プリシラのレビュー・感想・評価
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ソフィア・コッポラにしか描き得なかった世界
これまで歴史の影に隠れがちだったプリシラの目から世界を見つめた本作は、ストーリー展開を楽しむよりも、彼女が身を浸す静謐に作り込まれた世界(エルヴィスの大邸宅)やそこで移ろいゆく心象模様を味わうことに醍醐味がある。序盤、おとぎばなしの扉を開くようにエルヴィス・プレスリーと出会い、恋に落ちる二人。当時のプリシラは14歳の少女でその後どんどん歳を重ねていくわけだが、一方のエルヴィスはもっと年上でありながら、実生活では傷ついて怯える少年のような繊細さや脆さをあらわにすることも少なくない。彼らの精神状態のベクトルが、変わらぬ愛を持ちつつ、やがてどうしようもなく解離していく様は、哀しくも興味深い限りだ。かくも淡い光に満ちた特殊な世界、おぼろげな日々に終わりが来ることは、歴史を紐解くまでもなく、過去のソフィア・コッポラ作品の主人公らを見れば明らか。そこに連なるプリシラの瞳、胸に抱いた決意を噛みしめたい。
少女目線で描くスーパースターの謎めいた肖像
第二次大戦当時の旧・西ドイツのアメリカ軍基地で徴兵制度により勤務していたエルヴィス・プレスリーが、母親の再婚相手が米軍将校だったために同じ米軍基地で暮らしていた当時まだ14歳だった少女、プリシラを見染める。基地でのエルヴィスはやはり特別扱いで、見たこともない世界に足を踏み入れたプリシラにとってめまいがするような日々が始まる。
監督のソフィア・コッポラはやがて2人がメンフィスにあるエルヴィスの豪邸で暮らし始め、結婚とその後までのプロセスを徹底してプリシラ目線で描いていく。ヘアメイクまで指示する割りに、不思議と禁欲的なエルヴィスの謎めいた肖像をプリシラ目線で切り取ることで、実体が掴みづらいスーパースターの空気感、みたいなものを上手に掬い取っていく。エルヴィスの顔のアップがなかなか出てこないのも演出の狙いだろう。
同時にコッポラは、プリシラを主役に据えることで凡庸な実録偉人伝に傾くことなく、ヒロイン映画としての魅力と、60'sカルチャー満載のファッションムービーとしての楽しさを入れている。時間を大胆に裁断してシンプルな物語に仕立て上げる勇気と才能は彼女ならではのものだ。
ナスターシャ・キンスキーが振り向くシーンと重なる
世界を虜にしたエルビスのパフォーマンスシーンは驚くほど少ない。あくまでもその人物像はプリシラから見たものなので、2人でいる時にしか見せない姿や心情であり、我々がこれまで見てきた映画やテレビ、ドキュメンタリーでは目にしたことのない、傷つきやすく弱いエルビスがそこにいます。
「Saltburn」「キスから始まるものがたり」のジェイコブ・エロルディが演じ、「エルヴィスで」(2022)でオースティン・バトラーが演じたエルビスとは違った魅力を放っています。現在のプリシラ(78歳)と個人的に対話を重ね、彼女の視点に寄り添うと決めたソフィア・コッポラ監督にしか描けない、プリシラとエルビス2人だけの世界をまるで覗き見ているような感覚に陥ります。
そして、その14歳から20代後半の大人の女性へと変化を遂げるプリシラの感情と姿を、「パシフィック・リム アップライジング」のケイリー・スピーニーが繊細に演じ分けて体現。第80回ベネチア国際映画祭で最優秀女優賞受賞も納得の演技で観る者を魅了します。
冒頭、西ドイツの米軍基地内のダイナーのカウンターで勉強している、ポニーテールのプリシラに後ろからカメラがゆっくりと近づいていきます。声をかけられて振り向いた時の表情にはまだあどけなさが残っていますが、そのシーンは「パリ、テキサス」(1984)のナスターシャ・キンスキーが振り向くシーンと重なって見えるほど美しい。
Flipping the Face of History
Last year's Elvis was a bit of a headache at parts with its comic book superhero presentation of the legend and this film is a bit more refreshingly close to Earth. On the other hand Coppola's version of Elvis based on the memoirs of title character might not make you like the man very much. Regardless it's still a well-done story on the life of a woman in a challenging marriage with a rock star.
ケイリー・スピーニーがよかった
14歳の少女が大スターに見初められて舞い上がらないはずがない。
退屈な日常から物珍しい世界に連れ出してくれた大スターとの恋にまわりが見えなくなるのもわかるし、ご両親の不安も最も。
自分への拘束は厳しいのに留守の間彼が何をしているのかわからないし週刊紙の情報に不安にもなる。
不安と嫉妬に揺れる若い彼女の苦悩が伝わってくる。
14歳を演じたケイリー・スピーニーの初々しさとそこからどんどん大人びていく彼女がとてもステキだった。
でも出会ってから恋に落ちるまでが急展開過ぎてついていけず、その辺の心情はあまり描かれていない気がした。
プレスリー世代なら出会ったとき、一緒に住み始めたとき、彼がどれほど有名だったかがわかり、もっと作品を楽しめたのかな?という気はする。
その後の彼女がどう過ごしたのかは知らないが濃い数年間を過ごした日々は幸せだったと思いたい。
宗教保守としてのエルヴィスによる美少女プリシラ育成ゲーム。結果はバッド・エンド?
アメリカにも、こんな「偽ロリ、隠れ巨乳」のアニメキャラみたいな美少女(ただし26歳)が存在したんだなあ……というのが最大の衝撃事か(笑)。
ケイリー・スピーニー。しかと覚えました!
正直なところ、エルヴィス・プレスリーにもソフィア・コッポラにも個人的にあまり関心はなかったのだが、最近『ゴスペルシンガー』というあまりにも衝撃的な小説を読んだせいで、つい『プリシラ』のほうも観てみたくなった。
『ゴスペルシンガー』は1968年にハリー・クルーズによって書かれた南部犯罪小説で、美しい容姿と天使の歌声をもつカリスマ歌手「ゴスペルシンガー」が、出身地である「どん詰まりの街」ジョージア州エニグマに帰還するところから話は始まる。
カリスマの帰還と熱狂の渦は、やがて周囲の人々を狂わせ、街そのものを狂わせてゆく。
犯罪者と狂人とフリークスが跋扈し、殺意と狂気と混沌が支配する、どこまでも危険で、信じがたいほどに魂を揺さぶる南部小説の傑作だ。
実は、この『ゴスペルシンガー』の映画化を、自らの主演で熱望したスターがいた。
他ならぬ、エルヴィス・プレスリーである。
(結局は映画にも登場するトム・パーカー大佐に反対されて、実現しないのだが。)
エルヴィス自身、歌手としてのルーツはゴスペルにある。
両親は極貧だが熱心なプロテスタントのペンテコステ派の信徒で、幼いころからエルヴィスは黒人のゴスペルに親しんで育ち、リバイバル(信仰復興集会)に足しげく通っていた。
彼がグラミー賞を獲ったのも、ゴスペルによってである。
エルヴィスは、「南部の片田舎の貧困層から成り上がった白人歌手」&「キャデラックに乗って街に帰還するカリスマ」&「宗教的帰依が生活の根幹にあるキリスト者」であるゴスペルシンガーの姿に、まさに「自分の分身」を観たのだ。
彼が『ゴスペルシンガー』を読んで、自身の主演映画に切望したのが70年。
プリシラとの結婚が1967年。リサ・マリー誕生が68年。ライブの再開が69年。離婚が73年。
本作『プリシラ』が描いている時期は、まさにエルヴィスが『ゴスペルシンガー』と「ニアミス」した時期とかぶっている。
実際、映画のなかには、エルヴィスが出演作の脚本をぶん投げて「どいつもこいつもみんなクズ脚本ばっかりだ」と怒り狂うシーンが出て来る。
彼は演技派の本格俳優を志望しながら、常にお気楽歌謡映画の企画ばかりをあてがわれることに心底疲弊していた。
また、彼がスピリチュアル本の熱狂的な愛読者だったことも、映画内では(半ば否定的に)描かれている。そして、それを「大佐」の命令ですべて「焚書」したことも。
きっと彼はああやって、ベッドで『ゴスペルシンガー』を読んだのだろう。ショー・ビジネスの世界で圧し潰されそうになって、自我の崩壊と家族の危機にある自らの境遇と照らし合わせながら。そうして彼は作品におおいに共感し、映画化を切望した。
だが他の多くの事例と同様に、彼の夢は「大佐」の反対にあって実現することなく終わる。
ちょうど、エルヴィスを強力に支配しようとする「大佐」の姿は、『ゴスペルシンガー』に出て来る懺悔師兼マネージャーともろに被る。
『プリシラ』のなかでは、エルヴィスの意外なまでに禁欲的で宗教的な一面も描かれている。といっても、彼は道徳的な聖人君子からは程遠い浮気男だし、女性を威圧することで抑圧する父権的な存在として「否定的」に描かれているのだが、少なくとも結婚観やセックス観に関しては、ずいぶんと旧弊な感じがする。
ここで、彼の根幹に常にあったのが、プロテスタントとしての篤い信仰と南部独特の宗教的熱狂だということは、強調しても強調しすぎることはない。
エルヴィスは「大スターのくせに宗教にかぶれてのめり込んでいた」人間というわけではない。
彼は「ペンテコステ派の熱烈な宗教者が、自らの価値観の延長上で大スターに成り上がった」存在なのだ。
ペンテコステ派とはプロテスタント系福音派のうち、「聖霊による洗礼」と神の存在を実感するような宗教的体験(聖霊体験)の追求を信念として掲げる教派であり、神との結びつきを育むために、歌やダンスなどで激しく感情を高ぶらせる「法悦(エクスタシー)」を重視する。エルヴィスが生みだしてきた熱狂的なライブの数々は、まさにこの延長上にあって、彼のなかで音楽活動と宗教とは切っても切り離せないものだった。
この感覚は『ゴスペルシンガー』を読んでいても、ひしひしと伝わって来る。
黒人音楽とペンテコステ派の宗教的法悦が、貧困層出身の白人であるエルヴィスという触媒を通じて集約され「世界言語化」していく流れこそが、50年代アメリカ音楽シーンの裏潮流といってもよいだろう。
そして、この保守的なプロテスタント(福音派&ペンテコステ派)がライブ的な熱狂をベースに絶大なる支持を打ち出しているのが、他ならぬ「ドナルド・トランプ」だということ。
ハリウッドはきたる大統領選に向けて、トランピスト達と敵対しているということ。
本作が女性監督による女性映画であり、フェミニズム映画であるということ。
このあたりさえ押さえて観れば、だいたいこの映画の本質的な部分はほの見えて来るはずだ。
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『プリシラ』はある意味、奇妙な映画である。
表面上はシンデレラ・ストーリーとその後の結婚生活の破綻を描いた女性の一代記であり、内実としては女性の自立と解放を謳ったフェミニズム映画なのだが、どちらの観点に立って観たとしても、なお勘所のイマイチよくわからない映画だという印象は否めない。
この感覚を引き起こす最大の原因は、プリシラがエルヴィスに見初められて、プリシラもエルヴィスに一目ぼれして、二人が愛し合い、同棲し、結婚するに至るが、やがて摩擦が起き、不和が生まれ、離婚にいたるという一連の過程において、「ぱっとわかるような感情のロジック」がほとんど呈示されないからだと僕は考える。
もちろん、本当の恋なんてそういうものなのかもしれない。
ひと目見ただけで「ビビッと」来ることだってあるだろう。
だが通例、この手の映画だともう少しは「好きになる理由」「嫌いになる理由」がドラマティックに描かれるものではないだろうか。
たとえば、あれだけパリピ剥き出しのさみしんぼうで、いつも取り巻きを集めて空騒ぎしているエルヴィスが、なぜ包容力やエネルギーとは対極にあるようなプリシラを見初めたのか。他のグルーピーが皆いかにもアメリカのグラマラスな姉ちゃんたちなのに、なぜ14歳の少女に恋をしたのか。敢えて無垢な少女を恋愛対象に選んでおきながら、ゴテゴテと大人のケバい格好をさせたがるのは何故なのか。
プリシラのほうも、基本的には恋に恋する少女として描かれていて、総じて主体性のない恋愛に終始している。彼女がエルヴィスの本質や闇の部分と真正面から向き合っているとはいいがたく、その証拠にこの映画にはエルヴィスのアップのショットや、本音と本音でぶつかり合うようなシーンが終盤までほとんど出てこない。彼女はエルヴィスに恋焦がれているように見えて、その実、彼のことをちゃんとは見ていないのだ。
お互いが、相手に「美少女/大スター」という「アイコン」だけを見ていて、その中身についてはあまり気が行っていない感じというか、お互いに自分の理想を押し付け合っているだけの非常に幼い関係性というか。
プリシラを「自分好みの女」に仕立てようと、髪色からメイク、ファッションまで口出しするエルヴィス。
ほとんどいいなりに、カジノやらパーティに付き合って、挙句の果てにLSDにまで手を出すプリシラ。
プリシラのことは基本的に大切にしながらも、留守がちで外でも他の女とヤリまくり、たまに癇癪を爆発させて手がつけられなくなるエルヴィス。
ほとんど相手のことは知ろうともしないのに、浮気の情報や証拠に関してだけは逐一チェックしていて、嫉妬の炎をいっちょまえに燃やすプリシラ。
なんか、ずぅぅぅっと、二人とも何考えてるのかよくわからないし、何かを変える努力もしないでただ単に不満げに過ごしていて、十分いろいろと恵まれているのに退屈そうで無気力そう。
正直言って、最後まで感情移入のとても難しいカップルだった。
気になる部分は他にもたくさんあって、たとえばプレスリー一家とプリシラの関係性があまりに表面的な部分でしか扱われない点、プリシラとエルヴィスの結婚において主導的な役割を果たしたトム・パーカー大佐(話題作りとして策謀した)がほとんど出て来ない点、愛する娘の運命をエルヴィスに託すという重要な決断を下している割に本気度がやけに薄く見えるプリシラの両親の「放置ぶり」、ただ取り巻いているだけで風景か置物のようにしか扱われないメンフィス・マフィアの面々、プレゼントとして出てきただけでいつの間にか姿を決してしまうワンちゃん、一人娘の割に可愛がるシーンがあまり出て来ないリサ・マリー・プレスリーなどなど。
要するにこの映画では、プリシラとエルヴィスに限らず、大半の登場人物が「ただ出ているだけ」で「たいした葛藤の描写もなく」「熱が薄い」傾向が強い。
これは結局のところ、本作が「プリシラの目を介して見たエルヴィス周辺の物語」であることに起因するのだろう。精神的に幼かったプリシラは実質的にエルヴィスのことも、エルヴィスの取り巻きのことも、家族のことも「ちゃんと見てはいなかった」。そのことが、本作の登場人物全体が奥行きや情動を欠き、薄っぺらに見えることにつながっているのかもしれない。
もともと『私のエルヴィス(Elvis and Me)』という原題の自叙伝を映画化するに際して、敢えて『プリシラ』と改題しているだけあって、この映画は「プリシラ視点で描く」ということについては徹底されている。
そこに、ソフィア・コッポラのフェミニズム的視点が加わり、イプセンの『人形の家』のノラのように、自立心を涵養して支配的な家長の束縛から脱し、女性として一人生きる道を見出すといった筋書が強調されている。あるいはバーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』およびその映画化である『マイ・フェア・レディ』のイライザや、『源氏物語』の紫の上のように、「少女を自分好みの女に育てあげようとする大人の男のグルーミング」の気持ち悪さが強調されている。
結果として、プリシラにとって都合の悪い要素や、制作陣が描きたいプロットと「反する」要素はオミットされる傾向にあり、プリシラが最終的に「浮気」をしたせいで結婚生活が破綻した事実や、離婚してからも二人が友人として生涯交流を保っていた事実などは概ねスルーされている。
結局のところ、映画の印象としては「ドラマが薄い」。
これに尽きる。
保守的なプロテスタント界隈に対する反トランプ的な非共感。
南部における女性の扱いに対しての進歩的立場からの反感。
ピグマリオン効果に対する女性の立場からの生理的嫌悪感。
このへんの政治的・思想的な立ち位置はよく伝わってきた。
ただ肝心の恋愛劇としては、感覚が鈍くて情動の薄い人達が、なんとなく成り行きでくっついたり離れたりしているようにしか思えない、退屈な展開に終始していたように思う。
最後に音楽に関していうと、敢えてエルヴィスの歌も歌唱シーンもほぼ使わないという選択は果たして本当に良かったのかどうか(なぜここまで?)。
流れていた50~60年代の音楽については詳しくないのでよくわからないが、冒頭でドヴォルザークの『新世界より』第二楽章のジャズ風編曲、中盤のライブシーンのOPでリヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』のロック風編曲が流れたのにはちょっと驚いた。あと、ラストで流れてた「オールウェイズ・ラブ・ユー」はなぜホイットニーのカバー?と思ったが、あの曲ってもともと昔のカントリーのカバーでこっちが元曲なんだってね。で、エルヴィスもカバーを望んだけど、大佐の介入があって先方に断られた、と(笑)。
「エルヴィスが望んだけど手に入らなかったもの」つながりで言うと、立ち去っていくプリシラに被せるには最高の選曲だったのかもしれません。
恋する乙女の目が覚めるまで
昨年公開の映画「エルヴィス」でも印象的だったプレスリーの妻・プリシラが主人公の本作。プレスリーの音楽的要素や人物の掘り下げはほとんどなく、スーパースターに憧れる少女のシンデレラストーリーとその先を描く、かなり淡々とした作品でした。
物語としての面白みはあまりなく、才能に溢れるスターでビジュアル最高だけど独裁的で思いやりのないDV男に振り回される初心な少女が、プレスリー第一の恋する乙女から次第に自立した女性に成長していく様が、当時のトレンドを再現したオシャレな衣装やメイクと共に描かれているのが見どころだと思います。
ビジュアル的にはプリシラがとても可愛くて満足度高いのですが、映画としてはイマイチかなぁ。
プリシラ役のケイリー・スピーニー、小柄だなぁと思ったら155cmとのことで、日本人の平均身長とさほど変わらずでびっくりしました…。
エルヴィスBside?
昭和ティーンエイジャー女子なら、キュンキュンさせられる夢のような前半の展開。後半はそんな夢が覚めたよう。少女の成長=離婚ということなのか。エルヴィスではもっとデカかった娘を引き連れて出ていったような…でも、オースティン・バトラーよりプレスリーよりだったような気がする。ちなみに、印象は「オッシャレー」に尽きるので、該当なし。
プリシラ
Eのジェントルマンっぷりに憧憬し、寄り添おうとするプリシラの初々しさが印象的でした。スターの彼女ゆえか、それとも時代なのか、アルバイトを阻まれそしてペットをあてがわれ、彼女の自立への萌芽を摘まれて徐々に精神的に軟禁生活に陥っていきます。
ダイアナさん映画にも感じましたが、互いに寄り添うのではなく依存せざる得なくなる所が痛々しく見ることができました。(Eの薬の描き方しかり)
プリシラを軸にEとの関係(だけ)の軋轢を脇目も振らず一直線に描いていたのは好印象でした。
ただおおよそ丁寧に描かれてたぶん、ラストにかけてプリシラが唐突に別れを切り出すところが食傷気味に感じました。
バイオグラフィー通りなのでしょうが、作品として補完するものが欲しかったです。
やはり題材が実在する人物なだけあって、偏った作為的な解釈で描くことを避けたのでしょうか。自分はそこを作家の姿勢と捉えましたが、ならもう少し違うアプローチがあったんじゃないかと思いました。
ミュージシャンの恋人
映画としてはかなり、尻切れトンボ感が凄かったけど
(え?終わり?みたいな)
私は楽しめました!
出会いと悩みのリアルな感じが伝わってきて
原作読みたいと思ったけど絶版で残念😢
女の子可愛い🩷
ビーハイヴなヘアスタイルなど
リアルで見た事がなかったので
ファッション面でかなり刺激を受けました。
個人的には
ミュージシャンとかと長年恋人関係になった事がある方には
なかなかビシビシくるものがあるのではと思いました😂
芸能人離婚あるある「性格の不一致(価値観の違い)」を描いた映画
最初は誰でもラブラブなんだよね。
でもスーパースターと普通の女の子が結婚したら普通こうなよね。
ていう内容だから半ば退屈になりました。
アンジャッシュの渡部さんのことを考えれば、離婚しない佐々木希さんの忍耐力はすごいと思わされた映画。
きれいに言えば
スーパースターの苦悩と普通の少女の嫉妬と孤独を描いた映画。
何だ、コレ?
ここで終わり? 薬物依存が進みドーナツの食い過ぎでぶくぶく太り、売れなくなって死んだエルヴィスが皆、観たいんじゃないのか? アメリカではまだ忖度の対象なの? 関係者絡みで仕方ないのか?
ケイリースピーニーキュートだったし、ソフィアコッポラの世界も気にならず来ていたのに・・とにかく残念。
淡い初恋を綺麗に描いている
プリシラの初恋の相手が世界的大スターのエルヴィス・プレスリーだったという話。
勿論実話なわけで、78歳になるプリシラさんは今も健在している。作品において強い拘りとも言えるのが、60年代から70年代に流行っていた当時のファッションを知ることが出来ると同時にエルヴィス・プレスリーをプリシラから見てどんな人だったのかが分かる内容になっている。
14歳のプリシラが常連として通うダイナーで当時兵役の為に西ドイツに滞在していたエルヴィス・プレスリーのパーティーに参加すると、大人びた封墓かは気に入られパーティーがある度に呼ばれるようになると二人の関係は親密になっていく。
14歳の淡いピンク色の初恋を監督のソフィア・コッポラが良い感じに演出している。
本編では、プリシラのエルヴィスに対する恋心を決して忘れることなく結婚に至るのだが、プリシラは結婚を機に変わってしまったようにも見えた。
というのも、結婚してすぐ娘のリサが産まれるのだが、リサの誕生がキッカケで独立せねばとなったのかもしれない。プリシラのエルヴィスに対する苛立ちも心底煮え滾っていたのだろうが、やはり薬に頼ってでもというのは見ていて宜しくない。
小心者で気の短いプレスリーが大スターとして成功するには常に薬がないと駄目なぐらい、本当の姿はスターとして生まれるべき逸材だったというより持ち前の社交性や才能でしかなかったと思われる。
ファーストシーンのプリシラの表情!
あれが凄くよかった。あのテイクは監督の「どうだ!」と言わんばかりのシーンだったね。
だから期待して観てたんだけど。
プリシラがエルヴィスの所へ行くまでは良かったけど、そのあとはずっとモヤモヤする表情のプリシラのオンパレード。まあ、表と裏を描きたかったんだろうけどね。変にみんなではしゃぐシーンとかが長かったなあ。
逆に後半のシーンは切り貼りのようにフェードアウトを使いすぎで一本の流れになってなかったなあ。ここら辺はこの監督のよくない所だよね。なんてったって英語を話すマリーアントワネットを描くくらいだから。
ラストシーンも何が締まりがないというかね。観ていくうちにどんどん星が減ってきた感じかなあ。ポイントで鑑賞したからタダだったけど。
でもアングルとかは女性らしい細やかさあったし、キャスティングも良かったよ。主役の2人が美男美女なのも上手いよね。
プリシラを初めて知った
14歳の少女プリシラは既にスーパースターだったエルビス・プレスリーと西ドイツで出会い、恋してしまった。しばらくして、彼女は高校在学中に、両親の反対を押し切って、メンフィスの大邸宅でエルビスと一緒に暮らし、これまで経験したことのない華やかな生活を送ることになった。プリシラにとって、彼のそばで一緒に生活し、彼の希望通りの女性になることを目指し、8年の交際を経て結婚、娘の出産、そして離婚、まで、彼女の回想録を基にした作品。
プリシラ役のケイリー・スピーニーがちっちゃくて可愛くて、エルビスに対する気持ちの変化を素晴らしく演じていた。
エルビスを演じたジェイコブ・エロルディが外見がよく似てて、演技も良かった。出来たら何曲か歌も聴きたかった。
でも、作品を観るまでプリシラを知らなかったのだが、スーパースターを好きになって結婚出来ただけでも幸せだったように思った。それと、やけに身長差が有るな、と2人の俳優の身長を調べたら、196cmと155cmと、40cm以上有るみたい。実際のエルビスとプリシラは182cmと162cmの20cmらしいので、誇張し過ぎのようにも感じた。
素敵な腰に御加護を
2024年映画鑑賞29作品目
4月27日(土)フォーラム仙台
会員料金1500円
監督と脚本は『マリー・アントワネット』のソフィア・コッポラ
『ゴッドファザー』シリーズ『地獄の黙示録』で有名なフランシス・コッポラの娘
粗筋
時代は60年代
スーパースターのエルビス・プレスリーが兵役で西ドイツに勤務していた
ヒロインのプリシアの父は軍人で彼女もまた父の転属でテキサスから西ドイツに移住していた
エルビスの知人の軍人の斡旋でプリシアはエルビスのホームパーティーに招かれた
一目惚れしたエルビスはプリシアの両親に挨拶に訪れ交際を許すよう求めた
なんやかんやで2人は交際が始まりやがて結婚し女児が誕生した
エルビスはプリシアを束縛し時には暴力を振るうようになった
プリシアは離婚を決意し1人で車を運転し屋敷をあとにした
ドキュメンタリーとか伝記映画を好む傾向が強いビビさんにお勧めしたい
2人の出会いはプリシアが15歳の頃
9年生だから中学3年生
まるで三船美香
『ラマン 愛人』を思い出した
でもそんなにエロくはない
そういえば鳩山邦夫代議士の妻はリカちゃん人形のモデルになったことでも有名な元子役タレントのエミリーさんだがプロポーズされたのは14歳で相手は大学生だった
まあ別にいいけど
ヤフコメ民みたいな頭の硬い人じゃないんで
プリシア役のケイリー・スピーニーが白人女性のわりにあまりにも小柄なため幼く見えるが25歳
エルビス役のジェイコブ・エロルディが特殊メイクを施したのか本人とそっくり
赤ちゃんが笑顔でバイバイするのが微笑ましい
時折古めかしい赤茶けた映像を挿入される
当時の本物の映像なのかわざとそんな感じに加工したのかよくわからない
ラストは自立するプリシア
ちなみに幼い娘はエルビスの元に置いてきた
たしか中学生の頃に初めてVHSで『クレイマー・クレイマー』を観たがその時なんで母親は子供を置いて家出したのかと疑問に思った
子供が可愛くないのか?冷たいなと思ったもんだ
ところがそうじゃなかった
海外ではそれが当たり前であり日本だけが異常だという記事を読んだ気がするがまあそうだろう
国際結婚が増え母親による子供の誘拐が頻発し国際問題になり左翼弁護士らの反対を押し切り日本の法律が最近変わった
本来なら旧態依然な日本の保守層を打倒し国際協調で改革を推し進めるのが左翼の役割なはずが日本の左翼は世界的にも見てもおかしい
日本では子供は母親が育てるものでありそれは男性側のエゴだけではなくそれが女性にまで浸透しているからだろう
子供は母親の所有物であり母子無理心中も日本ならでは
子供を個人として1人の人間として尊重されていないからだ
左翼弁護士の一部は子供は0.5人だから死刑は回避と主張するろくでなしもいるくらいだから
それもこれも外圧によって日本人の考え方もやがて変わるはずだ
カリスマに翻弄される少女の成長
米国版の「葵の上」とでも言いましょうか、時代のスターに見そめられ、その男の好み通りに育てられ、翻弄される少女の話でした。
何よりもケイリー・スピーニーさんの美しさに驚かされます。清楚ながら芯の強さを感じさせる少女時代。成長し、同居してだんだんとケバくなり、プレスリーとも衝突し始める青年期。そして子を産み、母として、大人の女として自立するラストシーン。
様々な時期の様々な美しさを見事に表現されていました。
描写が淡々として、テンポも速いため、作品の流れについていけなくなるタイミングもありますが、見応えのある作品でした。「エルヴィス」を見てないので、そちらにも興味を持ちました。
妻=ペット!?
2022年公開の『エルヴィス』とは全く違った切り口で、
プレスリーの妻プリシラとプレスリーを描いていて、非常に興味深かったです。
ケイリー・スピーニー演じるプリシラの14歳時のかわいさがハンパない!
冒頭はその初々しさが見惚れるくらいにかわいいので、
プレスリーに気に入られ、また、プレスリーを好きになっていく様は、
なんかおもしろくなかったです(笑)
というのも、プレスリーはやっぱりスーパースターですし、
女性関係も派手だったと思われ、
プレスリーの家に住むようになったプリシラは
もはやペット状態のように、家から出ることができなくなるんですよね。
それって幸せなのかな!?というくらいキツい。
でも、プリシラはプレスリーが好きだから、きっと我慢というか自分の気持ちと折り合いをつけながら
ずっと一緒にいたんだろうと思うんです。
ただ、こういう状態になることを、プリシラのご両親は最初からわかっていたというか予見していたのでしょうね。
「あんな男」的な発言を父親がするのですが、プレスリーの本質を見抜いていたものと愚考します。
プレスリー好みの服装や髪型、メイクをすると、私としては好みではなく、
やはり冒頭のプリシラがダントツにかわいいわけです。
このあたりのプレスリーのセンスなのか時代がそうさせているのか、好きになれませんでしたね。
最後の別れのシーンは、
曲の歌詞もマッチしていて、プリシラはプレスリーのことを想っているがゆえに去ったのだということがわかります。
なんて切ないのでしょうね。
やるせない気持ちになりましたが、映画の中のプリシラには幸せになってほしいなと思いました。
今後のケイリー・スピーニーに期待しています。
年齢差と身長差
ストーリー的には想像通り。
エルビスのスター性や彼自身にはあまり触れておらず。
終わり方が唐突で物足りないくらいなのはこの監督らしさ…?
プリシラが可憐で可愛い。
14歳の少女から大人になるまでの姿を見事に演じていたと思う。
二人の身長差もすごい、小柄な方なんですね。
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