月のレビュー・感想・評価
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いくつもの視点から考えてみてほしい
どうしようかと思っていたけど、観れてよかったです。
磯村勇斗くんが好きな自分にとっては、また新たな一面を見せてくれたなと感心していたとこでした。
作品のテーマは非常に重いです。
でも、私達は今もこれからも考えていかなくてはいけない重要な内容です。
障碍者を悪く言うつもりも、仲良く楽しくみんなで生きようなんて、言うつもりもありませんが、障碍者本人、その家族、施設で働く人、施設を経営する人、みんなそれぞれが違う思い、考え方、見方をしてるわけです。
実際、本当に寝たきりで胃ろうで生きてるという方もいるでしょう。そういう方に心がないのか、その家族はその人のことをどう思っているのか、それもやはり人それぞれでしょう。
この作品がやまゆり園の事件をモチーフにしているようですが、あくまでもフィクションであり、ドキュメントではないのです。全てを忠実に再現する必要はないのです。
これからもこういう事件がないとは言い切れない、この作品を観た人達がこのような事件があった、どうしてこの事件が起きてしまったのかと考えるきっかけになればいいのです。
石井裕也監督の他の作品を見たことがあればわかると思いますが、問題提起をしてくれていると私は思っています。
出生前診断のこともそう、障碍者施設の問題や、障碍者と健常者を共存していくにはどうしたらいいか、いろいろ考えることはあると思います。
この映画のここがダメ、いいとかではなく、監督がなぜこの作品を作ったのか、何を伝えたかったのかを考えることが大事なのかなと思います。
期待度○鑑賞後の満足度◎ 久しぶりに男前なオダギリジョー。キャリア最高とも言える宮沢りえの名演。しかし本作のテーマは月(人間・社会)の裏側(見えない面)を描いて深く重い。
①まだ記憶に生々しい事件を想起させる映画をこんなに早く作っていいのか、特に被害者の遺族の人は観ていて堪らないだろうなぁ、とは思った(『PLAN75』の冒頭シーンの時も心配したけど)。しかし映画としては画面から目が離せない力作。
②テーマは分裂している(一方は、現実から目をそらす・向き合わない、臭いものには蓋をする、キレイなものだけでうわべを繕う、本心を隠して嘘をつく、本心は違うのに自分を正当化するために自分の心にも嘘をつく等々の人間の心が持つ暗い面ーでも敢えて汚いことは隠すことも必要な時もあると思うけど…、でもう一方は、人とは何か、「心」とは何か、生まれて来なかった方が良かった人間などいるのか、障害者の人達は本当に可哀想な人達なのか、そう思う人の方が可哀想な人なのではないか等々の障害者を含めた人間が生きる意味)ようにも思うが、それを繋ぐ立ち位置に宮沢りえ扮するヒロインがいる。
③障害者殺人というジャーナリスティックな側面ばかり見ていると見落としてしまうテーマを持った作品だと思う。
どうしても其方に目が行くのは判るが。
④ただし、「さとくん」の発想はあまりにも短絡的・近視眼的・自分勝手で到底赦しがたいし、同情の余地はない。まあ、テロリストや銃乱射犯人の思考も似たり寄ったりだろうけど。
また、ヒロインに“貴女も同じ考えでしょう。だから仲間です”と言ったり、“誰かがやりなさいと言っている”と言ったり狂信的な点も垣間見得る。
耳が聞こえない恋人に(聞こえないのをいいことに?或いは聞こえないからこそ?)殺人の意思を告げたり、二階堂ふみ扮する同僚を無理矢理巻き込んだり、この男も結局自分で思うほど意志が強くなかったようだ。
⑤非難を覚悟で言うと、本作を観て実際の事件や事実もこんなだったと思うのは想像力が欠如していると言わざるを得ない。
悪人を演じたからといってその役者を悪人と思うのと同じこと。
213 りえちゃん、幸薄いなあ
始まりから暗いトーンに終始し物語の印象を早くも染み込ませる。
あと一言付け足したら爆発しそうなマグマを
りえちゃんもふみちゃんもジョーも磯村勇斗も
前半はなんとか踏みとどめていたが
後半はすみません、ワタシ酔っぱらってますとツッコむツッコむ。
もう少しダイレクトに現場の闇を見せるか、と思っていたが
監督の良心か行き過ぎた演出はなく
最後ふみちゃんかりえちゃんが危ない目に合うのは嫌だなあと
ハラハラしていたがそれもなくホッとした。
拙自身、人間というのは性悪説そのものと思っており
誰もが一線を超える危険性を持っている。
じんけん~!へいわ~!さべつ~!クマ~!
の昨今のお花畑の方たちの言い分は全く同意できず
もっと現実的に相対することを考えていかないと
ますます怖い世の中になっていきますね。
それでも物語は一筋の光を見せてくれるエンディングになっています。
70点
イオンシネマ草津 20231025
考え続ける為に
深く考えさせられる作品
パンドラの箱に残されたかすかな希望。ディスコミュニケーションの果てに。
当時社会に衝撃を与えた障害者施設無差別殺傷事件。その被害者の数もさることながら、なんの抵抗もできない人々を次々と殺害したその様に戦慄を覚えたと同時にこの事件が社会になげかけた影響もはかり知れないものだった。
ある意味この事件は現代社会において起きるべくして起きたとしか思えなかった。もちろん犯人は幼い頃から問題行動を起こすような人間で事件直前には反グレ集団のメンバーでもあった。そんな人間が起こした事件だから我々一般人には関係ないと思いたくなるだろう。しかし彼が語った動機を聞いた時、はたして自分と無関係だと言える人間がどれだけいたであろうか。
障害者は無益な存在、いるだけで社会の足手まとい、いない方がいい。そう考えていた人間も少なくないのではないか。現に事件後、彼の動機に賛同する人間も多かった。ましてや生産性などと国会議員でさえもが堂々と言うのが今の社会だ。
障害者を社会から隔絶した場所に一か所に集めて押し込め知らないふりをしている自分たちは犯人とは違うとはたして言えるのだろうか。
いわゆる優生思想、かつてナチスドイツのホロコーストのもととなった思想であり、日本でもハンセン病患者に対して隔離政策がなされた。いまの社会でこの思想が完全になくなったといえるのだろうか。いまもこの思想が人々の心の底にうごめいていて何かの拍子に表に出てくるのではないか。特に社会が貧しくなり、人々の間で思いやりがなくなってきている今のような時代では。
今の時代は不寛容な時代だと言われる。経済が長年停滞してみなが漠然たる不安を抱え、他者を思いやる余裕もないのだと。マスク警察、自粛警察と何か災害など起きれば他者をたたきまくる。他者を許容する余裕がない。中世の時代、魔女狩りが行われたのもこんな社会だったという。
社会的弱者をたたくのも同様、LGBTや外国人などのマイノリティーに対する差別は実にあからさまだ。もちろん障害者も同じく。だが、一歩違えば自分も同じくマイノリティーになる可能性は誰にでもある。障害などは後発的にも生じるものだし、ましてやみなが高齢者に必ずなる。自分がマイノリティーの側になるのだ。結局、不寛容な社会というのは自分の首を自分で絞める社会なのだ。
出産前検査で異常が分かれば九割がた堕胎をしてしまうのが現実だと劇中で述べられる。障害者だから産まないという考えと障害者だから殺してもいいという考え、この両者の考えは地続きとも思えてならない。
もちろん劇中の夫婦は、再び同じ苦労には耐えられないと堕胎するかを悩むのであり優生思想的な考えは持っていない。むしろ彼らにそのように悩ませる社会にこそ問題があるのではないか。もしいまの社会が障害者であっても幸せに生きられるような社会だったら彼らは悩んだだろうか。あらゆるケアが受けられ健常者と同じように地域社会で暮らせるような社会だったなら彼らは産むことに躊躇しなかったのではないだろうか。障害者にとって暮らしやすい社会はすべての人にとって暮らしやすい社会だ。
ちなみに障害者の「障害」とは障害者の持つ障害ではなく、社会が持つ障害をいうのだという。車いすで生活する人にとって段差は障害であり、その段差がない社会は障害がない社会といえ、障害者も障害者とは呼ばれなくなるのでないだろうか。今の社会、人の心にもこの段差がないといえるのだろうか。
いま世界では障害者施設を閉鎖し、障害者がそれぞれの地域で暮らせるような取り組みが行われつつある。カナダやイタリアではそれが特に進んでいる。日本もこの取り組みに積極的ではあるがまだまだ課題は山積している。
この事件は我々の社会に蠢く醜い部分をさらけ出した。まさにパンドラの箱を開けてしまったように。開けられた箱からはあらゆる不幸や災厄が外に飛び出して、箱の底には希望だけが残るのだという。この不幸な事件をきっかけにしてこういった世界での取り組みに賛同し、障害者であっても地域社会で暮らして行ける社会を作ってゆく、誰もが暮らしやすい社会に変わってゆく。そういう希望がまだ残ってるのだと信じたい。
本作はとても挑発的な作品だった。あえて障害者の人を奇異なるものとして見せることで我々の偽善的な部分を剝ぎ取り、自分の本性をさらけ出させてそれと向き合わせようとする点が秀逸だった。自分は障害者をどう見てるのか自問自答させようと。
また宮沢りえ扮する洋子たち夫婦と犯人となるさとくんを対比して、ディスコミュニケーションの果てに起きる悲劇とそれに相反する一縷の希望を描いている点も興味深かった。
洋子たち夫婦はたとえ言葉を交わさなくとも手のひらを合わせることで互いを理解しあっていた。そして洋子は施設で意思疎通ができない寝たきりのきえとも触れ合いによってコミュニケーションを図ろうとする。
一方、さとくんは紙芝居などで入所者たちとコミュニケーションをとろうとするも挫折し、結果凶行に走ってしまう。しかし彼が入所者たちとコミュニケーションをとれないのは当然だった。洋子たちとの飲み会の席でも相手の気持ちも考えずに不快な話を続ける彼には相手の身になって相手の気持ちを考えるというコミュニケーションの基本が初めからできていなかった。とても独りよがりな人間だというのがわかる。
相手の気持ちを理解しようとしない人間が人とコミュニケーションなどできるはずはないのだ。昌平の勤め先のマンション管理業の先輩と同様に。このように一見言葉で普通にコミュニケーションが取れる健常者同士であってもディスコミュニケーションは常に起きている。
言葉が通じていても意思疎通ができない状態、ディスコミュニケーション。互いに譲り合うこともなく、相手の気持ちを理解しようとはせず自分の気持ちだけを押し通そうとする、結果交渉は決裂。あとは実力行使により自分たちの主張を無理矢理通そうとする。いまでも世界中で起きてる戦争はこんな感じではないか。
自分の気持ちが通じない、そんな相手は人間ではない。だから殺してもいいんだというさとくんの考えは、今なお戦争を続ける為政者たちの考え方と同じものだろう。
通じないのではなく、通じ合う努力が足りないと気付かないのだ。たとえ言葉が通じなくとも相手の身になって相手の気持ちを理解しようとする洋子の姿はこんな社会において一縷の希望と言えるだろう。
生存権はみんなに
脚本上で、原作のきーちゃんから洋子に主役をチェンジしたことは、余りうまくいっていません。物語は介護の闇と並ぶ形で洋子の葛藤がクローズアップされていくのでした。
長年の辺見庸ファンという石井裕也監督は、2016年の相模原障害者施設殺傷事件を描いた辺見庸の小説「月」の文庫本刊行時に、その文庫版あとがきを書き添えました。
一方「月」の映画化を模索していた故・河村光庸プロデューサーがその文章を読んで、石井監督に話を持ちかけたのです。
但し、オファーされたからといって軽く流せるような題材ではありません。石井監督も「覚悟を決めた」と取り組んだのがこの作品です。
それなりの覚悟を持って撮ったんことでしょう。その思いは感じられる映画ですが、軽快に物語を進める石井監督らしくない、直球勝負の作品でした。
もとより事件の映画化に物議はつきもの。その描き方に反発する向きも当然あることです。しかし本作が投げかける問いは根源的で、これは映画「ロストケア」同様に、見る側にも覚悟を問われる作品といえるでしょう。
■ストーリー
深い森の奥にある重度障害者施設 「三日月園」に職を得た元小説家の堂島洋子(宮沢りえ)は、人形アニメを制作する夫の昌平(オダギリショー)とふたりで暮らしていました。おかずを分け合う姿だけで、陽だまりのように温かな関係性が伝わりますが、子どもの不在は夫婦に深い影を落としていたのです。
職場では、小説家志望で同僚の陽子(二階堂ふみ)や絵の好きな青年・さとくん(磯村勇斗)らと働きながら施設の現実を知っていくのです。
洋子は働き始めて早々、他の職員による入所者への心ない扱いや暴力を目の当たりにすします。洋子はそれを施設の園長に訴えますが、まったく聞き入れてもらえず、園内の虐待を見ぬふりをするばかりです。洋子は、自分ではどうすることもできずに無力感を募らせるのです。
職務に熱心だったさとくんは、そのことについて、洋子以上に憤っていたのです。さとくんは正義感や使命感を徐々に増幅させていき、次第に″ムダなものないらない”という思想を育んでいくのです。そして、ついに狂気の行動に走ることになるのです。
彼らのために紙芝居を作って披露したりしている。
■解説
肢体不自由で口もきけない入所者「きーちゃん」の独白として構成されていた小説を反転し、映画はきーちゃんと同じ生年月日の洋子を主役としました。虚空を見つめ、沈黙の世界で命を繋ぐ寝たきりの入居者きーちゃんは、特に気になる存在です。
洋子は東日本大震災を題材とした小説で受賞したのですが、その後書けなくなっていました。障害を持った子どもを幼くして亡くし、新たに妊娠が分かっても産むかどうか葛藤するのです。
夢を持って介護職に飛び込んだ主人公が、現実の悲惨な失態に打ちひしがれる展開は、いかにも石井流です。他にも、小説家志望の陽子は才能のなさを自覚して洋子に嫉妬し、「きれいごとだけ書いている」と毒のある批判を投げつけるのです。また洋子の夫昌平(オダギリショー)はひたすら楽天的だが、人形アニメ作家としては芽が出ません。さとくんにはろう者の恋人がいます。登場人物のそれぞれに厳しい現実と直面せざるを得ない失望感が描かれていきました。
けれども本作は、施設での虐待の実態やさとくんの犯行も描写して事件を再現はしますが、その異様さを訴えるだけではありません。石井監督は「さとくんをいかに普通の青年にするか」を演じる磯村勇斗に求めました。だからさとくんの狂気は全く前面に出ていません。普通の好青年に見えてしまうくらいなのです。↓
ただし1ヵ所、そんなさとくんがすごい顔をするシーンがあります。私たちの社会が施設の奥に封印したもの。その究極を目にした瞬間の時のことです。そこから、さとくんは変わっていったのです。きっと私たち観客もそのシーンを目撃すれば、さとくんと同じ顔になっていることでしょう。このシーンを見れば、さとくんをシンプルに憎悪することなどもはやできません!善と悪の二分法的発想を木っ端みじんにする極めて危険な作品だと思います。 ↓
なので事件を「異常事態」「特殊事例」と片付けようとする常識、良識を問うているのです。「不都合なことは全部隠蔽」「なかったことにしたいんですよね」「無傷で手ぶらで、善の側に立とうとするのはずるい」……。セリフの一つ一つは、観客に向かって突き刺ささります。↓
高みの見物を決め込んでいた私たちは、欺まんと葛藤の渦に引きずり込まれるのです。見たいものだけを見て、触れたいものだけに触れる現代社会への警鐘とアンチテーゼが充満している作品でした。↓
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■感想~やはり石井裕也監督には向いていないジャンルの作品だ↓
脚本上で、原作のきーちゃんから洋子に主役をチェンジしたことは、余りうまくいっていません。↓
原作は、きーちゃんの一人語りで進められるのですが、全く話すことができないきーちゃんを、映画の主人公にするのは問題なことは理解できます。それで作品のストーリーテラーとして、洋子という原作にはないキャラクターを登場させたわけです。けれども洋子の本作における存在をなんとか理由づけようとしたため、洋子の抱える葛藤の部分のウェイトが高くなってしまい、後半は事件を通じた介護の闇に迫る本題と洋子の葛藤が並列して描かれてしまうことになったのです。
本当は、このテーマであれば大量殺人を犯すことになるさとくんを軸に進めるべきところだとは思います。しかしさとくんは、余りに自らの正義感に浸り過ぎていて、人を殺すことに全く迷いもためらいも、葛藤も見せないのです。それをまんまに描いたら、『13日の金曜日』のようなシリアルキラーの作品になってしまったことでしょう。
とすれば、事件の背後の闇に迫るためにも、映画「ロストケア」同様にさとくんの弁護人を登場させて、弁護人の視点から事件を描いていく展開もあり得たのではないでしょうか。
ところで、洋子の葛藤は新たに妊娠した子どもを生むかどうかです。それは、再び障害を持つ子が生まれるのではないかとの恐れであり、中絶するかどうかの葛藤です。石井監督は洋子の抱える葛藤と洋子を知的障害者施設の職員にして重度障害者介護の現実を体験させることでリンクさせようとしたのではないかと思います。
結局その思惑は実らず、物語はどんどん洋子の葛藤の落ち着く先へと進んでいくのです。本来社会的な問題として議論すべき問題描くはずだったのに、洋子と昌平の夫婦間の問題や洋子の再び障害を持つ子が生まれるのではないかとの恐れであり、中絶するかどうかの葛藤いう、いたって個人の判断や価値観に落とし込んでいく展開にはあれれ?と思いました。
洋子の葛藤が、本来ならば施設やさとくんと私たちの橋渡しとなり、介護の現実に距離を置いてきたわたしたちを、いや応なく直面させることになったことでしょう。そこがうまくつながらないのは、やはり石井監督の脚本の限界なのでしょう。
結論を言うなら、石井監督が脚本を担当するべきではなかったし、監督も前田哲監督だったら、もっと心に響くヒューマンドラマになっていたと思います。
■最後にひと言
森羅万象には仏性が宿ります。きーちゃんのような限りない植物人間に近い重度の障害者にも、健常者と同じ仏性が宿り、帰天するときは五体満足な姿で天国に還るのです。
介護の闇の背景にあるのは、月間手取り17万円しか貰えない低賃金と仏性が宿る人間がただの物に見えてしまう唯物論的な見方でしょう。けれども奇声を発し続ける障害者にも、全く無反応な寝たきりの重度障害者にも、完全無垢な仏性が宿っています。
もちろん、そういう環境に飛び込んで介護の仕事に向き合った場合、どんなに信仰心の篤いひとでも、毎日尋常ではない環境で仕事をしていたら、さとくんのように気持がおかしくなりがちになってしまうことは否めません。
だからこそ、そういう悲惨な現場に飲み込まれず、障害者の方々の仏性を礼拝し、穏やかな介護現場を作り出すような小説や映画の出現に期待したいです。
最近では、アルツハイマー患者の希望を描いた映画『オレンジランプ』や2007年のフランス映画で、脳梗塞で倒れ、身体の自由を奪われてしまったELLEの元編集長ジャン=ドミニク・ボビーの奇跡の自伝ベストセラーを映画化した感動ドラマである映画『潜水服は蝶の夢を見る』という秀作も存在しています。
障害者の魂と一体となり得たとき、どんな奇跡が起こりえるのか。そんなお話しに触れてみたいものです。
暗くて何が起きてるのかわかりにくい それも狙いか?
障害者だった子どもを亡くしフリーターの夫と2人で暮らす元作家の堂島洋子は、重度障がい者施設で働きはじめた。そこで彼女は、作家志望の陽子や絵を描くのが好きなさとくんなどの職員や、光を遮断された部屋のベッドに横たわったまま動かない、きーちゃんなどの障害者たちと出会った。また、他の職員による入所者へのひどい扱いや暴力なども見た。自分で言葉も発することの出来ない障害者が生きさせられていることに疑問を持つさとくんは、使命感を増幅させていき、安楽死という言葉を口にするようになった。そして・・・という実際に起きた事件をもとにした話。
2016年7月26日に起きた相模原障害者施設殺傷事件を題材にしたストーリーらしいが、どこまでが事実でどこが脚色なのかわからないのは良いとして、なんか既視感ばかりでほとんど驚きも感動もなく観終わった。
もっとドキドキ、ハラハラするシーンが有るかと期待したが、7年前のこの事件がなかなか衝撃的で、ニュースでも多く取り上げられてたし、その時も安楽死について考えた事もあり、本作から新しい何かを得られた感じがしなかったのだろうと思う。
重度障害者の様子を映像で観る、という機会、特に糞尿を部屋に撒き散らし、自分の体にも塗りたくり、裸でオ○ニーしてる映像は、なるほど、これが現実なのだろう、とは思った。
あの糞尿シーンが理由で全体を暗くしてる演出なのか?とも思ったが、とにかく観難い。
宮沢りえ、オダギリジョー、磯村優斗、二階堂ふみ、など役者に不満は無いが、テーマであるはずの安楽死についての扱いも浅いし、自分には刺さらなかった。
2回観ました
一度では受け止めきれず、2回見ました。
25歳の娘が障害者であることもあり、
半分は当事者として、
でも問題に根本的に向き合えていないので半分第三者として映画を見ました。
思いがうまくまとまらず、
皆さんがどう感じたかの感想を知りたくてここに辿り着きました。
今も、「東へ西へ」の歌詞の「がんばれ」の意味が、180°真逆だったことに戦慄しています。私たちが問われていること。どちら側なのか紙一重だということ。象徴的だと思います。
皆さん書かれているように、セリフ一つ一つが自分に突きつけられているようで、本当にしんどい映画でしたが、それがこの作品の意図だと思うので、これからも都合の良い自分を感じながらしばらく生きたいと思います。
ある程度ディテールの話になりますが、
2時間に収めるため、視聴者に意図を伝えやすくするために、ある程度誇張された部分はあるだろうなと思いながら拝見していました。
例えば、昌平の同僚や、園の二人組の職員など。
ステレオタイプですが、ある意味「弱いものたちが夕暮れさらに弱いものを叩く」の構図なのかなと思ったり。
また、さとくんの彼女が聴覚障害で、
耳は聞こえなくても相手の気持ちがわかる人として描かれていました。
これは障害者を表現するときにとても重要なファクターで、原作の主題の一つでもあったと思うのですが、
ある機能が劣っているから他も全部できないのではなく、できないことがあるぶん、他が人より鋭敏である、という側面だと思っています。
さとくんの彼女は、さとくんの変化に気づいていた。だから出て行く時にあんなLINEを送った。
そんな鋭敏な彼女ですら、今夜決行すると気付けないくらい、さとくんは「普通」だった、ということを描きたかったのだと。
聞こえていたら止められたのに…。
当事者である彼女本人には、そう感じさせてしまう描き方ではあったかもしれませんが、
普段手話で会話するさとくんが、
あそこだけ言葉のみで宣言したのは、
さとくんが「劣っているところがある分優っているところがある」を理解しているからこその行動であり、とても示唆的だと感じました。
何が優って何が劣っているかをどう判断するのか?誰が判断できるのか?
聞こえているか、見えているか、感じているか、、、他人が判断できるのか?
そして聞こえないからこそ、見えないからこそ、話せないからこそ、内面がどんなに優っているかなんて、誰も判断できないのではないか?
でもそんなの綺麗事です。
私も毎日疲れています。
私が死んだら娘はどうなるんでしょう。
見たくないものに向き合わないと。
追記
原作読みました。必読です。
きいちゃんの内面を誰が判断できるんだ??
役者達の覚悟、観る側も覚悟を。
月。照らし出されるもの。
こちらのサービスで初めてレビュー機能を使います。
まだ鑑賞されていない方にとって参考となる有益なレビューが書けるかどうか確信もないまま。
ただ、ここまで書いてこなかった人間がこの映画については書かないままではどうにも消化しきれない思いが残ったのだなということが伝わるだけ、このレビューにも意味が生まれるのではと思い投稿させていただきます。
背景にあるだろうモチーフ、想起される事件があっての作品だろうことは知った上で選んだ映画ではありましたが、態度としては、見せていただいているものをなるべくそのまま鑑賞することに最後まで努めたつもりです。
◇
ある人にとっては「考えないこと」「向き合わないこと」にしておかなければ、日々を前向きに歩けないようなことって、確かにあって。
でもまたある人にとってはその「考えようとさえしていない」「向き合おうとさえしていない」態度がどうにも合点がいかなくて。
その双方が時に自分のなかに同時に存在しながら、距離を取ることも許されず、衝突を起こすこと。
これも、確かにあって。
なぜ月を照らさなければいけないのかを、太陽は考えるのか。
太陽に照らされることで初めて照らすことができる月は、なぜ自力でそれをしようとしないのか考えるのか。
あるのかを問われる「心」は、そもそも、あるなしで表現できる対象なのか。
耳が聞こえずに言葉を話せない人間がするハグに込められた心はなにか。
言葉を話す人間が言い放つ、心ない言動にのせられた言葉に、心はあるのか。
この映画を通して事件を想像したり向き合うという表現は、当事者としての経験や実際を知ろうとしてこなかった私には(適切な言葉に至りませんが)あまりに傲慢な気がしています。
まずは映画が示したこと、制作に関わられた俳優の皆さんが表現してくれたことに向き合って、これからの私の日々にどんな変化が生まれてくるのか、内省を大切に生きていこうと思います。
私が、しっかり照らし出される作品であることは間違いないのではと感じました。
多くの方に鑑賞してもらいたい作品だと私は思いましたので⭐️5つ、つけさせていただきました。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
生きてても意味ないなんて大きなお世話 人を殺す権利は誰にもない
原作は2016年の夏に相模原市の知的障碍者施設で起こった大量殺人をモチーフにした辺見庸の小説で、それを石井裕也が映画にしたというのだから観るしかなかった。障碍者と老人の違いはあるが、3月に公開された「ロストケア」とテーマ的には近く、19人を刺殺した「さとくん」を見ながらずっと松山ケンイチを想起していた。要するに「安楽死」の問題なのだが、誰もが「なんで生きているのか」なんて分からないのに、ましてや他人様のことをとやかく言うなんて余計なお世話である。磯村勇斗は嫌いな役者ではないし、今回もどう演じてくれるのか楽しみにしていたが、まあちょっと相当残念だった。彼の力量不足なのかキャラクター設定が定まっていないというか彼自身が「さとくん」をつかみきれていないのであろう、唯一見ごたえのあった宮沢りえとの対決にしても、松山ケンイチと長澤まさみのバトルに遠く及ばない。ボクシングジムで鍛えたり刺青を入れたり金髪に染めたり気持ちは分かるのだがどれも小手先の演出にしか見えず、聾の彼女を抱いて「今日殺してくるよ」と告げるシーンはすごく美味しい場面なのに、ただフラットに演っているだけで真実味が無いのだ。ラスト近くの回転寿司屋でカタカタという音と寿司の皿が流れていくアップが続く場面がなぜか心に残って、やっぱり石井裕也はへんな監督だと最後に確認した。
見て見ぬふりをすること
あの事件を題材に石井裕也監督が映画化すると聞いて、本当にできるの?公開できるの?と危惧していたが、ミニシアターながらほぼ満員のお客さんの中で観ることができ、そのことだけで素直に良かった。
実際の障害者も出演しているようだし、ナチスや優生思想という言葉もはっきり使われていて、現在の日本映画ではタブーというか、忌避されてきた部分を真っ当に取り上げている。その点は、放送禁止用語が飛び交う「福田村事件」と同じ。
多分、石井裕也監督でなければ、観なかっただろう。この題材をゴリゴリの社会派作品に仕上げられたら、あまりに観るのが辛い。辺見庸の原作を換骨奪胎したようだが、石井監督ならではの軽みと希望が加えられている。ただ、これだけの題材を扱うにしては軽すぎる、という批判はあるだろう。そもそも現実の事件からまだ7年という生々しい時期に映画化するのはどうなのか、という思いが拭えないところはある。
俳優陣は、出演すること自体に悩んだだろうが、宮沢りえをはじめ、みな力は入っていた。磯村勇斗は、近頃の問題作の常連という感じ。特に良かったのが、オダギリジョー。ちょっと情けなく、危うい感じの役をやらせたら比類がない。
この作品の大きなテーマである「見て見ぬふりをすること」については、自分の考えがまとまらない。そのことを「嘘」だと言い切るのは違うと思うし、「だから自分が何とかする」というのは独りよがりになってしまうのでは、としか言えない。
人間の尊厳の意味を問う傑作
試写会で観た「愛にイナズマ」に続き石井裕也監督の作品が続く。対極にある2本だがともに傑作。
一昨年に相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた殺傷事件。入所者19人が殺害され、職員を含む27人が負傷した。
今作はこの事件をモチーフにした辺見庸さんの小説を映画化したもの。
介護に苦しむ人々を救わんとする映画「ロストケア」と類似のテーマ。
呼吸をしていれば、心臓が動いていれば人間として守られなくてはならない、それこそが人権であるという現在の考え方。
そのことによる歪みは余りにも大きい。
人間としての尊厳を守るためにも、新たな加害者を産まないためにも、システムを確立することが望まれる。
救いは宮沢りえさんとオダギリジョーさんの夫婦だった。
ラスト、りえさんの言葉に嗚咽をもらした。
「俺、生きててよかった」と心の中で叫んだ。
苦しまずに逝ったなら良いのですが
高畑さんが演じていた様な親御さんは実際に居たんでしょう、それを思うと悲しくなります。 大きな事件でしたが、その事件の大きさに対して世間や被害者様の声が少なかったようにも思えた事件です。 厄介払いされた方も居たのでしょう、ただただ苦しまずに逝ってたなら良いと事件当時から思っていました。
あくまでもこの何の知識も無く、この映画を観た前提として書かせてもら...
ほぼ実話
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