ボーはおそれているのレビュー・感想・評価
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星付けられないけど下げたくも無いので3つ
本作のカオスが
アリアスター監督が鬼才と言われる所以か
何を観させられたんだという思いと
重大なメッセージがあるんだろうという思い
自分ごときでは
評価できない
でも、ホアキン・フェニックスは
ボウとして人生送って来たとしか思えない
ものすごい演技だった
2/25追記 星3→星5
色々な考察動画を見て
ハッとさせられたものがあった
ボーだけが正常な世界
これだと思った
ボーの悪夢と妄想の映画では無く
ボー以外が狂ってる話だったのではないか
何ということだ
アリ・アスターは天才だ!
ママ、あなたは幸せでしたか?
『ボーはおそれている』
発達障害(終盤で判る)の中年男性「ボー」
些細なことでも恐怖心を抱く
母親の訃報の知らせで
帰省するが稀にないトラブルに遭い
帰省困難になる
「何故ママはあんなことを?」
「ママは僕の半分も知らない」
たとえ親子でも別の人間です
どんなに愛情を与えても
その分、愛を返すとは限りません
ラストの展開は「可哀想」と感じた
パッシブアグレッシブ(受動的攻撃)で
息子を攻撃して死に追いやった
彼がやったことは本当に「悪」でしたか?
大親子喧嘩コント?
3時間、恐れに恐れてましたねぇ。何を見せられとるのだと、ずっとクラクラしましたが、風呂の天井おじさんと屋根裏オヤジは笑いました。アリ・アスターって、こんな世界観なんですね。ミッド・サマーも観ないと。
好きです。この映画。
アスター監督をおそれている
公開間もないのにレビュー数の多さに
今作の注目度がうかがえますね
何を見ても極度の不安に駆られる中年男が資産家の母親に会いに行く奇妙なロードムービー
自室アパートで支度中に荷物と鍵が無くなり荒れ放題の通りにたむろう狂人達に占領された後の部屋には死体まで
逃げ惑う途中車に跳ねられ見知らぬ家族の世話になったり次々に邪魔が入ってしまう
何故か森の一座に助けられそこに紛れ込んだり
と簡単に事は進まない
これは夢?現実?判断が不可能なまま
緊張感と恐怖感の裏でボー以上に狂った登場人物に失笑してしまうシュールなコメディ要素に
居心地の悪さが楽しくなってしまっていた
感情の吐き出し方が実にリアルでこんなに憂鬱顔がハマるボー役のホアキン・フェニックス
土下座モノの怪演です!
希望無き?オチにアリ・アスター中毒の症状は
間違いなく重症化しましたね!
後アパートの鍵は一体どこへ…?気になるぅ
襲ってくる情報量の多さに物語の本質を予備知識なしで捉えるのは難しいかも
ときかく映画スタートから思わせぶりな小さなネタフリとその回収に始まり、情報量の多さに圧倒される。そして物語の終盤に単純なある民族に特有な構図の話だと聞かされるのだ。
いやいや1回の鑑賞ではそこまでわかりませんよ監督。
ブラックジョークと感じられるまでにはあと何回観たら良いのだろう。
狂瀾怒濤
アリ・アスター監督の新作、予告から滲み出る不気味さに加え3時間という長尺という、ただならぬ雰囲気を抱えてんなーと思いながら劇場にINしました。
これは気が狂うわ…と思いながら引き攣り笑顔で観ていました。もう途中で振り落とされてから後半は意識半分で観ていた気がするくらいには圧倒されてしまいました。
初っ端、音楽がうるさいから音を止めろと隣人から言われるけど全く身に覚えが無いし、処方された薬が水と一緒に飲まないと死に直結するとかだったりで水を求めて外に出たら全裸男が暴れ回っていたり、カードが使えないからあたふたしてたら、なぜか外の人々がボーの部屋に入って行ったりと、もう観客を突き放して突き進むストロングスタイルに突入していったので、この時点であーヤバいわ(汗)ってなりました。
風呂に入ったら入ったで、天井に男が張り付いていて、そこから全裸で逃げ出したら、警察に撃たれそうになって逃げたら車に轢かれて、そこから他の全裸男に刺されまくるというもう悪夢見てんじゃない?ってレベルでした。これはスリラーでもホラーでもない、コメディだなと頭を切り替えて観ることができたのがまだ良かったです。
そこからボーを轢いた夫婦が娘の部屋にボーを寝泊まりさせるというこれまた唐突な展開で、なんか屋外にヤバい半裸男が暴れ回ってましたし、娘は娘でヒステリックに喚いてペンキを飲んで窒息死したり、そこから夫婦や半裸男に追いかけられたりして、妄想の世界に飛び込んで行ったりするので、意識飛んでた方がまともに観れるんじゃないかってくらいには情報のパンチが凄まじかったです。この妄想の世界も淡々と進んでいくので頭真っ白でした。
主人公のタマタマが肥大化しているの伏線回収が、まさかの父親が巨大ペニス怪獣という奇想天外な回収の仕方をした時にはもう座席からひっくり返っちゃうんじゃないかくらい驚いてしまいました。
そこに発狂おじさんが突撃してきて、ペニスをブッ刺しまくってたら、ペニスの刃に頭を貫かれるという、ゴア強めの特撮でしか観ないような描写をなぜかこの作品で観れたのが謎収穫でした。
母という力があまりにも強すぎる母に囚われたボーが終盤では可哀想になってきて、ただ生まれて、ちょっとイタズラを幼少期にしていたのを母親は自分から奪っていったと解釈していたりと、母親もかなりの毒持ちだったのが明らかになってからは展開的にずっと辛いものがありました。
ラストシーンのコロシアムみたいな場所での尋問はもう置いてけぼりだったので、何やってるんだろう…と一歩引いた目線で観ていました。
子供の頃の悪行(迷子になった時に母親が呼んでるのに出ていかないとか、母親の下着を悪ガキたちに触らせたり持ち帰らせたり)が祟ったラストの転覆は今までのツケが回ってきたのかなと思いました。
撮影前に自分を辱めるために奇声を上げたホアキン・フェニックスは本当怪演でした。文字通り身を粉にする勢いの暴れっぷりで、この人じゃなきゃ1時間も持たなかったんじゃってくらい、俳優としての底力を感じることができました。
全編通してボーの不安を映像化したとんでもない一品でした。なんでこんな作品を作れるんだろうというよく分からない関心が生まれてしまいました。
よく分からなかったという言葉でササっと片付けてしまいたいんですが、どうしても何か引っかかりながら劇場を出てしまったので、このレビューを書いてる時もまだ困惑しながら書いています。罪作りなアリ・アスターに今後も翻弄されていくんだろうなぁと思いました。あー怖い怖い。
鑑賞日 2/18
鑑賞時間 12:40〜15:50
座席 G-1
めっちゃ眠い
観てて眠すぎる。
主人公がかなりの心配性。
主人公目線で描かれるから誇張された出来事が連発。
コメディでもなくホラーでもなく中途半端。
ストーリー自体微妙なので叫び声や音響でインパクトを出している感じ。
合わない人はひたすら眠いです。
不安が漂う
ホラーコメディとありますが、私は笑えませんでした。3時間と知ると、いつも一瞬躊躇しますが、あっという間でした。
精神世界を描いた映画ですかね。
壊れた母と息子。父親不在の家庭で、財力があり何でも手を回す頭の良い母。
愛情をかけないのもいけないが、与えすぎてもダメなのだろうし、思いどおりにコントロールしようとすればそりゃあ歪むでしょう。そういった意味では人間が壊れる怖い話です。
ママ自身に問題がありながら、ボーもいわゆる手のかかる子だったのでしょうね。ママの家にあった会社のヒストリーにも、発達障害支援のようなワードがありましたね。。
終始弱々しい表情と声のホアキンでした。恐れ、不安そのものでした。
そんな中、この映画で好きだったのは、ママの家の内装。逆に最初のボーのアパートメントと治安の悪い街は嫌いでした。あの暮らしに幻想が混じると怖かったです。
うん、確かにホラーですね。
ホラー・コメディの傑作!
この作品が、ホラーでありながらコメディであることを俯瞰できないと、チンプンカンプンな作品に観えるかも知れません。評価がイマイチなのは、そのツボのようなところが分からない方だと、私は勝手に思います。現実の世界があって、そこに抽象的な表現が差し込まれると、作品でも取り上げられている迷子状態になりそうです。あと、母親と息子の確執という、男性であれば誰もが経験するベースを、実にうまくエピソード化しているところは、この作品の真骨頂だと言えるでしょう。ホアキン・フェニックスは中年でありながら、子供のように不安症に苛まれよく劇中で泣き出します。その気持ちがヒタヒタと伝わってくるので、とても可哀想になるのですが、反面、私たちを笑わそうとしている名演だと感ずると顔が緩みます。この作品は15歳以上指定の映画ですから、当然エロいシーンもありましたが、何故か初恋の人と結ばれるシーンに、不思議な感動がありました。あと、母親が亡くなって、実家にたどり着くまでの、難行、苦行のような時間は、茨の道になるのですが、その中に込められた比喩や箴言は、学ぶことが多いです。それにしても、子供から見たら、普通は母親は完璧な存在に見えるものですが、この作品では、その母親の未熟ささえも白日のもとに晒しているのですから、考えさせられること多しです。最後に、水の中にホアキン・フェニックスは沈み、浮き上がってきません。母親が水のような存在であるとしたら、きっと母親の愛に抱かれたのかも知れないと思うと、静かな感動が押し寄せてきました。
アリ・アスター節が全開過ぎた
アリ・アスター監督の才能はスピルバーグ以来のものと感じている。これがホラー以外のジャンルで炸裂したら本物だと思うが、今回のこれはホラーではないので、その才能が如何なるものかという興味がまずあった。
結果から言うとやはり本物。3時間の上映時間は全く飽きる事無く、グイグイとスクリーンに引き込まれて行く。
以下は少々ネタバレあり。
描写は主人公であるボーからの視点のみ。そしてボーは難産のせいか少々発達障害のきらいがあるのがポイントで、腐乱死体の転がるスラムやペニス怪物などは、何かがデフォルメされた描写だろう。これはアンソニー・ホプキンスの「ファーザー」を思い出した。
ボーはおそらく無職で、母親の仕送りで暮らしていると思われるが、全ての出来事は母親の監視下による仕掛けなのだが、森の劇団のエピソードは一見不要にも見えるけど、ボー自身の願望なのだろう。だから元兵士はそれを破壊したと思う。
色々と深読みすると面白いけど、でも今回はちょっとやり過ぎで、母と息子の対立が無駄に難解で長いと言わざるを得ず、バランスを少々欠いた映画になってしまったと思う。
しかし次回作が楽しみで仕方ない。
反出生主義?
個人的にはすごく好みの映画でドはまりしたけど、たぶん万人向けではない。現実か夢かあいまいな世界が3時間も続く。こんな長い時間、幻想の世界に浸れるなんて最高だ…、と僕は思ったが、これが拷問のような時間に感じる人もいるだろう。
「ミッドサマー」では新しい恐怖の開拓に成功したけど、この映画も従来のホラーとは一線を画す、新しい恐怖を描いている。それは、普通の日常がとてつもなく怖い、という恐怖だ。
主人公のボーは、異常な怖がりで、うがい薬を飲み込んだだけでも、それが原因でがんになるかを心配するほど。実際に恐怖性障害、不安障害、強迫性障害といった神経症は存在する。あとの展開を考えると、ボーは統合失調症ももっている可能性がある。
神経症を患っている人の恐怖感や見えている世界がどのようなものか、当該者でなければどうしても理解できないものだと思うが、この映画はもしかしたらそれを体感させようとしているのかもしれない。
この映画は、さんざんな目にあうボーを笑い、超現実的な展開を理屈抜きに感性で楽しむのが正しい鑑賞法なのだと思うが、展開がひどく思わせぶりなので、どうしてもいろいろと意味を解釈したくなってしまう。
<世界観>
この映画の世界は現実なのか、夢なのか。わざと曖昧にし、意図的に混乱させようとしている。たとえば、寝るシーンや気絶するシーンがたびたび挿入されることで、観客は無意識に合理的に辻褄をあわせようとしてしまう。しかし、おそらく「現実か夢か」を考えることに意味は無い。どちらかはっきりしない、混乱した状況こそが、ボーの感じている不安の一部なのだから。
しかし、この映画の世界がひどく「夢」的であることは確かだ。
(1)夢によく出てくるシチュエーション(家の中に見知らぬ他人が侵入する、全裸で街に出る、敵味方が反転する、追いかけられる、など)がある。これは原初的な不安が表現されたものともいえる。
(2)水、森、ジプシー(的な人々)、演劇、凪の海、洞窟など、深層心理学的(特にユング的)な象徴に満ちている。
(3)主観・客観の逆転、辻褄が合わないことが起きても主人公が疑問に思わない、時系列の混乱と同時性(監視カメラに未来のイメージが映る)がある、という夢の特徴がある。
<ストーリー>
起承転結に分けると、「起」では、肉体的な安全が脅かされる恐怖が描かれる。危険に満ちている不潔で不愉快な外界と、かろうじて守っている自分のテリトリー。そのテリトリーを侵害されむちゃくちゃにされる恐怖。
「承」では、人間関係(社会性)の恐怖が描かれる。自分が本来居てはいけない場所に居て、他人に激しい悪感情をもたれている、といういたたまれなさや、明示されない人間関係の中に放り込まれる寄る辺なさの恐怖。
「転」では、一転変わって、はじめてボーは信頼できそうな人たちのコミュニティの一員となり、恐怖から解放される。演劇の世界の中で精神的癒しを受け、成長を促される。
「結」では、ボーが最も愛し、かつ最も恐怖している存在である、母親との対決が描かれる。
<テーマ>
母親からの歪んだ利己的な愛により、精神的な「去勢」をされてしまった主人公の悪夢のような精神世界、だろうか。
母親は愛に飢え、子供からの愛を要求する。そこには相互の愛の交換は無く、一方的な愛の搾取があるのみ。母親にとって子供は愛の飢えを満たすための道具でしかない。無条件の愛を知らない子供は、母親の意に反してしまうことを極端に恐れ、自分の意志を封印する。自分の意志をあらわすことを恐れ、What do you mean? や Why? を繰り返す。
ボーは、無条件の愛を知らないが故に、他人を信頼することができない。ボーに親切にする人や、セラピストを信頼していない。
この「毒母親」のテーマの裏には、「父性の欠如」「男性性の否定」という現代の普遍的なテーマがあるように思う。母親の家の屋根裏には、「やせほそり監禁された自分の半身(男性としての自分)」と「醜い怪物のような男性器(父親)」が隠されていた。これは、現代において(この映画では母親にとって)、「父性」や「男性性」が忌むべきものとみなされていることを意味しているのではないか。
「承」のボーが滞在していた家で、「兄が戦死している」というのは、過去の時代においては、「父性」や「男性性」の価値が認められていたことの象徴ではないか。
ボーが「兄」の代わりにはなりえないのに、「兄」の代わりをさせられそうになるいこごちの悪さは、男が必要とされない社会で、男であることの申し訳なさを表現しているように思う。
「男性性」が否定されているから、恋愛対象に自分の思いを伝えることができないし、男性である自分自身を肯定的に見ることができない。
そういえば、精子バンクを利用する人の中には、「結婚はしたくないけど子供は欲しい」という女性が相当数いる、という話だ。
また、この映画で「反出生主義」を連想した。反出生主義というのは、人間は生まれてこない方が良い、という考え方のことで、近年この考え方がじわじわ広がっているという。
映画の冒頭、ボーの視点で「苦しみに満ちた世界」に生まれてこなければならない恐怖が描かれる。彼が世界を肯定的に見ることができないのは、そもそも生まれた瞬間からだ。
<ラストの解釈>
終盤では、この映画はどういう決着になるのか、ということを気にしながら観ていた。果たしてハッピーエンドになりうるのか?
母親に対する愛情と憎しみの葛藤を、「母親殺し」をすることで超克し、平穏な精神状態を象徴するような凪の海に船出し、産道を象徴するような洞窟をくぐり、ときたところで、「これはハッピーエンドに向かっているのでは?」と感じた。
しかし舟のエンジンの不調が不穏な兆候を示す。エンジンは心理学的にはリビドーか? なぜうまくいかなかったのか? 素人考えだが、本来のエディプスコンプレックスは、母親を手に入れるために父親に憎しみを抱く、というものだが、それとは異なる過程を経たためか?
最後、何もかもうまくいきそうになりながら、急にアンハッピーエンドにして突き落とすところは、「未来世紀ブラジル」みたいだ。
もし、洞窟が産道、弾劾裁判みたいのが行われた球状の空間が子宮なのだとしたら、そこで死んだボーは、「生まれる前に還った」ということになる。
これは、「生まれたくなかった」というボーの願いの物語ということになり、冒頭につながる。
<劇中劇の意味>
「転」の森の中での劇中劇は、かなりの長尺だった。この映画の評価を低く考える人は、たぶんこのパートの長さを挙げるだろうな、と思うほどに長かった。
でもそれだけに、ここに最も重要なメッセージがこめられているようにも思う。
劇中劇は、「夢の中の夢」とも考えられ、深層心理の奥の方、ユングのいう「集合無意識」を表しているのではないか。
集合無意識は個人的体験に由来するものではないので、ボーの個人的体験に影響されず、ここには彼が生まれてから経験した恐怖のイメージが入り込めない。
とても神話的な物語である。自分を支配する鎖を自らの手で断ち切ること(2回も!)、何十年にも渡る愛する家族の捜索、スープと演劇の二者択一で演劇を選ぶことで家族と再会できたこと。劇中劇の中にさらに劇があり、無限の入れ子構造になっているのも幻惑的で良い。
印象的だったのは、この劇中劇では、ボーは困難に苛まれても、意思と工夫によって成長していき、自分自身の人生を歩めていたこと。現実のボーが優柔不断で受け身にしか行動できないことと対照的である。
この劇中劇で、ボーは仮想的な一生を体験し、なんらかの精神的成長を遂げたはずである。母親のために買ったマリア像は、おそらく母親への執着を象徴しているのだと思うが、これを手放すことさえしている。
映画全体の中で、劇中劇のパートは物語としては省いても何ら問題ない。では何のためにこれがあるのか? それは、「観客とこの映画の関係」を示唆するためではないか。
アリは恐れている、ファンに飽きられてしまうのを!
2月なのに異常に気温が高く、何処もが暖冬。
半袖でウロツク外国人旅行者も出るくらい街中は暖かいよ。
そんな中、毎作異常熱を発した作品をだす アリ・アスター監督の最新作「ボーはおそれている」を観に行った。
本編179分の時間無駄使い作品、ココに見参です!
2018年ヘレディタリー/継承
2019年ミッドサマー
2023年ボーはおそれている
どれも観て来たけども、今回も想定してた通りヤッちまッてたね。
今作は家族の愛がテーマとか言ってたけども その通りの作品でした。
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あらすじ(※一応あるようだ)
精神科クリニックに通う中年男(ボゥー)の話。彼はとても心配性でその日常は大変な様だ。住まいは荒んだ街中にあるオートロック式マンション。何故か浮浪者(変人・狂人)に追いかけられ隠れおびえて暮らしてる。ある日、
実家に帰る電話を母にしていたが 2度目に連絡入れた時から向こうの様子が変。どうやら、直前まで電話で話していた母が突然亡くなった模様。彼は慌て急いで帰ろうとしたが部屋の鍵を盗まれ、挙句に浮浪者たちに部屋は荒らされ・・・とにかく実家に戻り母の葬儀に立ち会おうと、それだけを目指す目的の流れです。この道中が奇想天外、摩訶不思議で~そして支離滅裂。分けわからんこの上ない事に~です。
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まぁ、こうなるだろうとはほぼ思ってました。よってガッカリ感は感じません。
だろうな・・・的な思いが強いです。
そろそろ 皆さん気が付いてるだろうし、ファンも今作で彼の醸し出す味付けに飽きて来るでしょうね。
主演のボゥー:ホアキン・フェニックス氏は 我慢し良く演じたと思います。
流石です、大御所俳優なのによく局部を晒したなと思います。
今作で一番の場面は、ボゥの自分部屋のバスル-ム天井に男が必死に張り付いてて、毒蜘蛛が顔に付いたことで落下し、風呂入ってたボゥーと 抱き合いながら格闘するところでしょうか。
慌ててボゥは全裸で外の道路へ飛び出し、ポリスに撃たれそうになるわ、全裸の変人爺に狙われるわ、挙句にトラックに引かれるわ・・・。
ここのシーンは腹抱えて声出して笑いましたわ。(*´ω`*)
そもそも 真面目で心配性な彼が 色々な事に巻き込まれながらも とにかく家へ戻りたい。その一心で有った思いは良く理解できました。
そこは凄く良いんですが、とにかく周りの奴等、出てくる場所、繋がりがとっても変で、精神科に通う彼の頭の中が悪夢の状態なんだろうと察しは付きます。しかしそれでも 現実の繋がり現象がオカシク・・・終盤迎え駄作判定にせざるを得ない状況に成ってしまってます。そこが残念極まりないかな。
大体、2時間エンドで1回目、2時間半エンドで2回目、そして3時間エンドで3回目のエンディング風な構成展開を持ってきてます。しかし 終わりそうに見せておいてまだ続きを遣るという しつこさ。
監督なりに考えたのでしょうけども。最終展開流れと最後はダメっすね。
地獄のエンマ様の裁きってやつでしょうか?? アレは。
この作品みて素直に思った事は
”君たちはどう生きるか” の実写版にはアスター監督が相応しいと
ちょっと感じましたねww
時間がアリ余ってる方は
どうぞ劇場へ!
3時間は長くない
マスコミの映画評ではそれほどでもなかったけど、ホラーを見たかったので、あまり期待せずに見たら予想外にパンクな感じで面白かった。現実なのか夢なのかよくわからないような光景が多いが、それが面白い。それぞれの細部がよくできているので、ストーリーを忘れてそれぞれの場面がすごく面白かった。
映像だけではなく、音楽や効果音もとてもよかった。目をそむけるような衝撃的な場面があるわけでもないが、怖がらせる演出の中にユーモアや余裕がある。遊園地のジェットコースターみたいな感じで、安心して怖がれる感じで、楽しい。
だけど、成功した実業家の息子がなぜスラム街に住んでいるのか?勘当されたわけではなく、母親と普通に電話しているので、そこが気になった。優柔不断の性格なので、母親から快く思われていないのはわかるが、普通のところに住めばいいのに、よりによって無法地帯に住んでいる理由がよくわからなかった。でも、理由は多分、単純で、「その方が面白いから」。実際、その無法地帯は秩序が崩壊してしまった近未来の都市みたいで、すごく面白かった。森の中で暮らす劇団も世界核戦争で生き残った人たちのような感じで、近未来SFみたいで面白かった。
サスペンス+ホラー+SF+ファンタジー+お笑いと言ってしまえば身も蓋もないが、細部に凝っているので、何度も見たくなる映画だと思う。チープな感じを意図的に出しているところもあるが、それは演出なので、面白い。私としては屋根裏の父親のシーンが最高だった。なぜ、屋根裏にいるのか?理由は簡単で、「その方が面白いから」。よくこんなシーン考えるなあと感心した。
なんだこれ
『ガープの世界』かと思ったら、
『俺の空』みたいでもあったし、
最後なんか『555 パラダイス・ロスト』みたいだった。
ホアキン・フェニックスの演技はさすが。
不安を誘う絵作りや間もよい。
だが映画通を気取って褒め上げることもできなくないけど、
絢爛すぎてというかケレン味がありすぎて
整合性をあえて無視して男の主観の悪夢に終始したため
とっちらかっている感のほうが強く、ノリ切れない。
なぜ路上の全員があの部屋を目指すのか。
MW社の差し金?
タトゥーの男の死因はなんだ? 蜘蛛?
天井の男は何をしていた?
外科医夫妻のテストってなんだ?
親父だったのがチンコになっているのはなんなんだ?
ぜんぶ妄想や悪夢なんだといわれれば
ああそうですかと答えるだけだし、
劇中でつぶさに語るようなものではなく、
シチュエーションのインパクトや異常性を楽しむもんなんだ
と言われればそうなんだけど。
そういう「解れよ」的なシークエンスを
知ったような顔して褒めそやす気にもなれず、
観るほどに没入感とは真逆のほうへ向かうばかり。
楽しんではいたんですよ。
179分とかいうアホみたいな長さも退屈はしなかったし。
でも受け入れられないところが多すぎた。
思えば『ヘレデタリー』もダメだった。
『ミッドサマー』は楽しんだけど。
もしかしたら監督と相性が悪いのかもしれない。
パンフを読んで2度目を観たら変わるかな…。
途中までは最高
理解を超えた展開で、演劇パートまではすごく面白く観てました。この後どうなるんだろう?!と。
演劇パートはボーの別の生き方、選択肢だったと思いますが、もう訳が分からず何故だかつまらなくなって、時間だけが長く感じました。ロジャー、グレース、トニはモナに雇われていたと思いますが、トニはどういう立場だったのか?なんでペンキを飲んだのか?それすらも妄想?
そもそもあの薬は手下のカウンセラーはなんで処方した?
そもそもチャンネル78で未来も決まってるらしいけど、冒頭の薬を飲むシーンで、ラストまでの流れが出てきているので、ボーは最後は飛び降りて自殺したのかな。
よくわからない系の映画ですが、割と好きなタイプの映画で、もう一回くらいは見ても良いかなと思いました。
最後の裁きの場合
これは結局のところ最後の妄想シーンで、ボー自体、自分が母親を殺めてしまったことの後悔があの妄想を呼び、自殺に至ったのだろう。でないと、いきなり池でボートを出して裁きの場に行こうとしたとは思えないし、そこが死者の集まった場所とするならば、あのカウンセラーの姿もあったからだ。あの場には、彼がこれまで母親との絡みで接してきた全ての人がいたと考えるのが妥当なんだろうな。
そしてボートが転覆してボーは水の中に。この映画の冒頭は、ボーが堕胎で外に出てくるところから始まるが、それがまた母親の胎内に戻っていくように確かに捉えることができる。その転覆といえば、ボートの転覆は、ボーがカウンセラーのところに行った帰り、屋台でさまざまなものを売っているが、その中で水槽の中でおもちゃのボートが転覆するが、確かにあのシーンは最終のシーンの暗示なんだろうな。
昨日、今日と立て続けに見てしまったが、もちろん上のような考察は面白いが、アリアスター監督の作品は、一回だけ見て、自分の胸の内で色々と考える方が本当はいいのかもしれないと感じてもいる。今年のベストに入る作品と言ってもいいように思う。
旅路の果ては安堵ではなかった、、、
ジョーカーからの、ナポレオンからの、ホアキン・フェニックスの変貌っぷりを見たい!で観に行った。体張ってました。すごい満身創痍っぷり。一番ちゃんとした服着てたのは森で出会った謎劇団からあてがわれた衣装だった。
隅々まで手抜きなしの、サービス精神溢れた、全然ホッとさせてくれない映画。全てが虚飾の美、もしくは圧倒的カオス二択二重の世界。
振り返ってみると既視感のあるようなエピソードや映像の切り貼りぽく見えないこともないんだけど。同じ夢が何度も出てきたり。なぜかゾワゾワする人たちにしか出会えないポーの人生、本当につらそうだった。でもお人柄がなんだかチャーミングで。そしてこれは夢なのかなんなのか、何かから覚めないうちに急なエンディング、なのでした。置いてきぼりはもはや快感、脱力。
大きな意味で上映中の「哀れなるものたち」とリンクした世界観感も感じた。
いずれにしてもハリウッドでも発達障害主人公モノは一つのジャンルになってると思う。
A24✕アリ・アスターにしてはソフトな作品
相変わらず色々分からないまま終わる、そりゃこの組み合わせならそうだろう。でもヘレディタリーやミッドサマーよりは過激な描写は少ないので、色んな人が見られるかなと(年齢制限あるし理解できるかどうかは別だけど)。
とりあえず何が現実で何が夢なのか判然とせず、言ってしまえば『劇団mw』にひと芝居うたれたボーなのだが、あまりに謎が多すぎる。(たぶん)無意味にフルチンの殺人鬼も、ボーの部屋になだれ込んだ街の連中も、看病してくれた医者一家も、森の中の謎の劇団も、ヒッチハイクで拾ってくれた男も、みんなみんな母親の指示のもとに動いた存在だったのだろうか。屋根裏にいた『父親』を語るマーラ様は幻なのか?最後の裁判シーンはどういうことなのか?少なくともまともな現実世界ではないのだろうなと。
経営者として優秀ながら抑圧的な母親、対してADHD(示唆するシーンあり)で自己決定が苦手で周囲に判断を委ねてばかりの息子、その対立が終盤のテーマになるが、ここがまぁ見ていてしんどくなるほど。親子間でそういった出来事があった人には結構キツイかもしれない。
とりあえずホアキン・フェニックスは『ナポレオン』に引き続き体張って怪演してます。お見事です。
こんな母子、日本の社会に多いんじゃないか
職場の同僚(♀)が、一人息子(高校3年生)を溺愛しており、息子の話ばかり。
幼児のような世話焼きぶり、干渉ぶり、ほとんど残業なしとはいえフルタイム勤務のワーママなのに、生活は彼が快適に過ごせるように細部まで気を配って、夫は空気かむしろ邪魔、ひたすらむしゅこラブでカワイイかわいいって、話聞かされるたびにドン引き。
高校3年生の息子のほうもこういう母に反発ないみたい。
正直、キモチ悪い。
うちは息子ふたりだが、ずっとフルタイムの共働きなのでそこまで世話焼いてないし、男の子はある年令になったら母親をウザがるもんで(そして理不尽なことしか言わない反抗期がある)、それも自立へのステップなんじゃないかと思っている。言わないけど。
気持ち悪すぎてリアクションに困り、彼女とふたりでランチするのは避けています。
人に世話されて当たり前、自己中で自立できない、大人になれないオトコ、こんな感じでできあがるんだろうと想像しました。
母のワンオペ育児に少子化で一人っ子が多い日本は、この同僚や、ボーの母子みたいな家庭が結構あるのでは。
ボーは、多分発達障害。富豪のママは、多分、製薬も含んだ多角的事業を手掛けている。
この母が猛毒。
自己中で息子は所有物、とことん支配する。
息子に自分以外のオンナを近寄らせない気持ち悪いオンナでもある。
息子が自分の意に沿わないことをすれば、一般的観点からなら十分理由があることでも、捻じ曲げてボーに罪悪感をもたせる方向で責め立てる。
常に強迫観念を持って、自分の行動全部が高みにいる神(と母)に見張られて「悪いこと」をすべて把握されている感覚があり、人に合わせるだけで自分がない、とか、いつも謝っているとか、そうやって育ってきたコドモらしいところがてんこ盛り。妄想(多分)の内容もいちいち毒母に支配されてきた男児らしい感じ。クスリのせいもあるでしょうが。
多分、ボーはコドモの頃から精神系のクスリを飲まされており、現在は精神科医付きで母の手の中で一人暮らしなんでしょう
色々出てくるエピソードは多分、ほとんどがボーの極端に偏った妄想だろうがクスリのせいかも。
結局、母の支配から抜け出せずに沈んでしまったようだけど、ヒトらしさも手放すくらいの本格的精神疾患になってしまったということなんだろうか。
現実にこういう人はいると思う。気の毒です。
とにかく長い。
妄想らしく筋が通らん訳の分からないエピソードばかりでストレス溜まって、早く終わらないかばかり思っていました。
水色のペンキ
ボーの日常は、まるで毎日ホラー映画に出演しているかの様な恐怖に支配されていて、彼の様なパラノイアがこの社会でどれだけ生きづらいかを観客が体験できる作りになっていました。
劇中にやたらと出てくるゾンビみたいなジャンキーや異常に攻撃的な人達が、ジャンキーとホームレスが溢れ銃による殺人が頻発している病んだアメリカを象徴していましたよね。フィラデルフィアの街の映像をYouTubeでみたことがありますが、本作にでてきた様に街中ゾンビ(ジャンキー)だらけになっていましたよ。だから、ボーの妄想にもリアルな元ネタがあるのです。
私にはどうにも個人的なボーのストーリーに思えず、アメリカ社会全体の病みをボーの体験に投影させて鑑賞してしまいました。
また、ボーの母親も競争に勝ち抜き経済的には成功していましたが、精神的には孤立し追い詰められていそうでした。皮肉なことに、彼女が息子を《まとも》にしようとしている努力が成功に繋がり、《まとも》ではない息子をますます受け入れられなくなったのではないかと。
ボーは実家が太いからホームレスにはなりませんでしたが、もし母親が居なくなったら《死ぬ》か《ゾンビ》かの2択になります。嫌悪しているけど居なくなったら生きられなくなる相手に支配されるのは、確かに恐ろしい。
たかが実家に帰る無職中年男の話をここまで広げて作品を作り上げる創造力と力量は、アリ・アスターが実母から貰った《才能》というギフトでしょうか?アリ・アスターの母親が毒母であったとしても、彼はボーと違い成功者となりました。これも皮肉ですよね。
ボーに起こったこと全てがボーの妄想かと言われると、私はほぼ自宅のベッドで見ていたボーのリアリティのある妄想じゃないかと思いました。その中で一番怖かったのは、水色のペンキを飲むところ。私には全く思いつかないです、
また、ホアキンのだらしない姿と不安そうな表情がボーのキャラクターにぴったりでした。今一番のっている俳優はホアキンかと思います。
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