月のレビュー・感想・評価
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不用なものが多すぎた
迷ったけど
劇場じゃないと
見ないなと思って
見てきた
重いとわかった上で
見に行ったのに
見終わった後辛すぎた
重いし痛いし切ないし
悲しいし見たくないし
そっぽむいて
向き合わずに
気づかないふりして
生きていたい
でも、それじゃぁ駄目だ
何事においても
当事者と家族だけじゃない
逃げるなよ向き合え
知らないとは言わせない
傍観者ではいさせてくれない
鋭い刃は間違いなく私にも
向けられていた
改めて考えさせられた
でも、
残念ながら人にすすめられない
作品だった。せっかくなら
重いけど是非見てほしいと勧められる作品であって欲しかった。
不用な演出、効果音、CG、暗さを演出しすぎ、もっと淡々としたものでよかった。フィクションなら良かったが、これはフィクションではないから。(ノンフィクションではない)だからこそ、最後の数十分も不用だと感じた。無くても結末は皆知っているのだから。妊娠に3.11も容易に盛り込みすぎた感じが否めない。そして終わり方も尻切れトンボすぎた。
重く非常に難しい題材を─
難しいテーマを突きつけられて、かなり引きつけられます。根底にあるものは、普遍的で、個人的なものとしてもその答えを見いだすことはかなり難しいものだと思います。それ故に尚更、食い入るように観賞しましたが、この吸引力は果たして作品に潜む難しい問題の為なのかそれとも巧みな演出によるものなのか─。
決してエンタメ的に難しい問題を扱っていることに異議があるわけではありません。このような社会問題をドキュメンタリーで扱うより、むしろ劇映画で見せられた方が真実味があったり考える度合いもかなり強まると思うので、この作品も非常に意義深い作品であると確信できました。見るものの興味をなるべく引いて、多くの人に見てほしいという意志も感じます。
原作は未読ですが、事件のことは知っています。たまに本当の出来事に脚色を加えて面白く仕上がっている作品を目にしますが、実際の出来事をあまりにも想起してしまう創作物は、多少、眉唾な思いにかられてしまって、せっかくの重要テーマが台無しに・・・。
あのような職員もいるんだろう、実際にそういったニュースも目にするし─、でもあの園で本当にあったことなのか・・・作品として実際にあったかどうかは重要ではないとは承知の上で観賞しているのですが、相当あの事件を想起してしまうので否が応でも作品と事件をリンクさせて見てしまいます。そうなると、演出とか創造性なども、嘘という嫌な意識がまとわりついて、大事な問題が頭の中に入りづらくなってきてしまいます。
この作品で扱われている、医療行為とかハンディキャップとか、もっと大きな括りとしていえば、生きることそのものへのテーマが、あの事件への想起によって、一気に飛びそうになりました。でも、必死に何かが、誰かが、それをくい止めてくれたように思います。それは、新しい命なのか、宮沢さんなのか石井さんなのかオダギリさんなのか分かりませんが、それ故に非常に意味深くそれでいて見やすい作品だなぁという印象です。
人を殺したいという「思考」は自由だが、殺人という「行為」は絶対に許されないのではないか?
意思の疎通ができなければ心がなく、心がなければ人間でなく、人間でなければ殺しても構わないのではないか?
これは、犯行に至る前、磯村勇斗演じる犯人が、宮沢りえ演じる主人公に投げかける問いであるが、それは、同時に、映画を観ている観客に向けた問いにもなっている。
「綺麗ごと」や「建て前」を抜きにして、こうした考えに真っ向から反対することはできるのか?仮に、近親者に重度の障碍者がいた場合、「当事者」として、こうした考えを完全に否定することはできるのか?
映画の中でも、主人公は、「私はあなたを絶対に認めない」と言うだけで、論理的に反論できないばかりか、障碍を持つ子が産まれてくることを望んでいない自分と犯人とを重ね合わせて、自分自身の中にも同じような考えがあることを自覚するのである。
こうしたシーンから、観客も、「重度の障碍を持つ人たちにどのように向き合えば良いのか」を深く考えさせられることになる。
しかし、その一方で、犯人に自分の考えを延々と述べさせることは、観客に「それも一理あるな」と思わせ、引いては、その考えを正当化してしまう危険性があるのではないだろうか?
あたかも、どこの障碍者施設でも、暴行や虐待が常態化しているかのような描写(冒頭のテロップも含めて)には疑問を抱かざるを得ないが、そうした劣悪な職場環境が、犯人の蛮行に正当な理由を与えてしまっているようにも感じられるのである。
施設を訪れる入所者の家族が、高畑淳子演じるきーちゃんの母親だけということにも違和感を覚えざるを得ない。こういう家族が沢山いたら、犯人が犯行に走る理由が弱められてしまうからなのだろうが、あまりにも家族のことを軽んじているし、薄情に描いているように思えてならない。
ドラマとしても、何のために二階堂ふみ演じる施設の職員を登場させたのかがよく分からないし、施設の入所者を虐待する2人組や先輩のマンション管理人のキャラクターも平板で薄っぺらい。
この映画の白眉とも言える犯人と主人公との対峙の後、一気にクライマックスになだれ込むのかと思いきや、一転、犯人は鑑定留置となってしまい、犯行に至るまでの流れがどうにも悪くて間延びしているようにも感じてしまった。
何よりも、犯人が多くの命を奪った理由が、「生産性のない者を税金で養うのは無駄だから」なのか、「意思の疎通もできずに寝たきりの状態で生かし続けるのは可哀想だから」なのかがよく分からないのは気になる。
そこは、あえて両方の台詞を言わせて曖昧にしているのかもしれないが、理由がどちらであるかで犯人に対する心象も変わってくるし、やはり、犯行の動機は明確にするべきだったのではないだろうか?
もしかしたら、色々な考え方を羅列して問題を提起し、観客に判断を委ねようとしているのかもしれないが、一つだけ間違いないのは、「思考」には正解がなくても、人を殺すという「行為」だけは絶対に許されないということだろう。
百歩譲って、犯人の思考や動機に同調できる部分があるとしても、その行為に賛同することは絶対にあり得ない。
この映画の最大の問題点は、ラストに至るまで、殺人という「行為」を明確に否定していないところであり、糾弾もしていないところであると思われるのである。
パラレルなノイズ(キャンセリング)
月
ジャンプスケアのような入所者の叫びのシーンは、突然入るのではなく閉じていく。集中するためのノイズキャンセリングのように、見たくないものに蓋をしていることを際立たせるためだ。
寝たきりの入所者に想像で感情移入して感性に思いを馳せる、皆同じ人間だ。その後に長回しのシーンで、非行の宣言と理由を聞く。日常の営みの温もりとの徹底された対比描写が続いていく。
彼は「最後は嘘をつかないで」という。見せかけの討論(自分の中の葛藤を含む)は嘘か。
墓参りで喜びを抑えられないように、皆何かを切り捨てて生きているのか。しかしそうして生きていること自体は辛いはずで、だからか小さな映画祭の受賞にも、涙が溢れ落ちている。
ぜひ観てほしい
★3.5+★0.5
今、こういうテーマで映画を作ることがどれだけ難しいかを考えると、やはり点数も「映画の質+敬意」という感じになってしまう。
今回の★4つはそういう感じ。
多くの方が、あの事件について「否」の立場であるのは間違いない。
でも、そこに「自分」や「家族」を投影すると、心が揺れてしまう。
作中、立ち入りを禁じられた奥の部屋のドアを開けると、糞尿まみれで自分の陰部をまさぐる老人。
私は、瞬間的にあの老人に自分の将来を重ねてしまった。今は障害がなくても、痴呆やケガなどで、数年後こうならない保証なんてどこにもない。
…と思ってたら「ともくん」が同じ事を考えていた。
さすがにドキっとする。
あの事件に向かう経緯を通して、こういう当事者性を観客に求めてくる作りになっている分、非常に観ていて辛い。
ただ、どのくらいこの映画が事実に則しているのか分からないけど、実在するあの事件の「本当の当事者」、つまり被害者やその遺族、現場職員の方はこれを観てどう思うんだろう。
雑然とした事務所、建物のあちこちで蜘蛛が巣を張り、廊下の奥は見えないほど暗く、どこからかうめき声が聞こえる。
映画に登場する職員の中に、この仕事が社会のために必要だ、と誇りを持って働いている人は一人も登場しない。
私は傍観者だから、当然それを求めるのは綺麗事なのかも知れないけど、現実にああいう施設が必要な患者とその家族が存在するという現実の中で、その綺麗事なしで日本中すべての施設が運営されているなら、それは余りにも救いがないし、私は決してそうではないと信じたい。
また「収容された人々はコミュニケーションが取れなかろうがもちろん人間で、人間を殺してはいけない」って事実は、法的にも倫理的にも生物学的にも揺るがないのに、犯人がそれを打ち明けた際に主人公は「私は認めない!」を繰り返すだけで、まるで個人的な見解の相違の様にしてしまっている。
耳の聞こえない彼女も、まるで耳が聞こえていないから止められなかったみたいな描き方。
そう、この映画は全体を通して、犯人が自然と犯行を思い立つことを後押しし、そして誰も彼を思い留まらせることがない設定に、あえてしてしまっている様に感じた。いわば、彼の犯行を「こうなったのは仕方ない」と言おうとしている様に。
おそらく作り手もわざとそうしているんだろうけど、そこはなんだか「意地の悪さ」を感じてしまう。
細かな部分について、その奥の部屋の老人が立ち入り禁止にされている理由もよく分からない(園長が面倒みてるの?)し、冒頭から始まる東関東大震災のエピソードも、本質的にこの話とは違う気がする。
散りばめられたピースが、どれも何となく本筋と噛み合わない。
気になるところはたくさんあるけど、そんなの吹っ飛ぶくらいやはり宮沢りえの熱演が素晴らしい。
記者会見で言葉を詰まらせてたけど、そりゃ、あの演技しようと思ったら、よっぽど役に没入しなきゃいけなかっただろうし、それだけで拍手モノ。
この社会的にも歴史的にも大きな事件を、風化させちゃいけない。
不都合な事実は見せたくない、見たくない、という心理
2016年のやまゆり園の大量殺傷事件を下敷きにしています。
事件の関係者にとってはとても辛い内容だし、私も観ていてきつかったです。本作における犯人がもともと正義感の強い人物だった、という描き方には、批判もあるでしょう。
制作者も、万人が手放しで絶賛する作品を作るつもりは無かったと思います。
冒頭、青白い三日月の下、元作家の洋子が歩く線路上には、おびただしいガラクタが散乱し、よく見ると魚も散らばっています。振り返ると大量の瓦礫があり、東日本大震災の事だと分かります。ただ、汚泥は全くなく、魚は腐っていない、つまりこれはイメージで、真実ではありません。これが本作を象徴していたと思います。洋子は同僚の陽子に、「あなたはきれい事だけを書いている」と言われます。鋭く胸を抉られるセリフが幾つかありました。
洋子は作家業に見切りをつけて障碍者施設で働き始めます。大変で、感謝される事も少ない仕事にやりがいを感じられず、洋子の目には担当のきーちゃんの姿はぼんやりした影のように映ります。
熱心なさと君や心無い職員の様子を見、厳しい現状を目にするうちに、きーちゃんが一人の女性に見えて来ましたが、事件は起きてしまいました。
事件は本当に辛く悲しい事で、犯人の主張を正しいと思う人は居ないでしょうが、では何が正しいのかと問いかけてくる作品でした。
とても重たい作品に出演した方の勇気に感服しました。
ただ一つ、私は事件の細かい所までは知りませんが、犯行前にさと君の外見を敢えて実際の犯人に寄せたのは、良くなかったです。
企画ありきで作った作品
どうしても、この作品を作らなきゃいけない理由が見つからないのが苦しいところか。
ベタ褒めしてる人は、たぶん映画関係者の身内か露悪な映画が好きな人な気がする。
スターサンズの名前があるので、例のプロデューサーが企画した後に監督として抜擢されたのが石井監督だろう。
故にこの物語の落とし所に苦戦してる様子が見て取れる。さすが石井裕也でそこら辺の監督よりは、見れる作品に仕上げてる。クオリティが高い。
しかし主演や二階堂ふみの演技は酷かったように思える。コレを熱演!と言って褒めるのはちょっといかがなものか?と思ってしまう。
やまゆり園の時は如何だったのか?少し気になるが、一方的な語り口な気がするのと、主人公の葛藤はどうなんだろう?落とし所がない気がする。
きれい事と現実
さとくんは今の日本社会の「象徴」
自分がどんな思想の持ち主なのか突きつけられた
気が滅入る題材過ぎて正直鑑賞を躊躇していました。
しかし、磯村君とスターサンズの作品なので観ない訳にはいきません。
朝イチの小さなハコでしたが何と9割入り!両隣に人がいるなんて何とも久しぶり。右は妊婦さん!だ、大丈夫かな。
原作「月」は、実際の障碍者殺傷事件をモチーフとし「事件を起こした個人を裁くのではなく、事件を生み出した社会的背景と、人間存在の深部に切り込まなければならない」←ここ大事
と感じた、辺見庸先生が「語られたくない真実」の内部に潜ることに挑戦した小説。
この問題作を映画化したのは実力派・石井裕也監督。
辺見先生の言葉通り、あの事件を主に描いているのではなく、「人間の尊厳」「福祉のシステムの在り方」を軸に我々に問う作品になっていたと思う。
私達が目を逸らしてきた現実の中の
「見ないようにしているだけで、確実にそこに存在している真実」を見せられて逃げ場を失った。
ハンデは入居者ごとに違ったようだが、ここはいわゆる「重度障碍者施設」
寝たきりだったり、自傷、他害があったり、24時間全介助の必要な人々が暮らす施設だ。
他施設や家庭では介護しきれない人々が最終的にたどり着く場所ともいえるのか。
以前読んだ重度障碍者施設で働く職員さんの手記を思い出した。
利用者同士、利用者から職員への
「暴力」は日常茶飯事。
もはや無法地帯だったそう。
そして過酷な労働で職員の入れ替わりが激しく、残された職員もいつも限界寸前で働いている。
休憩もなくサービス残業は当たり前。安全配慮もないに等しい。
施設は監査対策はするが、都合の悪い事は隠蔽。
労基法や労安法は守らない施設も実際に存在するとのこと。。
そんな施設ばかりではないのは承知しているが、実際に上手く機能が果たせていない場所があるのも事実だと知った。
施設の運営が健全でなければ、そこで働く人はキツイだろうなと思ったし、利用者も幸せではない。
職員の精神力でのみ安定が保たれている施設なんて破綻している。
本当に恐ろしい現実だ。
根本的な改革が必要な事は国も私達も知っているのに、臭いものには蓋。。
又、以前住んでいた場所の幼稚園の近くに、障碍者施設の建設の話しがあったが、近隣住人の反対運動が巻き起こり立ち消えとなった事も思い出した。
目につかない「森の中」ならあっても良いが、自分の生活圏内ならばどうか。。
この事も重なり、自分がどんな思想を持った人間なのかと、突きつけられた気がした。
本作の強烈なメッセージだと思った。
さとくん(磯村君)は、私には最初から壊れた人間に思えた。
彼の中での正義感や使命感といったものが、最初から異様な怒りを伴って見えたから。
これは私が、あらすじと、あの事件を知っているからなのか、起きる惨劇を想像できたからなのか、よくわからない。
でもさとくんはあの施設で働いていたから狂ったのではないと思えた。
最初から狂った思想を持った生き物だったのだと。。
いくら酷い現状の中にいたとしてもあの答えに辿り着くのは完全に間違っています。
それは大前提ですが。。
しかし、さとくんの、極端な考え方ではあるが、あの訴えには、全てを否定しきれない自分がいて動揺した。
同時に洋子(りえちゃん)も自らの心の中の本音とぶつかり対話する。
「本音と建前」「理想と現実」
私の心もぐらぐら揺れた。
そしてさとくんが言う
「がんばります」という言葉。
「がんばらなければいけません。
実行するには持久力が必要ですし、途中でやめるわけにはいきません。
だけど、がんばります。」
そして「がんばれ〜みんながんばれ〜」と口ずさむ。
ここが1番気持ちが悪かった。気持ちの持っていきようがなかった。
動悸がした。
震災や出生前診断、優生思想もテーマに組み込んでおり、強烈に重たい作品だった。
答えの出ない問いかけだが、人ごとではないとの確信もある。
未来なんてわからない。
私も事故にあったり、病気になって、寝たきりになるかもしれない。
それこそさとくんの言う「意思疎通が出来ないモノ」になる可能性だってあるのだから。
そして最後まで考えても見つからない答え。
あの夫婦の子供が病気がなく産まれてきて欲しいと願ってしまう私は、優生思想の持ち主なんだろうか。。
磯村君、りえちゃん、オダギリさんの演技は力強く、作品のテーマに負けない気迫を感じた。
りえちゃん代表作になるのでは。
⚪︎追記⚪︎
あるレビュアーさんのレビューを拝読し、考えた事があった。
洋子もさとくんも陽子も昌平もみな
「何かを作る人」だった。
しかし皆、それを批判されていた。
他者に評価されない不完全な物を生み出している所は、本作のテーマにもある「命の軽重」にも絡んでいるのかなと。
唯一、人間としての善性を保っていた昌平の作品が受賞した事も意味があったと思う。
建前の善人より、本音のやりとり
衝撃的問題作
久しぶりに邦画でヒリヒリするほどの緊張感を味わえた作品でした。
生々しい本音のぶつけ合いをここまで描いた作品も珍しいし見ごたえも十分ありました。
磯村勇⽃演じる青年の穏やかで冷静に主張する言葉に影響されてもおかしくないと感じるのは自分の年のせいもあるのかも。
人間とは何か?生きるとは何か?を問いかける強烈な作品でした。
宮沢りえとオダギリジョーの理想の夫婦の関係と磯村勇⽃と二階堂ふみの働く介護施設の厳しい現実。
衝撃的なラストをどう考えるか、尊厳死も含めて難しいテーマだと思いました。
娯楽作品ではないですが今を精一杯真面目に生きてる人が見るべき作品です。
おすすめ度は100%です。原作もじっくり読みたいと思います。
障がい者と施設の描画が酷い
事実を元にされている物語なのでこれはさすがにキツい。フィクションなら良いけど、、、
あんな暗闇で、、、職員さんも仕事しにくいだろうに。
犯人が事件を起こす動機付けの部分なんだろうけど、それでも酷い。一瞬退出を考えてしまった。
完全な作り話でエンタメも割り切れば良いけど、事実を元にしていると、どうしても被害者や遺族・関係者のことが気になります。この描画だと全員が深く傷つきそう。
ついでに、3.11と出生前診断までまとめて不快。
また、出てくる人、みんないろいろな意味で胸くそ悪い。観ているだけで病みそうだし、演者も辛かったと思います。
映画や小説なので、殺人者の完全否定だけでは行けないと思います。加害者にも理由や事情があったり、どこか共感できる部分があっても良いと思います。ただ、このストーリーだと、まるで施設や障がい者に殺される理由があったかのような表現です。これはいくらなんでも酷すぎる。
正直、この事件は考えさせられた。
自分が障がい者側なら、、、家族なら、、、職員なら、、、いろいろな目線があります。
自分で意思表示が出来ず、「ココロ」がないのであれば、殺して欲しいと思うし人もいるでしょう。また、介護疲れしている家族もいるでしょう。
かと言って、殺して良いということではありませんが。
といいつつ、、、最後まで物語に惹き付けられたのも確かです。なんとも評価が難しい。
河村光庸氏の火中の栗を拾う姿勢に拍手
例の大事件をモチーフにした劇映画、原作ありきの映画化とのこと。当然に観て楽しいものであるはずもなく、観客1人1人に問題を突きつける、その意味で本作の価値は十分にある。しかしだからと言って内容が重いと暗鬱になったり、否定の声も当然に呼び起こす、現実そのものを提示しているから重いのも当然。劇映画と言うフィクションを通して作品としての存在意義は、ファンタジーだろうとアクションだろうとコメディでも、現実から乖離すればする程にある。一方でリアルな現実を描く社会派なり告発物も観客の目を覚まさせるだけでも十分に意義はあり、賞賛の対象ともなる。だが、同じ現実なのに本作のようなテーマは日常の現実ではなく、恣意的に隠された現実だからアレルギーも引き起こしてしまう。
本作とは全く完全に意味を切り離して参考までに提示すれば、日々私達が美味しく頂いているフライド・チキンやら焼肉やらステーキの根底には、屠殺をし解体する業務があるにも関わらず、私達は見ようとせず完全に避けている。ニュースで戦場の悲惨を映し出す際に非業の死をとげられた死体は完全にボカされる、最大の要点にも関わらず死者の尊厳の美名のもとに現実を隠してしまう。もっと分かり易く例を挙げるならば、東日本大震災での津波の映像に大抵「津波の映像が流れますご注意下さい」とか。私とて猛烈に胸が痛み、避けたい自分を知ってしまう。
この世の中、美しき人生を謳歌するために、心穏やかに過ごしたい。恐ろしいものは避けたいし見たくもない。そんな見なくても済む現代社会を私達はせっせと作ってきた。本作の問題点はここに尽きるのではないでしょうか。社会が形成する以前は、人は動物を殺し肉を自ら切り刻み生きるために食してきた。人の死体なんてそこらじゅうで目にしたはず、手も足も出ない自然災害の破壊も否応なく直面した。そして、非健常者だって当然周囲にいたはず、可能な限りの支えを分け与えたり、逆に差別され虐待されたかもしれない。高齢者は姥捨て山に置き去りにした、口減らしと面倒のために。すべては自分の生活圏内にあった。そんな厳しい現実と接しながら生きてきたはず。
社会が形成されるにつれ、そういった「悲惨」はまとめて面倒みましょうと、ショックを与えるような事象はあらかじめ取り除きますと。高齢者が介護ケアの名のもとに集められ隔離されるように、障碍者もまた施設に集められるようになった。弱者を切り捨てないと効率が悪いと公言する低能論者までもテレビに登場する時代。胎児を検診結果により異常が見つかった場合は殆ど中絶と言う名の殺人がなされると。こうして優生思想が社会の無意識の要請として肥大化してゆくのです。
ここまで遡らないと、本作での磯村勇斗扮するさとくんのクライマックスでの長セリフに対峙出来ない。だから直接映画の関わりなくとも長々と記してしまいました。命は尊いものです、何故なら肉体と魂(心)の解明なんて出来ないのですから。だから人は人の命を弄ぶことなんか出来ないと思います。
さて、本作はあのスターサンズの作品で、この豪華役者の顔ぶれとあらば観るべきと。亡くなってしまったのが残念至極ですが、甘っちょろい邦画に喝を入れ続けた河村光庸氏の遺書でもありましょう。答えの出しようのない事ですが敢えて火中の栗を拾う姿勢に敬服です。
とは言え、脚本・監督を任された石井裕也には荷が重すぎたのか、身構え過ぎたのか粗が目立つのが残念。あのワインへのクロースアップは何ですか?素人のホームビデオレベル。カメラワークもぎこちなく、なにより脚本の推敲不足なのかセリフもぎこちない。執筆に行き詰り重度障がい者施設でバイトをするなんて、不届き極まりない女を主人公に、おまけに生まれつきの障害のために幼くして亡くなった第一子と言う過去を設定し、さらに第二子を身ごもりその不安を主題に絡ませるのは、当然に辺見庸の原作どおりなんでしょうが、無理がある。しかも宮沢りえとオダギリジョーの夫婦役でしよ、あの名作「湯を沸かすほどの熱い愛」2016年を嫌でも思い出しそのギャップに困ったものです。
しかし、お二人とも熱演なのは確かですよ。ことにも変な役がほとんどなのに、ここでのオダギリジョーは売れてはいないオタク役ではあるけれど、歳のいった好青年として明るいのですから意外も意外。そして本作ではほぼ主演なのがさとくんに扮した磯村勇斗が圧巻なのです。もとより爬虫類的肌感覚の役者さんで人気も実力も兼ね備え、それでいて作品選択も変態寄り多し。本役を受けて立つ気概に拍手喝采です。狂言回し的な役の二階堂ふみの演技方針もあやふやで、場違いな嬌声に違和感あり。施設の同僚役の2人、虐待に加担し終始悪役然としてますが、普段の働きぶりのポジティブも描いて欲しかった。さとくんの同棲相手が聾唖の設定が作品の中で活きたのかはなはだ疑問。
タイトル「月」と言っても満月は一時もなく、三日月ばかり。フルに完全な月より、欠けたところが圧倒的な三日月が本作の意味するところ。
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ
♪ソ・ソ・ソクラテスかプラトンか
ニ・ニ・ニーチェかサルトルか
みんな悩んで大きくなった(大きいわぁ大物よぉ)
俺もお前も大物だ(そうよ大物よぉ)♪
BY野坂昭如「ソ・ソ・ソクラテス」 1976年サントリーオールドCM
ニーチェは1865年、ケルンにて娼婦から感染、最終的には神経梅毒の症状に冒される その病気の中、「病人や弱者は社会を弱体化させる有害な存在であるから、積極的に殺害すべき」だと主張した。
そんな男がナチスドイツ時代に生きていたら、たちまちT4作戦により処分対象だっただろう それとも実存哲学の先駆者たる彼は自分は違うと反論できたであろうか?
7月26日は幽霊の日
1825年7月26日に、実際に起こった事件がモデルとされる怪談劇「東海道四谷怪談」の初演が行われたことを記念して制定された日
この日に犯行に至った事を奴は知っていたのだろうか? 物言わぬ死者と勝手に断罪と称し禁忌を貪った奴は、物言わぬ無数の天使達に無慈悲に何度も何度も限りなく肉体と精神を雲散霧消とされ続ける悪夢を見続けて欲しいと願うばかりである
作中、何度も何度も問い続ける「お前も思っているのではないか?」
アバンの旧約聖書「コヘレトの言葉」3章15節 『今あることはすでにあった これから起ることもすでにあった』は、人間の思っていることは未来永劫消えぬ原罪を既に現わしている言葉だ
"相模原障害者施設殺傷事件"をモチーフとした原作本の映画化とのこと、原作未読である
今作を鑑賞して、気が付いた映像的特徴がある 初めて映画制作をした人でもないのに、多分恣意的にそのカメラワークが、安易な動きでアマチュア的手法を用いている それはアマチュアというより、運動会のホームカメラのような動きが随所に施されている これの意味するところは自分の能力の低さでは考察が困難である 他の考察サイトの批評を待とう 只の気付きである
モチーフであるから、実際の事件での関係者の心情や思考の遷移、そもそもの思想や主義の明確な解説は成されない それは多分どんなに研究してもし尽くせないことであろうし、そこに力を注ぐ必要も無いと考える
自分が社会的に劣っていると感じるとき、努力を惜しまず精進するか、諦めて日々をやり過ごすか、この世の未練を断ち切り旅立つか そんな大まかな選択であろう そしてその選択に他人を消極的に巻き込む(悲しませる等)ことはあるにせよ、自分の死を代替する対象を作るなんてことは考えない その考えないことを考えたらしめる環境がベースとなり、安易に結びつく萎縮した思考の欠如、想像力の閉塞 世間で言うところの『無敵の人』の誕生である ニーチェは『超人』を望んだがこれがそうなのか?
その悪魔に魂を売り飛ばした人間が常に切っ先を向けてくる、「お前も思っているのではないか?」 どんどんとジグソーの如く嵌められる日常の暴力
マスターピースを埋めない様、一体何が必要なのか? それは常に二股に分れる岐路の如く、天国と地獄を自ら課す 何が譲れて、何が譲れないのか? 自らのプライド?それとも家族の尊厳? しかしその抵抗は防御の為であり、より弱い者への矛先ではない 抵抗できない悔しさを晴らすための格好の獲物だと思ったのならば、そこに美辞麗句を飾っても何も響かない、届かない
猫も象も、自分が永くはないと悟ったのならば静かに退場する 本能で生きている動物ですら清々しい 東日本大震災、創作活動、重度障碍者介護、それぞれが天災やイマジネーション、極度の職場環境というMAXストレスの中でフラストレーションを如何にして鎮める事が可能か?
その答えを探す為の動機をこうして映像化し続ける事 常に弛まぬ持続を怠らない映画界で有って欲しいと願いつつ、丁寧且つ真面目で親切なしつらえを施した今作に最大限の称賛を送りたい
PS.勿論、観賞を保証してのレビューである 疑うならばコメント願いたい
ZANNEN
いろんな思いが交錯する映画だった。感想としてはだらだら書くのも本意ではないので端的に言って「創作することには社会的に意味が大きいが、映画としては破綻しているかもしれない」ということだ。
前半の東日本震災のシーンからして暗示的ではあるのですが、我々一般人(関与しなかった者という意味で)には見えなかったものを、当事者たちは確実に乗り越えざる得なかった。「知らなかったじゃないでしょ、知ってたよね?」って言う問いを突きつけられたとき、私等は何も返答できないわけです。あくまでも当事者性という壁が眼前をよぎるのみなのかもしれない。
私個人の感想では、後半三分の一は別映画にすべきだったと思います。亡き子の墓前のシーンでは涙が出てくるほど感動的でそこで、完結すべきでした。
しかしこの映画は原作者の思いや多くの関係者がいて、そんな題材を選んだ以上、石井監督に許される範疇ではなかったことでしょう。あくまでも寿司屋でTVを観て、驚愕する主人公なんて観たくなかったそれが感想です。
後半に関しては同監督でもいいし、別監督でもいいのでリベンジを期待します。
感想を言語化できない
〈鑑賞直後の感想〉
事件当時から現在の自分の感じ方の変化を確認するために鑑賞。
当時と同じく、感じたことをまとめることが難しい。もう少し時間をおいたら何か言葉になるだろうか。
今年一番動揺した作品である。
まずは記録まで。
〈数日後の感想〉
根拠や確信が無くても、「それは間違っているので認められない」と言い張らなければならない事がある。少なくとも自分自身に対して。いずれ訪れる介護で疲れ果てている私を想像して、こう思った。
現代社会の縮図
大切なのは考えるきっかけ
障がい者とは。本音と建前。
覆い隠される不都合?な真実。
鑑賞中に主に感じたことです。
劇中で二階堂ふみが語る
東日本大震災に関する視点。
本作を制作する上での
覚悟のようにも感じました。
(パンフレットでは監督は陽子を
あまりいいイメージでは
語っていませんでしたが…)
本作を批判する人もいますが
自分は肯定します。
大切なのはきっかけ。
まずは自分が考えるきっかけ。
想像するきっかけ。
自分が当事者だったら。
近親者が当事者だったら。
友人が当事者だったら。
そして全ての健常者は事故などで
障がい者になる可能性があるということ。
映画化されることにより
ニュースでは見えてこなかった視点で
改めて考えるきっかけとなりました。
作品として残ればいつまでも風化せず
数年後に観た人が改めて
事件を知るきっかけにもなります。
障がいを個性と捉える福祉先進国の北欧とは
考え方や距離感が違う閉鎖的な日本だから
起きた事件とも思えます。
良心よ死ぬな
事前情報ゼロで見ましたが、
十分すぎるほど伝わってくる内容でした。
社会にも、施設にも、人にも、全てのものに二面性があって、影と日向は常に葛藤している、、、
振り返ってみると、全ての登場人物にも少なからず裏表があって、自分の暗部にきっちり訣別して良心が解き放たれる者、葛藤し続ける者、呑み込まれる者、、それぞれの心の中が痛いほどに描かれていました。
本作は背景設定を語らずに情景や演技だけでそれを伝える力があり、効果音や音楽、デパルマ風演出など随所で作り込みの良さが感じられました。
主演の宮沢さんは、ぶっちぎり圧巻の貫禄で素晴らしかったです!
オダギリさんも最初はホワッとしながらも終盤はジーンとさせる流石の演技でした。
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