映画において「静かなる良心」として記憶されるべき一作である。派手な視覚効果や作為的なプロットの転換に頼ることなく、人間存在の不可解さと家族という逃れられない呪縛、そしてそこにある微かな希望を、丁寧な筆致で描き切ったヒューマンドラマである。映画史的な文脈において本作が評価されるべき点は、障害や肥満、機能不全家族といった重いテーマを扱いながらも、それを社会派ドラマとして声高に叫ぶのではなく、あくまでアイオワ州の田舎町「エンドーラ」に流れる停滞した日常の一部として、淡々と、しかし温かく昇華させている点にある。
ラッセ・ハルストレム監督の初期の代表作として、その手腕は遺憾なく発揮されている。スウェーデン出身である彼が持ち込んだ「異邦人の視点」は、アメリカ中西部の閉塞感を、残酷なまでのリアリズムと、包み込むような優しさという絶妙な距離感で描写することに成功した。物語は、家、町、そして家族の世話という「重力」に縛り付けられた青年ギルバートの魂の彷徨を描く。その完成度は、映画史を塗り替えるような革新性こそないものの、観る者の心にある「故郷」や「家族」への感情を呼び覚ます普遍的な強度を持っており、30年以上が経過した現在においても、その価値は揺るがない。
【監督・演出・編集】
ラッセ・ハルストレムの演出は、作為的な感動を排除し、役者の生理的な反応と風景の情緒を融合させることに徹している。特筆すべきは、巨匠スヴェン・ニクヴィストとの協業による映像設計である。エンドーラの夕暮れや、グレイプ家の老朽化した質感は、登場人物たちの内面世界を映し出す背景として、堅実かつ美しく機能している。編集のリズムは意図的に緩やかであり、町全体を覆う「何も起きない日常」の気だるさを体感させるが、その行間には濃密な感情の奔流が渦巻いており、ドラマとしての緊張感を保ち続けている。
【キャスティング・役者の演技】
本作の評価を決定づけているのは、奇跡的とも言えるキャスティングの妙、とりわけ一人の天才による歴史的な演技である。
ギルバート・グレイプ(ジョニー・デップ)
本作の支柱であり、観客の視点そのものであるギルバートを演じたジョニー・デップの演技は、彼のキャリアにおいて極めて重要な「抑制の美学」を示している。知的障害を持つ弟と過食症の母、そして姉妹たちの世話に追われ、自身の夢を摩耗させていく青年の「受けの芝居」に徹している点が素晴らしい。彼は劇中、爆発的な感情表現をほとんど見せない。しかし、その虚ろな瞳の奥にある諦念、家族への愛憎入り混じる複雑な感情、そしてベッキーとの出会いによって微かに灯る希望の光を、微細な表情の変化だけで表現している。エキセントリックな役柄で知られるデップだが、本作で見せた「普通の青年」としての苦悩と安定感は、作品の土台を支えるに相応しい好演であり、彼の実力の高さを裏付けている。
ベッキー(ジュリエット・ルイス)
ギルバートの閉ざされた世界に風穴を開ける旅人ベッキーを演じたジュリエット・ルイスは、この映画における「自由」の象徴として爽やかな風を吹き込んでいる。彼女のショートカットと中性的な魅力、そして飾り気のない話し方は、エンドーラの重苦しい空気とは対照的な軽やかさをもたらした。彼女の演技は自然体であり、ギルバートを肯定し、彼自身も気づいていなかった価値を見出す過程を、包容力と少女の無邪気さで体現した。彼女の存在が、本作を救いのある物語へと導いている。
ベティ・カーヴァー(メアリー・スティーンバージェン)
ギルバートと不倫関係にある人妻ベティを演じたメアリー・スティーンバージェンの演技も、作品に深みを与えている。彼女は単なる不倫相手としてではなく、ギルバート同様にこの町と生活に囚われ、出口のない閉塞感にもがく大人の女性の哀しみを体現した。明るく振る舞う姿の裏に張り付いた狂気と孤独は、この町の病理を象徴しており、スティーンバージェンはその危ういバランスを的確に演じている。
アーニー・グレイプ(レオナルド・ディカプリオ)
当時19歳であったレオナルド・ディカプリオが演じた知的障害を持つ弟アーニーは、映画史における「演技」の概念を揺るがすほどの衝撃であり、本作を傑作たらしめている最大の要因である。彼の演技には、いわゆる「演じている」という自我が一切感じられない。鼻をすする仕草、予測不能な体の動き、焦点の合わない視線、そして無垢な笑顔。そのすべてが、アーニーという人格そのものとしてそこに存在している。単なる障害者の模倣にとどまらず、純粋無垢な魂が持つ残酷さと愛らしさを同時に表現し、ギルバートにとっての重荷でありながら、同時に生きる意味そのものであるという説得力を与えた。これは助演という枠を超えた、映画史に残る特異点的な名演である。
ボニー・グレイプ(ダーリーン・ケイツ)
過食症により家から出られなくなった母ボニーを演じたダーリーン・ケイツは、本職の俳優ではないものの、その存在感は圧倒的である。彼女は自身の巨体を晒すことへの羞恥と、それでも子供たちを守ろうとする母性の尊厳を、痛々しいほどリアルに演じた。彼女の存在こそがグレイプ家の「重力」の源泉であり、その演技は観客の胸を打つ。
【脚本・ストーリー】
ピーター・ヘッジズが自身の同名小説を脚色した脚本は、安易なドラマ性を拒絶する誠実さを持っている。父の自殺という過去のトラウマや、母の過食症といった問題は、都合の良いハッピーエンドで解決されることはない。物語は、劇的な変化よりも、日常の積み重ねの中にある微細な変化を丁寧に拾い上げる。特に、家を燃やすというクライマックスの選択は、過去との決別と再生を象徴する名シーンとして結実しており、脚本構成の巧みさが光る。
【映像・美術衣装】
スヴェン・ニクヴィストによる撮影は、アメリカの田舎町を抒情的に切り取っている。特に「マジックアワー」と呼ばれる夕暮れ時の光の使い方は、登場人物たちの心情に寄り添うように柔らかい。美術においては、グレイプ家の家の造形が秀逸であり、床が抜けそうなほどの老朽化や雑然とした室内は、家族が抱える歴史と澱みを視覚的に物語る装置として機能している。
【音楽】
アラン・パーカーとビョルン・イスファルトによるスコアは、ピアノとアコースティックギターを基調としたミニマルな構成で、物語の邪魔をすることなく、感情の隙間を埋めるように寄り添う。主張しすぎることなく、劇中の空気感と一体化した音楽は、作品の質素な美しさを支えている。
【受賞歴】
本作におけるレオナルド・ディカプリオの演技は批評家から絶賛され、第66回アカデミー賞において助演男優賞にノミネートされた。また、第51回ゴールデングローブ賞においても助演男優賞にノミネートされている。受賞こそ逃したものの、このノミネートは彼のキャリアにおける最初の大きな飛躍となり、その実力を世界に知らしめる結果となった。また、ナショナル・ボード・オブ・レビューでは、その年のトップ10作品に選出され、ディカプリオは助演男優賞を受賞している。
作品[What's Eating Gilbert Grape]
主演
評価対象: ジョニー・デップ
適用評価点: 27 (A9×3)
助演
評価対象: レオナルド・ディカプリオ、ジュリエット・ルイス、メアリー・スティーンバージェン、ダーリーン・ケイツ
適用評価点: 10 (S10×1)
脚本・ストーリー
評価対象: ピーター・ヘッジズ
適用評価点: 63 (A9×7)
撮影・映像
評価対象: スヴェン・ニクヴィスト
適用評価点: 9 (A9×1)
美術・衣装
評価対象: ベルント・カプラ
適用評価点: 9 (A9×1)
音楽
評価対象: アラン・パーカー、ビョルン・イスファルト
適用評価点: 8 (B8×1)
編集(減点)
評価対象: アンドリュー・モンドシェイン
適用評価点: -0
監督
評価対象: ラッセ・ハルストレム
総合スコア:[90.1]
ディカ&ジョニデ
昔観た映画、今観かえすと…
何年も前に観たことのあった映画。
SNSでこの映画のワンシーンをたまたまみて、この度改めて観てみた。
まだ子供で、レオナルドディカプリオの演技に衝撃を受けたのは覚えていたけど、いまいち内容についてピンと来てなかった。
家族ができて親が高齢になってきた今改めて観かえすと、また違ったものがみえてきた。ジョニーデップの役柄はまさにヤングケアラーの状況じゃん。
過食症から動けなくなった母親やハンディキャップを抱えた弟、家族に縛られて自分のやりたいことなど考える余裕もない。
最後、母と共に家を焼いて新たな自分たちの人生をスタートさせるシーンは、「家」からの解放のメタファー。守り育ててくれていたものが、時間や成長と共に縛られるものになっていく…。
家族について考えさせられる映画。
このころのジョニデなら 抱かれてもいい
何年経っても変わらない名作
もう、数十年も経つのか…と
あの頃、多感な時期にこの映画と出会い、映画って素晴らしいなって思った。
ものすごく久しぶりに鑑賞。
知的障害を持った弟アーニー(レオナルドディカプリオ)を持つ兄(ジョニーデップ)、ギルバートのお話。
「どこへも行けない」と言ったギルバート。
変わり映えのない日常、寂れた街、変わらない住民たち、父親を亡くし、家族を養わなければと気負う優しいギルバート。父が死んでから美しかった母は過食になり、太ってソファーに張り付くような生活。
目を離せない、アーニーの世話に明け暮れる日々だった。
ある日、トレーラーで旅をするベッキー(ジュリエットルイス)との出会いをきっかけに彼の気持ちに変化が現れる。
家族のしがらみを超えた愛と愛のお話。
あたたかい気持ちになる映画
音楽のないダンスのような街
チェーン店のバーガーショップができただけで歴史が変わってしまうような田舎町。
世話をしなければならない母と弟。
このまま、このまま自分の人生は終わってしまうのか。
都会で自由に生きている人たちにわかるだろうか。
雨の中、エンジンがかかってしまうシーンでは(車が直ったら彼女は街を出て行ってしまう)涙が出た。
そのあたりで終わるのかと思ったら、母が、、。
そんなことで解決していいのか。
ディカプリオはタイタニックやビーチから人気の出たイケメンアイドルスターだと思っていたら、とんでもない。
若い時から超演技派だったんですね。
ディカプリオだけでなく、若い俳優さんたちがみんな輝いていた。
リバイバル劇場公開してくれてありがとうございました。
32年前の名作から考えさせられる、地域社会の崩壊とそこに住む人たちの今
「12ヶ月のシネマリレー」という企画で上映中の本作を新宿武蔵野館で観た。初見である。
1993年公開の32年前の映画で、当時19歳のディカプリオの才能は、本作で広く世に知られることになったのだそうだ。イケメン美少年としてデビューしたと思い込んでいた。
ジョニーデップの主演は知っていたが、ディカプリオが出演していることさえ知らなかった。正確な病名は語られないが、知的障害者を完璧に演じていると思う。
僕の知り合いの娘さんも知的障害者で、ディカプリオ演じるアニーと同様、人なっこく、無邪気で明るく、時にこちらの心のうちを見透かしているかのように鋭いことを言ったりして、僕も大好きだった。過去形なのは20歳で亡くなってしまったからだ。
アニーも10歳まで生きればいいと医者に言われていたが、この映画では19歳まで生きたことが描かれた。たった30年ほどだが現在は医療の進歩でずいぶん改善されているそうだ。喜ばしいが、もう少し早くなんとかならなかったものか…。
いろいろ考えさせられて、感想になかなか入れない。
舞台は90年代のアメリカ内陸の、商店が数軒しかないような小さな街。ギルバートは雑貨屋でアルバイトだし、友人は葬儀屋。もう1人は、この田舎町にマイナーなハンバーガーチェーンができると聞いて、そこに就職することを心待ちにしている。
街の産業というものがないのだ。おそらく農業地域だったが、80年代の農業危機後にそれが失われた街というような設定なのではないだろうか。
ラストベルトと同じく、産業の空洞化により地域経済が回らなくなり、静かに滅び始めている街の出来事なのだ。
ジョニーデップ演じるギルバートは、健康な若者らしく都会に出ればいいのだろうが、アニーがいるし、まだ成人前の妹もいる。最大の問題は母親だ。父の自殺後に精神的に病んでしまい、過食による肥満で家から出られない。
だからこの家族、母と4人の子供たちはおそらくギルバートの雑貨店での稼ぎだけで食べていっているのだろう。家族は仲違いしながらも、その絆はびっくりするほど強い。
ギルバートはスターウォーズ4の冒頭のルークのようだ。夕日を見つめて、僕はこれから先も、どこにも行くことができないのだ、心踊るような出来事などやってこないのだ、と諦めている。
そこに新たな可能性として現れるのが、祖母のキャンピングカーで通りかかった少女である。少女といってもおそらくある程度の学歴があり、裕福な祖母の旅のお供をしながらモラトリアム中。彼女の登場は別世界との出会いなのだが、だからといってその別世界に出て行くという選択肢はギルバートにはない。
…となかなかに厳しい状況なのだが、この取り残されたような侘しい田舎町がなんとも美しい。70〜80年代に活躍したアメリカンニューカラーの写真家たちの作品に出てくる街のようだ。
その美しさが唯一失われる場面が、最近街にできたという大規模スーパーマーケットの場面だ。蛍光灯に照らされた店内は、この田舎町の中で唯一、都市の匂いのする輝かしい場所なのだが、この場面だけが美しくない。
そう感じるのは、このスーパーが資本の論理による地域社会の破壊であることが描かれているからかもしれない。
アメリカではこの映画の90年代、あるいはそれ以前の80年代にも、こうした産業の空洞化による地域社会の破壊が起こっていたのだ。
しかし、それに対する異議申し立てとしての政治運動は2010年代中盤を過ぎて、ようやくトランプによって行われたということなのかもしれない。
主人公を演じたデップも今や62歳。主人公のギルバートも、これから産業の国内回帰を目指す政治がうまくいって、失われた産業が元に戻ることがあったとしても、年齢的に間に合わない。
完全にネタバレになるが、ラストシーンでは、ギルバートを地元に縛り付けていた家族の重しはかなり軽くなったら状態で、1年ぶりに戻った彼女との嬉しい再会がある。
もうすぐ19歳の知的障害者アニーと共に彼女のトレーラーハウスに乗り込み、街を出ることが示唆される。
おそらくギルバートには手に職も学歴もない。彼女とは、社会階層もかなり違う。それにアニーは成人に近づき、面倒を見るのはさらに大変なはずだ。
ギルバートがもし実在で今も生きていたら、このエンディングの先、どんな人生を送ったのだろうか。そしておそらく60歳を過ぎた今どのように過ごしているのだろうか。
公開当時、まだ20代だった僕がこの作品を見たなら、全く違う感想を持っただろう。
アメリカというと西海岸と東海岸沿いの都市をイメージするが、その内陸にある広大で人口密度の少ない地域に住む人々が、自由主義経済の中で翻弄され、踏み付けにされた時代の貴重な記録にもなっていると感じた。
この作品の再映に感謝したい。
想定外のラスト
想定外のラストでしたが、ハッピーエンドになって良かったと思います。直前でベッキーと別れたのに不満だったので、このラストにつながっていたとは嬉しいサプライズでした。
ベッキー役の女優、どこかで見たことのある独特の目つきだったので調べたらケープ・フィアーで高校生役で出てたんですね。
25-103
天国のような空気に包まれた珠玉の作品
閉鎖的な田舎町の物語
ああいった町では、知的障害者・摂食障害者に加え自殺者までが家族に揃っている貧乏人は真面目に働いていてもどんなに美しい容貌を持っていても周囲から望まれる求婚者にはなり得ない。キリスト教精神をもって皆優しく接してはいるが、主人公は対等な権利を持つ一人前の人間としては扱われていない。
彼との結婚を前提に近づく適齢期の娘はいないだろうし、いても家族や友人が全力を挙げて止めるだろう。既婚マダムの浮気相手あたりが丁度良い。
稼せげているのは食費だけ。彼は追い詰められている。土葬文化の地に住みながら感情を最優先して火を放つ事もするだろう。姉妹たちも一段低く置かれている自分たちを痛感しつつ日々暮らしているのだから、全てを焼き払う事に同意もするだろう。
彼は他所者からしか愛の対象とされない。
なので、全てを理解し抱擁する夢のように美しい救いの女神ベッキーの内面も、見る者が納得できる所まで描いて欲しかった。彼女はどういう人?彼女はなぜあのような彼らを必要としたのか?
彼らはあの後現実を、日常を、共に生き続けられたのだろうか。
久しぶりに観たけど…
激しくはないけれど静かで強い焦燥感
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