落下の解剖学のレビュー・感想・評価
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やや消化不良感?
ミステリーではなく
家族の中の問題や、人間関係の問題が明らかにされていく。
外からみた家族と
実際の内情とは異なっていることもある。
自分が絶対的に正しいと信じ続けることの愚かさと怖さを感じた。
この事件の真相は、おそらく…妻が夫を手にかけた
ということなんだと思うが、
その事実を違うものにする
様々な演出、息子の感情
真実だけが真実ではないということか、と。
おそらくラストはこれで正解なんだと思うが
ミステリーやいわゆるサスペンスという感覚で見ると
消化不良を起こすかもしれない。
それにしても、この夫婦はお互いにお互いのことを想うということをもう少しできたらよかったのに、と思ってしまった。
誰かと生きていきたいのなら
独りよがりでは難しいということか。
まあ、つまりワンちゃんがお上手
これから見る人のためにお伝えすると犯人や事実はわかりません。
てっきり公判を進める中で事実に基づいたり証言の矛盾で犯人があぶり出されるということはありません。
それを期待すると私みたいに肩透かしを食います。
それを踏まえて
雪山で作家でというと思わずシャイニングみたいなイメージですがスプラッタラスなものもサイコなものもなく静かにというかやかましい中で夫が死にます。
それを巡っての自殺か他殺か事故かという話でして事実が曖昧な中での話は思わずダウンタウンの松ちゃんのアレによく似ていて劇中の弁護士の言う「事実がどうかより周りがどう思うか」ということで外野が空中戦しているのがオーバーラップしました。
そして人は知りたい(あってほしい)事実を事実と考えることなのかなと。
加えてフランスに住む英語をベースにフランス語を話すドイツ人という奥さん。
ネイティブから2回フィルターをかけるのだから語るに落ちるは難しそうという印象。
さらにバイセクシャルって役が大変。
それととにかくスヌープちゃん芸達者
緊張感が欲しい映画
映画『落下の解剖学』事故か殺人か自殺か、う〜んどっちでもいいかななんて無責任な声が聞こえてきそうな映画。まあ世の中で最も多い殺人の例が、夫婦間という統計もありますので。ただ、鑑賞中も感情移入できないのは、私的世界に終止するからでしょうか。
物的証拠のない犯罪の立証
倦怠期の夫婦。
作家の夫婦。
ただし、夫は泣かず飛ばず。
方や妻は、売れっ子の流行作家。
山小屋で、転落死した夫をめぐり他殺か自殺か事故かを巡っての裁判。
遺書などは無し。
夫は、売れっ子の妻に対して嫉妬心があり。
事故をきっかけに盲目となった一人息子の自己の責任を妻に。
なかなか難しい夫婦関係のようで。
さらに、彼女のセクシャリティーの問題も絡み。
夫が邪魔になったのかとも。
疑えば、きりがない。
そんな展開。
物的証拠のない事件の難しさ。
裁判の場面が、1/3を占めるだろうか。
退屈になりがちな場面ですが。
まあ、なんとなく、引き込まれるまでは行かないですが、鑑賞できます。
しかし、状況証拠だけですから。
立証は、難しいですよね。
検察官の作るストーリーも、何度も聞かされると真実かなと。
このあたりが、冤罪を生む原点かな。
争う方も、そうだったかななんて気になってしまうでしょうから。
とくに、拘置所などの閉鎖的空間で、味方もいない場面だと。
ただ、今回は裁判ですから、弁護士はいます。
有罪無罪どちらでもいいやと無責任な気持ちに。
結局、ことの発端は、夫婦間の問題ですから。
別に興味ないし。
なんて言ったら、見も蓋もないのですが。
それに、転落する山小屋の3階という中途半端な高さ。
結局1階の東屋に頭部をぶつけたのが致命傷。
だけど、自殺なら他の方法を選ぶのでは。
わざわざ、一階の屋根の部分めがけて飛び降りたんでしょうか。
そのあたりは、映画では、話題にもならなかったな。
裁判の後半では、どうも父はうつ状態にあったのではと。
そして、息子との最後の会話、自殺をほのめかす。
この証言が、決定打となり無罪となるのですが。
お話としてみると、あまり興味が湧いてくる展開ではなかったですね。
しつこいようですが、夫婦間の揉め事に興味はわきません。
それに、息子との最後の会話が無罪の決定打というのも。
事故の可能性も否定できないですからね。
状況証拠だけですからね。
このあたりの判断は、見た方の考えにおまかせ。
登場人物全員嘘つき
夫の転落死をきっかけに、殺人事件の容疑者となる妻だが、だいたい喋ってることはウソ。母親をかばう超弱視の息子も最初のウソを契機に泥沼に。
そんな母親を弁護する弁護士も最初はなんか好意を寄せていたのだが最終的にこの女はやばいと踏みとどまる。それもそのはず、有罪なら殺人犯、無罪でも自殺に追い込んだのはこの妻。夫婦喧嘩のやり取りは社会的成功をおさめている妻が一方的。家事も育児も夫に丸投げ。夫が負担を公平にしたいと言っても、私がいつやれと言った?なんて開き直る始末。不倫もやりたい放題。この女とは関わってはいけない、なんて雰囲気が漂う。夫の人生、1ミリも考えていない。
テーマ性はあるようであまり感じない。ポリコレ全方位をカバーして、珍しくウーマン・リブで押しつぶされる男性の叫び超えの代弁を夫にさせている。あのシーン長かったからね。
サスペンスではなく家庭劇。表面上うまく取り繕っていたけど、中味はグチャグチャ。グチャグチャが段階的に表に出てくるのでどんどんカオスに。そこに客観的事実なんて存在しない。
ああそうか、これは夫婦喧嘩を法定に持ち込んだらどうなるかっていう思考実験なんだ。最後の無罪判決も無罪というわけではなく、しらんがな、勝手にやっといてっていう意味かもしれない。夫婦喧嘩は犬も食わないって言うしな。ただそこにはもう夫は居ない。
事実と虚構の狭間を落下する「真実」
何が起きたかを究明するためには客観的な事実が必要であり、そのために関係者による証言の積み重ねがある。しかし、各々が語る「真実」には主観が含まれる。主観を排することによって削り取られてしまう、感情や想像等のディテールは、この事件の「真実究明」には必要不可欠に思えるが、それが主観的である以上他者には届きにくい。詰まるところ、「真実」なるものは存在せず、ことの全てを記録していた媒体がなければ事実の積み重ねにも限界が生じる。だからこそダニエルが言うように、与えられた状況から考えるしか選択肢はない。
サンドラの小説を検察が追い立てるシーンが面白い。著作には彼女の実体験が含まれているようだが、小説である以上それはあくまでもフィクションである。実体験をもとにしている以上、「彼女自身」が作品にはある程度含まれているが、アイデアによって虚構が多分に含まれたものでもある。小説は主観によって解釈されるものであるから、作者の全てがそこから分かるようでいて、実はそれが全くの嘘である可能性が潜在的に存在する。人をジャッジする材料としては非常に脆い。
夫婦の口論のシーンで、お互いのメッキがぼろぼろ剥がれていく様が目も当てられない。サンドラのほうが容赦なく相手を責め立てているようには見えたが。
ダニエルはかなり追い詰められていた(ように見える)ので、自殺だとしても彼女の日頃の言動は死因の一要素だとは言える。ただ、あくまでもそれは間接的な原因なので「殺した」とは言えない。主観と客観、事実と虚構の間に落下してしまったダニエルの真実は、死んでしまった彼によってでしか真に語られることはないのだろう。
落ちなし
予告編ではあまり食指が動かなかったのだが、法廷物という噂を聞いて、見たくなった次第。
ふたを開けてみたら結構ガチガチの裁判劇で、それはよしとするのだが、全体に殺伐としている。法廷シーンもさることながら、回想シーンの夫婦喧嘩などいたたまれない。
法廷ミステリーとあらば終盤快刀乱麻を断つ“finishing stroke”を期待してしまうが、何だか茫洋として終わってしまう。クリス・ペプラー似の弁護士もさして活躍するわけでもないし。ミステリーにおいて、盲目の登場人物は (「Yの悲劇」のように)通例そのことが事件の解明に重要な要素となるものだが、本作はさにあらず。
いくら検証のためとは言え、犬に薬物を過剰摂取させるのはアカンと思う。
隔壁
んー、いや、まぁ…奥深い脚本ではあったかな。
1番最初に出てきた感想は「CGが無さげな作品を久しぶりに見たけど、絵が凄い生々しくみえる」だった。
正直スッキリはしない。
犯人探しが主題ではないようで…一応の判決は出るものの真実は闇の中だ。
父親が転落死する。
その第一発見者が弱視の息子で、その家には母親しかいない。で、他殺か自殺かってのが裁判の論点になってく話なのだけど…どうにも面倒くさい。
どんな家庭にだって色々あるわけで…家族だからこそ共有しなきゃいけない問題はあって、それは家族だからこそ、夫婦だからこそ共有せねばならない問題でもあって、それが悉く暴かれていく。
弁護士と検察も白か黒しかなく、どちらも自分の正義に準じてはいるものの、屁理屈だったりこじ付けだったり、憶測や推測の嵐で、真実の押し売りはするものの、真実の解明には程遠いような空間だ。
実際の裁判もああいうものなのだろうか?
裁判長と陪審員に「あなたが正しい」とどんな手を使っても言わせたら勝ちみたいな。
…まぁ、そんなもんかもしれない。
夫婦間のアレコレや個人的なアレコレや、おおよそ公にしたくない事柄が、否応なしに暴露されていく。本人は勿論いたたまれなくもあるんだろうけど、1番災難なのは子供だ。
聞きたくも知りたくもないアレコレが、他人の口から無遠慮に吐き出され、その杭に貫かれていく。
救いようがない程に残酷な状況だ。
この裁判の縮図は、夫婦間にも適用されていて、録音データが再現されたシーンは見るに堪えない。
どこまで行っても平行線だ。
相手の意見なんて聞きやしない。
自分の主張と要望と、それが受理されない関係から悪態しか出て来ない。
皮肉も嫌味もお構いなしなのである。
と、外野から見てるとよく分かる。
まぁ、そのスパイラルに陥らない夫婦は皆無なんじゃないかと思われる。
改めて自分たちの愚かさをまざまざと見せつけられてるようで、「こりゃ犬も食わんわ」と思う。
それにつけても俳優陣は皆様、素晴らしく…この夫婦喧嘩のくだりなどは台本の存在を疑う程の熱演だ。
旦那はまぁ病んでもいて、その閉塞感とかうんざりする程だし、奥さんは自分に負い目があるから寄り添うように話もするのだけれど、この環状線の如く繰り返される不毛なやり取りに心底辟易してたりする。
上手かったわー。
とまぁ、法廷同様「私が正しい」と「あなたが間違ってる」が銃弾爆撃かのように降り注ぐ。
子供に。
もはや、サスペンスではなく人間ドラマである。しかもだいぶ痛烈な。ダニエルを見るたびに良心の呵責に苛まれ…いや、過去を猛烈に反省しようと思う。
で、まぁ、サスペンスを見にきたつもりだったので、こっからは考察だ。
自殺なのか他殺なのか。
正直分からないのだけれど、引っかかってる箇所はいくつかある。
ダニエルの事情聴取の和訳に「開いた窓の下」って発言がある。窓が開いてるかどうかの認識が出来るようで…もしそこで何か動くものを見たのなら、おのずと母親一択になる。
彼は見間違いだろうと思いたいだろうし、その時の視界に確信が持てないかもしれない。
判決の前に車内で「ごめんね」と泣きじゃくる母親とか、その夜に母親を抱き締めるカットとか。
「帰ってくるのが怖かった」と言われた時の母親の距離感とか…絶妙に引っかかる。
まぁ、他殺に一票かなぁ。
表題の「隔壁」は対人関係において、お互いを拒絶したり反発したりして、自分を守る為の壁が見えたからかなぁ。どうやら一回出来ちゃうと崩すのは相当難しく、ベルリンの壁同様、崩れる時は歴史的快挙とも表現される程のものであるらしい。
途中に挿入されるワイドショーのような番組でコメンテーターのコメントに絶句する。
「そっちの方が面白い」…随分と極端な台詞だなぁとは思うけど、昨今の報道における良識の無さは世界共通なのかと思え、輪をかけてうんざりした。
どこにもスリリングな要素がない
いかにもフランス映画という感じ。説明的な前フリがなく、淡々と地味に進む。冒頭のあの気に障る音楽が本当にイラッとする。何かもっときれいなものを求めたくなる。音楽でも、キャストでも。メインビジュアルの雪の上への落下のシーンが一番インパクトがあったが、それで終わり。
夫の生前の描写がもっとあったらよかった。肝心の夫の人間性がよくわからなくて、ミステリー的な流れにするのなら、ちょっと不公平だと思った。
親しい弁護士の男性にやたらフォーカスしていたけれど、そんなに筋に絡むわけでもなく。冒頭の女子学生との関係もそんなに描かれるでもなく。普通の人間ドラマの印象。
あまりキュートではない少年と犬はよかった。
夫婦とは…パートナーとは…
まざまざと見せつけられた感じ、ぐったり疲れた。子供の事故、落ち込むよね、将来に気を病むね、自分を責めるかも。作家として壁にぶち当たったり、順調だったり。支え合う、知的に刺激し合う関係がバランス崩れたのかな。旦那の気持ちも解る。裁判終わって泣けてくる奥さんの気持ちも解る。子ともがお母さんとの関係を取り戻せてよかった。親をきちんと観ていたんだね、息子は。
真相は「藪の中」、最後に勝つものは…
だらだら長い法廷劇。現実なのか、想像なのか、みわけがつかないところが多い。真相は「藪の中」という感じ。検察側証人から、妻に不利な証拠が提示されるが、妻と懇意な弁護士が巧みに躱していた。裁判官は、息子の証言に最後の決め手を求めた。愛犬「スヌープ」が瀕死の状態になり、スマートフォンの検索で救命法が発見され、解決されていた。母親との協議を回避するように裁判官は世話係に求めたが、世話係は、息子にどちらか選択するように求め、「愛」を選択したようである。視覚障がいという息子は、判決映像がみえていたのだろうか。晴れ晴れとした表情であった。
後味は悪い
でも面白かった・・・
犬すごい、演技・・・?
冒頭のインタビューから、法廷でのそれぞれの人物の喋りや、録音された夫婦喧嘩など、台詞や話し方に引き込まれる。裁判としての決着はついたけれど真相は?子どもはまだ1人では生きていけないという打算から、あの選択をしたのかなぁ、お父さんは弱いところがあったかもしれないけど、子どもにとってはいいお父さんだったのかなぁ、と考えると悲しい。夫婦喧嘩で、自分の時間を持てないと訴える夫の言い分は、男女を逆にするとすごいあるある・・・あーうちもあるなと・・・あそこまでの泥沼にはまる前に、妥協点を見つけていかないと、子どもが可哀想だなぁ。
オスカー脚本賞は納得!2人でトロフィーを掲げていたのが良かった😀
最優秀アニマル演技賞/カンヌにはパルム・ドッグ賞なんてものがあるんだにゃ~
この監督の映画ははじめて。女性監督。本日、3月11日に米国アカデミー賞での脚本賞受賞が決まった。脚本は小野田さんの映画ONODAの男性監督との共作。
共犯に仕立て上げられた❓
一言でいえば、イヤ〜な映画だった。
サンドラ·ヒューの主演女優賞の演技目当てで鑑賞。
不審死だから司法解剖するのははわかるけど、検察は物証がなく状況証拠も曖昧なのに殺人の容疑でよく起訴したものだ。これ、男女(夫婦)逆だったら、男は陪審員たちに有罪にされて、全然つまらない設定。
女は強しをサンドラ·ヒューがその存在感でぶっちぎる。
しかし冷静すぎやしないか?
売れっ子小説家でバイセクシャル。
弁護士の男ともデキてるに決まってる。
息子のサポート役の彼女とのレズビアンシーンぐらいサービスしてくれ!
男はつらいよ。
殺されるほど悪いかねぇ。
そりゃ女々しいだめな奴だけど、それが大抵の男の本質なんじゃないの?
厳しい時代になったもんだ。
ミステリー映画という触れ込みだったので、タネ明かしの映像をずっと待っていたのにまるでなし。これじゃラジオドラマでいいじゃん。
映画なんだから映像でみせてくれなきゃ。
子供の気持ちを思うととても残酷な話。
愛犬に過剰な薬物を摂取させて実証する展開も冷酷で異常すぎやしないか?
やっぱり、息子と母親と弁護士は共犯だな❗
だいたいお利口な犬が主人の吐いた吐瀉物を食べるかねぇ?
最優秀アニマル演技賞あげなきゃ。
たぶん、ドギーマン1年分もらったな。
解熱剤のアスピリンを大量に飲むなんて馬鹿げている。
瀕死の演技のお犬様の演技は外国の映画動物会社のレベルの高さを実感することに。でもオレが求めているところはそこじゃない。
前半1時間ぐらいは退屈で眠くなった。鼻毛を抜いていたら、風邪をひいてしまったよ。後半の夫婦間の確執のリアリティがすごくて眠気がぶっ飛んだ。
でも深夜に運転しながらラジオドラマで聴いたほうが怖い内容だ。
法廷でのやり取りもほとんど却下すべき不適切なゴシップ内容。
このアホ裁判長が❗
あの頭のキズはトンカチで殴りれたような感じで、警察も他殺を疑うに充分だったから起訴したんでしょ。
カミさんが物置買おうと言い出したら、3階以上の自宅に住んでる人は注意しないとね。
ぶるっ。
なぜ私たちはこの映画を見て疲労感しか感じないのか?
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たくさんの疑問を抱えたまま152分を見終えました
自分には何の関係もない長く退屈な裁判を目の前にした参審員が想像する世界?が映像化される
他人の真実はエンタメではなくうんざりするような事実にしか過ぎない
夫の願いは妻を道連れに落下することだったのか?
妻の願いは夫を落下させて自分が浮上することだったのか?
人は自分に理解できる形でしか他人の真実を解釈することはできない
子どもの目が見えないのは私たちや参審員も同じ
目に見えない真実は見ることができない
残された録音と検察と弁護人と証人が語る言葉だけが手がかりだ
朗読劇としての裁判で真実に辿り着くとはどういうことなのか?
それぞれの脳内で映像化されたストーリーを真実と信じるしかない
そこに都合よく真相を解釈するマスコミや野次馬の声が重なり真実のような何かが広がっていく
(本当の真実を知っている?)子どもは自分に都合のよい真実を選択したのか?
裁判で辿り着く真実とはどういうことなのか?
真実のような何かを本当に真実と呼べるのか?
ラストで犬と眠る母親は何者なのか?
犬には人間にない嗅覚が備わっている
次に落下する何かを暗示しているのか?
善悪の境で多義的な解釈を放り投げる映画は正直疲れます…笑
でもそれが現実を映しているからカンヌで評価されたのか?
不思議な設定の法廷劇
予告編を観た時から、フランスが舞台なのになぜ英語喋ってるんじゃ?と思った。主人公が外国人だからとは思ったが、現地のフランス人弁護士との会話もほぼ英語。裁判は大丈夫なのか?と余計な事を考えた。笑。被告人はドイツ人、被害者の夫はフランス人、ロンドンで知り合って結婚、家庭の中では不公平の無いよう英語で会話?なるほど、被告人の妻はドイツ人らしく非常に論理的で弁も立つ。作家だから当然か。対する被害者である夫は情緒的。議論してもオサレ気味。妻は作家として成功したが、夫はある理由で鬱気味であり執筆が出来ない。それでも家事や子供の教育など妻や息子に献身的に尽す。夫や息子は妻・母をモンスターと呼んでいる。モンスターというより情緒が欠落したPSYCHO-PASSに近い様な、、、。
法廷で公開される夫婦間の強烈な口論の録音が一つの山場。日常的に追い詰められた人が発作的に自傷行為に及ぶのはよくある話。
夫が夫婦喧嘩をUSBに録音していた理由は危険を察知していたからか?或いは妻に嫌疑かかかるよう諍いの証拠として記録していたとは考えられないか?そうであれば、結構怖いリベンジだが。
弁護士と妻との親密さも気になった。食事の後、二人に気遣うように他の人が席を立つのも思わせぶり。
「裁判で勝てば何か見返りがあると思ったが、何も無かった。」という妻。裁判を通してして自分の行き過ぎた言動が相手を追い詰めていた事に気付いたのか?
最後に犬が母親にすり寄って行くが、これは何を意味するのか?この犬は盲導犬の役目もあり、何時も主人である少年の側で寝ていた。まるで逃げる様に母親の側にやってきて眠るのは何故?
ほぼ法廷での対話劇のため単調過ぎるかな
直前のランチで食べ過ぎてしまったこともあり、何回か記憶が途切れてしまい……気づいたら妻が訴えられていました。
後半もほぼ場面が法廷での会話劇なので、流れが単調で数回寝落ち。長くて単調という印象。朝イチで見れば、もう少し良い印象だったかもしれません。
夫の小説の案を盗んで自作を出すわ、家事育児をやってる旦那が、自分にも時間が欲しいと言ったら、誰も頼んでないわよ、好きにすれば?とのたまうわ、じゃあ、誰が目の見えない息子を見るの?とあまりに妻がモンスター過ぎて、背筋が凍る。でも、これ男女逆転だと、割と日本ではあるよねーと友達と話しました。
息子が無理矢理、母親を救うけど、物凄いトラウマになって、高校生くらいになったら病んじゃいそう。
法廷劇は見ごたえがあるが、長くダレるところも
雪山の山荘で夫が転落死
妻による殺人か、自殺か、事故か
第1発見者(目撃者では無い)は目が不自由な息子で、真相はどこに・・・
というお話
正直、真相は最後までわかりません
証言や証拠が出るたびに夫婦の関係が明るみになっていくという緊迫の法廷劇
妻と息子役の人の演技が素晴らしく引き込まれる
が、ちょっと長いです
途中でダレちゃったかな
そこまで集中力を続けられる内容ではなかったです
パルムドール受賞は納得の作品
『落下の解剖学』のタイトルの通り、夫婦の愛や信頼関係が下向していく様を、落下による死が妻による殺人なのか自殺なのかを切り開いて明らかにしていく。この2つの落下を掛け合わせたタイトルはあっぱれ。結末が観る人によって解釈が違うだろうと思われるこの映画は、見応えがあったし、久々にあれこれ考えさせられた。
冒頭の、学生がサンドラのインタビュー中に流れる大音量の音楽。たまに音量が小さくなったり止まったかと思えばまた大音量。最初理由がわからなかったが観ている私がイラッとした。サンドラは顔を顰める事も無く、話題を変え、逆に学生にパーソナルな質問をしていく。後にそれがバイセクシャルを理由に誘惑したのではと検察官に詰め寄られてしまうのだが…
私はあのインタビュー中に、サンドラは夫の殺害を決心したんだと思う。顔色も変えず、下から怒鳴って上にいる夫に音量を下げさせようともしなかった。蓄積された被害妄想のダメ夫への怒りが、リミットの線を超えた瞬間だったのではないか。
息子が犬にアスピリンを飲ませて検証しようとしたが、あれは母親が父親を殺そうとしたのではないかと疑っていたのではないか。犬が死にかけた事で、母親の父親に対する殺意を確信したんだと思う…
…てな具合に、ついついあれこれ考えてしまう映画なのである。まだまだあるがキリがないのでここまでにしておく。
印象に残ったのは、父親が車の中で死について息子に諭すシーン。父親の口パクに息子の声がアテレコ(?)されている。見事にズレもなく完璧だった。何度もやり直したのかなーなんて思いながら観てしまった。
役者一人一人が素晴らしい。犬も含め。裁判中のハゲの検察官の憎たらしさもこの映画にスパイスを効かせている。あと雪景色。最高。『シャイニング』には劣るが。
ショパンとアルベニスに象徴される母と父の不和と対立の物語。そこで息子の選んだ道とは?
雪の山荘に、お父さんとお母さんと息子の核家族、といえば、僕くらいの世代の大半は『シャイニング』をなんとなく思い浮かべるはずだ(笑)。
『落下の解剖学』の監督夫妻(夫が脚本)も、そのことには自覚的だと思う。
お父さんの作家という職業もそうだし、より正確に言えば「作家志望だけど作家になれずに教員をしている」ところまで一緒だ。さらに言えば、作家としてうまくいかないのを「家族のせいにしている」ところまで。
僕は、映画が始まってしばらくして、階段からボールが転がって来るシーンを見て確信した。ああ、これ『シャイニング』へのオマージュだ、絶対わざとやってる、と。
『シャイニング』もまた、作家への夢をかなえられない男の挫折と苦悩の物語であると同時に、夫と妻の苛烈な闘争の物語でもあった(そこにきわめて聡明な子供がからむ)。
『落下の解剖学』では、お父さんは妻と息子を斧で襲うほど頭がおかしくなるまえに、なんらかの理由で墜落死を遂げる。
常人とは異なる鋭い感覚を有する少年、クラシック音楽の印象的な使用、最終的に起きた出来事の全てが解明されるわけではないまま終わる宙ぶらりんの感覚など、ジュスティーヌ・トリエ監督が『シャイニング』を意識しているのは、まあまあ間違いないと思う。
なお、パンフでは本作の元ネタとして、オットー・プレミンジャーの『或る殺人』と某ミステリー映画(結末とかかわるので伏せる)が挙げられていて、さすがは映画評論家さんだと感心した。言われてみれば確かにそうだよな。
(ちなみに、ポスターアートは絶対『ファーゴ』を意識してると思うw みんなもそう思うよね??)
― ― ―
それにしても、『落下の解剖学』とは面白いタイトルを付けたものだ。
僕はこのタイトルを見た瞬間、「これはそのうち観に行かなきゃ」と思わされたものだが、ここでの感想を見ると、意外に否定的な人もいるんだね(笑)。
個人的には、ちょっと意外な単語の組み合わせが、とても新鮮で良いと思う。
「落下」という物理っぽい単語に、「解剖」という生体的・動物的な単語を重ねてくるのはじつに詩的だし、邦題を敢えて直訳にしたのもセンスが良い。
ここで「解剖」される「Fall」とは、夫の「墜死」であると同時に、夫の権威の「失墜」であり、妻の成功からの「転落」であり、家族の「没落」でもある(『アッシャー家の崩壊』の「崩壊」も、原題では「Fall」だ)。
さまざまなフェイズで絡み合う「落下」の分析を通じて、現代の家族の在り方を照射するのが監督の意図ということになろう。
映画としては、正直前半は結構うとうとしてしまってよく覚えていない部分も多々あるのだが、裁判が始まってからは緊迫度も増し、最後まで集中して観ることができた。
多少睡眠不足でも、あんなヒリついたヤバい夫婦喧嘩につきあわされたら、眠気も吹っ飛ぶというものだ(笑)。
法廷ミステリー仕立てではあるが、謎解きの要素は想像以上に希薄だ。
そこを期待して観に行くと拍子抜けするのは確かだけれど、観ていればすぐに「そこがキモでない」ことはわかってくる。
要するに、監督は「家族」の関係性をとことん「腑分け(解剖)」して、誰もが感じながらも敢えて目をそらしているような暗部にまで踏み込んで、それを明るみに出したいのだ。
家族とは、畢竟、赤の他人同士にすぎない夫婦が、血縁のある子供を介してつながったユニットである。そこには常に「愛情」と呼ばれる得体の知れない何か(夢であり、希望であり、欺瞞であり、呪いでもある何か)があると同時に、意見の相違があり、感情の対立があり、マウントの取り合いがあり、主導権の争奪戦がある。
監督の意図としては、幸せだった(幸せだとそれぞれが信じていた)家族が崩壊(転落)していく様をつまびらかにするのがあくまで主眼で、法廷劇というフォーマットはそのために選ばれた最適の「手段」にすぎないのだろう。
なので、妙なトリックだとかどんでん返しなどは出てこないし、法廷での思いがけない証言で意想外な真相が明らかになるようなギミック重視の作りにもなっていない。
代わりに、裁判を通じて問いかけられる「家族とは何か」という問いには、深い洞察と思慮をもって、きちんと応えてくれる映画には仕上がっていると思う。
― ― ―
この映画を観ていて僕がいちばん気になっていたのは、実は「言語」だったりする。
お母さんは外の人とはフランス語を話す。ここはフランスの田舎町であり、フランス語以外通じない。だが、家族と話すときは英語だ(かなり日本人にとっても聴き取りやすい)。夫に通じる共通の話せる言葉が英語だからだ。
でも彼女の母国語は英語でもフランス語でもない。ドイツ語だ。
彼女はドイツ人なのだ(言われてみればいかにもゲルマン的な風貌だ)。
お父さんはフランス語話者のフランス人だが、妻と話すときは英語で話す。これはイギリスで出会ったときからのルールであり、英語での会話が(ドイツ人とフランス人がフェアネスを守る上での)ふたりの妥協点なのだという。
息子はフランス語を話すが、お母さんは英語で話しかけ、時と場合によっては息子も英語で答える。ちなみに法廷はフランス語で進行し、被告としてのお母さんは当初フランス語を強要されるが、途中から自ら要求して英語に切り換える(ドイツ語には切り換えないのがミソ)。
要するに、この映画でお母さんは、ほとんど「本当の自分の母国語」を話さない。
相手に合わせずに自分らしくあろうとするときですら、英語という共通語で話し、何かしら「本当の自分」はさらけ出さないようにしている。
この映画で、お母さんの正体が最後の最後まで得体が知れないのは、ポーカーフェイスだけが理由ではない。彼女は言語においても、常にヴェール越しに自分を「制御」して発言しつづけているのだ(あの盛大な口喧嘩の際であっても、彼女はずっと英語のままであり、理性を喪い切ってはいない。小説家としても、彼女は英語で書いているらしい描写がある)。
グローバルな出自の一家として多言語が飛び交う環境は、そのままこの家庭の抱える「無理」と「不具合」にも直結している。
フランスは父親のホーム。母親にとってはアウェイだ。
母親側には、夫の希望を汲んで敢えてアウェイに身を投じたという「貸し」の感覚がある。
さらには、単純に雑談するだけでも自分の一番気楽に話せる母国語を話せない窮屈さが、この夫婦にはある。もともとが「無理に無理を重ねて」「理性で制御して」なんとか保ってきた家族なのである。
「仮面家族」とは言うまい。彼らは本気で愛し合い、このルールのもとで幸せになろうと努力してきたのだから。しかし、結果的には重ねた無理がほころんで、こんなことになってしまった。作家志望どうしの国際結婚は悲劇に終わった。
ともあれここで強調しておきたいのは、「言語のストレス」がそのまま「家族のすれ違い」のアナロジーとして用いられているという点だ。
― ― ―
以下、箇条書きにて。
●終盤に再現される、長大な夫婦喧嘩のやりとりはなかなかの衝撃度だった。
最近だと、ブラッドリー・クーパーの『マエストロ その音楽と愛と』での、バーンスタイン夫妻の交わす激烈な口論シーンもインパクトがあったが、今回はあれと匹敵するかそれ以上にえげつなかったような(少なくとも長さと粘着度は倍くらいあったしw)。
この二つの映画には、よく似たところがある。
まずは両作とも「夫婦ともに創作者としての優れた能力がありながら、片方が巨大な成功を収めたがためにもう片方が一歩引かざるを得なかった」話である。
それから、愛情あふれる表面的には幸せな生活の水面下で、嫉妬とマウントの「澱」がどんどんと夫婦間で溜まっていった結果、やがてぎくしゃくとぶつかり合うことになる流れも同じだ。
なにより、浮気したほうが浮気したことを大っぴらに正当化していて、あまり意に介していないらしいところもよく似ている。
ただ『マエストロ』の場合は、成功者であるレニーを妻がやりこめるという流れなので、まだ旦那のほうにも立つ瀬があるが、『落下の解剖学』の場合は、成功していない夫が成功者である妻に喧嘩をねちねち吹っかけた挙句に徹底的に撃退されコテンパンにされる流れなので、余計に報われないし、やりきれない(笑)。
劇中でも示唆されているとおり、旦那は事前に録音を仕掛けていることから考えても、敢えて妻を「挑発して」「怒らせて」それを記録しようとしている。
実にいやらしいやり口だ。女々しくて、根性のさもしい夫である。
でも、これだけ性根が捻じ曲がるまでには、夫サイドにも大変な苦労があったのだろうことは察するに余りある。息子の視覚障害に関する後悔の念(さして旦那が悪いとも思わないが)や、家族に対する責任感、いつまでも形をとるに至らない小説群、焦るほどにうまくいかない家内分担、気づくとどんどん引き離されている妻との格差。人間、病めば病むほど後ろ向きになるし、性格も暗くひねくれていくものだ。
僕もこういう思考回路に陥らないように、頑張って生きていかないと……。
●メインの夫婦以外でいうと、僕は細面のイケメン弁護士以上に、やたらねちっこく責めてくるスポーツ刈りの少壮検事のほうが印象に残った。やなヤツだけど、この俳優さんうまいよね!
映画ならではのフィクション仕様なのか、フランスの法廷のリアルなのかは知らないが、これだけ検事も弁護士も感情剥き出しでスタンドプレイに徹していて、判事も時々の気分を隠さずに恣意的に進行してるのって、どうなんだろう? そういえば昔、ガストン・ルルー原作の『黄色い部屋』やサッシャ・ギトリの『毒薬』を観たときも法廷シーンの恣意的な展開にびっくりしたものだけど、フランスだとこれが普通なのか。
法曹家の「個人的な技量」で有罪・無罪の結果がころころ変わりそうな裁判とか、実際には結構ヤバいんじゃないのか?? ちっとも事実と証拠だけに基づいて審理されてる気配がしないんだけど……。こんな裁判なら、訥々とした弁護士と検事が事務的に型どおりの審理をやる裁判のほうがなんぼかマシな気がするなあ。
●お母さんが得体の知れない人で、お父さんがダメ人間で、じゃあ息子にシンパシーを集めて来るのかと思ったら、犬を毒殺しかけるろくでもないDQN児童で(サイコパスかよ)、誰にも感情移入させてくれないトリエ監督の鉄壁のツン仕様に驚嘆。
●このワンちゃんがホントに芸達者でびっくり。どういう指示を出したらあんな動きが出来るのか。顔までなんか演技してるように見えるんだけど……。
●母親の性格描写や終盤の展開、息子のキャラクターと証言内容などから、個人的に「真相はこうだったのではないか」という推測はあるのだが、敢えて書きません。
●最初にかかるうるさい曲については全く知らないが、少年とお母さんが連弾で弾いているのはショパンのプレリュード第4番。このときは母親が主旋律を片手で弾いて、息子が和声をつけているのだが(もちろん本来は一人が二手で弾くピアノ曲)、法廷に出廷する前に少年が一人で弾くシーンでは、少年自身が主旋律のほうを弾いている。ここには「主従関係の逆転」を見て取ることが可能であり、これは母と息子の「頭をなでるシーンの逆転劇」とも呼応している。
ショパンが母親を象徴する曲とするなら、少年がしきりに練習しているアルベニスの「アストゥリアス」は、彼と父親との想い出のこめられた楽曲だ(タイトルクレジットでも練習中の音が流れ、のちに父の死を悼みながら少年が弾くシーンも出てくる)。
結果として、映画のラストでは、ショパンのプレリュード4番を変奏した映画用の編曲が延々と流れる。最後の最後で少年が結局「誰を選び、誰を守ることにしたのか」を、冒頭の音楽との対比で明らかにする、じつに面白い選曲だと思う。
リズム重視で攻撃的だがどこか繊細で神経質なアルベニスと、美しく静謐ながら手の込んだ半音階進行に毒をひめるショパンの対比。それはそのまま、この映画で対立せざるを得なかった二人の心的世界を象徴しているのかもしれない。
「推定無罪」感覚のリトマス試験紙映画
配偶者を殺したという容疑をかけられた主人公の女性。
価値観や人生観、性癖などをあげつらう、検察側のありとあらゆる印象操作で有罪風に映し出されますが、結局は決定的な証拠がなく無罪となります。
2時間半のこの作品で、どれだけ主人公を有罪だと感じたか、そして結末に納得できたかは、疑わしきは罰せずという刑事裁判の原理原則が身についているかを自分自身で確認するのに有効な映画だと思いました。
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