月のレビュー・感想・評価
全230件中、161~180件目を表示
重い。ただひたすら重い…そして辛い。
おそらく例の悲惨な事件がモチーフになっていると思いますが、それはあくまでモチーフであり、施設における職員の言動を含めてフィクションだと認識しています。
ただ、あのような障がい者や高齢者の施設には往々にしてありがちな事も実体験として持っています。あれほど虐待されたわけではないけど、あの母親の「(虐待は)分かっていますけど、でもここに預けるしかしょうがないんです」という台詞はとてもよく理解できます。
だから「見たくないものを見ないようにしている」という言葉は辛いです。その通りなのですから。
映画の話に戻ります。
登場人物はみんなどこかしら壊れかけています。犯人だけでなく、あの夫婦も、施設の所長や職員たちも、ビル警備員も、、、
でも、それを許容せざるを得ないと自分を誤魔化していかないと、生きていけないから。
とにかく、重くて、そして辛い映画でした。
凶行を「理解できる」という危うさと「理解できない」という他人事。。それよりもむしろ。
「映画は、匂いを表現できない」
表現者のメッセージを受けた個人的な感想は一見大事なようで、結構どうでもいいことだった。
「挑戦を続ける監督」という謳い文句や、所謂「社会派」とか実際の猟奇犯罪をベースに、、などというセンセーナショナルななにかを期待するなら、評価は低いものになるだろう。しかし、そういった好奇心そのものが命に対する冒涜である。
きっと監督は途中で気づいたんじゃないか?
リアリティーを追求することの放棄こそ重要だと。
折しも中東での混乱の直後の公開はとても示唆的である。本当の暴力から遠くはなれた安全地帯から見下ろして批評するという傲慢さ足りうる。
自分は、この事件の責任は、あくまでも「個人」の犯行だとする。イデオロギーに支配されほころび探しの論理に囚われ「盲信」に陥った「個人」の犯罪だと思っている。
ただし、身体感覚の伴わない「死」や「暴力」が画面の向こうにあり、情報に溢れた「脳化」社会でロゴスに囚われた状況は誰にでもありえる。実際に行動するには勿論環境要因が伴うだろう。しかし凶行を「わかる気がする」とか「せっかくの才能が何故?」などと「理解しようとする」ことこそが、地獄への入り口だとしておく。
だってそれって、ただの好奇心ですよね?
誰もが陥りやすい評論社会。まさにイマココ(レビュー)の状況である。
逆に「こんなひどいことするなんて!信じられない❗」と自分とは一切に関わりがないと文字通り「汚物」に蓋をして想像を放棄する無責任を問うのが映画の主旨である。
その上で、この映画は社会を問う問題作としてではなく、ゾーンとしての感情を扱う映画として上質だと訴えたい。
私自身、ミステリー好きが高じて作品からなにかを読み取ろう、映画の醍醐味は考察にあり、などと一興に高じていた自分の愚かさに恥ずかしさを隠せない。だからこそ犯行そのものを主軸に添えず、平行した一つの結果とした作り手の良心に安堵した。
派手でも斬新でもなく、心象の揺れに効果的なカメラ運び、陰影、役割それぞれ演技の熱量バランス、「リアリティ」と「想像性」など、表現に対する作り手の真剣な態度を感じ取った。
扱ったテーマだけに事件そのものに触れずにはいられないが、筋そのものは難解ではない。しかし作り手の想いを「わかろう」とするのは容易ではない。「映画」としての味わい深さは、真剣に見るほど個々人それぞれの感想のグラデーションが浮き出るような奥行きのある仕上がりとなっていると思う。
物語の根幹には「汚れ」がある。「穢れ」ととるとイデオロギー臭くなるが、そのような気高いものでもない。
美しくもなく逆に過剰にえげつなくもない映像が「そこはかとない良心」を感じる所以だ。表情や台詞や声の調子、小道具を深く味わうべきだと思う。
そうすることで「謎解き」や「考察」に興じている自分の愚かさに気づく。
裏返して言えば、ミステリー好きこそ見るべき映画なのだ。がっかりするか内なる何かに気づくかで、人間を計られているとすら思う。
もし、収容された人たちを見て「目を背けたくなるのなら」なにも言わずに席を立って家でゆっくりワインでも飲んでいなさい。きれいなものだけを見て暮らせばよい。
もし、映像に「刺激の物足りなさ」を感じたなら、自分も病院に行く側足りえることを自覚しなさい。
と、ここまで散々不要な前置きをして、少しだけ感想を書く。
夫婦の物語である。
子どもを失って、横に並んで食事する二人の表現者は「同じ方向を向いて」もしくは「寄り添いながら」生きていこうとした。世にいうフランススタイルか。
(私は、夫婦は同じ立ち位置ではなく別の個人、平行線じゃなく、互いに補完し合うものだと思う。ただ、それができるのは間に子どもがいるからだ。などというと働く女性からはお叱りを受けるのだろう。)
対照的にラストでは、回転寿司店で「互いに向き合って」生きていくことを決意する二人に届くニュース。
絶望でも希望でもない。月と太陽が互いを照らして生きていく決意と深い闇。
ただ互いを見つめて「生きる」だけ。
「死ぬ」のは一度だけ。
実際に身近な死を見たり聞いたりもしないうちから
「人が死ぬってあっけないもんだよ。そんなに知りたいなら試しに死んでごらんよ。」
と知ったようなことを聞いて死んでいく子どもが増えているのかもしれない。
演出について。
「さとくん」の俳優は、変な色気を出さず真摯に役に向き合っていた。
ギラギラせず、冷徹でもなく、ただ観念と思い込みと想像力と偏った知識に飲み込まれただけ。ストイックに、嫌みなく、共感を呼び起こそうとせず、演じていた。
若かりし頃のはつらつとした宮沢りえから記憶が止まっている自分としては、主人公の「後ろめたさ」よく表していたと思う。場面によって、痩せこけた初老のようにも、洗練された少女のようにも見え、やがてそれこそトリアー作品の魔女狩りの主人公を体現していた。
若い頃から渋くてカッコいいイメージのオダギリジョーはシリアスどころか能天気に登場したが無論苦悩を背負っていないわけでもない。カッコよくない善人としての演技に好感をもった。
二階堂ふみも安定の振り幅のある演技で惹き付けられた。
さとくんの彼女のソフィーぶりは誰もが見逃さないよね。
(オマケみたいに書いた。)
人、命、心、、、愛
長女が産まれた時、看護師さんの「五体満足ですよ。」の声に自然と涙が溢れた。
大病をしたことがなく、仕事も休んだことがない。ある年配の方に「丈夫な身体に産んでもらって親に感謝しなよ。」と言われて、素直に感謝した。
ある時、障害がある子どものドキュメンタリー番組を見ていて、複雑な気持ちになったことがある。
答えは出ない。出せない。
表現に賛否はあろう。
メイン・キャストとスタッフがそれぞれ最高の仕事でこの作品を世に出してくれたことに敬意を表すとともに感謝したい。
宮沢りえとオダギリ・ジョー演じる夫婦の愛の物語としてもう一度観たい。
俳優ってしんどいだろうな。
「Gメン」や「ゆとりですがなにか」で俳優さんたちがいきいきと楽しそうに演じてるのが解る気がする。
宮沢りえと磯村勇斗はこの辺で一度はっちゃけた役でリフレッシュした方がいいんじゃないかと、心配になるほど役に入り込んでいた。鬼気迫るものがあった。
追記
宮沢りえが主演でなかったら観ていなかっただろうし、
オダギリ・ジョーでなかったらただただ暗い物語になってただろうし、
磯村勇斗でなかったら嫌な映画になってただろうと思う。
あらためて素晴らしい俳優さんたちなんだと思った。
モチーフとしての大量殺人犯、舞台装置としての恋人
原作未読です。
前半のさとくんの紙芝居のくだりや、施設長へ意見するなどの真面目な青年像と、大麻や刺青、金髪などの嗜好がキャラクターとして重ならず、違和感がありました。
観賞後、気になって事件記録を読み、実際の犯人に寄せた結果だとわかりましたが、無理に寄せない方が良かったのではないでしょうか?
犯行動機の安直な優生思想を観客に投げ掛ける崇高なテーマにしてしまったのはモヤモヤします。
聾唖者の恋人の存在はコミュニケーションの可否を犠牲者の選別に用いた犯人の身勝手さを際立たせる装置となっていました。フィクションに舵を切るのなら、普通の感覚の持ち主が、異常な思考に落ちていく過程を描いた方が良かったと思いますが、宅飲みシーンの異様さに「元々おかしな人だな」と印象づけられてしまいましたし、陽子の深酒発言が隣にいることで「ヤバイ人ばかりの職場だな」と思わされてしまったのも残念です。
俳優の皆さんの演技が素晴らしかっただけに、現実に引きずられてしまった設定が惜しいと思いました。
ハリボテの月
別名『ロストケア2』。
個人的にはまったく合わなかった。
登場人物全員が、「そんなこと言う!?」という台詞を連発してリアリティがない。
不穏感を煽るためか家も施設もいちいち不自然に暗い。
わざわざ爆音の店で愚痴を言ったり、逆に最後の回転寿司屋では有線すらかかっておらず、無音。
冒頭の文字演出からはじまり、すべて台詞で説明。(さとくんの彼女はさとくんに喋らせるのが役割の大半)
モブが丁度いいとこで丁度いい単語をわざとらしく話す。
洋子がもう一人の自分に言われた台詞は正鵠を射てたように感じたのに、何事もなく執筆を継続。
さとくんが事を起こすのにわざわざ白っぽい上着を着てるのも、血を際立たせるためだろう。
などなど、題材としては重いものではあるが台詞も演出もあざとすぎて響かず…
劇中で、洋子の小説は綺麗なところしか書いてないと言われるが、本作はその逆に感じた。
「こんなに昏いところまで描いているんですよ」という作為が見えて鼻白んでしまう。
そのくせ介護・介助のシーンは少なく、洋子がきーちゃんを特別視する様子も薄かった。
役者陣の演技は良かった。
特に情けなく子供っぽい昌平を演じたオダギリジョーは素晴らしかったと思う。
あなたは、あの犯人と何が違いますか?
望ましい現実と、望まない現実。その端境に何があると思います?。
先日「アンダーカレント」を観て、家族を大切にしようと思いましたが、その一方で、老いて身の回りのことができなくなった親の手を引いていると、これがいつまで続くのかしらと思う私です。
少しネタバレしますが、泣きながら人の道を説く洋子師匠と、それを冷静に見つめる、もう1人の洋子師匠…。全くもって泣きたいのは、私のほうです。だって世の中、イヤなもの、見たくないもの沢山ありますけど、一番見たくないのは、自分の本心だよね。映画は二時間半で終わるけど、私の生涯、まだ終わらないのよ。この先、もう1人の自分と対話しながら過ごす羽目になりそう。
そう思うと、もう一度観るのはキツイ映画です。でもだからこそ、一度、キッチリ観ることをお勧めします。2倍速できない劇場でね。
どんな理由があろうとも、ヒトは生きる。格好良く死ぬことより、最期まで生ききることが格好いい。だとしたら、他者がそれを阻害する、この世界は…。
ところで…
あなたは、あの犯人と何が違いますか?。
この映画、新聞の解説に、そう記されていました。何が違うのかしら。私の正義感は、私を何処に連れて行くのかしら。
「オーバーフェンス」
月は、世界をほんのり照らすだけでなく、ヒトの心の闇まで照らすようですが、どん詰まりな世界でも、フェンスの先には何かある。そう思わせてくれるのが、本作。併せご覧下さい。
やまゆり園をモチーフにする必要があった⁈
夫婦、家族の話が主軸にあって、やまゆり園を題材とする必要があったのだろうか、、「事実に基づく」とは銘打っていないのであくまでフィクションとして製作されているのだけど。心を痛める関係者が多すぎると思う。
誰しもの問題を誰しもが逃げるから先が見えない
石井裕也監督、宮沢りえ主演(ひょっとすると磯村勇斗が主演?)の、実際に起きた障害者殺傷事件をモチーフにした小説の映画化で、原作は未読です。
この事件は「PLAN 75」の冒頭にも似たような事件をモチーフにしていましたが、作品の方向性は全く違っていました。
YOU TUBEの舞台挨拶で宮沢りえが「賛否が出る作品だと思うが観て欲しい」と述べていましたが、見る人は最低限上記の“実際に起きた事件をモチーフとした小説の映画化”だという位の予備知識は頭に入れての鑑賞した方が良いと思われます。
そして、そうではなく全く予備知識なしで見た(若しくは見せられた)人の否定論は無視しても構わないと、個人的には思っています。
それと“賛否”と言うより、この映画の場合は映画そのものよりも現実に起きている事件そのものの“可否”、“良否”、“善悪”を観客に問いかけている作品であり、いくら否定しても現実社会では実際に起きてしまっている事に対する問題提起でもあるので、そちらの言葉の方が適切な様に思えました。
更には、本作はあくまでも小説の映画化で(原作は未読だが)本作の主要登場人物は完全に創作された人物であって、現実とは全く違う架空の人物だという事も忘れず前提として見るべき作品だと思いました。
何故なら、多くの否定派のレビューには現実の事件や加害者を物語と混同している発言が目立ちましたからね。
ここからは個人的な話ですが、私は障害者と暮らした経験はありませんが老母との二人暮らしで、95歳と68歳が一緒に日常生活を送るのには(お互いにでしょうが)意思の疎通だけでもままならず、様々な苦労やストレスが伴います。
日々の暮らしの中で、このままだと気が狂ってしまうのではないかとまで感じてしまう時があります。母親は認知症ではありませんし、他人から見ると歳の割にはしっかりしている様にも見えます。
そういう意味では凄く恵まれている環境なのですが、それでもそのように感じてしまうしストレスも溜まってしまうというのが現実なのです。
なので、もっと酷い障害や症状を持っている人たちに対して家では面倒見れなくなった場合、どんな立派な施設であろうが、赤の他人に面倒を見て貰わなければならないという(逃れられない)現実があります。
この映画ではまるでホラー映画の様に薄暗く不気味な施設として描かれていますが、考えて(想像して)みて下さいよ。
本作の主人公であり加害者さとくんの台詞の「こんなにきつくて辛くて気が狂いそうになる仕事を月十七万円の給料でしているんだよ」って意味を政治家も国民一人一人も、もっと考えた方が良いと思いました。
正直、普段最も考えたくない項目でもあり、出来たら蓋をして見えなくしてしまいたい部分であるのはよく分かりますが、自分で思っている以上に今後の人生に誰しもがのしかかってくる問題でもある訳です。
どれだけ愛情豊かな人間だったとしても、肉親でもない重度な障害を持つ人の世話をしながら過酷すぎる仕事の中にいると人はどうなってしまうのだろう?…本作はそれを「自分には関係ない世界だ」と思っている人にこそ見て欲しくて作られたのだと思えました。どんなに逃げたくても逃げることの出来ない問題ですからね。
逆に日常で少しでもそのような日々を送っている人は逆効果の場合もありますので見ない方が良いかも知れません。
「月」ってタイトルをつけた理由は分かりませんが、球体であるのに表側しか見えないからこそ月は愛されるのでしょうね。世の中もきっとそうなんだと思いますよ。
完成度は高い
ストーリーの良し悪し、善悪の話は一旦横にして、演技や関係性の描き方は良かったと思う。
誰に感情移入できるかと言うと、わたしはオダギリさんだった。辛いことがあったなかで笑顔でいようと努めるけれど心の傷は埋まらない、そんな描写がすごく刺さった。
二階堂さんの冷酷に淡々と事実をしゃべるところはさすがの演技力。『何者』を思わせる感情の昂り方で見入ってしまう。
磯村さん、宮沢さんのやりとりは臨場感があって、尚且つ「お前はどうなんだ」というメッセージも感じて考えることがたくさんあった。
ストーリーは実際の事件の全容を詳しく知らない身としてまさに目を背けていたことに目を向けさせるためのきっかけとして成立していると思った。事実とは違う点があるのかもしれないが、0から0.1にはなっているはずだと思う。個人的な考えだけれど、事実だけならドキュメンタリーにすれば良くて、物語になっているのは入り口としては大成功だろうとおもう。
気になったのは画面を2分割する編集で、そこまで入り込めていたのが一瞬で戻された感じがしてそこが残念だった。あと月明かりは本当にあの明るさでよかったのか(作品を通しての明るさの統一感について)は色々と思うところがあった。
みんなに見てほしい映画です。
元入所施設職員として、映画館で鑑賞して、1300円のパンフレットもしっかり読みました。監督、スタッフ、俳優さんの思いがつまっていて、取材や見学、そして、入所施設での労働を通じて、障害者施設の現状に向き合う作品で、なにより、当事者が俳優として、いきいきと参加をされていて、でも、施設のリアルな実態もリアルに表現されていて、作り手の表現に驚きました。
今の日本の抱えている問題について、議論するきっかけとして、多くの人に見てほしい。議論してほしい。
実際に起きた事件に向き合い、二度と起こさないために何ができるのかを考えていきたい。
素晴らしい映画をありがとうございます。
日本社会の潜在的な歪みを写し出す。
そもそも主人公の夫婦の関係性がおかしい。
3歳で病死した息子について、お互い思いの丈をぶつけ合わない夫婦関係。
施設運営と施設従業員の思想と行動。
これらの異常性が日本社会に普通に蔓延しているという昨今。
数年前に観た映画、「帆花」とは全く正反対の映画。
「帆花」は愛に溢れ、「命」の尊さをリアルに教えてくれた。
日本社会はハラスメントで溢れきっていて、単純な解りやすい優生思想や生産性によって人の価値を決めるという事が日常茶飯事…。
相模原やまゆり園事件をモチーフに作られたという事だけど、どこで起こってもおかしくない現状に自分達は生きているのだと思った。
自ら殺人、殺戮しないにしても無言の圧力や誹謗中傷によって人を死へ追いやる事への抵抗感がない。
ジャニーズ問題が典型。
全ての内容に日本社会壊れてますよぉ❗と警鐘を流す内容。
今、ここにある命が大切。
誰もが唯一無二で、天上天下唯我独尊という事を認め合う社会が大切なのに…。
パワハラ、いじめ、監禁、差別、殺人、隠蔽、忖度、エホバの証人がキーワード
「舟を編む」の石井裕也監督が宮沢りえを主演に迎え、実際に起きた障が...
「舟を編む」の石井裕也監督が宮沢りえを主演に迎え、実際に起きた障がい者殺傷事件をモチーフにした辺見庸の同名小説を映画化。
オダギリジョー、磯村勇斗、☆二階堂ふみが出演。この人たちが物語を引き立てるぅぅ、。
自分はどう思うのか
実際の事件は知っている。
落とし所があるのか。
どうしても気になって視聴。
正直、障害者施設の実態やとりまく感情、犯人がここまでの犯行に及ぶまでの過程は理解し難かった。
ではなぜ⭐︎4なのか。
それは、自分が当事者に思えたから。
障害者とわかってる子を産み育てられるか。
差別する気持ちはないか、してはいけないとわかっていても心の底から思っているのか、出来るのか。本当に嫌じゃないのか、幸せか…?本音か?
差別のない世界なんて存在するのか。
出生前診断で障害があるとわかった96%が堕胎を決意するらしい。
それでも事件を批判出来る立場にあるのか…?
不用なものが多すぎた
迷ったけど
劇場じゃないと
見ないなと思って
見てきた
重いとわかった上で
見に行ったのに
見終わった後辛すぎた
重いし痛いし切ないし
悲しいし見たくないし
そっぽむいて
向き合わずに
気づかないふりして
生きていたい
でも、それじゃぁ駄目だ
何事においても
当事者と家族だけじゃない
逃げるなよ向き合え
知らないとは言わせない
傍観者ではいさせてくれない
鋭い刃は間違いなく私にも
向けられていた
改めて考えさせられた
でも、
残念ながら人にすすめられない
作品だった。せっかくなら
重いけど是非見てほしいと勧められる作品であって欲しかった。
不用な演出、効果音、CG、暗さを演出しすぎ、もっと淡々としたものでよかった。フィクションなら良かったが、これはフィクションではないから。(ノンフィクションではない)だからこそ、最後の数十分も不用だと感じた。無くても結末は皆知っているのだから。妊娠に3.11も容易に盛り込みすぎた感じが否めない。そして終わり方も尻切れトンボすぎた。
重く非常に難しい題材を─
難しいテーマを突きつけられて、かなり引きつけられます。根底にあるものは、普遍的で、個人的なものとしてもその答えを見いだすことはかなり難しいものだと思います。それ故に尚更、食い入るように観賞しましたが、この吸引力は果たして作品に潜む難しい問題の為なのかそれとも巧みな演出によるものなのか─。
決してエンタメ的に難しい問題を扱っていることに異議があるわけではありません。このような社会問題をドキュメンタリーで扱うより、むしろ劇映画で見せられた方が真実味があったり考える度合いもかなり強まると思うので、この作品も非常に意義深い作品であると確信できました。見るものの興味をなるべく引いて、多くの人に見てほしいという意志も感じます。
原作は未読ですが、事件のことは知っています。たまに本当の出来事に脚色を加えて面白く仕上がっている作品を目にしますが、実際の出来事をあまりにも想起してしまう創作物は、多少、眉唾な思いにかられてしまって、せっかくの重要テーマが台無しに・・・。
あのような職員もいるんだろう、実際にそういったニュースも目にするし─、でもあの園で本当にあったことなのか・・・作品として実際にあったかどうかは重要ではないとは承知の上で観賞しているのですが、相当あの事件を想起してしまうので否が応でも作品と事件をリンクさせて見てしまいます。そうなると、演出とか創造性なども、嘘という嫌な意識がまとわりついて、大事な問題が頭の中に入りづらくなってきてしまいます。
この作品で扱われている、医療行為とかハンディキャップとか、もっと大きな括りとしていえば、生きることそのものへのテーマが、あの事件への想起によって、一気に飛びそうになりました。でも、必死に何かが、誰かが、それをくい止めてくれたように思います。それは、新しい命なのか、宮沢さんなのか石井さんなのかオダギリさんなのか分かりませんが、それ故に非常に意味深くそれでいて見やすい作品だなぁという印象です。
人を殺したいという「思考」は自由だが、殺人という「行為」は絶対に許されないのではないか?
意思の疎通ができなければ心がなく、心がなければ人間でなく、人間でなければ殺しても構わないのではないか?
これは、犯行に至る前、磯村勇斗演じる犯人が、宮沢りえ演じる主人公に投げかける問いであるが、それは、同時に、映画を観ている観客に向けた問いにもなっている。
「綺麗ごと」や「建て前」を抜きにして、こうした考えに真っ向から反対することはできるのか?仮に、近親者に重度の障碍者がいた場合、「当事者」として、こうした考えを完全に否定することはできるのか?
映画の中でも、主人公は、「私はあなたを絶対に認めない」と言うだけで、論理的に反論できないばかりか、障碍を持つ子が産まれてくることを望んでいない自分と犯人とを重ね合わせて、自分自身の中にも同じような考えがあることを自覚するのである。
こうしたシーンから、観客も、「重度の障碍を持つ人たちにどのように向き合えば良いのか」を深く考えさせられることになる。
しかし、その一方で、犯人に自分の考えを延々と述べさせることは、観客に「それも一理あるな」と思わせ、引いては、その考えを正当化してしまう危険性があるのではないだろうか?
あたかも、どこの障碍者施設でも、暴行や虐待が常態化しているかのような描写(冒頭のテロップも含めて)には疑問を抱かざるを得ないが、そうした劣悪な職場環境が、犯人の蛮行に正当な理由を与えてしまっているようにも感じられるのである。
施設を訪れる入所者の家族が、高畑淳子演じるきーちゃんの母親だけということにも違和感を覚えざるを得ない。こういう家族が沢山いたら、犯人が犯行に走る理由が弱められてしまうからなのだろうが、あまりにも家族のことを軽んじているし、薄情に描いているように思えてならない。
ドラマとしても、何のために二階堂ふみ演じる施設の職員を登場させたのかがよく分からないし、施設の入所者を虐待する2人組や先輩のマンション管理人のキャラクターも平板で薄っぺらい。
この映画の白眉とも言える犯人と主人公との対峙の後、一気にクライマックスになだれ込むのかと思いきや、一転、犯人は鑑定留置となってしまい、犯行に至るまでの流れがどうにも悪くて間延びしているようにも感じてしまった。
何よりも、犯人が多くの命を奪った理由が、「生産性のない者を税金で養うのは無駄だから」なのか、「意思の疎通もできずに寝たきりの状態で生かし続けるのは可哀想だから」なのかがよく分からないのは気になる。
そこは、あえて両方の台詞を言わせて曖昧にしているのかもしれないが、理由がどちらであるかで犯人に対する心象も変わってくるし、やはり、犯行の動機は明確にするべきだったのではないだろうか?
もしかしたら、色々な考え方を羅列して問題を提起し、観客に判断を委ねようとしているのかもしれないが、一つだけ間違いないのは、「思考」には正解がなくても、人を殺すという「行為」だけは絶対に許されないということだろう。
百歩譲って、犯人の思考や動機に同調できる部分があるとしても、その行為に賛同することは絶対にあり得ない。
この映画の最大の問題点は、ラストに至るまで、殺人という「行為」を明確に否定していないところであり、糾弾もしていないところであると思われるのである。
パラレルなノイズ(キャンセリング)
月
ジャンプスケアのような入所者の叫びのシーンは、突然入るのではなく閉じていく。集中するためのノイズキャンセリングのように、見たくないものに蓋をしていることを際立たせるためだ。
寝たきりの入所者に想像で感情移入して感性に思いを馳せる、皆同じ人間だ。その後に長回しのシーンで、非行の宣言と理由を聞く。日常の営みの温もりとの徹底された対比描写が続いていく。
彼は「最後は嘘をつかないで」という。見せかけの討論(自分の中の葛藤を含む)は嘘か。
墓参りで喜びを抑えられないように、皆何かを切り捨てて生きているのか。しかしそうして生きていること自体は辛いはずで、だからか小さな映画祭の受賞にも、涙が溢れ落ちている。
ぜひ観てほしい
明確な答えなどあるはずも無い、が
知ってしまったからには
今起きている現実を
素通りする訳にはいかない
ここに触れば共感を得る以上に批判を浴びる事を承知で世に問うたその心意気に感動した
障がいをテーマにした近年の映画とは一線を画し、逃げたりぼかすことなく真正面からぶつかっている様に心が震える
相模原での上映は無かったが、座間イオンシネマが上映してくれた
英断に感謝したい
全230件中、161~180件目を表示