悪は存在しないのレビュー・感想・評価
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徹頭徹尾、サスペンス
村上春樹の原作でもなく、西島秀俊が主演でもないとなると、ロードショー公開が広がらないのが、日本の映画界なんだなあ、とボンヤリ考えながら映画館に入る。
冒頭のシーン。コーエン兄弟の「ミラーズクロッシング」を思い出す。
森
残雪
少女の一人歩き
チェーンソウ
ナタ
薪割り
鹿撃ち
銃声
羽根
チェロ
都市と地方
不信感
不機嫌
曖昧で人任せな町内会長
無責任なコンサル
適当な社長
クソみたいな仕事に嫌気する社員
想像力の欠如
徹頭徹尾、サスペンスだ。それも途轍もなく強度が高い。
だから、寝なかったもんね。
配信が始まったなら、結末を先に知ってから見る人に、ぜひおすすめしたい良作です。
やっぱり面白い。
目を少しつぶって開いても同じシーンだった
悪は存在しない(2023)
J-WAVEさまにご招待いただき、J-me SPECIAL PREVIEW『#悪は存在しない』に伺いました。
折角誰よりも早く作品を鑑賞できるのだから先入観なく観たい、という理由で、事前情報は殆ど入れずに行きました。
試写会応募の動機は、「ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞作品だから」ではありません。
「あの『ドライブ・マイ・カー』の次がこんなにも地味(失礼)なのは何故なんだ」です。
『ドライブ・マイ・カー』の次の作品ですよ?
濱口竜介作品に出たい役者さんならいくらでもいたことでしょう。
なのに、監督の名前よりも目立っていた石橋英子さんの音楽と印象的なタイトルバックの後に登場する主人公らしき男の顔には、まるで見覚えがないのです。
長回しの薪割シーン、無駄のない、慣れた手つきで次々に薪を割る彼の姿を見て私は不遜にも、「あーなるほど、オスカーを獲った後は自らハードルを上げ、本物の山の男を連れて来て、役者の知名度に頼らない作品で世界の観客を試すのですね、わかります」と思いました。
その「山男」が『ハッピーアワー』の製作スタッフさんだったことを知るのは、映画を観終わった後です。
私はジビエが好きではありません。
「命をいただく」も、ちょっとよくわからないというか、日々の生活の中で強く意識することはありません。
里に下りて来てしまった熊を殺処分した村役場に「可哀想」と電凸する人の気持ちはもっと解りません。
グランピングで提供されるものは自然とは呼べないどころかむしろ自然破壊だと思うが、だからと言って本物の自然に触れたいんだぜと獣道しかないような場所に突入するのは無理、死んでしまいます。
「自然との共存」、言葉にすると途端に陳腐になってしまう命題について、各論では漠然と答えは持っているけれども、それらは互いに完全に整合性が取れているのかと自問すると、自信ゼロです。
「自然との共存」、これほどモヤモヤするテーマはちょっと無い。
この作品は、そのモヤモヤに、「一定の答え」或いは「より正しい思考の方向性」を見せてくれます。
ラストシーンは衝撃的です。
起こったことは映像になっていますが、説明がありません。
自然はあまりにも強大で、自然の中で生きる高いスキルを持ち、自然との共存について「一定の答え」を持っていたはずの巧が、いとも簡単に壊されてしまいます。
「悪は存在しない」はずなのに、なぜ自然も人も犠牲を払わなければならないのか。
ちょっと見たことのない、ある種実験的な、しかしストーリーも訴えかけてくる主題も明確な、だが決して結論を押し付けてはこない作品です。
元々映画として企画が立ち上がったわけではないので、知っている役者さんは一人も出て来ません。
しかし一方で、エキストラのひとりひとりにまで背景や役割が与えられていたそうで、スクリーンの隅から隅まで、映っている人々がそれぞれの人生をしっかりと生きていることを感じることができます。
特に「説明会」のシーンは圧巻です。
八ヶ岳の映像が美しすぎるので、ぼんやりしているとラストシーンで後ろから思いっきり頭を殴られて口開いたままスタッフロール、の憂き目に遭いかねません。
与えられた素材を瞬時に頭の中で組み立てて、答え、あるいは「問題」を掴み取れる瞬発力が必要です。
最後に、主演の大役を果たした大美賀均さんについて。
上映後のトークで、彼が無名の役者さんでも「本物の山男」でもなく、制作スタッフさんだったことが判明しました。
つまり薪割りは特訓の成果か、でなければ天才だったということになります。
映画の中では口数少なくなんとなく「棒読み」な話し方だった巧さんが、実はとっても饒舌で楽しい方だとわかって「あれ、演技だったの?!」とものすっごく驚きました。
大美賀均さんは、映画監督でもあります。
心理学でいう抑圧がテーマかなと。
主人公の「たくみ」は、リゾート開発に反対でも賛成でもなく、議論したいと主張していた。しかし本当は、誰よりも開発に怯えていたのでないだろか?彼の妻が不在に見えたのは妻を亡くしたからだろうか?そんな喪失体験の上に、自分の生活そのものを揺るがしかねない会社がやってきて、娘も大変な事態となって、最後には抱えきれない気持ちが暴発したように映った。そして実は、抑圧は主人公だけでなく、村で説明会を開いた二人の会社員にも内在していた。興味のない仕事、合ってない仕事なのに、本心を殺してでも仕事をしようとしている。唯一確かなのは、薪を割る、川の水を汲むという事実だけである。
こんな勝手な解釈をしつつ、『ハッピー・アワー(2015年)』で拝見した役者さん達と再会し、またこの映画も見返したくなりました。沁みる体験をありがとうございました。
観終わってから調べました
巧と花の坦々と過ごす生活にクランピングという新事業が乗り込んでくる。自然を壊しかねないそんな事業に猛反対するのかと思ったらそうでもない。
そんな中、花か行方不明にになり必死に探す。やっと見つけたが手負の鹿と対峙している。すると突然巧は高橋の首を絞めて気絶させてしまう。
倒れた花の生存を確認した巧は花を抱き抱えて走り出す。
唐突にエンドロール。
全く意味がわからない。
これについて言及しているサイトを読むと、あ。そうなんだとは思ったが誰かの解説を見なければわからない映画はどうなの?私は受け入れられないな。
自分的には『Evil does Exist』なエンディング
濱口竜介監督作。
今年の日本映画のベストワン候補となる傑作。
出だしから森の映像と重厚な弦の響きに圧倒される。映画の世界に誘われる。すぐに作品の中に入り込んだ。
自分的には音楽の存在が大きかった。
エモーショナルだった。
時々に感情を大きく揺さぶられた。
自然豊かな高原の町。
自然の中の生活。
知らないからこそ畏敬の念をもつ。
そこで暮らす人たちも遠い存在だ。
訳もなく羨ましいなんて思ったりして。
コロナの補助金を得るためにグランピング施設を作ろうとする芸能プロダクションの二人。村の人々の生活を壊しかねない心無い計画と対応に反吐が出たのも束の間。
二人が心情を語るシーンが秀逸だった。明らかに自分もそっち側の人間であることを思い知らされる。すべての悪の存在を否定してしまうような女性社員の言葉が凄かった。神がかっていた。
悪は存在しないと言うが如き。
そしてそれまでの全てを否定する厳しいエンディングに愕然とする。手負の鹿、主人公の唐突な暴行。
悪が噴出するが如く。
デヴィッド・リンチを思わずにはいられないシュールな展開に度肝を抜かれ、エンドロールで必死に鼓動を静めようとしたがダメだった。
そう、自分的には『Evil does Exist』なエンディングだったが果たして。これからいやというほど反芻することになる。
で、音楽。メインテーマは石橋英子さんなんかなぁ。ヴィスコンティ作品におけるマーラーのように絶対的だった。圧倒的だった。
観る人の想像に訴える作品
246 自分で結末考えて、は存在しない
もうこの手の映画は公開時に結論出してませんから~
って事前に伝えておいてください。
この手の作り方が存在する、というのは理解してますが
それは物語の印象を強くしようとする監督側の都合だと思うんですよねー
やはりお互いが気持ちよくなるのが大事ではないでしょうか?
せっかく物語に入り込もうとしているのに
わからなかったらこっちの負けですか?
補助金目当てですか?(そんなことは言っていない)
最後に悩むのはもう面倒くさいのでこの手の流れは出来るだけ避けたい
そのへんのこと考慮してくださいね。
50点
京都シネマ 20240605
ミッシング2
大事なもの
投げっぱなしエンド
是枝の罪か。
ただの是枝フォロワーに見える。
数多い過ぎる。この手はもううんざりだ。
是枝は一人で充分だ。
まさかと思うが是枝門下生じゃあるまいな?…
ブレヒト的な演出があざとくてきつい。
「阿賀に生きる」を観た後だったのもタイミング悪過ぎたが、そもそもこれを「リアル」と思う方々って普段どんな生活してるのか??
常に新品のダウンジャケット着てるわけ?
水辺であの格好でヒルにやられないんか?
どんなひどい映画(自分にとって)でも最後まで観て、良いところ・そうでないところなんかを考えるのが常ですが、久々に映画の途中で帰ろうかと思った。
う〜、具合悪くなってきた…
追記
監督が最後驚くはず、みたいなことを仰ってるようですが、全然予想通りでしたが?驚く?あれで何を驚くの?
感想上げた後で、「もののけ姫」みたいに最後やるかやられるか状態なのに、逃げ口上で落とさなかったことは唯一の良いところだと思い直しましたのですが、監督のコメント読んで星ゼロにしたくなりました。
半端な余韻が尾を引く
個人的に余り好きになれない作品が多い濱口作品ですが、、、
やはり映画好きとしては押さえておきたい映画として鑑賞しました。
観終わった率直な感想は、「中途半端で投げ出された感が凄い」です。
始まりは、ヒーリング映画っか、ってほど映像と音楽をゆっくり、ひたすら自然鑑賞させる展開。
ようやくグランピング開発の地元説明会で、目が覚めたように話が緊張感を持って動いていく!
ところが、前後脈絡も無く?突然の、娘と鹿との対峙及び気絶?死?、それを見て、巧がハッと表情を変えて、先程まで良い関係になりつつあった高橋への首絞め。
驚きと共にこれから、ストーリーがいかに進むのか、固唾を飲んで観ていると、何と、スタッフロールが流れて呆気なく終了。
その突然の終わり方。何か問題提起だけして、解決策や対処を途中で投げ捨てた感を強く感じた。
そう言えば、主人公の巧も地元出身者ではなく移住者で、どこそとなく都会よりと嘯く、そして、グランピング施設に対しても立ち位置が中途半端な印象にみえた。全体的に俯瞰して観ている。主人公も作風も傍観者のような、どこまでも中途半端、ニュートラル、受け身な作品。
さすがに、こんな説明も付かないラストを見せられたら色々考えた。例えば、鹿が怪我をして手負状態となり、罪の無い娘に襲い掛かり怪我をする→それを観て、グランピング施設ができた将来の姿の暗示と受け、その将来を阻止する為に首をしめたのか?とか。
巧と娘の花は、鹿の化身で、グランピング施設なんかやっぱり駄目だとか?笑笑。うーんメルヘン!
どう考えても、わからない映画でまぁ、消化不良な印象をひたすら尾を引きずる映画でした。
余韻が残る映画は、大好きですが、この映画で受ける余韻は、少し嫌な感じで困りました。この感じ方は、濱口監督の狙いなのかな?だとすると、やはり、濱口作品は相性が悪いです。
悪の先にあるのはだれかの幸せ
悪は存在しない
水が綺麗な自然豊かな山の中にある町に
とある芸能事務所がコロナの補助金目当てで
グランピング場をつくるのに目をつけて・・・
といった件はあるものの物語なんて結局どうでもいい。
作中でなにも解決しない
タイトルが悪は存在しない
その時点で鑑賞者はこの作中の登場人物(それ以外もか?)を悪として見れなくなる。
芸能事務所は自然をぶち壊して施設をつくろうとしてるがそもそも住人も自然を利用して壊して生活しててそこにいたはずの動物たちの居場所を奪っていったわけで
それぞれの視点で悪は変わるし
悪の先に幸せになってるひともいるわけで
で、ここまではいいんだけど
ラストがさラスト
鹿は人を襲わない
でも瀕死になってたりしたら襲うかも
または小鹿になにかあれば親鹿は襲ってくるかものという件があって
グランピング施設の建設予定地は鹿の住処らしくそこにつくったら鹿はどこへいく?
という主人公の問に芸能事務所の男は
「別のところに行けばいい」
と言ったんだけど
この後主人公は顔色変えたんだよな。
で、むすめが行方不明になってさがしだし
ラストシーンになるわけだけど
んーほんとわかんない
なぜ主人公はあんなことしたのか
わからなすぎて考察みてもわからない
物語の結果が動向、YES/NO必須みたいな作品ではないけど個人的に唐突すぎて
開いた口が塞がらない
結局は奥さん亡くなって(作中では言及なし)
寂しくて生きることどこか投げやりに?なってた?
(娘を迎えに行く時間はいつも忘れてて、支払いの時の金額も間違えてて、仲間と集まることすら忘れてるのは心ここに在らずってこと?)
とはいえラストシーンの行動に繋がるか?
といわれると繋がらない
悪ととらえられる行動には
その先に自分以外に幸せになる人がいるはずなのに最後の行動には幸せになるひとがいない
ほんとうにわからない
なにがいいたかったの?
途中まで結構、あーなんか妙を得てる感じで好きだったけど最後がほんとわけわかんなくて
余韻というか納得いかなくてモヤモヤ残る
低予算で作られた濱口の小品佳作
1 山里を舞台に、自然と共生する男と開発計画を巡る顛末を描く。
2 あらすじは次のとおり。豊富な水や木々が多様な生態系を育む山里。そこで自然と共生しながら娘と暮らす男が主人公。この地に観光施設の建設計画が持ち上がる。住民説明会で水源への廃水流入や施設の管理体制の不備が指摘される。会社は不完全な計画と認識しながらも住民から信頼されている主人公を籠絡して計画を進めようと近づく。そうした中、主人公の娘が行方不明となる。そして・・・。
3 本作では、里の恵みを活かした主人公や住民の暮らしぶりが丹念に描かれる。そして、山里の自然の点描が美しい。濱口は、そこに施設建設のストーリーを挟み込み、計画を推進する会社スタッフを狂言回しに使った。キャラクター設定も住民と社員とで対比させた。住民は朴訥で口下手なのに対し社員は打算的で饒舌。社内会議の場面ではあまりに戯画的過ぎて脱力した。主人公が演技経験のない素人であるだけに顔の表情やセリフが乏しく、抑揚のない喋りをしていたが本作のキャラクター設定で活かされた。
4 オリジナル脚本らしく終局の場面は予想外の展開を示し、濱口は解釈を観客に委ねた。行方不明だった娘は、主人公が彼女の立ち回り先を見込み、水辺に続く野原に横たわる姿を遠目で見つけた。そこに鹿のショットが写りこみ、彼は脳内処理により、銃弾を受け傷ついた鹿と遭遇した娘は助けようと近づき襲われたと結論づけた。
5 彼が娘に歩み寄る前に、同行していた男性社員をはだか締めで失神させた。何故なのか?その社員は言葉巧みに主人公に近づいたが観察眼の鋭い主人公は自分が里の自然を脅かす計画推進に利用されようとしていることを見抜いた。そして施設ができれば自然が破壊されるのは明らか。自然と共生して生きてきた主人公には受け入れ難いことであった。無謀な計画と非常識なスタッフを自然から排除しようとしたのではないだろうか?その落し前として、主人公は娘とともに水辺の先に歩を進めたように思える。
常識を疑った方がいい
映画とは一体何か。
物語や思想を語るものなのか、表現として映像、音楽、台本、演者が渾然一体となりイメージを提示するものなのか。
濱口監督の映画は過去作品から今作に至るまで後者だ。
唯一、「ドライブマイカー」は物語の起承転結があり異質だと思っている。
個人的には「ドライブマイカー」はあまり好きではない。
その意味で、今作は濱口監督の代表作になるのではないか。
そもそもこの作品が製作されたきっかけがある意味偶然であり、最も濱口監督らしい。
ドライブマイカーで音楽を担当した石橋英子がライブ用の映像制作を依頼したことがきっかけ。
その撮影過程でセリフを伴う映画製作を思いついたという。
映画作りとは脚本があり、キャスティングがありロケハンがありリハーサルがあり製作されるのが通常だから、この映画は映画として準備されていないのではないか、とこのきっかけを聞いて考える人が多いのではないかと思うが、逆である。
この思いつき、偶然こそが濱口監督の映画づくりだ。
だから、傑作が出来たのだ。
舞台は信州の架空の街「水挽町」。
人々は森に囲まれ、静かに生活している。
主人公の巧(大美賀均)は森で薪を割り、小川で水を汲み、娘の花(西川玲)と生活している。職業は自称便利屋。
そこに、東京の芸能事務所がこの町にグランピング施設を作るという知らせが舞い込む。
工事着工前の現地説明会では町の水源を汚染するずさんな計画が示され、説明会は紛糾する。
計画はコロナ禍で経営が苦しくなった芸能事務所が国の補助金を目当てにしたものだという。
何という俗っぽさ。意味のない自然破壊であるのは明らかだ。
そこで、タイトルの「悪は存在しない」に対して、この芸能事務所は明らかに「悪」ではないのかと思い当たる。
いや、この映画は「善」と「悪」、「聖」と「俗」といった単純な対立構図には当てはまらない。
むしろ、そうした常識の枠を外し映画を観たままに感じることを要求する。
冒頭の森を見上げた移動ショットに石橋英子の不穏で美しい音楽が重なりあうシーンが素晴らしい。
雪の残る信州の山村の静謐さ、森の木々に反射する陽光の神々しさ。
その中で永遠に続くのではないかと思える、巧の薪割りの長回しショット。
巧役の大美賀は役者ではなくスタッフの一人で、セリフは棒読みだ。
そうした美しいが単純なショットの連続や展開の無さ、演技の稚拙さは映画として退屈なものになりがちなのだが、なぜか、この世界に引き込まれてしまう。
濱口監督の手腕としか言いようがない。
結末は賛否両論、え、なぜそういう展開なのかと・・
「悪は存在しない」本当に?
常識では悪は存在する。ただそれは人間の価値観、決め事による悪に他ならない。
この映画は考えずに感じた方がいい。
ある河川の上流、長野らしいですが。 自然とともに暮らす人々、 グラ...
ある河川の上流、長野らしいですが。
自然とともに暮らす人々、
グランピング施設を作るという東京企業、
それぞれのサイクルで過ごしてゆく様子。
村社会独自の内輪意識・排他性のようなものを、持っている人もいそうですが
じつは、先祖土着の人など、そもそも居ない街だとか。
どう共存するかは、人々の意識に常にありそうにも見えて。
東京企業の側の担当者さんら、登場の仕方はいかにも都会の論理でしたが
会話が進んでゆくうちに、じつは人情味たっぷりに見えたり。
自然には厳しさも伴うこと、おらの郷里 (他県ですが山の麓で河川の上流、ここ数年は熊が町に降りてきて)からも類推しています。
映像と音の美しさ、優しさと不穏さが共生するような、
なんとも不思議な印象を抱きました。
「やり過ぎは良くない」
そもそもなぜ土地売買の契約ができたのか?
つまり自然豊かな場所ということなんだけど、途中で観客がモゾモゾし始めるくらい森のオープニングシーンが長い。またストーリーは明瞭だけど、特に主人公のラストの行動は分からなかった。
確かに、地域活性化とか振興事業とかいって都会から上から目線でやって来て、しばらく後に無責任に撤退、地元住民は泣き寝入り、という構図は許せない。(四国でそんな風なことがあったねー。)この開発業者は経営が上手くいっておらずコンサル(諸悪の根源)のアドバイスで田舎の土地開発をする、というエゴイストぶり。作品の中では地元の人向けの説明会で皆がはっきりと意見を言って問い詰めていたのが印象的で、それで開発する会社側が、この開発は一筋縄ではいかないということを思い知らされるが、そうでなかったら全てが始まってしまってから抗議しても手遅れになるのだろう。
映画では会社側として村に来た担当者が帰京してから会社のやり方に反発をする様子が描かれ、もしかしたら移住して来ちゃうかも?という感じである。安易過ぎると上手くいかないけどそれは本人次第で失敗するとは言い切れない。
主役の俳優さんが訥々と喋る棒読みタイプで、説明会の場で自分は「開拓サンセイ」と言った時、「開拓賛成」の立場なのかと思ったが、「開拓3世」なのだった。
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