オッペンハイマーのレビュー・感想・評価
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あの爆弾が...
原子爆弾の開発と物理学者の苦悩。その後の追い込まれていく人生を描いている作品...という解釈でよいのか。
とにかく上映時間が長い。
登場人物も多くて時間の時系列も絡み合い、物理学用語が飛び交う。特に前半は、途中何度か居眠りをした。
いつも事前情報を入れずに映画館に入るのが常なのだが、本作品は無理だった。簡単にあらすじを把握してから見に行けば良かった。
後半、開発者は世界の未来を想い、恐怖にさいなまれていく。
開発に成功してからソ連との関係性によって日本がターゲットにされていく場面は引きつけられるように見た。何度も広島、長崎の言葉が出てきた。
実験に成功した大爆発の場面は泣いた。素直に悔しかった。あれが、広島に、長崎にと思うと、悔しくて辛かった。
被爆国として見なくてはいけないような気持ちで映画館に足を運んだが、あのような場面は見れない人もきっといると思う。
言葉に尽くしがたい被爆の場面が出ては来なかったが、制作者側の世界に問いかけていることはとても重いと思う。
なるほどね。
スケジュールの兼ね合い上、できるだけ早い時間帯での鑑賞をしたかったのだが、いざ観に行こうと思い立った頃には周辺の劇場では某人気アニメの最新作が公開される時期とかぶったこともあってか、そちらの作品に多くのスクリーンを抑えられていて早いところでも11時台からの上映と個人的に遅かった(中途半端だった)ため、早い時間帯からやっていた少し離れた初めて行く劇場での鑑賞となった。
まず上映時間が“3時間10分”と長尺な作品とのことで、ハマらなければダレそうだなぁとおもいつつ、結論から言ってしまえば“ダレる”という結果に。
あと、レイティングが「R15+」の作品ということもあって“年齢制限を設定するほどの過激な内容”がどのようなかたちでどれほどのものなのか個人的に注目していたのだが、これが拍子抜けだった。
おそらく何度か(2度?)出てくる主人公と愛人?の僅かなセッ〇スシーン(内1回は女性の胸が丸出し)がレイティングを上げたのかな?とおもうくらい他にそれらしき過激とおぼしき内容が何もなくガッカリした。
映画ド素人の私レベルでは到底理解できない監督の“メッセージ”の一つだったのだろうか?
いつものように事前にできるだけ情報を入れないようにしていたこともあってか登場人物もあれこれと出てきて「これは誰?」とか「いま話題にあがったその名前の人はどの人?」など普通にあった。
とくに後半の事情聴取のようなシーンはよくわからずただただグダグダと長い。
そして何より切っても切り離せない重要な広島と長崎に投下される(された)シーンは一つも描かれていなかったというのも個人的には非常に残念だった。(彷彿とさせる表現は若干あった)
「投下した」という事後報告みたいな描き方で「えっ!それだけ?ウソだろ!?」となった。置いてけぼり感がハンパなかった。
オッペンハイマーという人物からの視点の作品だったためこれも“意図して”あのような描き方をしたのかもしれないが、やはり核をピックアップしている以上はもう少し描いておいてほしかったなと。
あの投下が正当だったのか不当だったのか未だに本国であるアメリカの中ですら意見が割れるテーマではあるが、そういった部分を抜きにしても核の脅威や悲惨さをあらためて広く伝えるという意味でも映画の存在意義は大きいようにおもうのだが。
あと、顔は見たことあるんだけど誰だったけ・・・ということでオッペンハイマーを勧誘した軍人は「マット・デイモン」が演じ、自身のキャリアのために裏で糸を引いていた黒幕っぽい人物をアイアンマンでお馴染みの「ロバート・ダウニー・Jr.」が演じていたりした。
アインシュタインは一般的に知られている本人と比べてだいぶ太っていたように見えたが結構似ていたのではないかとおもった。
次に観る機会があれば吹き替えバージョンで観てみたいかな。
オッペンの苦悩
不穏な音に包まれながら進んでいく。IMAXがいいようです。私は普通のシアターでしたが、充分肌に感じ、オッペンハイマーの心情に入り込んだようでした。
単純に言うと、オッペンは、純粋に自分の理論を実証したかった、研究者として。そしてそれを政治家が利用した。投下された後の様子を映像で確認して後悔の念に苛まれた。水爆の開発には反対して、あっさりきられた。
広島、長崎の映像は映らない。それを見ている人の顔を映す。オッペンは見てから、幻影に苦しめられる。
奥さんの描き方がリアル。自分も学者なのに赤ちゃんの世話で疲れてオッペンに怒るところに共感。そして強い、浮気されようが、糾弾されて憔悴し切っているオッペンを叱咤激励する。
もしかしたら、ドイツや日本が先に開発していたかもしれない。だとしたら、やはり同じことをしていたと思う。
それにしても、実証実験が成功して、喜ぶシーンでは、怒りが湧いた。
楽しい映画ではないけど、アインシュタインとのやりとりや、ケネディの名前が出てくるなど、なるほどと思うことも多かった。
名声を欲しがる者の卑しさがもう一つのテーマかも。オッペンは違うけど。
オッペンハイマー博士の背後に見える「科学」の光と影。
原子爆弾を作ったオッペンハイマー博士の開発成功までの道のりとその後を描いた作品。
クリストファー・ノーラン監督ということで鑑賞。
骨太SF作品を生み出すノーラン監督が、なぜ今、実在の人物をベースにした人物伝映画を?と思っていたけど、観てみたら理由がわかった。
ノーラン監督、どんな作品も根底にある「好きなもの」「描きたいもの」は繋がっていて、それを様々なアプローチで発展させている方だなあと感じる。
だからこそ新作が公開されれば観に行ってしまうのだ。
まず一つは、原爆の原理はSFのベースになっている科学、量子力学の分野であるということ。
そしてもう一つは、最新の科学技術や知識は軍事兵器に利用されたきた歴史があり、科学者の知的探究の歴史は兵器開発の歴史と重なってきた、という事実だ。
本作はオッペンハイマー博士という人物の光と影を描いていたけれど、彼の光と影は「科学」というものの光と影というか、そのまま科学の功罪にも重なる。
新しい科学の知見が発見され、それが新しい技術となり最新兵器に用いられ、抑止力となり戦争は終わった。彼が在籍する国は勝利をおさめたし、オッペンハイマー博士は成功者として世間から称賛された(TIME誌の表紙を飾るのが成功のわかりやすい形なのだなあと本作を観ていて改めて思った)。
その代わりに、その技術を用いた兵器でたくさんの人が亡くなり、苦しみ、そして新たな兵器の登場で世界の軍拡が進んだ。そしてオッペンハイマー博士は知的好奇心の先に進めた研究が世界にもたらした結末を見て自身のしたことへの深い内省とともに良心の呵責に悩まされることになった(実験成功以降、しばしばグラグラ揺れて感じられるようになった博士の見る世界が苦しい…)。
この「科学の功罪」や「科学者の倫理」のようなものは本作の大きなテーマのひとつなのだと思う。
そして、この様々な研究が進み続ける今の世の中でも現在進行形ではらんでいる問題でもあり、倫理の観点からセーブされている開発があるのも事実なんだと思う。
…と、このあたりの描写は楽しく観たのだけど、ストローズ氏の粘着怨恨により博士が政治のゴタゴタに巻き込まれて聴聞会で詰められてるシーンは観ててうんざりしてしまった…。
個人的な恨みや妬みに端を発する政治的謀略?って本当に面倒くさい…!
あの時代のファシズムや共産主義と、民主主義の対立構造や一方的な排除の動きも怖いよなあ。
あとわたしは日本国民として日本目線で太平洋戦争という歴史を見ていたけど、アメリカの目線、しかも兵士等ではなく為政者に近い者の視点で、戦争を見つめるという体験も新鮮だった。
(特に原爆投下の候補地、あんな感じで決められてたんだなと思うと改めてゾッとする。あの会議の場で日本のどこの人民を犠牲者にするかを選んだってことだものな…。)
ちなみに3時間は少し長かった…!
私は今とても幸せな環境でこの映画をみている
端的に言えば興味深く面白い映画だった。
日本人として生まれた側の立場で見られたのは大変揺さぶられて良かったなと思います。ただ、原爆の被害者や家族の気持ちとか、米国の価値観だとかは製作者とは立ち位置が違うのでマルっと放置しますね。
物理学の話だからもっと難解な映画かと思っていたが、物理学部分の内容は抽象的に可視化し割愛されていて、思った以上に物理学ドキュメンタリーエンタテインメントでノーラン臭いヒューマンドラマだった。
ユダヤの話でプロメテウスから始まるなんて偉く皮肉っているなとは思ったが、オッペンハイマーの「明日は我が身感」がプロメテウスを出す事によって引き立てられていたなとは思う。
確かに各国と水爆合戦になる前に手を打ちたい気持ちは分からなくはない。結局は軍拡競争下にいた一介の学者でしかなったわけだけれども。
ちなみに、私は日本人だし観ていて辛い部分もあったけれどもアインシュタインが特殊相対性理論を出した時点でいつか起こり得た事だとは思うので、オッペンハイマーを卑下しようとは特には思わない。科学って歴史と同じでひとりでにできるわけでも、一人の脳味噌から成り立つわけでもないし。
ただ映画の中の「日本人は諦めないから」とか「原爆を落として降伏するかは分からない」とかって言うシーンは悔しいやら、有難いやら、馬鹿馬鹿しいやら色々な感情が入り混じって涙が出た。様々な文献の中で当時の日本軍の「恐ろしさ」を見聞きするけれど、日本が言っているだけでは感が私の中で少なからずあったもののその疑念が少し晴れた様な気がする。
何より過去の戦争を経て現代の技術の中、生きている平和ボケした日本人としては『私は今とても幸せだよ』という結果論を、命をかけて築き上げた先人に伝える事が出来ないのはもどかしいなと思った。
また、子供が生きていく社会が出来れば平和であってほしいと切に願う。
ついでに映像のクオリティとして核実験の爆発についてはもう少し掘り下げてリアルに作れば良かったのにと思う。
物理学の人間の様相、その関係性
Fission.核分裂爆弾(原子爆弾)がアメリカでどのような過程を経て作られたのかを描いたクリストファーノーランの作品は様々な意見が見られる。
原子爆弾が広島と長崎に落とされ、それによって多数の無実の人々の犠牲者が出たことは日本だけでなく世界の永遠の歴史として刻まれ、2度とこの惨劇を繰り返してはいけないとして後世に語り継がれていかなければならない。
事実としてこのことを日本はアメリカに対して決して許したことはないし彼らはその代償を払い続けなければならない。
私はノーラン信者でもなければ共産党員でもないことを言っておくが、ここでこの作品のことを日本の被害の映像が流れていないからだめだ、とか訳のわからないことを言っていると日本の映画リテラシーの欠如が露呈してしまうのでやめていただきたいと思う。
日本は被害者であるが我々の使命は過去の歴史から学び世界の代表としてどのように対策して国同士が手を取り合える策を考え発信し続けられなければならないのだ。日本人としてだけでなく皆同じ地球人としての矜持と発想を持たなければならない。今を生きる人々はほとんどの人が経験していないのだ。日本のテレビや新聞、学校で流れる映像や漫画を通して見てきたもの、聞いてきたことを悲壮感に浸り、何も知ろうとしないで被害者ぶり続けるのは過去犠牲となった人々に対してあまりに無神経で失礼まである。
映画の話に戻るが、その影響力は現世にまで及ぶ1900年代前半、当時は物理の革命期にあり、その世界最先端をゆく学者たちが集まり、アメリカの叡智を結集してナチスドイツと鎬(しのぎ)を削る様が描かれている。歴史的な背景や当時の人々の気持ちを見ていくと理解はできる。
知ろうとしないのは罪である。
我々は映画を通してこの過去とそして未来に向かう道を正しく導くために向き合い続けなければいけないのだ。
印象的なのは最後に、オッペンハイマーがアインシュタインに一言、I believe we did.(私は我々がしたと確信している)と言い放ちAlbertは背を向けて歩いていくシーンは世界を英断に導くはずだった答えがあまりにも滑稽で恐ろしい一言で閉められている。
天才たちでさえも想像できなかった、ほぼゼロの確率、大気に核分裂反応が広がり世界を破壊する。プロメテウスが気づいた時にはあまりにも遅すぎる。
永遠に消えない負の遺産は今我々の世界に残されている。
善でも悪でもない…人
緊張感あふれる映画だった。
安っぽく善人ぶったり悪人ぶったりする演出をせず真っ直ぐに人間オッペンハイマーを描いていたのが素晴らしい。
●殺人兵器が生み出されるのに高揚感を感じた。人々の歓喜に心が高鳴る。
その描写から逃げなかったノーランは素晴らしい。
●背景をよほど勉強していないと理解できない内容。なのに引き込まれる。まさに映画の妙だ。内容自体を観客に見せることをしなかった。この映画が見せたいのは人間の熱量だ。PVのようにそこに特化している。ノーランの英断と思う。
●PVを見ているようだった。早いカットバックは最早、セリフの内容を観客が追うことを想定していない。感情だけがほとばしる。
●成功の時のオッペンハイマーの演説シーンはものすごい演出だ。歓喜の涙が絶望に見える。すごい。
●常に音楽が鳴っている。その戦略もいい。
原爆投下は許されることではない。何を言われても言い訳にしか聞こえない。
原爆はレンジでチンされて殺されるようなもの。平和のためと言われても、誰の平和だと言いたい。
しかしこの映画の凄まじいところは、自分がアメリカ人でその当時に生きていたら、原爆誕生に歓喜していたと思わせるところにある。
ただ単にオッペンハイマーという一人の科学者を描いているのではない。人間が業を背負った存在であることを描いている。
ノーマンらしくない
これまでびっくりするような映像で魅了してくれたノーマン監督だったが、良いか悪いかは別にして、今回の作品に関してそれがなかった。
なんとなくシンドラーのリストを作ったスピルバーグ監督のような雰囲気の作品になっている。
台詞でテーマを語る事・・・。
最後にアインシュタイン博士が作品のテーマ(人間の内面的なもの)を台詞で語ってしまうのですが
栄光も挫折も惨劇も
全てこの為だったと納得させられてしまいました。
台詞でテーマを語る・・・それを納得させるにはここまで段取るべきなのかもしれない・・・と色々考えさせられました。
流石はアインシュタイン博士
出番は三回ながら、美味しいところは全部持って行ってしまっていると思いました。
なお、この作品において
あるべき怒りを語られる方結構いらっしゃって
それは当然かつ必然なのですが
それが故に日本公開が遅れた事は頭の隅に置いております。
もののけ姫を思い出し
『あの子の不幸が救えるか!?』
(↑うろ覚えでデタラメ)
って感じで、獅子神の呪いが取り憑いた
アシタカの腕と、美輪明宏さんの迫力の声が
頭に浮かんだけど、そんなアニメの世界とは
比じゃなく、
オッペンハイマーが背負ってしまった呪い(?)の
大きさに、世界を破壊してしまった核の力に、
とても恐怖を感じたラストだった。
もともとは、科学者として、
純粋に『興味』であっただろうに、
時代?世の中の流れ?回りの他人達の
ずる賢い『思惑』そんなものに
気づかないうちに翻弄されて。
才能ある人・有能な人は、
『回りは敵ばかり』とも感じた。
ごくごく普通のサラリーマンである
僕自身に置き換えて想像してみたけど、
同僚、上司、営業、重役、社長、
他人のずる賢い思惑に流されて、
『同じやん!』
結局、信じられるのは自分だけ、
『回りは敵ばかり』と。
難解
まず、映画を楽しむうえでこういった考えを持ち込まないといけないのは非常に好みではないのだが、私はこの映画に被爆国日本としての感情とか非難は一切無い。というのも、この映画にはその話題はほぼ出てこないからだ。長崎や広島、原爆による死者数も台詞では出てくるが、それらは登場人物に大きな意味をもたらさない。日本を映したシーンは一秒もなかったし、徹底していたと思う。
それでも被爆国日本という視点でどうこう言うのは、現国のテストに数学の回答を書くようなものだと思う。それくらい別の話。
長い上に重い、というのが一番の感想。ふっと集中力が切れたら登場人物の台詞が上滑りしてしまい、なんの話題だったかわからなくなってしまった。特に、政治的司法的駆け引きが続く後半以降はキツかった。予備知識無しに観て理解するのは相当難しいだろう。
赤狩りの時代背景や東西冷戦につながるアメリカとロシア(ソ連)の対立くらいは頭に入れておかないと「なんでこのオッサンたちは狭い部屋でオッピーを追いつめているんだ?」となってしまうだろう。ある意味、客の足切りをしていて、「アカデミー賞作品だから観てみよう」くらいの気持ちで行くと間違いなく返り討ちに遭う。
オッペンハイマーをとにかく複雑な人間として描いているのが良かった。エゴイスト・女ったらし・科学者・愛妻家・天才・人たらし・繊細・日和見主義・・・という人間なら当たり前の複雑さをこれでもかと詰め込んでいる。そら3時間になる。
途中で、オッペンハイマーは誠実だ、と評されるシーンもあったが、そこに捉われていると矛盾しまくって意味が分からなくなる。複雑な人間、というのが監督の描きたい人物像だったと思う。激動の時代に一本筋を通した人間、という事では無い。映画やドラマだとそういう英雄的人物像が好まれるのはわかるが、オッペンハイマーはそうではなかった。
編集の妙だと思ったのは、「連鎖反応」と空のシーンだ。
核兵器が現実味を帯びた時、連鎖反応を起こして一度の爆発で世界を巻き込んでしまうかと危惧された。結果的にはそうはならずに安心したのだが、結果的に「アメリカ以外が核を持つ」という連鎖反応は起こった。
オッペンハイマーの心理描写的映像で、青空の下に雲が広がっている綺麗なカットが度々挿入されていて、ラストのシーンその意味がわかる。地上から放たれた無数の核ミサイルが雲を突き破って天を突く。人間が生み出してしまった核兵器が連鎖反応を起こした結果なのだ、とハッとさせられた。
個人的に好きな映画ではある。けど、面白いかと聞かれるとそうではない。人に勧めたい映画でもない。
林檎から滴り落ちた毒薬
◉進化を目指してはならない存在
人間は悪魔に唆されて禁忌を破ったのではなくて、破りたい人間の身体から悪魔が現れ出でて囁いたのだ…と言う感覚に捉われた。
抑止力として認めさせるためには、原爆や水爆の力を実戦の結果でライバルたちに示さねばならないと言う決断。そこまでに戦争により数多の同胞の命が失われているとしても、どう考えても悪魔の想念。
とにかく、人類とは絶望的な生き物であると感じさせるのが、この映画のテーマだったと思います。新婚旅行の素晴らしい想い出があるから、京都は候補地から外そうと政府高官がジョークっぽく呟くシーンが真実か、真実ベースの創作かは別にしても、私には強烈で。
◉犯罪的な能天気
10万人の命より1000万人の命を護らねばならないでしょうと、多数の人々が拍手しつつ結論できる社会。それは誤解を恐れずに言うならば、白骨の上に都市を営むことも出来る、能天気な世界かも知れないです。
原水爆開発のプロジェクトから投下まで、紛れなく地獄へと向かう展開であるのに、随所に正義と情熱はともかく、親愛や友情まで生まれて…
トリニティ実験が成功したら、洗濯物をしまえと伝えるよと言う、妻への言葉も凄いと言えば、凄い。その屈託のないこと! その後に日本での本番が待っていた。
全体主義の測り知れないパワーが人々をまるっと呑んで、皆、懐疑心は抱きながらも、もう止められない。仕方ないと喚きながら、絶対に武器は捨てない、兵器庫を閉めない。
◉オッペンハイマーの十字架
人々の話に辟易してきた頃に、話はやっと一人の物理学者の苦悩に絞り込まれた。私は研究者として、量子の在り方・可能性を追求していたのみ、兵器を開発していたつもりはなかったと自分の心に幾度も言い聞かせて、救われようとするオッペンハイマー。それは半分ぐらい身勝手ではあるけれど、その先に背負う重たい十字架が見えるだけに、まだ共感できた。揺れたいなどと口走ったばかりに、大変な役を背負わされて、どんどん翳が増えてく天才量子物理学者。
最終盤に来て、十字架など能天気に投げ捨てた投下国は、共産主義への偏向とロシアへの情報漏洩の問題で、オッペンハイマーの精神を千々に乱して、さぁ次の闘いに向かった訳です。
その時そこにいなくてよかったなどと思わず、どこにいても、命と命を比べない思いで胸を満たしていたいと強く感じさせてくれる、そんな作品でした。
メインキャストもサブのキャストも、理解するのは大変だったけれど、配役の重い軽いを感じさせることなく、迫力そのものの演技だった。
歴史は繰り返す
学者が兵器開発に携わり、それを後に避難されるという展開そのものはオッペンハイマー以外の人物でも起こったことなので、ストーリーはありきたりな部分もあった。
オッペンハイマー以外にも沢山の著名な学者や歴史的に重要な政治的な人々も登場するし、様々な人々の思惑や協力、時代の流れもあり原爆開発、そして日本への原爆投下へ繋がっていくのは日本人として悲しくもあり興味深くもあった。
二人の人物の視点がカラー映像、白黒映像で交互に展開されていくので、映画としては少し見辛いかも。ラストの2人のやり取りが一番印象に残った。
作り物の限界
オスカーに不満を言えば自分がえらそうに思えるのかもしれない。
私は核兵器に対する特別扱いがよく理解できない。戦争という殺し合いの時点ですでに非人道的ものである。大量破壊兵器だからとか、非戦闘員だからという理屈は偽善に思える。そんなルールに則らなければいけないのなら、いっそのことスポーツで対戦すればいいのではないか?そのスポーツですらドーピングが絶えないというのに、命がかかった場面で国際法や人道がどうのというのは前線にいない人間のきれごとに過ぎない。それをあからさまにしたオリバー・ストーンのプラトーンは秀逸であった。それでも世界は核兵器を特別視する。その理由を垣間見ることができるか?このアメリカ視点のオスカー作品に望みを繋いで遠のいていた映画館に足を運んだ。
残念ながらその答えやヒントはこの映画では見受けられなかった。
東京大空襲での被害者が10万人と聞き、7万人の被害予想である原爆投下に罪悪感が薄まるところなど、まさに通常兵器との意義の差が理論的にはないという反証であろう。もちろん、オッペンハイマーは戦争終結のために本当に必要だと思って進言したわけではない。一番の動機は自ら指揮をとったプロジェクトが無用の長物にならないためであり、それが後の罪悪感となる。完成まで自分の仕事の結晶として作り上げた原爆が、軍に渡された瞬間、手の届かないところに行ってしまったことに愕然とする。
求めた答えがなかったということで、映画としてみていくと、最近の映画の限界が垣間見える。オスカーでもこうなのか、と。
3時間という時間を使った割にはストローズとの対立の過程があまり描かれておらず、とってつけたようで飲み込めない。オッペンハイマーを聴聞会に引きずり出し、キャリアを終わらせたのがただの私怨とは。それが自らの商務長官就任にケチがついたのだから愚かとしか言いようがない。史実だろうか?そうならしかたがないが、脚色ならいただけない。
主人公の繊細さは表現しても、ほかの善玉、悪玉の色分けは単純すぎて安っぽい。とくにトルーマン大統領が無慈悲な権力者として薄っぺらい。政治家だから本当にそういう人だったのかもしれないが、なんでも政治家を悪者のすればいいというのは話を軽くする。それでいてケネディは善玉として話だけ出てくる。「この人はいい人」、殉教者は神がかりだ。
日本の報道でよく上がっていた「原爆の被害の映像」は確かになかった。ある、なしに関わらず、オッペンハイマーの精神的苦悩を表現したCGも安っぽい。見せ場の原爆実験の善し悪しはなんとも判断できないが、広島については教科書に載っていたキノコ雲の写真の方がずっとインパクトがあったのはなぜだろう?研究者たちを前にした講演で聴衆の女性の顔が爆風で溶けていったり、黒焦げの死体を踏み壊す映像はちゃっちくてお化け屋敷レベル。あれはあきらかにマイナスポイント。どれも1940年代の再現映像で十分だったのに、特殊効果のせいで作り物っぽい。
ひとつ関心をもったのは奥さんのキャサリン・オッペンハイマー。映画では”キティ”と呼ばれていたが、どうしてもサンリオのメインキャラクターを連想してしまうのでここでは“キャサリン”とさせてもらう(かつてのEテレの番組、「ワラッチャオ」のキャラクターの名前でもあるけれど)。私が成育したときには「男らしく」「女らしく」ということが言われていたが、今はそんなことを言うととんでもないことになる。実際、私見としては男女で本質的な違いというのはないと思っている。しかし、私が実際に見た女性の言動から、唯一、私が持っている女性に対する偏見がある。それは、
女性は信念のため、正義のためであっても、自分が損すること、生命を失うこと、今の生活レベルを下げること、既得権を失うというような選択はしない。唯一の例外は自分の子供のためにはそれをいとわない
と、いうことである。
ソクラテスは自分に対する死刑は不当だと思ったが、その判決に従うことは彼自身の哲学に則っている(クリトン)ことなので毒杯を飲んだ。自らの命より、自らの哲学を優先させた。イエスも自らの命よりも宗教的救済を優先させた。そうすることによって(彼らがそれをねらっていたかどうかはわからないが)2000年以上にわたる影響力を得た。そのようなことをした女性がいただろうか?
オッペンハイマーに対する聴聞会が始まるとき、キャサリンは夫とその身辺者を前に、「今までの名声を失う、そしてこの『家』も!」と訴える。そこには自らの共産主義への傾倒の過去、夫の原爆製造の罪悪感など挟み込む余地が微塵もない。得たものを奪われる筋など一片もない確信と、それを脅かすものに対する断固たる嫌悪、対決の覚悟がある。ここに自省のわずかもないところが私の偏見を一層堅固にする。このすごむ姿は私の母親もそうであったし、妻もそうであった。この映画のなかでホンモノを感じた場面だった。
実際に見たことがない女性だとハンナ・アーレントは例外だろうか。彼女は同胞のユダヤ人から反感をかうのを覚悟して、アイヒマンは本質的な悪ではなく、陳腐な無思考であると洞察した。彼女は自らの思考に忠実だった。たとえそれが近親者の離反を伴うことでも。
映画のテーマに話を戻すと、日本のメディアで取り上げられていたような原爆そのものに対する考察はない。オッペンハイマー自身が原爆の被害に対する罪悪感に苦しむ姿よりも、ストローズとの政治的闘争のほうがメインストリートだ。これは政治サスペンス、はじめから被爆者のことなど相手にしている映画ではない。原爆が取り上げられれば、さも日本が話の中心であるかのような自意識過剰は日本のメディアの幼稚なところだ。それを知ってか知らずか、うまくメディアに宣伝させ、とりあえず日本でこの映画の反対運動、ひいてはオスカーへの批判、ハリウッド映画へのボイコットなどの火種を消し、むしろ興行を成功させるところなど、結果論かもしれないが、大したものである。お人好しというか、おめでたいというか、原爆を落とされてもこのとおりなのだから、本当に日本人というのはあきれるばかりである。
おしなべて陳腐な話である。理論物理学で自己を確立し、流行りの共産主義思想や組合運動に目うつりし、戦争に翻弄され、栄光と挫折、晩年の名誉回復。「研究の成果が爆弾か」「軍服はやめろ」「もはやあなたは学者ではない、政治家だ」これらの言葉で踏みとどまることができなかった男のありきたりの話だ。
オッペンハイマーがしたことがどうなるか、すでに2000年以上前にギリシャ神話で語られている。プロメテウスの逸話が引用されるように、時代で科学や思想があらたな跳躍をみせるのではないか?そんな浮ついた気持ちも神話の中の堅牢な人間への洞察に撥ね返される。
そして、私が原爆への特別視に疑念を抱くのは同じく映画でも引用されていたパンドラの壺だからだ。一度開けたものを封印することなどナンセンスである。「作れる」ものは作ってしまうのが人間である。どんなに正義を振りかざして封印しても、切羽詰まれば何でもやってしまう。ちょうど今の北朝鮮が核開発しているように。
そして残るのは「希望」だけ。「抑止力としてしか使わない」と信じ込むこと。人類を何回も絶滅させうることができる力を使わない、という希望。これは「大気発火」が起きない希望よりたよりない。その希望にしがみつくしかない世界に生きている。このおめでたい国で。
日本人のDNAには何か引っかかる物を感じる。ゴジラ-1.0山崎貴監督の「アンサーの映画を日本人として作らなくては」に共感!
一つの映像作品としての完成度はとても高いが・・・。ノーラン監督がこの作品で描きたかった事は、広島・長崎に落とされた”原爆”の父「オッペンハイマー」だったのだろうか?
ロードショー公開中の今はおしなべて高評価かもしれないが、これから先、歴史が本当の評価を下すだろう。
複数の時間軸の中、多くの登場人物が絡むので正直初見で全てのテキスト、セリフは理解出来ていない。しかし決して難解な作品という訳では無く、ノーランワールドを十分に堪能出来る作品である。
まずこの作品を観て、“オッペンハイマー”という人物・作品に対して抱く思いは、恐らく日本人とアメリカ人では違うであろうと思う。
と共に日本人として観ておくべき作品であると思う。
この作品で広島・長崎の原爆投下はターニングポイント的な扱いであった(少なくとも広島・長崎がどんな惨状であったかは1mmも触れられてない、ただ原爆が落とされ、多くの人が死んだという報告のみだ)。そうだからかはわからないが、原爆が投下され本国に伝えられたシーンの後、比較的高齢なご夫婦が退席されていた。私は先の戦争を知らない世代だがそのご夫婦の気持ちがいかばかりか、想像に難く無い。
北米配給のユニバーサルも「原爆開発をめぐる科学者同士の裏切りや当局が狙うスパイ追及といったサスペンス映画」と宣伝している様に原爆を使った側と使われた側でこの作品に向き合う前提条件が全く違うという事を忘れてはならない。アカデミー賞を受賞し、興行収入も素晴らしく、ノーラン監督が撮影したから手放しで賞賛できるかと言えば、答えはNOだ。
ただ、ノーラン監督が描きたかった映画「オッペンハイマー」とは?
この作品に答えがあるとも思えない。
同監督の『テネット』では、一度発明したことを戻すことができるのか、という問いかけを行っている、また核の脅威と、それが解き放たれたときの影響について描いていた。
”核”・”オッペンハイマー”・”広島・長崎”・”被曝”ノーラン監督の中にこれらのキーワードが揃ってないはずがない。しかし、この作品の中で唯一語られていないキーワードがある。
それは”被曝”だ
日本人の中には”被曝”という言葉の意味がDNAの中に染みこんでいると思っている。それは、戦争を体験し広島や長崎で被爆していない国民一人一人の中にも、強く忸怩たる思いが根付いているはずだ。しかし、日本人以外の人々の中にどれほど”被爆”という言葉の意味がわかっているのだろうか?
ノーラン監督へのインタビューの中で<10代の息子にこの作品について初めて話したとき「若者は核兵器に関心がないし、脅威だと思っていない。気候変動の方がもっと大きな懸念だと思う」と言われ、それがとても衝撃的だった>と語っている。それは、決して若いものだけが抱いている原爆や核へのイメージというわけではない。実際アメリカをはじめ多くの人々は”核”は必要悪と肯定的に考えてる人は少なくない、実際オッペンハイマー北米公開時、バービーときのこ雲をかけ合わせる類の画像が一般ユーザーらによっていくつも作成されて日本では波紋を呼んでいたが、そんなイメージを安易に描いてしまうという「現実」が日本人には理解できていないというだけだ。そんな、日本人からは理解できない現実がある中で”被爆”の惨状を伝えたとしても本質的な事を伝える事は難しい。
この作品で”被爆”の惨状についての描写は無い。
ただ、この作品が公開されるにあたり、初めて知ったことがあった。
それは、トリニティ計画でプルトニウム型原爆の実験が行われたトリニティ・サイトの事だ。
トリニティ計画のあと10日間に放射性物資は全米46州やカナダ、メキシコにも拡散、被爆者がいたという、米国民にとっても、史上初の被爆者が広島の収容所にいた米兵捕虜ではなく、本土の米国人だったという「事実」を殆どの米国民は知らないそうだ。
ある意味日本人である私にも衝撃でもあった、唯一の被爆国”日本”、しかし被爆者が日本人だけで無い事は知っていたが北米における被爆者の事は全くと言っていいほど知らなかったからだ。
この作品が公開されるにあたり、賛否両論色々な意見が別れている。広島にある中国新聞の記事では<「広島と長崎やトリニティ・サイトを見せないのは、米国の観客に「加害者」としての罪悪感を持たせない意図でもあったろう>と論評しているが、被爆の実相を描かなかった事で、日本人としてあまり馴染みが無かった米国民が最初の被爆者であったという事実が浮き彫りになったと考えると、この作品が制作されたことにより多くの事を知る機会を得た事は意味がある。
この作品からよくわかった事は、オッペンハイマーが、原爆という「パンドラの箱」がどれほどの影響を人類に与えるかわかっていた事、そしてその事がわかっていながら科学者としての探求(欲求)に抗えなかった事。そして、実際に使用された後被爆の実相から目を背けた事。
この作品はオッペンハイマーの人生を中心に描いているので原爆が投下された事から目を背けた通りに描かれているのかもしれないが、ノーラン監督も核の脅威を描きたいと思っていたのなら、実相を描く必要はあったのでは無いかと思う。少なくとも米国民にも被爆者が居たという事実。そこさえも描かない事は共感ができない。
NHKのインタビューで「原爆の被害がなぜ描かれていないのか?」との質問にノーラン監督は「映画をどう観て欲しいか明言したく無い」と回答を拒否している。
また、映画チャンネルの荻野洋一氏の記事に興味深い内容があったので引用させていただく
<『ヒロシマ、モナムール(公開当時の邦題:二十四時間の情事)』(1959)という、アラン・レネ監督が戦後の広島でロケーションした著名な映画があるけれども、その映画の中で、原爆についての映画に出演するために広島に滞在中の女優(エマニュエル・リヴァ)が「広島で、私はすべてを見たわ」と言うと、彼女とつかのまの恋に落ちている広島在住の男(岡田英次)が「広島で、君は何も見なかった」と応答するあまりにも有名なセリフがある(脚本はマルグリット・デュラス)。
『オッペンハイマー』の恣意的な画面連鎖を眺めながら、筆者はオッペンハイマー本人と空想上の会話を交わした。
オッペンハイマー氏「ロス・アラモスで私はすべてを見た」
筆者「いいえ、ロス・アラモスであなたは何も見ませんでした」
彼がしたことの重大さに比べれば、戦後の冷戦下で彼が赤狩りで追及を受け、スパイの烙印を押されるかどうかなど、私たち日本観客の知ったことではないし、付き合う義務もない。
赤狩りで活動停止に追い込まれたあげくに39歳で命を落としたスター俳優ジョン・ガーフィールドの短い生涯を描いたよと言われたならば、私たちは固唾を飲んでブラックリストに載った彼の悲劇的な行末を見つめることだろう。原爆の罪深さと、赤狩りで失脚する学者の内面の苦悩とが、等量の重要性をもって描かれるという操作に、筆者は言いようのない冷酷さを見ている。>
日本人としての一つの回答だ。
劇中オッペンハイマーがヒンドゥー教の経典を引用し「我は死なり、世界の破壊者なり」だったかそんな言葉を語る、死神とは果たしてオッペンハイマーなのだろうか?
いや違う、本当の死神は人類そのものでオッペンハイマーはただパンドラの箱を開けただけにすぎないのかもしれない。今までは、核を作った人間、使った人間、使う事を決めた人間を悪だと思っていたが。この作品を観てからは人類そのものに大きな責任があり、自分も決して無関係では無いのだと改めて深く考えさせられるに至った。
ノーラン監督が描きたかったもの、その答えは監督の中にも無かったのかもしれない。
ただ少なくとも、この映画を体験する事で多くの人々に”原爆”・”核”というものに関心が集まった意義は大きい。
そして。
現代新たな「パンドラの箱」になるのでは無いかと危惧するものがある、それはAIだ。昔「アイロボット」という作品を観たが、AIは核をも上回る脅威となりうると思っている。なぜなら、人類の頭脳がAIの頭脳に勝る処理能力があるとは思えない事、そしてAIには致命的な”感情”というものが無い事からだ。
最後になるが、この作品公開の年にゴジラ-1.0が公開された事、たまたまではあるが何か因縁めいたものを感じる。そして、山崎貴監督がオッペンハイマーを観て「アンサーの映画を日本人として作らなくては」という一言に物凄い共感するものを感じてしまった。
是非!アンサー作品を作って頂きたい!
タイトルなし(ネタバレ)
ずっと、彼がアカかスパイかなんて、どうでもよい話だと思いながら観てた。広島・長崎の惨状を描いていないという前評判を聞いていたが、映像として見せていないだけで、彼のメンタルな部分や幻覚である程度描かれているように感じた。彼が体験し見聞きしてきたものだけを、客観的に淡々と描いていた。ただ、原爆を子供の頃から知っている日本人としては不十分に感じるのは仕方なく、もう少しおぞましさの伝わる表現が欲しかった。日焼けの皮がめくれる程度の描写なら、ない方が良いと思った。IMAXの映像と音響はすごかった。アカデミー賞作品賞、監督賞(ノーラン)、主演男優賞(キリアン・マーフィー)、助演男優賞(ロバート・ダウニー・Jr.)、撮影賞、編集賞、作曲賞の計7部門受賞。
クリストファー·ノーランの描く原爆の父
親日家であるクリストファー·ノーラン監督だけに、かなり日本に気を遣っているなと感じました。広島への投下成功のあと、ドイツにも落としてやりたかった!と主人公が言いますが、元々、同じ白人であるドイツに落とす気はなく、人間扱いしていなかった日本に落とすつもりだったのです。Japaneseと表現していましたが、実際は、最も蔑む言葉であるJapと言っていたのです。主人公があれほど後悔し苦悩したのかは定かではありませんが、苦悩していたのは事実なのではないかと思います。それ程、主人公の演技は素晴らしかった。他の俳優の演技も、音楽も秀逸でした。ただ、原爆投下で狂喜乱舞するアメリカ人の姿に、胸が痛みました。あの場面だけは、日本人として辛かった。アカデミー賞に値する傑作であったことには異論はありません。
原爆の恐ろしさと人間の愚かさ
まず、主人公に共感出来なかった。学生時代、実験が苦手だからといって、教授の林檎に青酸カリを注射器で注入するなんて。その後も、不倫して相手が自殺したり、奥さんが出産後アル中になると、友人に赤ちゃんを預けたり。問題から逃げてばかりいる人物だ。学者としては優秀なのかもしれないが、原爆の実験に成功してから、やっと陸軍に兵器として使用されることに気付くとは。あまりにも想像力が無い。
原爆の実験での映像がリアルだった。 炎、爆風、光、地響き。恐怖を感じた。この映像体験だけでも観る価値はあった。今日も地球ではあちこちで戦争が起きている。愚かな人類が生きている限り、戦火が消えることは無いんだろう。
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