プリシラのレビュー・感想・評価
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エルヴィス伝記映画を補完する物語、ケイリーのかわいさで加点あり
ケイリー・スピーニーの出演作を初めて見たのだが、冒頭のシーンで彼女が振り返った瞬間、あまりのかわいらしさに目が釘付けになった。物語前半の、栗色ヘアに薄づきメイクの姿がとにかく美少女。声も愛らしい。そりゃエルヴィスも惚れるでしょう。
そんな、学園もののヒロイン然として現れたプリシラが、エルヴィスの間近でその強烈な光と影に晒され、彼の好む色に染められて、だんだんと変わってゆく。
プリシラ視点の話なので、エルヴィスの半生についての詳細な描写はない。そこを説明しすぎるとエルヴィスが主人公になってしまうので、本作の主旨を考えると妥当な扱いだろう。
この手法の副作用として、エルヴィスがあのように精神的に荒れていった理由もどこかすりガラスの向こうの風景のようになっている。そのため、彼が恋人をお人形のように都合よく扱う姿が、スーパースターになった男の単純な勝手さや気まぐれのようにも見える。もちろんいかなる事情があれ、女性の人権軽視やDVは駄目なのだが、男性側の背景も見えてこそ、物語としての厚みが出る。
エルヴィス自身が置かれた状況は、既に皆が知っているという前提なのかもしれない。私は、バズ・ラーマン監督の「エルヴィス」を思い出していた。
「エルヴィス」では、プリシラは物語の中盤から登場する。脇役ということもあり、彼女の感じる寂しさや、自由を制限されることへの葛藤はほとんど描かれない。終盤、彼女がエルヴィスの元を離れる理由は、取り巻きが与えたドラッグによって、ステージの外での彼が亡霊のようになってしまったからだ。浮気の疑惑などは気にしていない。夫としてのエルヴィスはもういないと思ったから、彼女は子供を連れて出ていった。「私はもう捧げ尽くした。何も残っていないの」と言い残して。
この「捧げ尽くした」と思うまでのプリシラの内面について、「エルヴィス」では仔細な描写はない。そこを深掘り(と言うには物足りないが)したのが本作だとも言えそうだ。「エルヴィス」のプリシラはより肝の座った女性という印象だが、本作はプリシラ本人の自伝が原案なので、現実のプリシラの心情により近いのはこちらの方なのかもしれない。
しかし、最後にプリシラがエルヴィスの元を出ていくくだりはやけにあっさりしていて、えっこれで終わり?という感じだった。ずっと彼女がエルヴィスの都合に合わせて生き、服の好みも彼に否定され、グレースランドの事務員との雑談さえ制限されるといった様子で、息苦しい生活は十二分に描写されていたのだから、出ていく時にそのフラストレーションを存分にぶちまける方が映画的なクライマックスが作れてよかったのではないか。
男の意のままに生きてきた女性が自分の意思で行動する姿で、フェミニズム的な何かを表現したかったのかもしれないが、いささかパンチ不足だった。
「エルヴィス」のような作品と合わせて観て、プリシラのパートを補完するのにちょうどいい、そんな程度の見応えだ。
この時代を舞台とする作品に共通する見どころは、やはりファッションやインテリア、自動車のデザインだ。プリシラの衣装のバリエーション、60年代のかっこいいクルマを見ているだけで楽しい気分になる。ジェイコブ・エロルディのエルヴィスもなかなかさまになっていて、ビジュアル面では満足度の高い作品だった。
ソフィア・コッポラにしか描き得なかった世界
これまで歴史の影に隠れがちだったプリシラの目から世界を見つめた本作は、ストーリー展開を楽しむよりも、彼女が身を浸す静謐に作り込まれた世界(エルヴィスの大邸宅)やそこで移ろいゆく心象模様を味わうことに醍醐味がある。序盤、おとぎばなしの扉を開くようにエルヴィス・プレスリーと出会い、恋に落ちる二人。当時のプリシラは14歳の少女でその後どんどん歳を重ねていくわけだが、一方のエルヴィスはもっと年上でありながら、実生活では傷ついて怯える少年のような繊細さや脆さをあらわにすることも少なくない。彼らの精神状態のベクトルが、変わらぬ愛を持ちつつ、やがてどうしようもなく解離していく様は、哀しくも興味深い限りだ。かくも淡い光に満ちた特殊な世界、おぼろげな日々に終わりが来ることは、歴史を紐解くまでもなく、過去のソフィア・コッポラ作品の主人公らを見れば明らか。そこに連なるプリシラの瞳、胸に抱いた決意を噛みしめたい。
少女目線で描くスーパースターの謎めいた肖像
第二次大戦当時の旧・西ドイツのアメリカ軍基地で徴兵制度により勤務していたエルヴィス・プレスリーが、母親の再婚相手が米軍将校だったために同じ米軍基地で暮らしていた当時まだ14歳だった少女、プリシラを見染める。基地でのエルヴィスはやはり特別扱いで、見たこともない世界に足を踏み入れたプリシラにとってめまいがするような日々が始まる。
監督のソフィア・コッポラはやがて2人がメンフィスにあるエルヴィスの豪邸で暮らし始め、結婚とその後までのプロセスを徹底してプリシラ目線で描いていく。ヘアメイクまで指示する割りに、不思議と禁欲的なエルヴィスの謎めいた肖像をプリシラ目線で切り取ることで、実体が掴みづらいスーパースターの空気感、みたいなものを上手に掬い取っていく。エルヴィスの顔のアップがなかなか出てこないのも演出の狙いだろう。
同時にコッポラは、プリシラを主役に据えることで凡庸な実録偉人伝に傾くことなく、ヒロイン映画としての魅力と、60'sカルチャー満載のファッションムービーとしての楽しさを入れている。時間を大胆に裁断してシンプルな物語に仕立て上げる勇気と才能は彼女ならではのものだ。
ナスターシャ・キンスキーが振り向くシーンと重なる
世界を虜にしたエルビスのパフォーマンスシーンは驚くほど少ない。あくまでもその人物像はプリシラから見たものなので、2人でいる時にしか見せない姿や心情であり、我々がこれまで見てきた映画やテレビ、ドキュメンタリーでは目にしたことのない、傷つきやすく弱いエルビスがそこにいます。
「Saltburn」「キスから始まるものがたり」のジェイコブ・エロルディが演じ、「エルヴィスで」(2022)でオースティン・バトラーが演じたエルビスとは違った魅力を放っています。現在のプリシラ(78歳)と個人的に対話を重ね、彼女の視点に寄り添うと決めたソフィア・コッポラ監督にしか描けない、プリシラとエルビス2人だけの世界をまるで覗き見ているような感覚に陥ります。
そして、その14歳から20代後半の大人の女性へと変化を遂げるプリシラの感情と姿を、「パシフィック・リム アップライジング」のケイリー・スピーニーが繊細に演じ分けて体現。第80回ベネチア国際映画祭で最優秀女優賞受賞も納得の演技で観る者を魅了します。
冒頭、西ドイツの米軍基地内のダイナーのカウンターで勉強している、ポニーテールのプリシラに後ろからカメラがゆっくりと近づいていきます。声をかけられて振り向いた時の表情にはまだあどけなさが残っていますが、そのシーンは「パリ、テキサス」(1984)のナスターシャ・キンスキーが振り向くシーンと重なって見えるほど美しい。
Flipping the Face of History
Last year's Elvis was a bit of a headache at parts with its comic book superhero presentation of the legend and this film is a bit more refreshingly close to Earth. On the other hand Coppola's version of Elvis based on the memoirs of title character might not make you like the man very much. Regardless it's still a well-done story on the life of a woman in a challenging marriage with a rock star.
少女だったと いつの日か 思う時が来るのさ
ほんの数年前にエルヴィス・プレスリーの伝記映画があったばかりだが、また。
と言っても今回はエルヴィス視点ではなく、彼の最初の妻“プリシラ・プレスリー”の視点から。
彼女の回顧録『私のエルヴィス』を基にし、彼女から見たエルヴィスの物語であり、ある日突然世界的スーパースターと恋に落ちた少女の物語である。
母親と再婚相手で将校の義父の下で暮らすちょっと内気で平凡な女の子、プリシラ。
ある日軍人に誘われ、行ったパーティーで出会ったのは…
エルヴィス・プレスリー。世界中の女性が恋するスーパースター。
二人は意気投合し、やがて恋に落ち…。
と、さらりと書いたが、よくよく考えればスゲー話。
普通の女の子が人気スターと恋に落ちる。しかも相手はあのエルヴィス・プレスリー!
夢みたいなシンデレラ・ラブストーリー。
“エルヴィスの恋人”となるが、それは波乱の始まりでもあった…。
古今東西、周囲の好奇の目。
女性からは羨望と嫉妬。
プリシラは日に日に、彼への思いが募る。
ピュアであるが、世間知らずな面もある。
エルヴィスから一緒に暮らそうと誘い。
両親は大反対。無理もない。この時、プリシラは14歳、エルヴィスは24歳。娘はまだ10代の女の子だし、一回り歳が離れているし、何より世界的スーパースターと…。
が、プリシラも思った以上に頑固。私はエルヴィスの下に行く。止めたって行く。
両親も折れ、プリシラはエルヴィスの家に行く事になるのだが…。
夢に描いたようなもっと蜜月な暮らしを想像していたのだが…。
彼はスター。歌に映画に超売れっ子。家を空ける事が多い。
その間エルヴィスの家族らと一緒なのだが、結構規則が厳しい。唯一の慰め相手は可愛いワンちゃん。
転校した学校でも好奇の目。家の外には常にマスコミ。
気晴らしにバイトしたいが、エルヴィスはそれを許さない。帰ってきた時、いつも家に居て欲しい。
雑誌や新聞などではエルヴィスの話題。共演女優と噂…。
悶々悶々。居ても立ってもいられなくなり、遂にはエルヴィスの下へ押し掛け…。
内気で平凡だった女の子が大胆行動。
どうやらプリシラは恋で変わる女性のようだ。
ヘアスタイルやファッションもエルヴィス好みに。
支えてあげられるように、いつも見てくれるように、彼に愛されるように。
奮闘するが、当のエルヴィスは…。
プリシラの事は愛しているのだが、自己チューが目立つ。
プリシラより仕事優先。
マーロン・ブランドやジェームズ・ディーンのような真の役者になりたい。
なのに、俺の所に回ってくるのはクソみたいな映画ばかり。うんざりしているのに、プリシラがそれを言うと激怒。他人には言われたくない…?
常に友人らとどんちゃん騒ぎ。
ヤクに手を出したり、怪しいカルト宗教にのめり込んだり…。
普通はそういうのは相談するものだが、エルヴィスが相談や言うこと聞くのは、かの“大佐”のみ。
私の存在って…?
やがて正式に結婚し、娘も産まれ、これで変わると思ったが…。
口論。エルヴィスのDV気質。溝やすれ違い。埋まる事はなく…。
ゴシップや暴露的な話ではなく、スーパースターの妻となった少女の心の揺らぎ。
瑞々しく、幸せの光差し込むも、不信や苦悩…。
少女の内面を描く事に長けるソフィア・コッポラだからこその手腕。
映像美、ファッション/ヘアスタイル、楽曲もこだわり。
でも特筆すべきは、ケイリー・スピーニー。
まだ少女だった盲目さ、少女から女性への変化、複雑な内面を繊細に的確に体現し、ヴェネチア国際映画祭女優賞。
演技力もさることながら、そのキュートさや魅力。『エイリアン:ロムルス』も良かったけど、遥かに圧倒的に!
本作が出世作となり、今引っ張りだこなのも納得。
…と、ここまでは良かった。
ジェイコブ・エロルディも悪くはないが、“あっち”のオースティン・バトラーを見た後だと…。
視点やアプローチが違うと分かっていても、物足りなさも感じてしまう。
興味惹かれる題材ではあるし、ケイリーの熱演やソフィアの洒落たセンスはいいのだが、如何せん中身が伴ってこない。
エピソードは豊富。が、一つ一つが浅く、月日が経つのも早く、ダイジェスト的。
“あっち”のようなショーアップとまでは言わないものの、ビジュアル以外でもっと魅せられるものを期待したが、意外と淡白だったのが残念。
出会いは1959年。正式に結婚したのは1967年。離婚したのは1973年。
夢のようであり、波乱の14年。
この期間、プリシラは何を思ったか。
名曲の一節が頭に流れた。
♪︎少女だったと いつの日か 思う時が来るのさ
やっぱり止められないんだよな
一人のファンとして当時大スターだったエルヴィス・プレスリーと出会い、恋に落ち、結婚しやがて別離に至ったプリシラ・プレスリーの半生を描いた物語です。
自分に娘が居て「エルビスと結婚したい」と言われたら、無駄だと分かっていてもやっぱり反対したくなるだろうな。本作で描かれるエルヴィスの広大な邸宅・グレースランドでの彼女の暮らしは寂しい毎日です。エルヴィスにとって妻は大切な人形であればよく、彼女もそれに応えようと無理を重ねるのです。「な、やっぱりそうなるだろ、言わんこっちゃない」と年寄りは言いたくなるのですが、好きになったらもう仕様がないんだよね。
エルヴィスの側からの半生を描いた『エルヴィス』を観ていると理解が深まります。
籠の中から見る景色
本人公認でプリシラ・プレスリーの「エルヴィスのパートナー」時代を描いた作品。
劇中、プリシラはエルヴィスの所有物のように描かれる。周囲の人間関係は夫の取り巻きだけ、夫婦の外出のタイミングは夫が決め、着るものも一人で過ごす時の場所も夫が指示する…。今でいうとモラハラや経済DVだろうか。
一人の人物の主観的な作品として、演出が見事だった。
衣装について、プリシラはエルヴィスが着せた服を着られている感たっぷりに着て、自分が選んだ服はスマートに着こなしている。実際の写真や映像には着せられ感はないのだが、エルヴィスが選びプリシラの好みでない服を「着る牢獄」のように見せた仕掛けが面白かった。また照明の明暗を使い分けプリシラの内心を表現するのも効果的だった。
初恋の勢いと十代の行動力に任せて大スターのパートナーになった少女の苦悩や孤独が、痛い程に伝わってくる演出だった。
ただ、著名人の夫婦はパワーカップルとしてどちらも成功者であることが望まれるアメリカ文化の中にあり、ファッションアイコンやタレントとしてプロデュースされていた時期もあったプリシラを「籠の鳥」としてだけ描くのは少々無理がある気がした。
さらに、エルヴィス視点で描いた映画ではエルヴィスの不貞を示唆する程度に扱う一方でプリシラの不貞が明確に言及されてきたように、本作でもエルヴィスの不貞は明言されプリシラの不貞は匂わせに留まる。
プリシラの境遇の描き方については、ところどころもめ事の片方の主張だけを聞かされている時のような眉唾感があった。
本編は2人の関係が破綻したところで終わる。解放されたプリシラのその後こそが近年のこのジャンルの肝のような気がするのだが、やはり監督の過去作からして、籠から飛び立った鳥には食指が動かないのだろう。
離婚後のエルヴィスとの連帯や友情、ビジネスパーソンとして「エルヴィス・プレスリー」というブランドを守ろうとした手腕等、気になるところは数多くあったので、そこは残念だった。
プリシラ💕凄く可愛かった
ソフィア・コッポラが描くエルヴィス・プレスリーの元妻プリシラ。1959年、14歳のときにエルヴィスと出会い恋に落ちた。
ドロドロの展開になると思いきや、そこはソフィア・コッポラ、エルヴィスのクスリ、アルコール、DV、あるいは同性からの妬みなどをしっかりと匂わせつつもさらりと流し、プリシラの恋、ファッション、メイクなどに重きを置いて、出会いから離婚までを爽やかに駆け抜けた。
そう、右肩下がりの重い内容なんか見たくないもんね。
プリシラ、可愛かった。
好きだった。
「恋が永遠に続けばいいのに」といつも思う。
現代のシンデレラが目覚めたとき…
彼女の選択は必然かなと思った。お金があれば、幸せという訳ではない。エルヴィスを愛していない訳でもない。彼がプリシラを大事にしてくれたこともわかっいる。だが、自分の都合のいい愛し方でしかなく、彼女自身の意見を聞いてくれたり、彼女がやりたいことをやらせてもらえなかった。それに、彼は薬物に頼り過ぎだと思う。考えてみたら、ソフィア・コッポラ監督作品は初めてだった。故意ではなく、たまたまテーマや出演者が自分の好みではなかっただけだ。今作は、エルヴィスの妻の話ということでミーハー的興味があり、視聴した。10歳も年上のスーパースターから求愛されるなんて、プリシラはただ幼く、可愛いだけでなく、彼の支えにもなれるような芯の強い人だったんだと思えてきた。そうでなければ、ただの遊び相手で終わっていたはずだ。あの時代に、自分に経済力がなくてもその決断ができたことがすごいことだと思う。私だったら、とてもできそうにないから。
セレブとして育ったコッポラ監督にしてみれば、そんな事細かく描かなくてもわかりきったことと流してしまっているのかもしれませんが、セレブとして育っていない自分の感覚では、説明不足に感じられました。
数々の賞に輝く映画監督、そしてファッション・アイコンとして世界に注目されるソフィア・コッポラ。その最新作は、キング・オブ・ロックンロール。一世を風扉し、42歳で急逝したエルビス・プレスリー。その元妻プリシラが書いた「私のエルヴィス」の本を土台に、監督ソフィア・コッポラは、プリシラが投げ込まれた世界に、コッポラの視点を重ね合わせ、ひとりの少女が成長していく季節を追います。
大スターと恋に落ちた少女がたどる魅惑と波乱の日々を、繊細に美しく描く物語です。
●ストーリー
1959年、西ドイツ。米空軍将校夫妻と、妻の連れ子の14歳のプリシラ(ケイリー・スピーニー)は兵役で米国から西ドイツに赴任中のエルビス(ジェイコブ・エロルディ)と知り合います。二人はお互いに抱えていた孤独を共有し、すぐに意気投合します。エルビスはプリシラに一目惚れ。そして最愛の母を亡くして孤独なスターの素顔に、10歳年下の少女も恋をしたのでした。しかし、彼女はまだ世間知らずの少女。デートをするにも親の許可が必要でした。
エルヴィスが兵役を終えて西ドイツを離れた後も交流は続き、2年後、テネシー州メンフィスの邸宅グレースランドにプリシラを招待。夢の一時は過ぎ、泣く泣く帰っていったプリシラの親に「お嬢さんをカトリックの名門校に入れ、祖母も住む家に預かり、将来は結婚したい」と礼儀正しく申し込むのです。
。やがて彼らはグレースランドで暮らし始めます。夢のような生活の中で、少女はいつもお留守番の寵の鳥。キッスはしてくれても、抱いてはくれません。睡眠薬依存症のエルビスはハリウッドの世界で生き、ストレスと闘う繊細な人間でした。出会って8年で結婚。翌年、娘が生まれたのです。
●解説
まずソフィア・コッポラ監督は、プリシラの回想録を読み、「これほど有名な人物なのに、彼女のことをいかに知らなかったか驚いた」ことが出発点だったそうです。プリシラの人物像は、これまで語られてこなかったのです。そこで監督は、「プレスリーの世界に飛び込んだ彼女、どのように一人の人間として成長していくか」をテーマにしたプリシラの実話を映画化のが本作です。
あくまでも彼女の視点で語られるエルビスは弱さや孤独を抱え、今で言うところのモラハラ男の気配も漂います。守られてはいるか自由はなく、夫の帰りを待つ日々の中で、いかにして自立していくのか。プリシラが閉じ込められている場所は「ロスト・イン・トランスレーション」の清潔なホテルの部屋や「マリー・アントワネット」のマカロンのような邸宅とも重なり、監督が大事にしてきた世界観が広かっているのです。プリシラの心情の変化が唐突なようにも感じられるかもしれませんが、飛び立つ瞬間は得てしてあっけなくも劇的なのかもしれないでしょう。
2人の出会いを発端に、少女から大人の女性になるまでの物語は、プリシラ自身の旅が始まるとともに終わりを迎えます。
本作で描くのもシンデレラ物語の非日常性というより、多くの女性が成長過程で経験する孤独や葛藤。妻だからこそ触れたスターの素顔も映し出されます。繊細で、時に病的なほど神経質、信心深いプレスリー像が興味深いところ。
プリシラは製作総指揮としても関わった。創作された人物と比べて、存命中の人物を主人公とする物語は挑戦でしたが、プリシラご本人は、スタッフが物語を作りやすいよう、常に余白を残してくれたそうです。
作品を彩るファッションには注目を!1960~70年代の時代の空気とともに、プリシラの心理的な変化も表しているのです。高く盛った黒髪に濃いアイメイクといった象徴的なスタイルは、精神的自立とともに自然体に変わっていきます。。
コッポラ監督にとって、少女の成長、アイデンティティーの確立は過去の作品にも通底するテーマだといえます。巨匠フランシス・フォード・コッポラを父に持ち、華やかな世界を身近に育ちました。だからこそ、スターが放つ強い光の陰で悩み、別の道を歩むプリシラの勇気にひかれたのかもしれません。
監督は、ショービジネスの世界で生きる人の公人としての顔と家庭での顔が違うことは当然知っていますそして自身の生い立ちが。彼女の体験ほどではないものの、どんな感情だったかを想像するには十分な視点を与えてくれています。
本作はソフィア・コッポラが抱えてきた孤独や閉塞感をプリシラに投映して描いた作品なのかもしれません。
●感想
エルビスと愛妻の映画ですが、エルビスがステージで熱狂に包まれる映像はなく、権利関係でエルビスの楽曲も使えず、本作でエルビスの存在自体が希薄な感じです。
その分、米南部の保守性や時代の中で葛藤するグレースランドにポツンと残され不安に押しつぶされそうになるプリシラが象徴的に描かれます。コッポラ監督は、映像の深い陰影と奥行きで2人の異なる孤独を見事に際立たせていると思います。
けれども2人の対照が際立てば、プリシラの孤独な内面に踏み入っていけそうなのに、なかなかそうはなりませんでした。どのエピソードも表層的で、さらさらと流れていくようです。浅薄こそセレブの神髄ということなのでしょうか。空虚を描くことが監督の狙いだとしたら、エルビスと妻の物語に起伏のあるドラマを求めるのは、ないものねだりかもしれません。セレブとして育ったコッポラ監督にしてみれば、そんな事細かく描かなくてもわかりきったことと流してしまっているのかもしれませんが、セレブとして育っていない自分の感覚では、説明不足に感じられました。
やはり本作のボイントはプリシアの離婚をどう描くかというところでしょう。
実際には、コッポラにしてもプリシラにしても、経済的には恵まれているのだからという意見もあることでしょう。けれども、たとえ70年代のアメリカでも、ひとり旅立つのは、勇気を必要としました。最後は、旅立つ映像で締めるのも、意味深いところ。いつの時代も、一度は人生の旅に出たいと願うのは、人間なら当然の事でしょう。けれどもあまりに唐突な旅立ちのシーンには、あれれ?と思いました。
プリシラは、その後、女優、実業家となり、本作製作していて、心の底では、プレスリーを理解していたことを助言しています。それは別れた後の彼も同じだったことを祈りたくなるような作品でした。
プリシラが魅力的なのと、 そんな彼女がどっぷり恋にはまってるとこの...
プリシラが魅力的なのと、
そんな彼女がどっぷり恋にはまってるとこの描き方は良かった
後半は今ひとつかな
相続問題も片付いたようで
プリシラというとカリメロを思い出す世代だが、ライリー・キーオのおばあちゃんの話。主演のケイリー・スピーニーが異常にかわいいわけだが、子どもと知りつつ目を付けるエルヴィス、かなりヤバい。それでも結婚までは肉体関係をもたないのはさすがキング・オブ・ロックンロール!かっていうと、おソトでは自由にやってるわけで…。結局プリシラ自体、悪趣味なグレイスランドの飾り物のひとつということ。
ほぼプリシラ視点で展開は平坦なんだけど、美少女中学生からプリシラの容貌がどんどんケバく変化していくのはおもしろい。ソフィア・コッポラらしい女子的ディテールのこだわりとかがあんのだろうけど、かつての名古屋のキャバ嬢並みの盛り盛りヘアスタイルとか、エルヴィスのパジャマやジャージに「EP」ロゴが入ってるとかおかしかった。
今までプレスリーに興味がなかったが
関連の映画でも見てみようと思った。
この映画を見る限りでは、名の売れたスーパースターが14歳の少女を・・・というのは、ちょっと・・・と思った。
ソフィア・コッポラらしいポップな作品
ソフィア・コッポラの色調がとても好みなのだが、今回も画面がおしゃれ。クレジットにCHANELとあったが、プリシラの服全部素敵でかわいかった。あくまでプリシラサイドの話なのでプレスリーの業績については薄かったけど、世代ではないので初めて知ることも多かった。
髪色メイクから彼色に染められてくプリシラ。まだ10代で燃え上がった恋は冷めるのもまだ若いうちで、やっとこれから自分の人生をスタートさせるプリシラ本来の外見は黒髪だった頃よりずっと素敵で、プレスリーに会う以前の彼女と同じ輝きを放っていた。
白馬に乗った王子様を迎える姫君って感じがしたが、敢無く玉の輿から落馬人生。
とうとうGW、GW ごーるでんうぃ-くが終了ですよ。
夕方見るサザエさんは寂しい限り~っていつも思ってたけども
今日は月曜日やないかい(@_@;) 放送やってねぇ (´-ω-`)
と言う訳で 既に先々週に観終わっていた作品レビュ-書くの
ど忘れしてたんで カキコしときます。
「プリシラ」っすわ、見たの。
監督:ソフィアさんなんだけど。彼女まだ現役でカメラ回してんのね。
元気そうで良かったわ。配給A24なんだね。さよか。
メインの出てる人:
プリシラ・プレスリー:役 ケイリー・スピーニーさん
エルヴィス・プレスリー:役 ジェイコブ・エロルディさん
本作はさ、プレスリ-の有名な嫁の話ね。
名前は知ってる程度だったけど、娘がリサ・マリーってのも超有名。
彼女はマイケル・ジャクソンやニコラス・ケイジの元妻だったし。
こんな人をスッパ抜いた作品やって売れるのかと疑問は有ったね。
この前やってたエルヴィスの作品見てけども プリシラ出てたっけ?ど忘れしたよ。その位 彼の人気や活躍振りからすると影薄かった気もする。
そう言う所の視点が 今作中心となって描かれてますね。
よって どれも彼女視点が殆どですね。”プリシラ”題名通りですからw
彼とのツーショットもあるけど限られてて、なんか さぶ-いイメ-ジがあったわ。(´-ω-`)
何やろな、観ている側に活気が漲らんのよネ。
一緒になって気落ちが漂ってくるっす。それが 嫌の一言。
敢えて言うなら、前半は おバカお嬢様白馬の王子に攫われるの巻。
後半は 結婚しても夫帰らず無視され別居の巻。
こんな感じ? 唯一子供が居たのが幸せだったのかな。
ソフィアの本だし 視点がごり押し感強い的な 感じします。
女性(妻)を裏切る男は許せねぇ~感 半端ないかも。
よって 男性客側からすると 低姿勢感情に成っちゃって見てて暇っすわ。
旦那も大変だったんだろうなとは思うが、やっぽ最初は紳士的に思えたけど
卒業して結婚してもなんか も一つハッピ-に見えて来ない。
それが本音なんだろうけど。
家の中の場面などが多くって、見てて飽きますね。
もしも二人で世界を旅したのなら、絶景なんかのショットがあれば きっと映えたんだろうけどね。
映画”ダイアナ”では 最後は王妃は彼の元を去っても強いイメ-ジ有ったけど、
プリシラは子供いるけど 邸宅を去っても、何となく寂しいままな感じがする。
それでも ケイリーは、第80回ヴェネツィア国際映画祭で女優賞受賞なんだね。
ご興味ある方は
劇場へ。
ケイリー・スピーニーがよかった
14歳の少女が大スターに見初められて舞い上がらないはずがない。
退屈な日常から物珍しい世界に連れ出してくれた大スターとの恋にまわりが見えなくなるのもわかるし、ご両親の不安も最も。
自分への拘束は厳しいのに留守の間彼が何をしているのかわからないし週刊紙の情報に不安にもなる。
不安と嫉妬に揺れる若い彼女の苦悩が伝わってくる。
14歳を演じたケイリー・スピーニーの初々しさとそこからどんどん大人びていく彼女がとてもステキだった。
でも出会ってから恋に落ちるまでが急展開過ぎてついていけず、その辺の心情はあまり描かれていない気がした。
プレスリー世代なら出会ったとき、一緒に住み始めたとき、彼がどれほど有名だったかがわかり、もっと作品を楽しめたのかな?という気はする。
その後の彼女がどう過ごしたのかは知らないが濃い数年間を過ごした日々は幸せだったと思いたい。
宗教保守としてのエルヴィスによる美少女プリシラ育成ゲーム。結果はバッド・エンド?
アメリカにも、こんな「偽ロリ、隠れ巨乳」のアニメキャラみたいな美少女(ただし26歳)が存在したんだなあ……というのが最大の衝撃事か(笑)。
ケイリー・スピーニー。しかと覚えました!
正直なところ、エルヴィス・プレスリーにもソフィア・コッポラにも個人的にあまり関心はなかったのだが、最近『ゴスペルシンガー』というあまりにも衝撃的な小説を読んだせいで、つい『プリシラ』のほうも観てみたくなった。
『ゴスペルシンガー』は1968年にハリー・クルーズによって書かれた南部犯罪小説で、美しい容姿と天使の歌声をもつカリスマ歌手「ゴスペルシンガー」が、出身地である「どん詰まりの街」ジョージア州エニグマに帰還するところから話は始まる。
カリスマの帰還と熱狂の渦は、やがて周囲の人々を狂わせ、街そのものを狂わせてゆく。
犯罪者と狂人とフリークスが跋扈し、殺意と狂気と混沌が支配する、どこまでも危険で、信じがたいほどに魂を揺さぶる南部小説の傑作だ。
実は、この『ゴスペルシンガー』の映画化を、自らの主演で熱望したスターがいた。
他ならぬ、エルヴィス・プレスリーである。
(結局は映画にも登場するトム・パーカー大佐に反対されて、実現しないのだが。)
エルヴィス自身、歌手としてのルーツはゴスペルにある。
両親は極貧だが熱心なプロテスタントのペンテコステ派の信徒で、幼いころからエルヴィスは黒人のゴスペルに親しんで育ち、リバイバル(信仰復興集会)に足しげく通っていた。
彼がグラミー賞を獲ったのも、ゴスペルによってである。
エルヴィスは、「南部の片田舎の貧困層から成り上がった白人歌手」&「キャデラックに乗って街に帰還するカリスマ」&「宗教的帰依が生活の根幹にあるキリスト者」であるゴスペルシンガーの姿に、まさに「自分の分身」を観たのだ。
彼が『ゴスペルシンガー』を読んで、自身の主演映画に切望したのが70年。
プリシラとの結婚が1967年。リサ・マリー誕生が68年。ライブの再開が69年。離婚が73年。
本作『プリシラ』が描いている時期は、まさにエルヴィスが『ゴスペルシンガー』と「ニアミス」した時期とかぶっている。
実際、映画のなかには、エルヴィスが出演作の脚本をぶん投げて「どいつもこいつもみんなクズ脚本ばっかりだ」と怒り狂うシーンが出て来る。
彼は演技派の本格俳優を志望しながら、常にお気楽歌謡映画の企画ばかりをあてがわれることに心底疲弊していた。
また、彼がスピリチュアル本の熱狂的な愛読者だったことも、映画内では(半ば否定的に)描かれている。そして、それを「大佐」の命令ですべて「焚書」したことも。
きっと彼はああやって、ベッドで『ゴスペルシンガー』を読んだのだろう。ショー・ビジネスの世界で圧し潰されそうになって、自我の崩壊と家族の危機にある自らの境遇と照らし合わせながら。そうして彼は作品におおいに共感し、映画化を切望した。
だが他の多くの事例と同様に、彼の夢は「大佐」の反対にあって実現することなく終わる。
ちょうど、エルヴィスを強力に支配しようとする「大佐」の姿は、『ゴスペルシンガー』に出て来る懺悔師兼マネージャーともろに被る。
『プリシラ』のなかでは、エルヴィスの意外なまでに禁欲的で宗教的な一面も描かれている。といっても、彼は道徳的な聖人君子からは程遠い浮気男だし、女性を威圧することで抑圧する父権的な存在として「否定的」に描かれているのだが、少なくとも結婚観やセックス観に関しては、ずいぶんと旧弊な感じがする。
ここで、彼の根幹に常にあったのが、プロテスタントとしての篤い信仰と南部独特の宗教的熱狂だということは、強調しても強調しすぎることはない。
エルヴィスは「大スターのくせに宗教にかぶれてのめり込んでいた」人間というわけではない。
彼は「ペンテコステ派の熱烈な宗教者が、自らの価値観の延長上で大スターに成り上がった」存在なのだ。
ペンテコステ派とはプロテスタント系福音派のうち、「聖霊による洗礼」と神の存在を実感するような宗教的体験(聖霊体験)の追求を信念として掲げる教派であり、神との結びつきを育むために、歌やダンスなどで激しく感情を高ぶらせる「法悦(エクスタシー)」を重視する。エルヴィスが生みだしてきた熱狂的なライブの数々は、まさにこの延長上にあって、彼のなかで音楽活動と宗教とは切っても切り離せないものだった。
この感覚は『ゴスペルシンガー』を読んでいても、ひしひしと伝わって来る。
黒人音楽とペンテコステ派の宗教的法悦が、貧困層出身の白人であるエルヴィスという触媒を通じて集約され「世界言語化」していく流れこそが、50年代アメリカ音楽シーンの裏潮流といってもよいだろう。
そして、この保守的なプロテスタント(福音派&ペンテコステ派)がライブ的な熱狂をベースに絶大なる支持を打ち出しているのが、他ならぬ「ドナルド・トランプ」だということ。
ハリウッドはきたる大統領選に向けて、トランピスト達と敵対しているということ。
本作が女性監督による女性映画であり、フェミニズム映画であるということ。
このあたりさえ押さえて観れば、だいたいこの映画の本質的な部分はほの見えて来るはずだ。
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『プリシラ』はある意味、奇妙な映画である。
表面上はシンデレラ・ストーリーとその後の結婚生活の破綻を描いた女性の一代記であり、内実としては女性の自立と解放を謳ったフェミニズム映画なのだが、どちらの観点に立って観たとしても、なお勘所のイマイチよくわからない映画だという印象は否めない。
この感覚を引き起こす最大の原因は、プリシラがエルヴィスに見初められて、プリシラもエルヴィスに一目ぼれして、二人が愛し合い、同棲し、結婚するに至るが、やがて摩擦が起き、不和が生まれ、離婚にいたるという一連の過程において、「ぱっとわかるような感情のロジック」がほとんど呈示されないからだと僕は考える。
もちろん、本当の恋なんてそういうものなのかもしれない。
ひと目見ただけで「ビビッと」来ることだってあるだろう。
だが通例、この手の映画だともう少しは「好きになる理由」「嫌いになる理由」がドラマティックに描かれるものではないだろうか。
たとえば、あれだけパリピ剥き出しのさみしんぼうで、いつも取り巻きを集めて空騒ぎしているエルヴィスが、なぜ包容力やエネルギーとは対極にあるようなプリシラを見初めたのか。他のグルーピーが皆いかにもアメリカのグラマラスな姉ちゃんたちなのに、なぜ14歳の少女に恋をしたのか。敢えて無垢な少女を恋愛対象に選んでおきながら、ゴテゴテと大人のケバい格好をさせたがるのは何故なのか。
プリシラのほうも、基本的には恋に恋する少女として描かれていて、総じて主体性のない恋愛に終始している。彼女がエルヴィスの本質や闇の部分と真正面から向き合っているとはいいがたく、その証拠にこの映画にはエルヴィスのアップのショットや、本音と本音でぶつかり合うようなシーンが終盤までほとんど出てこない。彼女はエルヴィスに恋焦がれているように見えて、その実、彼のことをちゃんとは見ていないのだ。
お互いが、相手に「美少女/大スター」という「アイコン」だけを見ていて、その中身についてはあまり気が行っていない感じというか、お互いに自分の理想を押し付け合っているだけの非常に幼い関係性というか。
プリシラを「自分好みの女」に仕立てようと、髪色からメイク、ファッションまで口出しするエルヴィス。
ほとんどいいなりに、カジノやらパーティに付き合って、挙句の果てにLSDにまで手を出すプリシラ。
プリシラのことは基本的に大切にしながらも、留守がちで外でも他の女とヤリまくり、たまに癇癪を爆発させて手がつけられなくなるエルヴィス。
ほとんど相手のことは知ろうともしないのに、浮気の情報や証拠に関してだけは逐一チェックしていて、嫉妬の炎をいっちょまえに燃やすプリシラ。
なんか、ずぅぅぅっと、二人とも何考えてるのかよくわからないし、何かを変える努力もしないでただ単に不満げに過ごしていて、十分いろいろと恵まれているのに退屈そうで無気力そう。
正直言って、最後まで感情移入のとても難しいカップルだった。
気になる部分は他にもたくさんあって、たとえばプレスリー一家とプリシラの関係性があまりに表面的な部分でしか扱われない点、プリシラとエルヴィスの結婚において主導的な役割を果たしたトム・パーカー大佐(話題作りとして策謀した)がほとんど出て来ない点、愛する娘の運命をエルヴィスに託すという重要な決断を下している割に本気度がやけに薄く見えるプリシラの両親の「放置ぶり」、ただ取り巻いているだけで風景か置物のようにしか扱われないメンフィス・マフィアの面々、プレゼントとして出てきただけでいつの間にか姿を決してしまうワンちゃん、一人娘の割に可愛がるシーンがあまり出て来ないリサ・マリー・プレスリーなどなど。
要するにこの映画では、プリシラとエルヴィスに限らず、大半の登場人物が「ただ出ているだけ」で「たいした葛藤の描写もなく」「熱が薄い」傾向が強い。
これは結局のところ、本作が「プリシラの目を介して見たエルヴィス周辺の物語」であることに起因するのだろう。精神的に幼かったプリシラは実質的にエルヴィスのことも、エルヴィスの取り巻きのことも、家族のことも「ちゃんと見てはいなかった」。そのことが、本作の登場人物全体が奥行きや情動を欠き、薄っぺらに見えることにつながっているのかもしれない。
もともと『私のエルヴィス(Elvis and Me)』という原題の自叙伝を映画化するに際して、敢えて『プリシラ』と改題しているだけあって、この映画は「プリシラ視点で描く」ということについては徹底されている。
そこに、ソフィア・コッポラのフェミニズム的視点が加わり、イプセンの『人形の家』のノラのように、自立心を涵養して支配的な家長の束縛から脱し、女性として一人生きる道を見出すといった筋書が強調されている。あるいはバーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』およびその映画化である『マイ・フェア・レディ』のイライザや、『源氏物語』の紫の上のように、「少女を自分好みの女に育てあげようとする大人の男のグルーミング」の気持ち悪さが強調されている。
結果として、プリシラにとって都合の悪い要素や、制作陣が描きたいプロットと「反する」要素はオミットされる傾向にあり、プリシラが最終的に「浮気」をしたせいで結婚生活が破綻した事実や、離婚してからも二人が友人として生涯交流を保っていた事実などは概ねスルーされている。
結局のところ、映画の印象としては「ドラマが薄い」。
これに尽きる。
保守的なプロテスタント界隈に対する反トランプ的な非共感。
南部における女性の扱いに対しての進歩的立場からの反感。
ピグマリオン効果に対する女性の立場からの生理的嫌悪感。
このへんの政治的・思想的な立ち位置はよく伝わってきた。
ただ肝心の恋愛劇としては、感覚が鈍くて情動の薄い人達が、なんとなく成り行きでくっついたり離れたりしているようにしか思えない、退屈な展開に終始していたように思う。
最後に音楽に関していうと、敢えてエルヴィスの歌も歌唱シーンもほぼ使わないという選択は果たして本当に良かったのかどうか(なぜここまで?)。
流れていた50~60年代の音楽については詳しくないのでよくわからないが、冒頭でドヴォルザークの『新世界より』第二楽章のジャズ風編曲、中盤のライブシーンのOPでリヒャルト・シュトラウスの『ツァラトゥストラはかく語りき』のロック風編曲が流れたのにはちょっと驚いた。あと、ラストで流れてた「オールウェイズ・ラブ・ユー」はなぜホイットニーのカバー?と思ったが、あの曲ってもともと昔のカントリーのカバーでこっちが元曲なんだってね。で、エルヴィスもカバーを望んだけど、大佐の介入があって先方に断られた、と(笑)。
「エルヴィスが望んだけど手に入らなかったもの」つながりで言うと、立ち去っていくプリシラに被せるには最高の選曲だったのかもしれません。
恋する乙女の目が覚めるまで
昨年公開の映画「エルヴィス」でも印象的だったプレスリーの妻・プリシラが主人公の本作。プレスリーの音楽的要素や人物の掘り下げはほとんどなく、スーパースターに憧れる少女のシンデレラストーリーとその先を描く、かなり淡々とした作品でした。
物語としての面白みはあまりなく、才能に溢れるスターでビジュアル最高だけど独裁的で思いやりのないDV男に振り回される初心な少女が、プレスリー第一の恋する乙女から次第に自立した女性に成長していく様が、当時のトレンドを再現したオシャレな衣装やメイクと共に描かれているのが見どころだと思います。
ビジュアル的にはプリシラがとても可愛くて満足度高いのですが、映画としてはイマイチかなぁ。
プリシラ役のケイリー・スピーニー、小柄だなぁと思ったら155cmとのことで、日本人の平均身長とさほど変わらずでびっくりしました…。
エルヴィスBside?
昭和ティーンエイジャー女子なら、キュンキュンさせられる夢のような前半の展開。後半はそんな夢が覚めたよう。少女の成長=離婚ということなのか。エルヴィスではもっとデカかった娘を引き連れて出ていったような…でも、オースティン・バトラーよりプレスリーよりだったような気がする。ちなみに、印象は「オッシャレー」に尽きるので、該当なし。
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