月のレビュー・感想・評価
全260件中、161~180件目を表示
月。照らし出されるもの。
こちらのサービスで初めてレビュー機能を使います。
まだ鑑賞されていない方にとって参考となる有益なレビューが書けるかどうか確信もないまま。
ただ、ここまで書いてこなかった人間がこの映画については書かないままではどうにも消化しきれない思いが残ったのだなということが伝わるだけ、このレビューにも意味が生まれるのではと思い投稿させていただきます。
背景にあるだろうモチーフ、想起される事件があっての作品だろうことは知った上で選んだ映画ではありましたが、態度としては、見せていただいているものをなるべくそのまま鑑賞することに最後まで努めたつもりです。
◇
ある人にとっては「考えないこと」「向き合わないこと」にしておかなければ、日々を前向きに歩けないようなことって、確かにあって。
でもまたある人にとってはその「考えようとさえしていない」「向き合おうとさえしていない」態度がどうにも合点がいかなくて。
その双方が時に自分のなかに同時に存在しながら、距離を取ることも許されず、衝突を起こすこと。
これも、確かにあって。
なぜ月を照らさなければいけないのかを、太陽は考えるのか。
太陽に照らされることで初めて照らすことができる月は、なぜ自力でそれをしようとしないのか考えるのか。
あるのかを問われる「心」は、そもそも、あるなしで表現できる対象なのか。
耳が聞こえずに言葉を話せない人間がするハグに込められた心はなにか。
言葉を話す人間が言い放つ、心ない言動にのせられた言葉に、心はあるのか。
この映画を通して事件を想像したり向き合うという表現は、当事者としての経験や実際を知ろうとしてこなかった私には(適切な言葉に至りませんが)あまりに傲慢な気がしています。
まずは映画が示したこと、制作に関わられた俳優の皆さんが表現してくれたことに向き合って、これからの私の日々にどんな変化が生まれてくるのか、内省を大切に生きていこうと思います。
私が、しっかり照らし出される作品であることは間違いないのではと感じました。
多くの方に鑑賞してもらいたい作品だと私は思いましたので⭐️5つ、つけさせていただきました。
最後まで読んでくださってありがとうございました。
生きてても意味ないなんて大きなお世話 人を殺す権利は誰にもない
原作は2016年の夏に相模原市の知的障碍者施設で起こった大量殺人をモチーフにした辺見庸の小説で、それを石井裕也が映画にしたというのだから観るしかなかった。障碍者と老人の違いはあるが、3月に公開された「ロストケア」とテーマ的には近く、19人を刺殺した「さとくん」を見ながらずっと松山ケンイチを想起していた。要するに「安楽死」の問題なのだが、誰もが「なんで生きているのか」なんて分からないのに、ましてや他人様のことをとやかく言うなんて余計なお世話である。磯村勇斗は嫌いな役者ではないし、今回もどう演じてくれるのか楽しみにしていたが、まあちょっと相当残念だった。彼の力量不足なのかキャラクター設定が定まっていないというか彼自身が「さとくん」をつかみきれていないのであろう、唯一見ごたえのあった宮沢りえとの対決にしても、松山ケンイチと長澤まさみのバトルに遠く及ばない。ボクシングジムで鍛えたり刺青を入れたり金髪に染めたり気持ちは分かるのだがどれも小手先の演出にしか見えず、聾の彼女を抱いて「今日殺してくるよ」と告げるシーンはすごく美味しい場面なのに、ただフラットに演っているだけで真実味が無いのだ。ラスト近くの回転寿司屋でカタカタという音と寿司の皿が流れていくアップが続く場面がなぜか心に残って、やっぱり石井裕也はへんな監督だと最後に確認した。
厳しい現実と向き合うことの過酷さ。
この映画は相模原障がい者施設での事件を題材にしており、犯人である”さとくん”の主張(優生思想)は誰しもが少なからず心のどこかに持っているような気がした。しかし、その主張はいくら綺麗事と言われようとやっぱり認めるわけにはいかないということをこの映画からは強く感じた。
”さとくん”も初めからそのような思想を持っていた訳ではなく、なぜそのような思想を持つに至ったのかということが細かく描かれていた。労働内容の過酷さは勿論、労働に見合わない低い賃金の問題、同僚からのイジメなどそういった様々に絡み合う厳しい現実から逃れるために事件を起こしたという背景がある気がした。どういった背景があるにせよ、犯行自体は身勝手極まりなく、到底理解できるものではない。厳しい現実を生きる人にとって現実と向き合うというのは残酷なほどに過酷なのもまた事実である。誰しも厳しい現実と対峙せざるを得ないときが来ると思うが、そういった時にどういう態度を選ぶのかという普遍的なテーマを扱っている映画だと思った。障がい者施設で働かれている方々には尊敬の念を強く持った。また、この世に生きる全ての人にどうか幸あれ。
みずからの内に潜む優性思想とどう向き合うか
相模原殺傷事件から7年、植松聖の死刑が確定して3年半が経過し、議論が尽くされずに事件が風化しつつあるなかでの本作品の公開の意義はとても大きい。
当然ながら、本作品は事実をもとにつくられたフィクションであり、辺見庸の原作からも石井監督によって大幅に手が加えられている。これは石井監督によるひとつの問題提起だ。
映画を通して、石井監督が伝えたかったこと、考えて欲しいことを、観客が丁寧に掬い取っていくことが強く求められる。要求に対するストレスや、彼の問題提起の手法に反発する意見が多いことも理解できる。
事件当時からパンデミックを経て、日本の社会環境はますます閉塞感や息苦しさが感じられるものになってしまった。自分が社会的弱者になりかねないなか、誰もまわりの弱者に手を貸す余裕はなく、いっぽうで政府や社会からも更なる「自助」が強く求められている。
作中の洋子と昌平は、自分たちが生産性を求め続ける社会システムからこぼれ落ちることを恐れている。そして、あらたに授かった命の存在をめぐっての「迷い」を、さとくんに見透かされ、大きく動揺する。
さとくんも、洋子も、昌平も、私たちの内面を暴き出す「鏡」だ。
私たちは、人間社会のなかに潜む「優性思想」に知らず知らずのうちに影響を受けており、そしてパーソナルな問題に直面したときに自分自身の内なる「優性思想」がたちあらわれてくる。
私たちの多くは、二項対立線上の端々にいるよりも、そのグラデーションのなかで生きている。対立する議論の渦中にいることを避け、深い森のなかに隠された存在に目をつぶり、そこに在るものが存在していないように振る舞う私たち。
洋子がさとくんと議論するなかで、対面する相手が途中から内面に潜むもうひとりの洋子になっていくシーンは印象的だ。どんなに消し去ろうとしても、自分の内に潜む「悪意」を消し去ることはできないのか。
そんな虚無的な結論に陥ってしまいそうななかで、私たちは人間という危険で危うい存在を、どう救うことができるのか、簡単に出せない問いに真摯に向き合うことを求めてくる作品だ。
見て見ぬふりをすること
あの事件を題材に石井裕也監督が映画化すると聞いて、本当にできるの?公開できるの?と危惧していたが、ミニシアターながらほぼ満員のお客さんの中で観ることができ、そのことだけで素直に良かった。
実際の障害者も出演しているようだし、ナチスや優生思想という言葉もはっきり使われていて、現在の日本映画ではタブーというか、忌避されてきた部分を真っ当に取り上げている。その点は、放送禁止用語が飛び交う「福田村事件」と同じ。
多分、石井裕也監督でなければ、観なかっただろう。この題材をゴリゴリの社会派作品に仕上げられたら、あまりに観るのが辛い。辺見庸の原作を換骨奪胎したようだが、石井監督ならではの軽みと希望が加えられている。ただ、これだけの題材を扱うにしては軽すぎる、という批判はあるだろう。そもそも現実の事件からまだ7年という生々しい時期に映画化するのはどうなのか、という思いが拭えないところはある。
俳優陣は、出演すること自体に悩んだだろうが、宮沢りえをはじめ、みな力は入っていた。磯村勇斗は、近頃の問題作の常連という感じ。特に良かったのが、オダギリジョー。ちょっと情けなく、危うい感じの役をやらせたら比類がない。
この作品の大きなテーマである「見て見ぬふりをすること」については、自分の考えがまとまらない。そのことを「嘘」だと言い切るのは違うと思うし、「だから自分が何とかする」というのは独りよがりになってしまうのでは、としか言えない。
人間の尊厳の意味を問う傑作
試写会で観た「愛にイナズマ」に続き石井裕也監督の作品が続く。対極にある2本だがともに傑作。
一昨年に相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた殺傷事件。入所者19人が殺害され、職員を含む27人が負傷した。
今作はこの事件をモチーフにした辺見庸さんの小説を映画化したもの。
介護に苦しむ人々を救わんとする映画「ロストケア」と類似のテーマ。
呼吸をしていれば、心臓が動いていれば人間として守られなくてはならない、それこそが人権であるという現在の考え方。
そのことによる歪みは余りにも大きい。
人間としての尊厳を守るためにも、新たな加害者を産まないためにも、システムを確立することが望まれる。
救いは宮沢りえさんとオダギリジョーさんの夫婦だった。
ラスト、りえさんの言葉に嗚咽をもらした。
「俺、生きててよかった」と心の中で叫んだ。
苦しまずに逝ったなら良いのですが
高畑さんが演じていた様な親御さんは実際に居たんでしょう、それを思うと悲しくなります。 大きな事件でしたが、その事件の大きさに対して世間や被害者様の声が少なかったようにも思えた事件です。 厄介払いされた方も居たのでしょう、ただただ苦しまずに逝ってたなら良いと事件当時から思っていました。
🎵 月は流れて、東へ西へ 天狗舞よりも月桂冠「つき」
石井裕也監督らしい鬱映画である。
独特の世界感の表現に成功したかも。
深い森の奥の社会から隠ぺいされた障がい者養護施設を舞台に、ひとりよがりの優越感(相手を見下す心理や態度)や優生思想について、メビウスの輪の上を歩くが如く出口のない迷路から逃げ出せない感覚にハマる。
クセの強い俳優(二階堂ふみ、モロ師岡)の洋子に対する辛辣なセリフや馬鹿みたいにワンパターンのマウントを取ってくるマンションの管理人などはとても不愉快。
心臓病の子供を手術中のトラブルから3年間の植物状態の末に失った夫婦。妻のことを師匠と呼ぶ気弱な夫と処女作後まったく書けなくなった小説家の妻。今後妊娠しても生むかどうか、出生前診断するかどうかの答えも出せない。父親から虐待されながら育ちながらも実家を出ないひねくれ女。ネガティブなことを言わせたら右に出るものはいない。軽度の知的障害があり、その素直さゆえに物事に執着しがちな若い介護職員のさとくん。
これらの少ない登場人物に閉鎖的な舞台設定。
一番恐ろしいのは劣等感の裏がえしの根拠に乏しい優越感。
それに優性思想がかぶってくると鬼に金棒。
施設の所長は現実を見なさいと言って職員を丸め込もうとする。
さとくん(磯村勇斗)は陽子(二階堂ふみ)の毒にまずやられてしまったような気がする。
不快な匂いと音は視覚以上に感情に訴えてくることを滔々と話したり、はなさかじいさんの悪い爺さんの話などがループして、おかしくなってゆく。
自分とコミユニケーションを取れない心のないものは人間ではないと決めつける。
一方、ろう者の彼女は障がい者でも手話でコミュニケーションとれるからと
都合のいい線引きをする。
そんなさとくんはわざとろう者を恋人にした気がする。
さとくんが歌う井上陽水の「東へ西へ」。
このころの陽水のアルバムの曲は憂鬱な歌詞で溢れている。
🎵 がんばれ みんな がんばれ 月は流れて 東へ西へ
オダキリジョーが三人に負けじ?と、すごく真面目な演技。
よかった。短編映画で賞もらえて。
でも、天狗になるときっと離婚することになる予感。
回転ずしの玉子のエピソードも石井裕也の独特の世界感。
誰も取らないのでぐるぐる廻っている玉子は最終的には廃棄されるのか?
あなたが今取ったのは~ 金の皿ですか? 銀の皿ですか?
私はつつましく謙虚に暮らしております。
600円の金の皿はがまんして、100円の皿。
天狗舞よりも月桂冠「つき」
あくまでもこの何の知識も無く、この映画を観た前提として書かせてもら...
ほぼ実話
残酷な現実と人の傲慢さ
凄まじい内容の映画だった。
これは見たくない現実に蓋をする現代社会に対する挑戦的な作品だ。
この映画を観た誰しもが考えさせられる。
自分は見たくない現実に目を背けてなどいないと本心から言えるかどうかを。
綺麗事では残酷な現実を変えることは出来ない。
受け取り手によっては障がい者を殺すことを決めた男性職員に同調する者もいるだろう。
彼の言葉を真っ向から否定する洋子の意見がまさに綺麗事にしか過ぎないのだから。
なのでこれは非常に危うい作品であるとも思った。
書けなくなった元有名作家の洋子は障がい者施設で働き始める。
物語が始まってすぐに洋子と夫の昌平の心の中に何らかのわだかまりがあることに気づかされる。
彼らは一人息子を難病によって失っていたのだ。
息子は口をきくことも立ち上がることも出来ずにこの世を去った。
洋子は自分と同じく小説家を目指し、ネタ集めのために働く陽子や、絵が得意な心優しいさとくんと共に障がい者たちと向き合っていく。
陽子にはこの仕事を軽んじているわけではないと話す洋子だが、昌平の前では思わず自分にはこの仕事ぐらいしか出来るものがないのだと本音をもらしてしまう。
本来なら社会貢献度のとても高い仕事であるはずなのに、やはり社会としては直視したくない現実なのだろう。
給料も安ければ感謝されることも少ない。
これは介護士などに限ったことではなく、世間は直視したくない現実と向き合う仕事を冷遇しがちだ。
そしてこの障がい者施設は世間からまるで隠されているように存在するため、中では信じられないような暴力行為が行われている。
障がい者をケアせずに閉じ込め、憂さ晴らしのために暴力を振るう。
もちろんここに描かれているものが障がい者施設の現実のすべてであるとは思わないが、これが見たくないものから目を背ける社会が作り出した残酷な現実の一端であるのは確かなのだろう。
最初は障がい者たちの手助けをするために働き始めたはずのさとくんが、やがてこの残酷な現実に触れて心が歪んでいくのも無理はないと思ってしまった。
いつしか彼は、障がい者は社会に対して生きる意味も価値もないのだと思い込むようになってしまう。
そして彼は社会に貢献するために彼らを殺害することを計画する。
そんな彼を止めるための言葉を洋子は持たない。
ただ認めるわけにはいかないと抗うことしか出来ない。
確かにさとくんの意見は一見正当性があるように感じられる。
しかしどうして彼に意志疎通の取れない障がい者には心がないと言い切れるのだろうか。
そして何故彼が生きる意味や価値がないとジャッジ出来るのだろうか。
個人的には人に対してだけでなく、自分に対しても生きる意味があるかどうかを考えるのは傲慢であると思っている。
陽子がこの施設の障がい者が幸せかどうかを洋子に尋ねる場面があるが、なぜ人の幸せを他人が判断できるのか。
この世界に役割のない人間はいない。
そして自分が望んだものでなくても、人はその役割を担って生きていかなければならない。
この世界はとても理不尽で残酷だ。
この世に生きている限り、どんな人でも苦しみから逃れることは出来ない。
どんな人にも闇はあるが、逆にいえば光も絶対に存在する。
この映画は苦しみの中の光と闇を絶妙に描き出している。
これは洋子と昌平の再生の物語でもあり、彼らの未来には一筋の光があった。
しかし、さとくんによって多くの障がい者たちは光を奪われてしまう。
何故彼を止めることが出来なかったのか。
どうして適切な言葉で彼を諭すことが出来なかったのか。
さとくんの心の闇も理解出来るだけに、最悪な結末にただただ虚しさだけが残った。
しかしこれはモデルになった事件があるように、現実にあり得ることなのだ。
もっと人が自分の傲慢さを捨て、そしてもっと他人に寄り添う気持ちを持てれば、社会は変わっていくのだろうか。
観終わった後もずっしりと余韻の残る映画だった。
事件から7年後の今
この映画のモチーフは言うまでもなく、相模原障害者施設殺傷事件だ。
モチーフではなく現実といってもよい。
社会を震撼させた事件から早7年もの月日が経った。そして悲しいことに戦後最大であった事件での死者数も数年後には更新されることとなり、2023年現在の映画公開に至る。
7年後の今、私は社会がより悪い方向へ進んでいると感じる。劇中でも言われていたが、大きな出来事があっても人々はみなそれを忘れる。
もしくは窓を塞ぎ、森の奥に閉じ込めるのかもしれない。
2023年は、発達障害ブームや親ガチャ論争・強者弱者のマウント合戦が繰り広げられる一方、”自分らしさ”という他人との差異をいかに強調できるかということが重要だと囁かれ続けている。
劇中でも示唆されていたが、生産性のある/なしはどこで区別されるのか?今や優生思想という言葉さえも見たくないものに蓋をしているとすら感じる。
一つの希望であると同時に苦い現実は、目の前の人生を誠実に生きるしかないということ。
我々一人ひとりの人生、そして連綿と受けつがれる人類史の先に答えがあると私は信じている。
月が欠けてる
かなりモヤモヤ
フィクションと言ったとしても、明らかに元となった事件があって、それも関係者の方々がご存命な訳で、もうちょっと配慮した出来にして欲しかった。
施設なら責任者が必ずいて、ある時は新米?三人で宿直してて、事件の時は一人だったり。大きな音がしたから見に行ったのに、音の原因も調べない。扉に窓あるから、鍵開ける前に窓から照らして確認するよね。
二階堂さんが小説家って意味あった?。犯人の彼女が聾唖というのもとってつけたような感じで、本当に聞こえないよね、みたいに確認してたけど、仕事してるくらいだし、二階堂と飲んだ時の感じから、唇の動きは読めるでしょ。いろいろ、無神経な映画だと、思いました。
障害者施設で働いています。
私は障害者施設で働いている者です。映画を観た感想は、だいぶ角を取って作られたな。と言う印象です。
映像が暗い、事務所が暗いとか色々な書き込みを目にしました。確かに働いている職場の事務所は日当たりが良くて明るいです。そこじゃなくて、あの暗くて、不穏な雰囲気は職員の心の中を表しているんだな。と私は思いました。
幸いにして、私が勤めている職場には虐待はありませんが、強度行動障害や重い自閉症や知的に遅れがある方は時として大暴れします。噛みます。服をブリブリに破られた職員もいます。唾をかけられて、殴られたり、猛ダッシュで体当たりをされたり。自制が効かないので全力で向かってきます。それに職員が何名も取られて他の利用者さんに手が回らないとかザラにあります。映画の様に、虐待に走る、おかしな支援になる事は案外容易に起きてしまう空間ではあります。いかにそうならない思考を持つかが大変なんです。
ちょっとしたドアの閉まる音に反応して暴れることすらあります。出演された障害者さんはきっと撮影と言う慣れない人、空間で不穏な中の撮影だったと思います。変化を嫌い、新しいを苦手とされるのでよく撮影できたな。と感心すら覚えます。
同僚は、殴られて骨折した者もいます。変な話、職員が下に見られたら、とことんかかってくる利用者もいます。障害者とは言え、殴られたり蹴られたり世間からすれば暴行と値することでも私達は我慢し、暴れず安心して生活できる空間づくりができる様な対応を常に考えていますが、実際心はボロボロで。。相手が誰であろうと殴られたら腹が立ちますが、みんな、あの時こうしたから良く無かったね。これから気をつけよう。そんな無理のある切り替えで日々頑張っています。
確かに預けっぱなしの親御さんもいます。とてつもない常識はずれのクレーマーもいます。
私は親でもあるので、深読み先読みして障害者の親だったら。。と美化しながら障害者の親御さんを考える事もあります。美化しないと、心が優しくなれない部分もあります。
すごく太った利用者さんの親御さんが(暴れたときに好きな食べ物を大量に食べさせると静かになるからと大量に食べさせていた。)痩せてほしいから散歩してほしいとニーズがありましたが、道路で急に暴れる事もあるので、公園でで散歩していたら「大人が公園で走っていて怖い」と通報された事もありました。本当に毎日疲れます。少しこの現場から離れたいとも思います。激務を超えています。
外でマスターベーションする方もいます。
それでも、誰にも命の線引きはできないと思います。殺すなんて言語道断です。
映画を観てもやっぱり答えはわかりません。
この子が大切なのよ。と言う親御さんもいます。そう言う優しい思いに耳を傾けて、優しい心を維持してもいます。
綺麗事抜きで、自分の子が障害があったとして、治療したら治る。くらい医療が進歩したとしたら、大金をはたいてでも治療する。が今ある思いではあります。
でも、本当に笑顔は可愛いですよ。心がないって事はないです。訴えだったり、苛立ちだったりで暴れるんですよね。見えない話せない。でも、指の動きだったりで訴えている事もあります。受け手がどう相手を見ようとするかで大きく変わってくると思います。
この映画の中の事はほんの一握りにも満たない出来事に過ぎませんが、世に知って頂いて考えてもらえるきっかけになったと思います。
心から感謝申し上げます。
観たいと思った映画にはいつも磯村勇斗がいる
もっと早く観たかったが、上映劇場が少ない。
やはり内容がセンシティブだからですかね。
さとくんの
「生産性の無い人間」という台詞にずっと胸が痛かったです。
私は健常者ですが、仕事だけでなくすべての「生産性」が弱いからです。
退職した会社の上司から「あげてる給料分の仕事をしていない」とはっきり言われたこともあります。
障碍者の方だけでなく、五体満足に生きていても私のような生きにくさを感じてる者も、この中に含まれているのでは?と考えてしまって辛かったです。
オダギリジョーは、そんな人の代表的な役なんでしょうか。甲斐性なしですが優しい人の役です。
なので、そんな彼が手塩をかけて作った作品が受賞したというのは深淵のような劇中の唯一の光でした。
私の知人の娘さんが施設へ入っているのですが、
やはり自分以外はご両親が面会に来ることは本当に少ないとの事です。なので、高畑淳子さん役のお母さんの話はリアルでした。
そして私自身も
二度の出産を経験、
検査の時は、「万が一、引っかかってしまったらどうしよう」と考えたものです。
とてもとても耳が痛い作品でした。
想像通り、娯楽とは程遠い話でした。
賛否両論あると思います。
それでも
事件を風化させない作品であること
と
役者の皆さんが素晴らしかったこと
だけは間違いないと思ってます。
熱演した磯村勇斗さんに頭が下がります。
観たいと思った作品はいつも磯村勇斗さんが出演することが多く
ヤクザと家族、PLAN75、渇水、ビリーバーズなどなど、
社会派をついつい好き好んで観てしまう私には
敢えて難しい役どころを選ぶ彼は
今後も目が離せない俳優さんです。
上映劇場が増えますように。。。
社会福祉や社会保障は「無知のベール」で
少し前に、意図せずやまゆり園(本作品のモチーフとなった)の付近を通り、起こった事件について思いを馳せました。
そういうタイミングで映画が公開されたので、見たくないことが描かれていたとしても観に行かねばという気持ちで観ました。
自閉症者施設で利用者の生活支援・介助の仕事経験があり、親戚に知的障がい者施設で過ごしている者がいる身としては、施設内の様子の描かれ方は、最も汚い瞬間、最も危険な瞬間を寄せ集めていると考えればリアリティのあるものでした。しかし、そういう状況は、ほとんどの場合において一瞬とかごく一時期であるので、リアリティがないとも言えます。
物語は、優生思想に取りつかれた元職員が、意思表示ができない障がい者を大量に殺戮するという話です。
先天的か後天的かに関わらず、障がいを持つと、生活していくために支援や介助が必要になることがあります。そういった不確実性は、一定確率で生ずるものであり、それ以上でもそれ以下でもないものです。
だからこそ、現実世界で自分が置かれている状況を一旦置いておいて、自分が生活していくために支援や介助を持つ立場(種類や程度があるのでいろいろな立場で)であったらどういうことが必要なのか、そしてその必要なことを可能な限り(必要なことを全て満たせるかどうかは社会の進化具合や経済力に左右されることもあります)満たすためには社会がどのように設計されているべきなのか、そういう立場(無知のベールで包まれた状態)で考える必要があると思うのです。
しかし、この映画で殺戮者となった元職員のように、現実世界で自分が置かれている状況を出発点にして考える思考様式は、最も濃いケースではこのような事件を起こすことにつながるし、薄いケースでは、映画で言われていた、見たくないものは見ないし、あっては都合が悪いものは隠蔽する社会づくりにつながっているのだと思います。
なお、思考様式の違いに関わらず、現実的な防犯対策は、防犯カメラによる録音録画、施設の出入り口での身元確認の充実化や、警備スタッフや警察の介入をスムーズにする連携訓練により、仮に何か起きたとしてもすぐにバレるぞ、逮捕されるぞという抑止力に頼って施設運営するしかありません。これは障がい者施設に関わらず、人が集まる場所共通のものです。
本作品の映画鑑賞は、このように改めて自分の考え方を記録するきっかけになりました。
全260件中、161~180件目を表示