プリシラのレビュー・感想・評価
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エルヴィス伝記映画を補完する物語、ケイリーのかわいさで加点あり
ケイリー・スピーニーの出演作を初めて見たのだが、冒頭のシーンで彼女が振り返った瞬間、あまりのかわいらしさに目が釘付けになった。物語前半の、栗色ヘアに薄づきメイクの姿がとにかく美少女。声も愛らしい。そりゃエルヴィスも惚れるでしょう。
そんな、学園もののヒロイン然として現れたプリシラが、エルヴィスの間近でその強烈な光と影に晒され、彼の好む色に染められて、だんだんと変わってゆく。
プリシラ視点の話なので、エルヴィスの半生についての詳細な描写はない。そこを説明しすぎるとエルヴィスが主人公になってしまうので、本作の主旨を考えると妥当な扱いだろう。
この手法の副作用として、エルヴィスがあのように精神的に荒れていった理由もどこかすりガラスの向こうの風景のようになっている。そのため、彼が恋人をお人形のように都合よく扱う姿が、スーパースターになった男の単純な勝手さや気まぐれのようにも見える。もちろんいかなる事情があれ、女性の人権軽視やDVは駄目なのだが、男性側の背景も見えてこそ、物語としての厚みが出る。
エルヴィス自身が置かれた状況は、既に皆が知っているという前提なのかもしれない。私は、バズ・ラーマン監督の「エルヴィス」を思い出していた。
「エルヴィス」では、プリシラは物語の中盤から登場する。脇役ということもあり、彼女の感じる寂しさや、自由を制限されることへの葛藤はほとんど描かれない。終盤、彼女がエルヴィスの元を離れる理由は、取り巻きが与えたドラッグによって、ステージの外での彼が亡霊のようになってしまったからだ。浮気の疑惑などは気にしていない。夫としてのエルヴィスはもういないと思ったから、彼女は子供を連れて出ていった。「私はもう捧げ尽くした。何も残っていないの」と言い残して。
この「捧げ尽くした」と思うまでのプリシラの内面について、「エルヴィス」では仔細な描写はない。そこを深掘り(と言うには物足りないが)したのが本作だとも言えそうだ。「エルヴィス」のプリシラはより肝の座った女性という印象だが、本作はプリシラ本人の自伝が原案なので、現実のプリシラの心情により近いのはこちらの方なのかもしれない。
しかし、最後にプリシラがエルヴィスの元を出ていくくだりはやけにあっさりしていて、えっこれで終わり?という感じだった。ずっと彼女がエルヴィスの都合に合わせて生き、服の好みも彼に否定され、グレースランドの事務員との雑談さえ制限されるといった様子で、息苦しい生活は十二分に描写されていたのだから、出ていく時にそのフラストレーションを存分にぶちまける方が映画的なクライマックスが作れてよかったのではないか。
男の意のままに生きてきた女性が自分の意思で行動する姿で、フェミニズム的な何かを表現したかったのかもしれないが、いささかパンチ不足だった。
「エルヴィス」のような作品と合わせて観て、プリシラのパートを補完するのにちょうどいい、そんな程度の見応えだ。
この時代を舞台とする作品に共通する見どころは、やはりファッションやインテリア、自動車のデザインだ。プリシラの衣装のバリエーション、60年代のかっこいいクルマを見ているだけで楽しい気分になる。ジェイコブ・エロルディのエルヴィスもなかなかさまになっていて、ビジュアル面では満足度の高い作品だった。
少女だったと いつの日か 思う時が来るのさ
ほんの数年前にエルヴィス・プレスリーの伝記映画があったばかりだが、また。
と言っても今回はエルヴィス視点ではなく、彼の最初の妻“プリシラ・プレスリー”の視点から。
彼女の回顧録『私のエルヴィス』を基にし、彼女から見たエルヴィスの物語であり、ある日突然世界的スーパースターと恋に落ちた少女の物語である。
母親と再婚相手で将校の義父の下で暮らすちょっと内気で平凡な女の子、プリシラ。
ある日軍人に誘われ、行ったパーティーで出会ったのは…
エルヴィス・プレスリー。世界中の女性が恋するスーパースター。
二人は意気投合し、やがて恋に落ち…。
と、さらりと書いたが、よくよく考えればスゲー話。
普通の女の子が人気スターと恋に落ちる。しかも相手はあのエルヴィス・プレスリー!
夢みたいなシンデレラ・ラブストーリー。
“エルヴィスの恋人”となるが、それは波乱の始まりでもあった…。
古今東西、周囲の好奇の目。
女性からは羨望と嫉妬。
プリシラは日に日に、彼への思いが募る。
ピュアであるが、世間知らずな面もある。
エルヴィスから一緒に暮らそうと誘い。
両親は大反対。無理もない。この時、プリシラは14歳、エルヴィスは24歳。娘はまだ10代の女の子だし、一回り歳が離れているし、何より世界的スーパースターと…。
が、プリシラも思った以上に頑固。私はエルヴィスの下に行く。止めたって行く。
両親も折れ、プリシラはエルヴィスの家に行く事になるのだが…。
夢に描いたようなもっと蜜月な暮らしを想像していたのだが…。
彼はスター。歌に映画に超売れっ子。家を空ける事が多い。
その間エルヴィスの家族らと一緒なのだが、結構規則が厳しい。唯一の慰め相手は可愛いワンちゃん。
転校した学校でも好奇の目。家の外には常にマスコミ。
気晴らしにバイトしたいが、エルヴィスはそれを許さない。帰ってきた時、いつも家に居て欲しい。
雑誌や新聞などではエルヴィスの話題。共演女優と噂…。
悶々悶々。居ても立ってもいられなくなり、遂にはエルヴィスの下へ押し掛け…。
内気で平凡だった女の子が大胆行動。
どうやらプリシラは恋で変わる女性のようだ。
ヘアスタイルやファッションもエルヴィス好みに。
支えてあげられるように、いつも見てくれるように、彼に愛されるように。
奮闘するが、当のエルヴィスは…。
プリシラの事は愛しているのだが、自己チューが目立つ。
プリシラより仕事優先。
マーロン・ブランドやジェームズ・ディーンのような真の役者になりたい。
なのに、俺の所に回ってくるのはクソみたいな映画ばかり。うんざりしているのに、プリシラがそれを言うと激怒。他人には言われたくない…?
常に友人らとどんちゃん騒ぎ。
ヤクに手を出したり、怪しいカルト宗教にのめり込んだり…。
普通はそういうのは相談するものだが、エルヴィスが相談や言うこと聞くのは、かの“大佐”のみ。
私の存在って…?
やがて正式に結婚し、娘も産まれ、これで変わると思ったが…。
口論。エルヴィスのDV気質。溝やすれ違い。埋まる事はなく…。
ゴシップや暴露的な話ではなく、スーパースターの妻となった少女の心の揺らぎ。
瑞々しく、幸せの光差し込むも、不信や苦悩…。
少女の内面を描く事に長けるソフィア・コッポラだからこその手腕。
映像美、ファッション/ヘアスタイル、楽曲もこだわり。
でも特筆すべきは、ケイリー・スピーニー。
まだ少女だった盲目さ、少女から女性への変化、複雑な内面を繊細に的確に体現し、ヴェネチア国際映画祭女優賞。
演技力もさることながら、そのキュートさや魅力。『エイリアン:ロムルス』も良かったけど、遥かに圧倒的に!
本作が出世作となり、今引っ張りだこなのも納得。
…と、ここまでは良かった。
ジェイコブ・エロルディも悪くはないが、“あっち”のオースティン・バトラーを見た後だと…。
視点やアプローチが違うと分かっていても、物足りなさも感じてしまう。
興味惹かれる題材ではあるし、ケイリーの熱演やソフィアの洒落たセンスはいいのだが、如何せん中身が伴ってこない。
エピソードは豊富。が、一つ一つが浅く、月日が経つのも早く、ダイジェスト的。
“あっち”のようなショーアップとまでは言わないものの、ビジュアル以外でもっと魅せられるものを期待したが、意外と淡白だったのが残念。
出会いは1959年。正式に結婚したのは1967年。離婚したのは1973年。
夢のようであり、波乱の14年。
この期間、プリシラは何を思ったか。
名曲の一節が頭に流れた。
♪︎少女だったと いつの日か 思う時が来るのさ
今までプレスリーに興味がなかったが
関連の映画でも見てみようと思った。
この映画を見る限りでは、名の売れたスーパースターが14歳の少女を・・・というのは、ちょっと・・・と思った。
白馬に乗った王子様を迎える姫君って感じがしたが、敢無く玉の輿から落馬人生。
とうとうGW、GW ごーるでんうぃ-くが終了ですよ。
夕方見るサザエさんは寂しい限り~っていつも思ってたけども
今日は月曜日やないかい(@_@;) 放送やってねぇ (´-ω-`)
と言う訳で 既に先々週に観終わっていた作品レビュ-書くの
ど忘れしてたんで カキコしときます。
「プリシラ」っすわ、見たの。
監督:ソフィアさんなんだけど。彼女まだ現役でカメラ回してんのね。
元気そうで良かったわ。配給A24なんだね。さよか。
メインの出てる人:
プリシラ・プレスリー:役 ケイリー・スピーニーさん
エルヴィス・プレスリー:役 ジェイコブ・エロルディさん
本作はさ、プレスリ-の有名な嫁の話ね。
名前は知ってる程度だったけど、娘がリサ・マリーってのも超有名。
彼女はマイケル・ジャクソンやニコラス・ケイジの元妻だったし。
こんな人をスッパ抜いた作品やって売れるのかと疑問は有ったね。
この前やってたエルヴィスの作品見てけども プリシラ出てたっけ?ど忘れしたよ。その位 彼の人気や活躍振りからすると影薄かった気もする。
そう言う所の視点が 今作中心となって描かれてますね。
よって どれも彼女視点が殆どですね。”プリシラ”題名通りですからw
彼とのツーショットもあるけど限られてて、なんか さぶ-いイメ-ジがあったわ。(´-ω-`)
何やろな、観ている側に活気が漲らんのよネ。
一緒になって気落ちが漂ってくるっす。それが 嫌の一言。
敢えて言うなら、前半は おバカお嬢様白馬の王子に攫われるの巻。
後半は 結婚しても夫帰らず無視され別居の巻。
こんな感じ? 唯一子供が居たのが幸せだったのかな。
ソフィアの本だし 視点がごり押し感強い的な 感じします。
女性(妻)を裏切る男は許せねぇ~感 半端ないかも。
よって 男性客側からすると 低姿勢感情に成っちゃって見てて暇っすわ。
旦那も大変だったんだろうなとは思うが、やっぽ最初は紳士的に思えたけど
卒業して結婚してもなんか も一つハッピ-に見えて来ない。
それが本音なんだろうけど。
家の中の場面などが多くって、見てて飽きますね。
もしも二人で世界を旅したのなら、絶景なんかのショットがあれば きっと映えたんだろうけどね。
映画”ダイアナ”では 最後は王妃は彼の元を去っても強いイメ-ジ有ったけど、
プリシラは子供いるけど 邸宅を去っても、何となく寂しいままな感じがする。
それでも ケイリーは、第80回ヴェネツィア国際映画祭で女優賞受賞なんだね。
ご興味ある方は
劇場へ。
宗教保守としてのエルヴィスによる美少女プリシラ育成ゲーム。結果はバッド・エンド?
アメリカにも、こんな「偽ロリ、隠れ巨乳」のアニメキャラみたいな美少女(ただし26歳)が存在したんだなあ……というのが最大の衝撃事か(笑)。
ケイリー・スピーニー。しかと覚えました!
正直なところ、エルヴィス・プレスリーにもソフィア・コッポラにも個人的にあまり関心はなかったのだが、最近『ゴスペルシンガー』というあまりにも衝撃的な小説を読んだせいで、つい『プリシラ』のほうも観てみたくなった。
『ゴスペルシンガー』は1968年にハリー・クルーズによって書かれた南部犯罪小説で、美しい容姿と天使の歌声をもつカリスマ歌手「ゴスペルシンガー」が、出身地である「どん詰まりの街」ジョージア州エニグマに帰還するところから話は始まる。
カリスマの帰還と熱狂の渦は、やがて周囲の人々を狂わせ、街そのものを狂わせてゆく。
犯罪者と狂人とフリークスが跋扈し、殺意と狂気と混沌が支配する、どこまでも危険で、信じがたいほどに魂を揺さぶる南部小説の傑作だ。
実は、この『ゴスペルシンガー』の映画化を、自らの主演で熱望したスターがいた。
他ならぬ、エルヴィス・プレスリーである。
(結局は映画にも登場するトム・パーカー大佐に反対されて、実現しないのだが。)
エルヴィス自身、歌手としてのルーツはゴスペルにある。
両親は極貧だが熱心なプロテスタントのペンテコステ派の信徒で、幼いころからエルヴィスは黒人のゴスペルに親しんで育ち、リバイバル(信仰復興集会)に足しげく通っていた。
彼がグラミー賞を獲ったのも、ゴスペルによってである。
エルヴィスは、「南部の片田舎の貧困層から成り上がった白人歌手」&「キャデラックに乗って街に帰還するカリスマ」&「宗教的帰依が生活の根幹にあるキリスト者」であるゴスペルシンガーの姿に、まさに「自分の分身」を観たのだ。
彼が『ゴスペルシンガー』を読んで、自身の主演映画に切望したのが70年。
プリシラとの結婚が1967年。リサ・マリー誕生が68年。ライブの再開が69年。離婚が73年。
本作『プリシラ』が描いている時期は、まさにエルヴィスが『ゴスペルシンガー』と「ニアミス」した時期とかぶっている。
実際、映画のなかには、エルヴィスが出演作の脚本をぶん投げて「どいつもこいつもみんなクズ脚本ばっかりだ」と怒り狂うシーンが出て来る。
彼は演技派の本格俳優を志望しながら、常にお気楽歌謡映画の企画ばかりをあてがわれることに心底疲弊していた。
また、彼がスピリチュアル本の熱狂的な愛読者だったことも、映画内では(半ば否定的に)描かれている。そして、それを「大佐」の命令ですべて「焚書」したことも。
きっと彼はああやって、ベッドで『ゴスペルシンガー』を読んだのだろう。ショー・ビジネスの世界で圧し潰されそうになって、自我の崩壊と家族の危機にある自らの境遇と照らし合わせながら。そうして彼は作品におおいに共感し、映画化を切望した。
だが他の多くの事例と同様に、彼の夢は「大佐」の反対にあって実現することなく終わる。
ちょうど、エルヴィスを強力に支配しようとする「大佐」の姿は、『ゴスペルシンガー』に出て来る懺悔師兼マネージャーともろに被る。
『プリシラ』のなかでは、エルヴィスの意外なまでに禁欲的で宗教的な一面も描かれている。といっても、彼は道徳的な聖人君子からは程遠い浮気男だし、女性を威圧することで抑圧する父権的な存在として「否定的」に描かれているのだが、少なくとも結婚観やセックス観に関しては、ずいぶんと旧弊な感じがする。
ここで、彼の根幹に常にあったのが、プロテスタントとしての篤い信仰と南部独特の宗教的熱狂だということは、強調しても強調しすぎることはない。
エルヴィスは「大スターのくせに宗教にかぶれてのめり込んでいた」人間というわけではない。
彼は「ペンテコステ派の熱烈な宗教者が、自らの価値観の延長上で大スターに成り上がった」存在なのだ。
ペンテコステ派とはプロテスタント系福音派のうち、「聖霊による洗礼」と神の存在を実感するような宗教的体験(聖霊体験)の追求を信念として掲げる教派であり、神との結びつきを育むために、歌やダンスなどで激しく感情を高ぶらせる「法悦(エクスタシー)」を重視する。エルヴィスが生みだしてきた熱狂的なライブの数々は、まさにこの延長上にあって、彼のなかで音楽活動と宗教とは切っても切り離せないものだった。
この感覚は『ゴスペルシンガー』を読んでいても、ひしひしと伝わって来る。
黒人音楽とペンテコステ派の宗教的法悦が、貧困層出身の白人であるエルヴィスという触媒を通じて集約され「世界言語化」していく流れこそが、50年代アメリカ音楽シーンの裏潮流といってもよいだろう。
そして、この保守的なプロテスタント(福音派&ペンテコステ派)がライブ的な熱狂をベースに絶大なる支持を打ち出しているのが、他ならぬ「ドナルド・トランプ」だということ。
ハリウッドはきたる大統領選に向けて、トランピスト達と敵対しているということ。
本作が女性監督による女性映画であり、フェミニズム映画であるということ。
このあたりさえ押さえて観れば、だいたいこの映画の本質的な部分はほの見えて来るはずだ。
― ― ―
『プリシラ』はある意味、奇妙な映画である。
表面上はシンデレラ・ストーリーとその後の結婚生活の破綻を描いた女性の一代記であり、内実としては女性の自立と解放を謳ったフェミニズム映画なのだが、どちらの観点に立って観たとしても、なお勘所のイマイチよくわからない映画だという印象は否めない。
この感覚を引き起こす最大の原因は、プリシラがエルヴィスに見初められて、プリシラもエルヴィスに一目ぼれして、二人が愛し合い、同棲し、結婚するに至るが、やがて摩擦が起き、不和が生まれ、離婚にいたるという一連の過程において、「ぱっとわかるような感情のロジック」がほとんど呈示されないからだと僕は考える。
もちろん、本当の恋なんてそういうものなのかもしれない。
ひと目見ただけで「ビビッと」来ることだってあるだろう。
だが通例、この手の映画だともう少しは「好きになる理由」「嫌いになる理由」がドラマティックに描かれるものではないだろうか。
たとえば、あれだけパリピ剥き出しのさみしんぼうで、いつも取り巻きを集めて空騒ぎしているエルヴィスが、なぜ包容力やエネルギーとは対極にあるようなプリシラを見初めたのか。他のグルーピーが皆いかにもアメリカのグラマラスな姉ちゃんたちなのに、なぜ14歳の少女に恋をしたのか。敢えて無垢な少女を恋愛対象に選んでおきながら、ゴテゴテと大人のケバい格好をさせたがるのは何故なのか。
プリシラのほうも、基本的には恋に恋する少女として描かれていて、総じて主体性のない恋愛に終始している。彼女がエルヴィスの本質や闇の部分と真正面から向き合っているとはいいがたく、その証拠にこの映画にはエルヴィスのアップのショットや、本音と本音でぶつかり合うようなシーンが終盤までほとんど出てこない。彼女はエルヴィスに恋焦がれているように見えて、その実、彼のことをちゃんとは見ていないのだ。
お互いが、相手に「美少女/大スター」という「アイコン」だけを見ていて、その中身についてはあまり気が行っていない感じというか、お互いに自分の理想を押し付け合っているだけの非常に幼い関係性というか。
プリシラを「自分好みの女」に仕立てようと、髪色からメイク、ファッションまで口出しするエルヴィス。
ほとんどいいなりに、カジノやらパーティに付き合って、挙句の果てにLSDにまで手を出すプリシラ。
プリシラのことは基本的に大切にしながらも、留守がちで外でも他の女とヤリまくり、たまに癇癪を爆発させて手がつけられなくなるエルヴィス。
ほとんど相手のことは知ろうともしないのに、浮気の情報や証拠に関してだけは逐一チェックしていて、嫉妬の炎をいっちょまえに燃やすプリシラ。
なんか、ずぅぅぅっと、二人とも何考えてるのかよくわからないし、何かを変える努力もしないでただ単に不満げに過ごしていて、十分いろいろと恵まれているのに退屈そうで無気力そう。
正直言って、最後まで感情移入のとても難しいカップルだった。
気になる部分は他にもたくさんあって、たとえばプレスリー一家とプリシラの関係性があまりに表面的な部分でしか扱われない点、プリシラとエルヴィスの結婚において主導的な役割を果たしたトム・パーカー大佐(話題作りとして策謀した)がほとんど出て来ない点、愛する娘の運命をエルヴィスに託すという重要な決断を下している割に本気度がやけに薄く見えるプリシラの両親の「放置ぶり」、ただ取り巻いているだけで風景か置物のようにしか扱われないメンフィス・マフィアの面々、プレゼントとして出てきただけでいつの間にか姿を決してしまうワンちゃん、一人娘の割に可愛がるシーンがあまり出て来ないリサ・マリー・プレスリーなどなど。
要するにこの映画では、プリシラとエルヴィスに限らず、大半の登場人物が「ただ出ているだけ」で「たいした葛藤の描写もなく」「熱が薄い」傾向が強い。
これは結局のところ、本作が「プリシラの目を介して見たエルヴィス周辺の物語」であることに起因するのだろう。精神的に幼かったプリシラは実質的にエルヴィスのことも、エルヴィスの取り巻きのことも、家族のことも「ちゃんと見てはいなかった」。そのことが、本作の登場人物全体が奥行きや情動を欠き、薄っぺらに見えることにつながっているのかもしれない。
もともと『私のエルヴィス(Elvis and Me)』という原題の自叙伝を映画化するに際して、敢えて『プリシラ』と改題しているだけあって、この映画は「プリシラ視点で描く」ということについては徹底されている。
そこに、ソフィア・コッポラのフェミニズム的視点が加わり、イプセンの『人形の家』のノラのように、自立心を涵養して支配的な家長の束縛から脱し、女性として一人生きる道を見出すといった筋書が強調されている。あるいはバーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』およびその映画化である『マイ・フェア・レディ』のイライザや、『源氏物語』の紫の上のように、「少女を自分好みの女に育てあげようとする大人の男のグルーミング」の気持ち悪さが強調されている。
結果として、プリシラにとって都合の悪い要素や、制作陣が描きたいプロットと「反する」要素はオミットされる傾向にあり、プリシラが最終的に「浮気」をしたせいで結婚生活が破綻した事実や、離婚してからも二人が友人として生涯交流を保っていた事実などは概ねスルーされている。
結局のところ、映画の印象としては「ドラマが薄い」。
これに尽きる。
保守的なプロテスタント界隈に対する反トランプ的な非共感。
南部における女性の扱いに対しての進歩的立場からの反感。
ピグマリオン効果に対する女性の立場からの生理的嫌悪感。
このへんの政治的・思想的な立ち位置はよく伝わってきた。
ただ肝心の恋愛劇としては、感覚が鈍くて情動の薄い人達が、なんとなく成り行きでくっついたり離れたりしているようにしか思えない、退屈な展開に終始していたように思う。
最後に音楽に関していうと、敢えてエルヴィスの歌も歌唱シーンもほぼ使わないという選択は果たして本当に良かったのかどうか(なぜここまで?)。
流れていた50~60年代の音楽については詳しくないのでよくわからないが、冒頭でドヴォルザークの『新世界より』第二楽章のジャズ風編曲、中盤のライブシーンのOPでリヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』のロック風編曲が流れたのにはちょっと驚いた。あと、ラストで流れてた「オールウェイズ・ラブ・ユー」はなぜホイットニーのカバー?と思ったが、あの曲ってもともと昔のカントリーのカバーでこっちが元曲なんだってね。で、エルヴィスもカバーを望んだけど、大佐の介入があって先方に断られた、と(笑)。
「エルヴィスが望んだけど手に入らなかったもの」つながりで言うと、立ち去っていくプリシラに被せるには最高の選曲だったのかもしれません。
芸能人離婚あるある「性格の不一致(価値観の違い)」を描いた映画
最初は誰でもラブラブなんだよね。
でもスーパースターと普通の女の子が結婚したら普通こうなよね。
ていう内容だから半ば退屈になりました。
アンジャッシュの渡部さんのことを考えれば、離婚しない佐々木希さんの忍耐力はすごいと思わされた映画。
きれいに言えば
スーパースターの苦悩と普通の少女の嫉妬と孤独を描いた映画。
何だ、コレ?
ここで終わり? 薬物依存が進みドーナツの食い過ぎでぶくぶく太り、売れなくなって死んだエルヴィスが皆、観たいんじゃないのか? アメリカではまだ忖度の対象なの? 関係者絡みで仕方ないのか?
ケイリースピーニーキュートだったし、ソフィアコッポラの世界も気にならず来ていたのに・・とにかく残念。
淡い初恋を綺麗に描いている
プリシラの初恋の相手が世界的大スターのエルヴィス・プレスリーだったという話。
勿論実話なわけで、78歳になるプリシラさんは今も健在している。作品において強い拘りとも言えるのが、60年代から70年代に流行っていた当時のファッションを知ることが出来ると同時にエルヴィス・プレスリーをプリシラから見てどんな人だったのかが分かる内容になっている。
14歳のプリシラが常連として通うダイナーで当時兵役の為に西ドイツに滞在していたエルヴィス・プレスリーのパーティーに参加すると、大人びた封墓かは気に入られパーティーがある度に呼ばれるようになると二人の関係は親密になっていく。
14歳の淡いピンク色の初恋を監督のソフィア・コッポラが良い感じに演出している。
本編では、プリシラのエルヴィスに対する恋心を決して忘れることなく結婚に至るのだが、プリシラは結婚を機に変わってしまったようにも見えた。
というのも、結婚してすぐ娘のリサが産まれるのだが、リサの誕生がキッカケで独立せねばとなったのかもしれない。プリシラのエルヴィスに対する苛立ちも心底煮え滾っていたのだろうが、やはり薬に頼ってでもというのは見ていて宜しくない。
小心者で気の短いプレスリーが大スターとして成功するには常に薬がないと駄目なぐらい、本当の姿はスターとして生まれるべき逸材だったというより持ち前の社交性や才能でしかなかったと思われる。
ファーストシーンのプリシラの表情!
あれが凄くよかった。あのテイクは監督の「どうだ!」と言わんばかりのシーンだったね。
だから期待して観てたんだけど。
プリシラがエルヴィスの所へ行くまでは良かったけど、そのあとはずっとモヤモヤする表情のプリシラのオンパレード。まあ、表と裏を描きたかったんだろうけどね。変にみんなではしゃぐシーンとかが長かったなあ。
逆に後半のシーンは切り貼りのようにフェードアウトを使いすぎで一本の流れになってなかったなあ。ここら辺はこの監督のよくない所だよね。なんてったって英語を話すマリーアントワネットを描くくらいだから。
ラストシーンも何が締まりがないというかね。観ていくうちにどんどん星が減ってきた感じかなあ。ポイントで鑑賞したからタダだったけど。
でもアングルとかは女性らしい細やかさあったし、キャスティングも良かったよ。主役の2人が美男美女なのも上手いよね。
推しと結ばれたオタクは幸福になれるか
本作、韓国発ドキュメンタリー映画『成功したオタク』の姉妹編として観るのが、結構正解なのかな、って気がします。
すでに21歳にして全米第1位のレコード売上を記録したビッグスターであったエルヴィス・プレスリー(1935-1977)。
1958年、23歳にして徴兵を受け、陸軍兵士として西ドイツの米軍基地にて2年間の軍務をつとめていた。
1959年、そのエルヴィスと会えるパーティに来ないか、と彼の米軍の同僚に誘われたのが、空軍将校ポール・ボーリューの娘プリシラ(1945- 1977)。
※ただしポールはプリシラの母の再婚相手
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【以下ネタバレ注意⚠️】
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もともとファンだったプリシラは、実際に会えたエルヴィスに夢中に。
エルヴィスの方も、プリシラにぞっこん。
満期除隊して帰国すると、ポールら反対する両親を説得して、メンフィスの大豪邸にプリシラを引き取り、生活を共にすることになった。
家には常に自分の父親がいて厳しく管理するし、カトリックの学校に通わせるから、と。
共同生活を始めてみると、意外なほど、エルヴィスは禁欲的。
プリシラの方から求めても、まだその時ではないと関係を進めようとしなかった。
ついに二人が正式に結婚したのは、出会って8年後の1967年。
その9ヶ月後には、早くも、一女、リサ・マリー(1968-2023)が誕生した。
しかし、エルヴィスは、相変わらず、妻を家に残して、ツアー先やハリウッドで浮名を流すことを辞めない。
おまけに、ドラッグに依存したり、宗教本に夢中になったりすることにも、プリシラは付いていけなくなる。
1973年、プリシラはエルヴィスのもとを去り、その秋、正式に離婚した。
‥‥とまぁ、現在も活躍している、プリシラ・プレスリーの『私のエルヴィス』(1987年)をもとに、ソフィア・コッポラが映画化。
だから、ほぼ完全に、「プリシラ目線」でエルヴィスの姿も描かれている。
Wikipedia の「エルヴィス・プレスリー」だけ見ても、二人の離婚前に、プリシラの不倫があったと書かれているが、本作では、その点には一切触れていない。
そもそも、本作のエルヴィス役、ジェイコブ・エロルディは、背だけはやたら高いが、歌やパフォーマンスを披露するでもなく(一応それらしいシーンはあるがジェイコブが実際歌っているかは分からない感じでボヤかして映すだけ)、プレスリーの代名詞とも言うべきエロティックな色気は全然感じさせない、実につまらない男だ。
ロックンロール・キング、ビッグスターとしてのエルヴィス・プレスリーを知りたければ、じかに楽曲や本人の映像なり、別の映画を観てよ、ってことのようだ。
プリシラを演ずるケイリー・スピーニー、2018年に18歳で映画デビューとのことだから、今年23歳だろうか。
やたら背が高いジェイコブに対して、ケイリーは女性としても、かなり背が低い。
本当にJK、女子中学生のように見える。
美貌というより、可憐な可愛らしさが何より魅力的だ。
その幼い美少女にしか見えないケイリーが、いくら「推し」からの誘いだからといって、独占欲の塊のような大男に自宅という名の牢獄に監禁され、アルバイトをする自由さえ奪われている様子は、あまりにも残酷で見ていられなかった。
おまけに、エルヴィスは、流行の最先端か知らないが、プリシラを自分好みの女にするために、着せ替え人形よろしく、髪の色、ヘアスタイル、ファッションと、身にまとう全てのものをお仕着せして来る。
可憐で可愛らしかったプリシラが、似合わないケバい姿に変わって、次第に生気が無くなっている行く様を正視できなかった。
エルヴィスの偽善的なクズ男ぶりも相当なもの。
ダメ男が、成長前の無垢な少女をとらえて、昆虫採集のように、そのまま自分の檻に囲う。
『源氏物語』の「若紫」以来、洋の東西を問わず、繰り返されてきた男性による女性への迫害の典型的な形ではあろう。
しかし、実際に、子どもにしか見えない若い女優ケイリーが、身勝手なエルヴィスの動く着せ替え人形にされているのは見ていられなかった(同じことの繰り返しばかりにてスミマセン)。
ところが、リサが生まれてから、二人の進む道は、ハッキリと分かれていく。
プリシラは、女友達と自由に過ごす時間が増え、自ら車を運転する。
その顔は生気を取り戻し、化粧もファッションも、ナチュラルな身の丈にあったものに変わっていた。
エルヴィスの方は、ラスベガスのステージを、ドラッグ中毒でラリったまま、つとめるようになり、プリシラからの別れの言葉も夢うつつの状態で受け流すしか出来なくなっていた。
本作のラストは、そんなエルヴィスに未練を見せることもなく、自らハンドルを握って、どこかに向かうプリシラの横顔を映して終わる。
‥‥つまり、本作は、エルヴィス・プレスリーの伝記でないことはもちろん、プリシラの伝記でさえないのだ。
ついつい「推し」と結ばれる、という夢の実現にのみ思いを託した少女。
彼女は、果たして幸せになれるか、その一点のみを描こうとした作品なのだ。
結果はあまりにも悲惨で残酷。
その地獄から逃れるには、自力で脱出するしかないのだよ、
それがソフィア・コッポラの言いたいことだったはず。
そう考えれば、言いたいことは、伝わる映画ではあった、
ってなところかな。
それ以上は何もない、ってか。
そうそう、開幕冒頭は、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」の編曲版でしたね。
ベガスのステージで使っていたリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」みたいに、これもエルヴィスゆかりの曲なのか知らん。
※本作、プレスリー財団からの許諾が得られず、エルヴィスのオリジナル楽曲は使用してないとか
プリシラ Part2は?
オースティンバトラーの「エルヴィス」と対で観るとかなり興味深い。
あのスーパースターの素顔はこうだった!というゴシップ的見方が楽しめる。
二人の最初の出会いに至るまでが唐突に見えるのだがなにか端折っている?
エルビスは当初から薬に依存し不安定。後の諸々の崩壊を匂わせる。
なぜプリシラを選んだのだろう。亭主関白気質だから年下に惹かれた?
それなりに幸せそうな時期もあったが結婚するまでの期間が妙に長く、
いざ一緒になった時にはかなり冷めてしまっていた印象。
結婚後はすぐに妊娠して薄情なエルビスにほったらかしにされる。
曰くありげに銃が度々登場したので、どこか修羅場で使うのか思いきや、関係なし。
エルビスに別れを切り出しても案外あっさり離婚。
プリシラ本人が製作総指揮しているから綺麗目に収めた?
どうも全体的にはサラッとしていたので映画的にはもう一山欲しかった。
離婚後、一転して数多くの愛と別れを経験し、女優に実業家に盛り沢山の人生に突入するプリシラ の映画Part2を勝手に希望。
◆◆◆◆◆◆◆◆
ちなみに、どうしても気になったのがエルビスとプリシラの身長差。
実物同士は20㎝程くらいだが、この映画では40㎝近い。
エルビスは大きすぎ、プリシラ小さすぎ。
プリシラは最初から大人達に囲まれて文字通り背伸びをしていたが、成人してさらに化粧がきつくなる一方で声は幼いのでなんだか痛々しい。顔はとても可愛く美しいが。
エルビスは顔も声も雰囲気も本人そっくり。この点は良かった。
なぜか一番心に残ったのはいよいよ産気づいて病院いくぞ!となった時に
ゆうるりとつけまつげを付ける場面。
さっぱり面白くなかった
プリシラがドイツにいる頃がとてもかわいくて魅力的だったのにアメリカに行ってから、ちんちくりんな割にケバくて変な髪型で圧が強い装いになる。プレスリーの曲がさっぱり流れない。挙句にエンディングではホイットニーヒューストンの曲が流れて変な感じになる。さっさと結婚するかと思ったら全然しなくて終盤にやっとする。それまでプリシラが性欲を持て余してむんむんするばかりで気の毒だった。よく同じベッドでやらずに済んだものだ。
さっぱり盛り上がらないまま気の毒な女の半生を見せられた。
一昨年上映していた「エルヴィス」はロックンローラーとしての栄光と挫...
一昨年上映していた「エルヴィス」はロックンローラーとしての栄光と挫折を描いていましたが、今作はエルヴィスの奥さんであるプリシラをメインに描いた恋愛にフォーカスした作品でした。
純真な少女がエルヴィスのスター性によってどんどん黒く染まっていく様子は中々キツかったです。あれだけ可愛かったプリシラの髪はモリモリになって、メイクは濃くなって、態度は大きくなってとのめり込みすぎるとこうも影響を強く受けてしまうんだなぁとゴワゴワした気持ちになりました。
パンツ丸出しで写真撮りまくってるところとか、親の目線で観てしまいました。
エルヴィスは女にだらしない話は先の伝記映画でなんとなくは知っていたので、今作でもしょっちゅう撮られているのに反省の色は見事に見えないのは腹立たしい限りでした笑
それを責めようとしないプリシラは健気だなぁとは思いましたが、後半ちゃんと起こっていたのは好感を持てました。
ただ、映画として見応えがあるかと言われると無かったなぁというのが観終わった後に思った事でした。
エルヴィスとの日常を描いているので、ムフフな展開になりそうでならなくてムッてなってたり、時々機嫌の悪いエルヴィスにブチギレられたりして仲違いしたりと、DV気味と夫とメンヘラ気味の妻の様子を延々観せられるので、わざわざ映画にする意味とは?とまで思ってしまいました。
エルヴィスとプリシラという事を完全に除けば夫婦のギスギスドタバタ劇なのでそりゃ面白くはならんわな…と。
過程を省きまくっているので、なぜどうしてそうなったが描かれ無いのもあって、月日で言えばそこまでないはずなのに駆け足感が否めませんでした。
エルヴィスはプリシラをしっかり愛していながらも、時間の経過と共に愛が冷めていく様子は生々しかったんですが、人間性の面が強く描かれすぎたせいか、映画としての面白みは薄かったです。劇場で観なくても大丈夫なやつでした。ちょっと残念。
鑑賞日 4/18
鑑賞時間 12:30〜14:30
座席 C-12
力の抜けた作品
歴史に残る大スターのパートナーを取り上げたにしては、ソフィア・コッポラらしい気張り過ぎない肩の力の抜けた作品と言えるのでは。
1人の少女が大スターに見そめられて、華やかな大人の世界を傍らから見つめ、彼の色に染まってその地位をキープし、徐々に周囲に認められて堂々とした大人の女性になっていき、最後は自律を決意する。この間、エルビスも順調な頃だったのか、それほど悲劇的なことは起こらない。特筆すべきは、十代ど真ん中の純粋な少女から、大スターの妻として渡り歩く大人の女性まで、複雑な表情を見せながら演じたケイリー・スピーニーの表現力かな。大人といっても実は20代後半だがね。
「父と大佐以外は繋がないでくれ」というようなセリフがあったが、この大佐というのが先の映画「エルビス」でトム・ハンクスが演じた人物だろう。こっちでは殆ど出てこないが。
プリシラ・プレスリーの顔はそれほど知らないので、似てるか否かを考えずに観られるが、エルビスはそうは行かない。しかし「うん、オッケー、似てる」というところまでは行っていた。サングラスをかけるとエルビスには見えなかったが。
この監督は美的センスの良さで知られる通り、CHANELファンにもお勧め。
それでもカンニングはいけません!
一目でソフィア・コッポラの作品だと分かる
ガーリーカルチャー感!彼女の世界観が大好きでたまりません
プリシラご本人が総指揮を執りコッポラ監督が見事に表現する光と影…絶妙な視点と技
その出来ばえにはプリシラご本人も大納得され
た様ですね
カフェで退屈そうにコーラを飲むケイリー・スピーニー演じるプリシラの可憐で清純な
「聖少女」っぷりに一瞬心がざわめき息が止まりそうでした
その「聖少女」プリシラがハリウッドの
大スター・エルヴィス・プレスリーと恋に落ち
プレスリーという異次元の世界の中で生きて行く事となる…
出産時にまでつけまつ毛を重ねるとは…
エルヴィスの妻である誇りとプライドを強く感じたシーンは1番印象に残りました
世界中の女性が夢見るシンデレラストーリーを叶えた彼女はやがて妻となり母になる過程でエルヴィスを強く愛し理解しながらもエルヴィスという籠の中の鳥という環境から自分自身の翼で飛び立つ選択をする
そして締めの場面…邸宅から1人車を走らせるプリシラの表情からは
かつて聖少女だった面影は無く自由を求め掴む
強い意志を感じ取れた
その後も恋多き女優、実業家としても
ずっとずっと輝き続け強く美しくたくましかった
ステイシー・バダッドの衣装も相変わらずの冴えっぷり!お馴染みのカルチャーファッション
少女時代のチェックのスカートに淡いブルーグリーンのニットの制服には感服⭐️
大人の階段を登るうちに着こなすラグジュアリーなドレスは全てが洗練され溜息ものでございます
加えてプルシラの鎧となるべくメイクも神業!
ほろ苦いストーリーではありますがキラキラな
世界観を楽しむ場でもありました
エルヴィス役のジェイコブ・エロブディは歌唱シーンこそ無かったがその佇まいはエルヴィスそのもの!
プリシラに格を置く物語の中でも走り過ぎず置いてきぼりにならずの絶妙な存在感に好感を持てた!
若い2人の今後も楽しみです
And I will always love you
エルヴィス・プレスリーの妻だったプリシラの視点から見たエルヴィス夫妻を描いた作品である。
プリシラ・ボーリューがエルヴィスと西ドイツで出会ったのは9年生(日本なら中3)、14歳の時である。この時のプリシラ(ケイリー・スピーニー)の初々しい事。
西ドイツで2年の兵役を終えたエルヴィスは満期除隊でアメリカに帰国して復帰、人気が復活する。2年後にプリシラとの交際を復活して、メンフィスに呼び寄せ一緒に暮らし始める。
しかし、高校卒業するための試験勉強も階下のエルヴィスと取巻きの騒音で集中出来ない。また、映画の撮影でエルヴィス不在の時に犬と庭で遊んでいてもマスコミに撮られるからと家に入れられる。
また、ファッションも、髪の色や形、メイクもエルヴィスの好みにさせられる。
(あんなに初々しかったプリシラが段々とケバくなって来る)
エルヴィスがプリシラと一緒にハンフリー・ボガートの映画を見に行ったり、「波止場」を見たか、俺もアクターズスタジオで学びたかったなんて台詞もある。
エルヴィスが映画の撮影に行けば、プリシラは家で留守番、映画「ラスベガス万歳」の相手役アン・マーグレットやフランク・シナトラの娘ナンシー・シナトラとのゴシップを新聞で読んでは気を揉む。
気晴らしに週3でバイトに出たいといっても「俺が電話した時に出るようにいつも家にいろ」
プリシラがエルヴィスを求めても「その時」は俺が決める、と手?を出さない。
プリシラ22歳の時に「その時」が来てエルヴィスから求婚され、結婚して9ケ月後に出産する。
エルヴィスは映画「エルビス・オン・ステージ」「エルビス・オン・ツアー」で描かれたようにラスベガスのステージやツアーで忙しく、妻子は顧みられない。
プリシラはエルヴィスとの結婚生活に疲れ、メンフィスを後にするのである。
結婚・出産後のプリシラの幻滅や諦めなどの心情の掘り下げが足りないので、あっさり離婚してしまった感じが否めない。
ラストでドリー・パートンの I will always love you が流れる。離婚した1973年のヒット曲かと思ったら1974年だった。プリシラの心情を表したかったのだろうが、上述したように掘り下げが浅いので、あまり心に響かない。
しかし、あのプリシラの手でブランコに揺られていたリサ・マリーが、その後9歳で父を失くし、ドラッグに溺れ、4度の結婚、離婚を繰り返して(2度目がマイケル・ジャクソン、3度目がニコラス・ケイジ)54歳で亡くなった事を知れば「アイアンクロー」のエリック家ではないが、父母の愛に恵まれなかったと思えて不憫である。
(本作では、プリシラの話だから、そこは描かれていない)
14歳のプリシラの存在感、その後のエルヴィス風味を堪能するための映画
2024.4.16 字幕 イオンシネマ京都桂川
2023年のアメリカ&イタリア合作の映画
実在の人物エルヴィス・プレスリーとの結婚生活を妻プリシラ目線で描く伝記映画
監督&脚本はソフィア・コッポラ
物語の舞台は、1960年代の西ドイツ・バートナウハイムにて、アメリカ軍将校(アリ・コーエン)の娘プリシラ(ケイト・スピーニー)の日常が描かれてはじまる
父の赴任によって西ドイツに来たプリシラは、周囲と馴染めないまま、一人でイーグルクラブというカフェ&バーで勉強をしていた
ある日のこと、アメリカ兵のテリー・ウェスト(ルーク・ハンプレイ)から、「エルヴィス(ジェイコブ・エロルディ)が主催するパーティーに来ないか?」と誘いを受ける
当時のプリシラはまだ14歳の9年生で、パーティーに行くためには両親の許可がいる
そこでテリーはプリシラの父に直談判し、プリシラを妻キャロル(ディーナ・ジャーヴィス)とともに安全に守ると約束し、許可をもらうことになった
テリーの迎えでパーティーに向かったプリシラは、そこでエルヴィスと出会う
彼は同じ故郷の人と話したかったと言い、若者の間では何が流行っているのかと問いかけた
いくつかのアーティストを挙げたあと、エルヴィスと答えたプリシラ
二人きりで話をしたいというエルヴィスの誘いに乗って、彼女は彼の部屋へと向かった
その後、エルヴィスは決してプリシラには手を出さず、「その時が来るまで」と言い続ける
半ば公認の仲となった頃、エルヴィスは任務を終えてアメリカに帰ることになった
エルヴィスは「向こうに着いたら連絡する」というものの、数ヶ月経っても電話は来ない
新聞記事で彼の活躍を知り、女優たちとの関係を報じる記事を見るたびに心を痛め、両親は「早く忘れるように」とアドバイスをするものの、プリシラの心は頑なに彼を忘れようとはしないのである
物語は、プリシラ目線によるエルヴィスとの関係を描き、出会いから結婚生活、そして別離までを描いていく
エルヴィスの計らいでアメリカのカトリック学校に編入することになったプリシラは、父との約束をなんとか守って卒業し、ようやくエルヴィスと夫婦になる
エルヴィスの周りにはメンフィス・マフィアと呼ばれる人々が大勢いて、昼夜を問わずにパーティーなどが開かれていた
彼はプリシラの外見に意見を言い、髪を黒く染めさせたり、ファッションにもこだわりをぶつけていく
そんな彼をプリシラは懸命に支え、多忙の中にある休息を提供していく
どこまでが史実かはわからないものの、存命のプリシラ本人が映画に関わっているので、「彼女目線の本当の話」という感じになっている
エルヴィスファンが観たらどう思うのかはわからないが、知らない一面を見れたと思う人もいるし、イメージが崩れるから嫌だという人もいるだろう
伝記映画に残された家族が関わるパターンは多くあれど、本作もその修正がかかるパターンの映画になっていて、色々と疑問に思うところは多い
それでも、プリシラ役を演じたケイリー・スピーニーの存在感が凄まじく、14歳に見えるし、エルヴィス・メイクにておかしくなっていくところもとてもリアルに思えた
娘を出産した直後に離婚を切り出しているのだが、精神的に耐えられなくなったことと、自分の人生を歩む上で、エルヴィスとの関係を解消した方が良いと感じたのは、その後の活躍を見れば心に従ったと言えるのではないだろうか
いずれにせよ、プリシラの伝記映画としてはその後の活躍には一切ふれないし、エルヴィスの死の際にどのような状況だったかなどは描かれない
あくまでも、エルヴィスとプレスリーの恋愛&結婚生活だけを切り取っているので、伝記系ラブロマンスのようなテイストになっている
なので、映画からプリシラがどのような人物だったのかを読み取っても、それはわずかなかけらにしか過ぎないだろう
それゆえに、個人的には「せめてその後に関しては字幕で説明しようよ」と感じたし、単に過去の恋愛と結婚の美化で終わってしまっているのは残念だなあと思った
プリシラ
役のゲイリー・スピーニーは凄いですね。14歳の頃は幼い少女に見えるし、子供ができてからはお母さんに見えるし。本当に一人の人が演じているのか不思議なくらいでした。内容は、事実に基づいて書かれてはいるのだけど、変化や盛り上がりが無い感じでした。
ベッドサイドの薬
Priscilla
門の外から家の中まで囲まれ、自室のベッドだけが、2人が唯一孤独になれる空間だった。
その中で、エルヴィスは脆い部分をプリシラに見せている。今では光と影は、周知の事実となったが。
口論を挟みながらも、写真をいつまでも撮影し合い、また幻覚剤を飲んでお互いに効果を確かめるシーンでは、不道徳でも運命を共にするように、まるで離れていたときでもずっと近くに居たようで、涙腺が刺激された。離婚と自立に愛情を感じることは矛盾しているかもしれないが、エルヴィスがプリシラを(おそらくは自身以上の)アイコンとして、そして自分が帰るはずの居場所として、大切に思っていたことは伝わる。
First Loveの素晴らしさ
いつもの映画館①で
というか②は三月いっぱいで閉館
こっちでこまごまと番組が組まれるようだ
何年か前にエルヴィスを観てなかなかよかった
今回はそのスピンオフ的な企画だなと
ん これで終わりなのか
当然エルヴィスの死が描かれて その後の彼女のゴタゴタ
娘のこととか マイケルジャクソンと結婚したんじゃなかったか
ドロドロドロドロを予想していたので肩透かし
なるほど チラシに書いてあった宣伝文句
First Loveの素晴らしさ これに尽きるな
彼女はまだ生きているんだっけか
とすると 何年か前のエルヴィスを観て
不満だったのかもしれない アタシがあまり出てないじゃないと
パーカー大佐ばかりじゃないと
こっちの目線で描いてよと
せっかくならあのマリーアントワネットの彼女が撮ってちょうだい
みたいな空想をしてしまった
だったらドロドロドロドロは見せられないわなぁ
典型的なDV男の場面とかクスリの描写はあるものの抑え目で
場面の繋がりに自然じゃないところも何か所か
まぁいいんじゃないでしょうか
この監督のタッチは好きなので
プリシラはカリメロの彼女だよな
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