哀れなるものたちのレビュー・感想・評価
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後追いの成長。
天才外科医によって蘇生し生まれ変わった女の話。
橋から身投げしたヴィクトリア、橋の下で天才外科医ゴッドに拾われ、お腹にいた胎児の脳を移植され蘇生した体は大人で精神年齢は子供なベラ・バクスターのストーリー。
物心がつき好奇心旺盛なベラ、子供の様に駄々をこねやりたい放題、性に目覚めては盛りのついた動物の如くセックスだったけど…セックス、裸描写は結構あったけどエロさ全然感じずで、どちらかといえば始めましての人とのやりとり、急にビンタ、蹴りあげるみたいな描写の方が笑えた。
月日が経つにつれ片言な言葉や歩き方、考え方などが徐々に成長して、ホントの自分を知り元の家に戻るも、なぜ自殺をしたかが分かり蘇生した場所へ戻ったけど…実験の経過観察はどうなった?
変人天才外科医の「あ~」って唸りながら口からだすあの空気玉は何すか?(笑)
笑っちゃった。
「ラ・ラ・ランド」よりも個人的には「クルエラ」が好き、エマ・ストーンは好きな女優さんだけど、本作は体張って裸体を晒したけど、役やストーリーとはいえ裸体を晒す女優さんって他の作品でもいるけど、晒す=その女優さんが安く見えてしまうのよね個人的に、なので女優さんの裸は見たくない。
作品は飽きずに観れたけどちょっと時間を感じてしまった。
好奇心と自由と寛容
久々に劇場に駆け込みたくなる話題作は期待を裏切らなかった! 驚嘆の世界観、寓話性、芸術性に加え、アイロニックな笑いを誘う楽しさもあり、常識はずれの主人公の言動や行動にはある種の爽快さもある。ただ奇妙奇天烈なだけなく、好奇心を持ち自由に生きることを賞賛する一貫したテーマがある。
映像からたくさんの刺激を受け、たくさんのことを考えたくなるし、物事の表層ではなく根源を見つめさせてくれる。重厚で高次な映画芸術の最高峰だと思う。
勿論、お下劣なところがあるからこそ、より興奮するというのも事実。高尚と下品のバランスが実に丁度いい。
とにかくベラの強烈な生き様に目が行きがちなところで、ベラの父親的存在ゴッドウィン・バクスターについて一つ。クライマックスで彼は肉体を入れ替え不老不死のハッピーエンドに進むのかと思わせるカメラワークののちに、予想を裏切り安らかな死を迎える。私には印象的なシーンの一つであった。
冒険してもいい頃
よくよく考えてみたらエロ漫画のテーマではないですか。
俳優陣の名演に騙されるところでした。
ただ生と性の問題は人生のテーマですので哲学的にも捉えることができそうです。
エマさんとゴッドが素敵な映画でした。
奇妙な世界に没入
ゴシックホラー、SF、童話、実験的アート、シュール・コメディ、ファンタジーといった言葉が思いつくが
感想がうまくまとめられない。
しかし映画自体は演技、演出、音楽、美術が素晴らしく融合しており、奇妙で怖くて美しくてなんとなくクセになりそうな五感に響くゾワゾワする感覚をもたらしてくれた。
登場人物の倫理観やエログロ行為など眉をひそめるようなシーンはあるが、そもそも狂気から始まる超現実的なワンダーランドなので何でもありかと。
よくこのスケールでこの世界観を作り出せたものだと感嘆。モノクロもカラーの切り替えも美しかった。
ラストは優しくて残酷だが収まる所に収まった?と妙に満足。
最初から最後まで謎の没入感に包まれた時間だった。
何をどう判断して、どう理解すべきか難解
自ら命を絶ったベラ。しかし、天才外科医ゴッドウインにより脳を移植されて新生児として蘇生する。ゴッドウインはベラに知識を与え一から育てる。ゴッドウインの閉ざされた屋敷内での生活から更に外部の世界へ好奇心を持つベラ。放蕩者ダンカンの誘いに乗り、外の世界を旅する。ベラは現実世界に衝撃を受けながらも自分がどうあるべきかを模索していく。とあらすじを語れば単純ではありますが、この過程に絡む人物達、世の中の偏見、不条理などが様々あります。ある見方をすれば純真無垢な脳を持つ大人の女性が真の自由と平等を求めた話となります。ある見方では、男性の女性に対して、ある者は純真無垢な女性を束縛したいことを求め、ある者は性欲を満たしたい時にはいつでもできる対象と考えている。という男性の本性を描いているともとれます。またある見方をすれば、女性はどのような境遇になろうともその中で進むべき方向を見出すが、男性は立ち止まり嘆き、絶望してしまうものである。等等様々な感想を持つ作品です。
無垢な脳のベラは映像は白黒、目覚め好奇心が高まるとカラー映像になる演出、また様々な国々での映像、デザインは見事です。エンドロールではなく映像を駆使するのも流石です。
万人受けする作品ではありませんが、ストーリーのモヤモヤ、なぜベラは自殺したのか、移植された脳は誰なのか、ベラは何者なのかまでスッキリさせてくれます。
18禁となっているとはいえ、パリの売春宿でのさまざまなセックスシーンはもう少し短いもので良かったのではと思います。
「経験」よりも「教育」が大切だと考える自分は、社会的な常識や既成概念に囚われているのだろうか?
確かに、人間の成長には「経験」が必要だし、だからこそ、父親代わりのゴッドは、娘のようなベラを、世界を知るための旅に送り出したのだろう。
実際、ベラは、リスボンで性欲に溺れ、船上で知性と理性を身につけ、アレクサンドリアで慈愛の心に目覚め、バリで勤労と対価を理解し、ロンドンに戻って自分の過去と対峙することによって、自立した女性へと成長していくのである。
だが、ベラの脳が新生児のものであるならば、「経験」よりも「教育」の方が先なのではないかとも思ってしまう。
確かに、自由奔放な彼女の言動には、世の中の常識や既成概念に風穴を開けるような破壊力があり、そこが、本作の面白さにもなっているのだが、それでも、彼女に必要だったのは、「観察者」や「記録者」ではなく、赤ん坊を育てるような「教育者」だったのではないかと思えてしまうのである。
ただ、こういった感想そのものが、常識や既成概念に凝り固まっている証左なのかもしれないが・・・
それから、いくら本能的で根源的な欲求だからといっても、新生児の脳を持つ女性が、強烈な性的欲求を持っているということにも違和感を覚えざるを得なかった。
ただ、これについては、終盤で、蘇生する前のベラが相当に淫乱であった(らしい)ことが明らかになり、蘇生後も、そうした性分が残っていたのだと解釈すれば、なんとなく納得することができた。
それでも、性的な描写が不必要に多かったという印象は拭えないのだが・・・
ラストの、将軍の顛末についても、あれをハッピーエンドとして片付けてしまうことには抵抗感がある。「殺していない」という事実のためだけに、人間としてではなく、ヤギとして「生かし続ける」ことは、単なる「偽善」なのではないかと思えるのである。
その一方で、父親に人体実験の材料にされたという生い立ちを持つゴッドが、人生の最後に、愛する者たちに囲まれながら息を引き取る姿には、素直に胸が熱くなった。エンディングは、このシーンだけで十分だったのではないだろうか?
いずれにしても、いかにもこの監督らしい奇妙奇天烈な物語で、VFXや魚眼レンズを駆使したビジュアルも楽しめるのだが、それでも、話としては、「ロブスター」や「聖なる鹿殺し」の方が面白かったと思えるのである。
知る喜びと愛する歓び
こんなに自由にインスピレーションと思索の海に溺れられる映画は滅多にない。ヨルゴス・ランティモス監督の作品はシュールな社会派コメディだと思っていたが、「哀れなるものたち」はかなりアップテンポで直球に近い作品だ。
ずっと期待して楽しみにしていたけど、早くも今年のベスト映画候補である。う~ん、好き!
知る喜びと愛する歓びが螺旋のように絡まり、一人の女性を加速度的に成長させていく物語は、生きることへの賛美でもある。
何かを知る、というのは途轍もない喜びである。何も知らないベラが、1日に15の単語を覚え、性的歓びに目覚め、哲学を知り、世界の残酷さを目の当たりにする。
全てはベラが「知る」ための冒険なのだ。
更に、最初のモノクロ世界でも既にゴッドが知る喜びについて言及している。
父親から親指を傷つけられた少年時代のゴッドは、痛みのあまり他の四指を見ていることしか出来ず、その結果皮膚組織の仕組みを知った。
少年ゴッドはその時笑っていたのだ。科学的観察がもたらした発見は、身体の痛みを忘れさせるほどの喜びだった。
その知的好奇心はベラにも受け継がれ、例え「1つで十分」と言われたエッグタルトも食べたいだけ食べ、結果盛大に嘔吐する。
「経験してみないと分からないじゃない」という明快な行動が、全てにおいて発揮され、何物にも縛られないその奔放さがベラの特徴だ。
そして、その唯一無二の振る舞いが「本当に哀れなるもの」を産み出してしまう。
ベラには「社会の良識」が欠けている。欠けているから魅力的であり、欠けているから悪魔的なのだ。
ゴッドもマックスも勿論ベラを愛しているが、ベラの秘密という「情報」が欠けていたからこそ、ダンカンはベラに興味を持った。
ベラの秘密を知らないままその美しさと奔放さに魅力を感じたダントンは、プレイボーイぶりを発揮し彼女を連れ出すが、面倒な駆け引きもしない代わりに空気も読まない(読めない)ベラに忽ち翻弄されることになる。
「社会の良識」が欠けているから、ズケズケと物を言い、下品な振る舞いに恥じ入ることもない。公然と矛盾を指摘し、譲歩してダントンを構うこともない。全く思い通りにならないベラに、哀れ既に心を奪われたダントンは社会的にも精神的にも破滅の一途を辿る。
思えばゴッドも色々なものが欠けている。胃液が無いから外部で胃液を調達し、「社会の良識」より科学的探求に重きを置く。その容貌は傷だらけで、顔色一つ変えずに死体を切り刻む様は「常識人」から見れば当に怪物。
彼の傍らにいるのは「凡庸から紙一重で踏みとどまっている」マックスとメイドのプリム夫人だけ。
ゴッドとベラは表裏一体で、「社会の良識」から追い出された存在なのだ。
だが、ゴッドもベラもちっとも哀れではない。欠けている事を認識し、欠けているからこそ愛するもの・大事なものに真摯だ。
「哀れなるものたち」二本目の柱はズバリ「愛」であり、それは性愛だけでなく親子の愛でもある。
ここでもベラとゴッドは一見奇妙な親子愛で一致を見せる。
ゴッドはベラに愛を注ぎ、世界から守ろうと屋敷に閉じ込めていた。それはベラの「世界を見たい」という欲求と相反した行動で、結果的にベラはゴッドの元を離れてしまうが、彼のベラへの思いは間違いなく親子愛である。
ベラが去ったあと、ベラと同様の女性フェリシティが登場するが、ゴッドは彼女に愛情を示さなかった。フェリシティの成長はベラに比べて遅く、ベラの成長速度には親(ゴッド)の愛が深く作用していたことが伺える。
そしてそこから導き出されるのは、父の跡を継ぎ、ベラとフェリシティ(と数多の動物たち)を誕生させた天才外科医・ゴッドウィンは、やはり彼のチチ親に愛されていたという事実である。
ゴッド曰く「最低のクソヤロー」である彼の父親の言葉で、唯一真に迫るのは「慈愛を込めてメスを入れろ」なのだ。
息子の身体を切り刻んだマッドな父親ではあるが、その執刀に愛が宿らなかったことは一度も無いのだろう。
強烈な痛みと引き換えに人体の構造を観察し、消化出来ない不便を抱えてもなお、外科医として大成し精力的に活動するゴッドウィン・バクスターは、父の愛なくして存在し得なかったのだ。
「良識」からすればグロテスクで下品とも取れるストーリーですらあるが、真摯な観察と思考を駆使すれば、不条理なのは「社会の良識」の方だ。
思ってもいないことを口にし、的当な相槌と思考停止を駆使し、「なぜ?」という問いを「そういうものだから」で封殺しようとする。
カラフルでファンタジックな、絵本のようなショットの中で、欠けながら自由に自分を肯定するベラの物語を是非堪能して欲しい。
奇妙で悪趣味(誉め言葉)なコメディ
奇妙なグロテスクさもあり滑稽さもあり、女性の主体性を考えさせられる真摯さもあり、とても面白かったです。
ベラの衣装もどこか奇妙でポップで、絵画のような風景もどこか奇妙で美しくビジュアルも楽しめましたし、シンプルな響きながら不穏さや奇妙さを絶妙に掻き立てる音楽も印象的でした。
ゴッドのビジュアルもインパクトがあり、悲惨すぎる過去のエピソードを淡々と話す空気感は笑ってしまいましたが、笑っていいのかなんなのか。
現実的には、性的な部分は病気や妊娠の心配もしてしまいましたが。
とは言え、固定観念に縛られず、性的好奇心も知的好奇心もフラットに理性的に捉え、主体性を持って冒険する様子はやはり好感が持てますし、クズ男の落ちっぷりも笑えます。
女を所有物と考える男の抑圧から逃れ、女性の主体性を尊重する物語という側面も良かったです。
クズ夫の末路も笑いました。
しんみりとしつつ朗らかな雰囲気で終わるかと思いきや、最後にこれかと。
ひどい、悪趣味(誉め言葉)、やはりこのオチを見るとコメディだなと。
しかし、ベラは人間を改造したことに否定的な態度もとっていたのに、こうするのか?とも。
他人を人間扱いせずある意味改造するような危害を加えようとしていたクズ夫なので、因果応報いい気味だと笑えましたが、クズとは言え脳を改造して黙らせるのも倫理的にどうかとも思ってしまい、やはり笑っていいのかなんなのか。
赤ん坊にされたかと思っていましたが、そっちだったかと。
しんみりとし過ぎずに、こういうどこか狂ったブラックユーモアでの終わり方というのも良かったです。
ついでに、関西ローカルの朝の情報番組でおススメ映画として紹介されていましたが、朝ののほほんとした番組で軽い感じで紹介していいのか?と、何だか笑ってしまいました。
面白いし良い作品なので多くの人が観ればよいとは思いますが、クセがあるとも思いますので。
ある程度性的な描写があるだろうとは思っていましたが、思った以上に直接的で多かったですし。
凄いものみた……!!
途中途中で何見せられてんだ……って気持ちになりつつも
ああいうラストに持っていくランティモスの手腕。
トッド・ブラウニングの「フリークス」やないか。
あんな壮大な曲かけられたら、凄いもん見た気になっちゃうよ
ただ、全てがベラの権利を主張する為にあって、
そこにも励まされた。
異訳:フランケンシュタインの娘の成長物語。
本年の劇場鑑賞1本目は、コメディ部門でゴールデングローブ賞を獲得した本作。
すわ、アカデミー賞受賞も見据えられており、期待を込めて見てみよう、と。
ヒトの理性の外側の、好奇心。物体や事象への興味。
それらを「欲」というのであれば、この作品は、幼く、しかし幼さと矛盾したオカルトチックで純粋な「欲」にまみれた物語でした。
ああしかし。こんなものを140分も、いったい何を見せられているんだという感じは否めない。ずっとエロいし、グロいし。笑うといってもシニカルなそれ。日本人がうまく笑えない質のもの。スウィーニートッド見たときの感覚をちょっと思い出した。
要するに主人公ベラの行きて帰りし物語であり、充分に成長しきったヒトである私からすると、ベラが進歩したと言っても正直、見るべき学ぶべきものは無い。赤子が大人のカラダを借りて急成長しただけの話で。ここで、見る人により、この作品への評価は分かれそうな気がします。
こんなくだらない映画が映画賞を受賞するようでは、世も末とも思う自分がいる。もし主役を演じたのがエマ・ストーンでなかったとしたら、同じように評価できるのだろうかと。同じ作品を邦画でリメイクしたら大問題作と評価されそうだよな。
ただしかし、不思議と鑑賞後感は悪くないように思えてくる。ちょっとパリの時間が長すぎて、全体2時間くらいに収めてもよかったような気もするが(まああの娼館がベラの急成長の起点だから仕方ない?)、その割にはテンポは良く、話の面白さはあった。
また、身にまとう衣装や、SF×中世のような舞台の世界観、色彩、デザインはどれも素晴らしい。これは後々に残っていく高いレベルとおもう。きっと絵コンテも素晴らしいものに違いない。
うーん、なんなんだこの作品は。
要約してみると、、
ベラは、スラムに住む子どもたちを哀れと思う。性欲にまみれる男たちにも哀れみを感じる。自らを生物実験台とした悪魔のような生みの親を赦す。自らを思い慕う愛を受け入れる。そしてラストでは母の復讐を自らの業に沿った形で成し遂げる。さらに、医師を目指していくベラはきっと人助けのための医学者になるのであろう。主人公の筋道だけを抜き出してみると、まるでどうだ、こんなにも美しい物語ではないか!
エログロSFヘンテコ作品と切って捨てることの出来ない、この感覚がこの映画の不思議な魅力なのだろうか。
いやはや、今年は1作目から悩ましい作品に出会ってしまったものだ。出会ったことの後悔は、一切ない。
【”解放。”哀れなるもの:女性の自立を認めずに自身の籠の中に閉じ込める者。今作は蘇った女性が様々な土地を旅する中、経験を積み再び赤子から大人に成長する過程を、壮麗な美術を背景に描き出した作品である。】
ー 冒頭、カラーで独りの青いドレスを身に纏った若き女性が川に身を投げる。理由は描かれないが、最後半に登場する彼女の夫である愚劣極まりない女性蔑視のアルフィー(クリストファー・アボット))の所業を見れば、理由は分かる。-
◆感想
・冒頭のシーンの後、画はモノクロになる。そこでは、ベラ(エマ・ストーン)と呼ばれる女性がゴッドウィン博士(ウィレム・デフォー)の邸宅で、赤子の様に振舞っている。
ー 冒頭、身を投げた女性に何が起こったかは、ゴッドウィン博士の台詞”死後硬直も起こしていない状況だったため”処置”は上手く行った。”で分かるが詳細は語られない。
だが、ショットで映される人間の頭を開き、その中の脳が見える絵の数々から推測できる。-
・ゴッドウィン博士はベラの面倒見も含め、マックス(ラミー・ユセフ)を助手として邸宅に住まわせる。
ー 因みにゴッドウィン博士の顔面はフランケンシュタインの様である。彼の言葉から察するに、彼の同じく外科医で社会の発展のために息子の身体で様々な実験をした父の行いらしい事が、推測できる。ー
・徐々に知恵がついて来たベラは外の世界を見る事を欲する。冒頭のシーンがそれを裏付けている。
そんな彼女に近づいた放蕩者の弁護士ダンカン(マーク・ラファロ)は彼女をロンドンからリスボンに連れ出す。そして二人は”熱烈ジャンプ””=セックスに耽溺し、ベラはエッグタルトの美味さに目覚めていく。
ー ベラが、徐々にダンカンの世界から自身の世界観、価値観を持って行く過程が巧く描かれている。因みにこのシーンからモノクロからカラーに戻る。
ヨルゴス・ランティモス監督の感性が光る部分でもある。-
・ベラは更に船上で老婦人のマーサと黒人青年ハリー(ジェロッド・カーマイケル)と出会い哲学や読書の魅力を学んでいくのである。
ー ベラが読書しているとその本を二度も、海へ投げ込む愚かしくも、面白き、ダンカンの姿。ダンカンの世界から離れ、知識を得て行くベラ。 ー
・アレクサンドリアでは、ベラは塔の上から地面を眺めると貧しき人たちが多数居る。彼女はその姿を見て涙し、ダンカンが賭けで勝った金を含め全財産を彼らに与える様に船員へ伝える。
ー 当然、ベラとダンカンは文無しになり、ダンカンは怒るのであるが、ベラは気にしない。この辺りから、ダンカンの人間としての底の浅さが鮮明になるのである。-
・パリで船から降ろされたベラとダンカン。雪が降る中、ダンカンは傘を指し何も出来ないが、好奇心旺盛なベラは宿探しに出る。出会った老女は娼館の主であり、ベラはそこで娼婦として働き始める。客一人30フラン。だが、彼女はそれを楽しみつつ娼館の売れっ子になるが、ダンカンは身を売った彼女に激怒し、別れる。
ー そして、知恵が更に付いたベラは、稼いだ金で医学を学ぶのである。ー
■余命僅かとなったゴッドウィン博士の事を書いた手紙が舞い込み、ベラはゴッドウィン博士の邸宅に戻る。
そして、婚約者だったマックスと結婚式を挙げようとするのだが、そこに現れたアルフィーと背後にこそこそ隠れている愚かしき男、ダンカン。
ベラはアルフィーの邸宅に戻るが、アルフィーの執事、お手伝いに対しての横柄な態度を見て、ベラは自身が身を投げた理由を思い出して行くのである。
そして、自分の本当の名がヴィクトリアである事も・・。
更には、自分の脳は自らのお腹にいた子供の脳である事も知った彼女。
逆に、彼女の自由奔放な姿を見たアルフィーは、彼女に睡眠薬を飲ませ彼女の股の間にある女性に取って性愛を感じるモノを切り取る事を画策するが、ベラはそれを耳にしてしまう。
そして、拳銃を向けるアルフィーに対し、ベラは決然と対峙し渡された睡眠薬入りの飲み物をアルフィーの顔にぶちまけるのである。
そのはずみでアルフィーは自らの足の甲に銃弾を撃ち込んでしまうのである。
<ラストシーンは実に実に爽快である。
ベラは、卒倒したアルフィーに睡眠ガスを吸わせ、或る手術を彼に行うのである。
そして、ベラは庭園で椅子に悠然と座る中、山羊の脳を頭に入れられたアルフィーは、庭の植物を山羊の恰好で漁っているのである。
今作は、女性の自由、自立を認めずに籠の中に閉じ込める者の愚かしさと共に、蘇った女性が様々な土地を旅する中、経験を積み再び赤子から大人に成長する過程を、壮麗な美術を背景に描き出した作品なのである。見事な作品である。
<2024年1月26日 劇場にて鑑賞>
<2024年1月29日 別劇場にて再鑑賞。>
・依って、勝手ながら評点4.0を4.5に変更致します。
革新的で芸術的な世界観を追究した傑作!
ある意味ベラの復讐物語のようでした。始まりから一定時間は白黒映画になっており、他の映画との格の違いをみせつけられているようでした。エマ・ストーンのゼンマイ仕掛けのような動きが絶妙でした。
フランケン顔のゴッドウィンは、最後どうなったのか気になります。てっきり手術でベラの夫の体を借りて、生き延びるのかと思っていました。
音楽もインパクトがあり、大変刺激的な作品です。
人生をリセットしたいと思った事のある人には何か刺さるものがあるだろう
内容が興味深かったので公開初日に鑑賞。
結論から言うと、まぁまぁ深く考えさせられて面白い。
人生をリセットしたい、生まれ変わったように生きたいと思った事のある人は刺さるものがある。
最初は人形のように歩き精神年齢も幼児のベラが、成長して心が見た目に追いつくようになる。
そして常識や偏見に囚われず純粋な心で物事を認知し世界を生きていく様は面白い。
まぁ途中、身体の大きい幼児のような言動が耐えられない人もいるかもしれんが実際に存在する頭が子供のまま止まった世間の老害たちと比べると、まだベラは賢く聡明に成長していったから褒めるべきである。
そしてベラ役の女優がまた奇抜で鮮やかなデザインのドレスがよく似合う。顔も実験体2号と比べるとやはりオーラがあって2号の女優さんでは越えられない壁がある。
初老のおじさん達との大人のシーン(若いイケメンならまだしもあまりビジュアル的に見たくない)や、グロいシーンが苦手な人はその部分だけ目を閉じて瞑想する事をおすすめする。
不安な不協和音ややたらうるさい効果音もたまにしつこいので大きな音が苦手な人は耳栓を用意した方がいいかも分からん。
ただ全体としては芸術的な映画でとても良かった。
自分を所有物にしようとしてくる男どもを蹴散らす精神もかっこいい。
個人的には船で出会った教養のある知的な2人(白髪の上品なマダムと黒人の人)が好きだった。
そりゃ、アホな色欲好きの初老のおじさんの時間の無駄のような相手するより、美しい夕陽を見ながらバルコニーで本と共に彼らと知的な会話を楽しむ方がベラにとっては価値のある時間の有効活用だったのは言うまでもない。
ただ一点、覗き穴からベラを観察するような描写は何だったのか?
相変わらず自分の理解力のなさにトホホとなる。後で調べてみようと思う。
傑作か?ただのB級カルト映画か?
映画マニア的な人達からは絶賛されるかもしれないが、一般の映画ファンには受け入れられないかもしれないな。
人の尊厳、宗教、貞節、道徳感などを『ブラックジョーク』という鍋にぶち込んでごった煮にした感じ?
ネタが古すぎるかもしれないが 『ホーリーマウンテン』をちょっと思い出した。
まぁ、あそこまでめちゃくちゃではないが。
エロ満載でSEXシーンだらけだし、作り物だろうが白黒シーンで男性器が少し映る。
まぁ、社会風刺やメタファー的な映像もあり、深い意味を求めれば、いくらでも考察できるかもしれないが、ただの悪趣味な作品と言われればそれまでな気はする。
監督はその辺りの匙加減ギリギリを狙っているのだろうが。
カルトムービーに興味がある人なら観てみるのも良いかもしれないが、『アカデミーにノミネートされたまともな映画』を期待して観に行くと後悔するかも。
問違ってもカップルがデートで観に行く作品ではないな。
作品の評価は人によって大きく偏るだろうね。
ひゃっほぅい。
私はドンピシャ。大好きな漫画の世界だったから。
だってピノコだし。愉快痛快ききかいかいの怪物くんの歌が終始頭の中をリフレイン。
絵も作り込まれていてすごく綺麗。
哀れなるもの、それは男。
いろんなものに囚われて可哀想。
女の方が柔軟だよ。そうじゃなければやってこれなかったんだろうけど。
今の時代男性が中世的な感じになってるのは柔軟性を要求されるから?
そして熱烈ジャンプはスポーツ。
だから娼婦をやることに罪悪感なんてない。
いろんな相手が来ちゃうのは困るけど。
まぁお勉強。好奇心のが勝つ。(笑)
でもね、愛を知ったら全く意味が違ってくるんだけど、そこまで描くのは原作と違っちゃうし、まとめるのは難しくなるからここまでなのかな?その方がアカデミーっぽいけどね。
最後元旦那にゴッドの脳を移植するんだと思ったけど、やはりいろいろ揉め事とか起こりそうだからやめといたのかな。
↑
ベラに恋心起こすとか。
相変わらず日本人俳優に変換される私の脳は市川実日子とエンケンでした。
生まれ変わるものたち
ヴェネチア国際映画祭金獅子賞。他、多数。
先日発表されたアカデミー賞ノミネートでも11部門。
奇才ヨルゴス・ランティモスが『女王陛下のお気に入り』で組んだエマ・ストーンを今度は主演に迎えて。
そう、ランティモス作品。一筋縄ではいかないのは見る前から想像付く。
今回もまた。概要はズバリ、女版“フランケンシュタインの怪物”。
作風もビジュアルも期待通りの。つまりそれは、好きな人には好きでダメな人には全く。今回もはっきり分かるだろう。
確かにまたまた異色作だが、描かれている事自体は意外やシンプル。これまでのような難解さナシ。
元々『フランケンシュタイン』が好きな事もあり興味も惹かれ、ランティモス監督作の中ではお気に入りになった。
ダーク・ファンタジーでもあり寓話でもある。
入水自殺した若い女性、ベラ。
マッド・サイエンティスト、ゴドウィンによって蘇生。命を絶った時身籠っていた胎児の脳を移植されて…。
ゴドウィンの屋敷には頭と身体は元々別の繋ぎ合わされた珍妙な動物たちが…。衝撃とキワモノ感しかしないが、不思議と我々はベラと一緒になって、ベラが知っていく感情や世界や冒険や成長を体験していく。
蘇生したばかりのベラ。胎児の脳を移植されたので、日本で超人気の名探偵の逆バージョン。
言葉も喋れない。おぼつかない足取り。排泄も一人では出来ない。感情を伝えるには赤子のように声を上げるだけ。
食欲はある。好き嫌いはあるようだが、“食べる”という欲は人間が生まれながらに持つ本能。
次第に人間らしく。人間らしくというのもアレだが、言葉も喋れるようになり、喜怒哀楽もはっきりと。でもこの喜怒哀楽もその意味への理解はまだで、ただその時の感情を表す手段として。例えば、馬車から降りて外に出たいのにダメと言われ、子供のように泣き喚く。
少々、残酷さもあり。小動物を殺す。他への興味も人間の本能。
食べる。寝る。そしてベラはまた一つ新たに見つけた。
感じる。
感受性…ではなく、性欲。一度死んだ身体にも伝わる気持ち良さ。
その先に種の存続もあるが、性欲だって恥じらう事ない人間本来の本能。そうやって私たち人間は遥か昔から存続してきた。
ゴドウィンを“父/ゴッド”とし、助手マックスと婚約し、ベラは屋敷という鳥籠の中で、ツギハギだらけの小鳥として生きていく筈だったが、思わぬ急変。
放蕩の弁護士ダンカンと出会い、彼に誘われるまま、駆け落ち。
世界を見、自分探しの旅へ。
ここから白黒からカラーへ。映像の切り替わりもただ単に過去/現在ではなく、外の世界や自由や広がりもあるようだ。
どうやらダンカンの狙いはただの性欲満たしなだけのようで。
ヤリまくり、ヤリまくり、ヤリまくり…。
エマ・ストーンが初とも言えるフルヌード&激しい濡れ場。喘ぎ声に悶絶。18禁も頷ける。
が、ただのエロ映画ではない。旅の最初の地、リスボン。
ここでベラが知ったのは…
外の世界の美しさ。この後他にも世界の街に赴くが、ベラが初めて見た外の世界という事でその美しさは出色。リアルというより、不思議の国に迷い込んだアリスのようなファンタスティックさ。
映像、美術、エマが着こなす衣装…ビジュアルは秀逸。
街中で聞いた歌声。それに魅了される。
物事の認識、話の受け答えなど徐々にはっきりと。ディナーの席でまだまだマナーはなっていないが、何だか痛快でもあった。
ダンスも踊る。身体を駆け巡るこの躍動。
豪華客船にて。
老婦人と哲学者と出会う。
二人との会話の中で…。
見る/知るだけじゃなく、学ぶ/考える。
二人とのやり取りもなかなかのもの。皮肉屋の哲学者とも。
別れ際の言葉は皮肉屋のこの哲学者を感心させるほど。
赤子のようだった頃とは大変な違い。学び、成長していくも人間の欲する本能だ。
パリ。
この頃、ダンカンとの仲は険悪。
ダンカンは金を無くし、言動も荒れ、ベラに当たる。
ここでベラは驚きの行動。ダンカンに見切りを付け、一人で旅を続けるという。
今までは誰かがいて、従ってきた。もう必要ない。一人で出来る。その機会、挑戦。
決断するという事を知る。
自立するという事を知る。
まあその方法が、若い女性ならばのアレだが、自由や解放、お金を稼ぐ、一人で生きるという事を知る。
その“館”で、他の女たちとも交流を育む。
帰ってきたベラ。
ゴドウィンは病が…。マックスと結婚を。
『フランケンシュタイン』な話で、ハッピーエンド…?
その時、“意義を唱える者”。
元夫だという。ベラ…元の名前はヴィクトリア。死ぬ前結婚していた正真正銘の元夫だった。
ちなみにこれは執念深いダンカンの差し金。
ベラは一旦結婚を中止し、元夫の元へ。
人は時に、過去と向き合わなければならない。
自分に何があったのか。
それを乗り越えずして、新たな幸せは手に入れられない。
すぐ分かる元夫の本性。軍人で、暴力的で支配的。
逃げたって捕まる。逃れるには、もう命を絶つしかない。
それが私の終わりであり、始まり。
以前の私はか弱く、無理だったのだろう。
しかし、今は違う。見て、知って、感じて、学んで、考え、広めて、決断して、自立して、臆する事なく向き合って。
私はもうか弱いヴィクトリアじゃない。
ベラだ!
140分強、エマ・ストーン劇場。
大胆シーンも含め、キワモノ的難しい役所を見事に。
赤子のような序盤から自我と自立した女性を、もうただただ圧巻…!
さあ、2度目のオスカーなるか…!? 『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』リリー・グラッドストーンと一騎討ち状態だが、果たして…?
助演陣もインパクト。見る前はウィレム・デフォーがサイコで、マーク・ラファロがサポート役と思ったが、その逆。デフォーは常人離れも含みつつ、生みの親/父としての眼差し。ラファロの愚かさぶりもさすがの巧さ。
一番我々寄りのラミー・ユセフも好助演。
憎々しい元夫。コイツの最後の姿は本作一番の笑い所だった。
下手すりゃヤベー作品になりそうなものを、唯一無二の世界観と演出で陶酔すらさせられる作品へと昇華させたランティモスの手腕。
賛否両論は必至。もうこれもこの奇才の醍醐味だ。
“哀れなるものたち”とは死から蘇生したベラの事と思っていたが、ただそれだけじゃない。
“ものたち”。ベラ以上に、愚かで哀れな周り。
またはその世界。ベラは旅先で、ある惨たらしく悲しい様を見る。
人生を謳歌する者もいれば、その下の下で、這いずり回る者、苦しむ者、夢も希望も自由もない者…。
歪んだ世界、不条理な世界。
これが求めた自由な世界の本当の姿なのか…?
いや、違う。だったらそこから何かをする。動く。変える。
フェミニズム、差別偏見、格差、多様性…。
私自身も世界も、新たな命を持って生まれ変わる事が出来る。
ラストシーンも人によってはハッピーエンドでもあり、衝撃でもあるが、私個人まさかランティモス作品でこんなにもポジティブにさせられるとは…!
すっごい悪趣味な世界観と変態的な情操教育なので、子どもには見せられません!
2024.1.26 字幕 イオンシネマ京都桂川
2023年のイギリス映画(142分、R18+)
原作はアラスター・グレイの小説『Poor Things(1992年)』
ある実験にて幼児化した女性の成長を描くヒューマンドラマ
監督はヨルゴス・ランティモス
脚本はトニー・マクマナラ
原題は『Poor Things』で「かわいそうなものたち」と言う意味
物語の舞台は、イギリスのロンドン
ある橋から身投げした女性(エマ・ストーン)は、天才外科医ゴッドウィン・バクスター(ウィレム・デフォー)に助けられ、ある実験対象となった
それは身籠っていた胎児の脳を移植すると言うもので、それによって女性は「脳は幼児、身体は大人」と言う個体として復活する
ゴッドウィンは彼女にベラと言う名前をつけて、助手のプリム夫人(ビッキー・ペッパーダイン)とともに、彼女の成長を促していくことになった
ゴッドウィンは医学生のマックス・マッキャンドルズ(ラミー・ユセフ)をベラの記録係に指名し、彼は真面目にベラの生育状態を克明に記録していく
ベラはマックスを気に入り、ゴッドウィンは二人を結婚させようと考えていた
その結婚契約書をの作成を頼まれた弁護士のダンカン・ウェダバーン(マーク・ラファエロ)は、この契約で結婚しようとするベラと言う女性に興味を示す
彼はベラにこの契約は不当で、もっと世界のことを知るべきだと諭す
ベラはその考えに感化され、ゴッドウィンに結婚前にダンカンとともに冒険をしてくると言って一緒に行ってしまうのである
物語は、ダンカンとの冒険を描く中で、彼女が精神的に成長し、世界を知ると言う内容になっていた
自分が恵まれた状況であると知り、男女の仲で育まれる性的な欲求を堪能し、最終的には娼館にて働いて、自立していくことになる
その行く先々で色んな人物の価値観にふれていく中で、ベラの人格が形成されていくのだが、人間が大人になるために必要な要素をぶち込みまくっていると言う印象を受けた
性的な探究心では、多くの性癖を持つ変態が登場しまくり、無修正に近い性交が描かれまくる
文字通り「まくる」と言う感じで、合計10回以上のセックスシーンがあったりする
ノーマルな体位変換から、性教育を施す子どもと親と言うものまで登場し、それによって培われる人間哲学が正しいのかすらわからないと言う感じになっていた
登場する男性は基本的にバカで愚かと言う感じになっていて、女性の奉仕活動に多くの時間を割きつつも、学んでいくことはたいしたことがなかったりする
変態性の強い映画で、カップル&ファミリーだと地雷案件としか言いようがないので、誰かに紹介することは憚られる内容であると思う
ぶっちゃけ、「ちょっと長いわ」と思いながら観ていたが、それは着地点がはじめに提示されているものの、回り道ばかりしていく流れにイライラしてしまうからではないだろうか
いずれにせよ、監督が監督なのでヤバいんだろうなあと思っていたが、想像以上の変態映画で驚いてしまった
知的障害に見える幼少期、発達障害に見える青春期を迎えて、性的な衝動が落ち着くと思考的な欲求が育ってくる
このあたりからダンカンがただのわがまま幼児に見えてくるのもツボで、その先に人生を知るために娼館で働きながら、世の中の男性の変態性を学んでいくと言う流れはコメディ以外の何物でもないと思う
最終的に、経験豊富なベラを無条件で受け入れる王子が登場するのだが、抑圧よりも自由を選ぶところが今風ということなのかもしれません
おそらく名作、傑作である。だけど僕はあまり面白くなかった。理由は自分が思ってたのと違う展開だったので残念だっただけ、というよくある理由なので作品に罪はない。
◆失敗した。いや作品ではなく自分のことだ。もっと先入観を持たずにフラットな目線で鑑賞すれば作品を楽しめたかもしれない。
予告編の、 「私はベラバクスター 世界を見て回るの」 というエマ・ストーンのセリフに勝手にときめいてしまったのが敗因と思われる。
女性版フランケンシュタインのベラが世界を巡る冒険の旅に出て、色々なものを見聞きし体験し成長していくという、よくあるパターンを勝手に想像してた。
確かにベラは強烈な体験を重ね成長していくのだが、ベラの驚きや喜び悲しみが僕には伝わってこなかった。だからベラの成長も、気が付いたら最後のほうで医者を目指していて、なんかきっと成長したんだなと思った程度だ。ベラの体験を共体験(追体験?)して感動する気マンマンで望んだのがよくなかった。勝手な想像と思い込みが強すぎたのだと思う。
◆予告編で、船上の黒人青年のたたずまいがとても良かったので、ベラと老婦人と黒人青年が絡む場面がもっと見たかった。船の寄港先のアレキサンドリアで、地上で赤ん坊が亡くなるのをベラが見て悲しむのだが、肝心の地上場面がよく見えないし数秒間だけなのでベラの驚きと悲しみが伝わってこなかった。脳が子供のベラがお金を全部あげてしまって1文無しになって船上とアレキサンドリア編は終わり。海上に浮かぶ船の遠景の空が不気味で良かった。
◆パリでは、「こんなに楽してお金が稼げてラッキー、しかも住み込み」のベラだけど、女も男を選びたいという提案がマダムにやんわり却下されて少しご不満。これも含めその他男性中心社会の問題が描かれる。
このパリ編、 ”エマ・ストーンのオッパイとヘアヌードとセックスは無くてもよくね問題” が発生。なんでこんなことになったかは不明。
僕は「バードマン」からのエマ・ストーンファン。親子ほど年が離れてるからパパ目線だ。パパ・ストーンからしたらこのパリ編は見てられん。
「うちのエマはオッパイ出さんでも客呼べるしアカデミー賞とれると思うがのう。 女子はオッパイ出すとギャラが上がるんかのう、それほど金に困ってるとは思えんが」と嘆くパパ・ストーンであった。
◆以下の話は英検4級の持ち主が、原題の意味をチャチャッとネットで検索しただけの感想なので、あまり真面目に読まないほうが良いと思う。
◎ 原題 Poor Things に比して邦題 「哀れなるものたち」 がやや重すぎる問題。
Poor Things は例えば
・転んでちょっと擦り傷ができた。
・家への帰り道、雨が降ってきて少し濡れた。
・夜よく眠れなかった。
というときに、相手に対して 「かわいそうに」、 「気の毒に」、 「残念だったね」と軽い感じで使うカジュアルな言い回しらしい。
だから、もし邦題がもっと軽い感じの「お気の毒さま」だったら鑑賞したときの印象も相当変わって、コメディ要素をより強く感じたんじゃなかろうか。
僕は、「哀れなるものたち」に、より重い印象を受ける。 映画を見る前から ”哀れなるもの” とは一体何か? を考えて、 ”哀れなるもの探し” が始まる。
予告編を見た時すぐに「哀れなる人間のゴウだのサガだのが描かれるんだろうな」と思った。 もちろん見終わってからも、 ”哀れなるものたち” って何だろうって考えたさ。取りあえずベラに振り回された男たちかなとは思った。
アメリカでこの映画を見たネイティブは、「ああ、いつもの軽い感じのPoor Thingsね」と思って映画を鑑賞し、「みんなお気の毒さま、面白いコメディだったわ」なんて感想を持つかもしれない。 最初っから軽い感じのPoor Thingsって思ってるから、 重たい ”哀れなるもの探し” なんてもちろんしない。
もしかしたら、世界中でこの映画を見た人のうち、この邦題で見た日本人だけが ”哀れなるもの探し” をしてるんじゃないだろうか? な~んて思ったりしたわけでごじゃるよ。
最初にも書いたとおり、自慢じゃないが栄えある英検4級資格保持者だから、全く的はずれの見当違いである可能性が高いと思われる。
あと今日(1/25)レビューしたけど見たのは先行1/19(金)。
剥き出しの欲
時折混ざる不協和音や毒々しい色のCGが不気味ながら神秘的な雰囲気を醸し出している。このような演出に加えて、主人公の無邪気さ、無鉄砲さと哲学的なセリフなども相まって、刺さる人にはとことん刺さるエッジの効いた作品となっている。
R+18指定の作品であるためポルノシーンやグロテスクなシーンも多く、登場人物がモラルよりも自身の性欲や探求欲、知識欲などを満たすために行動する様が一切の配慮なく生々しく描画されている。
好みは別れるものの、非常に個性的・衝撃的な作品であることは間違いないため、予告編を見て興味を持った人は観に行っても後悔はしないと思う。
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