落下の解剖学のレビュー・感想・評価
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パルムドール受賞は納得の作品
『落下の解剖学』のタイトルの通り、夫婦の愛や信頼関係が下向していく様を、落下による死が妻による殺人なのか自殺なのかを切り開いて明らかにしていく。この2つの落下を掛け合わせたタイトルはあっぱれ。結末が観る人によって解釈が違うだろうと思われるこの映画は、見応えがあったし、久々にあれこれ考えさせられた。
冒頭の、学生がサンドラのインタビュー中に流れる大音量の音楽。たまに音量が小さくなったり止まったかと思えばまた大音量。最初理由がわからなかったが観ている私がイラッとした。サンドラは顔を顰める事も無く、話題を変え、逆に学生にパーソナルな質問をしていく。後にそれがバイセクシャルを理由に誘惑したのではと検察官に詰め寄られてしまうのだが…
私はあのインタビュー中に、サンドラは夫の殺害を決心したんだと思う。顔色も変えず、下から怒鳴って上にいる夫に音量を下げさせようともしなかった。蓄積された被害妄想のダメ夫への怒りが、リミットの線を超えた瞬間だったのではないか。
息子が犬にアスピリンを飲ませて検証しようとしたが、あれは母親が父親を殺そうとしたのではないかと疑っていたのではないか。犬が死にかけた事で、母親の父親に対する殺意を確信したんだと思う…
…てな具合に、ついついあれこれ考えてしまう映画なのである。まだまだあるがキリがないのでここまでにしておく。
印象に残ったのは、父親が車の中で死について息子に諭すシーン。父親の口パクに息子の声がアテレコ(?)されている。見事にズレもなく完璧だった。何度もやり直したのかなーなんて思いながら観てしまった。
役者一人一人が素晴らしい。犬も含め。裁判中のハゲの検察官の憎たらしさもこの映画にスパイスを効かせている。あと雪景色。最高。『シャイニング』には劣るが。
都合の良いカタルシスを排除をした秀作
山小屋の2階から落下した夫の死体、
容疑者は妻、唯一の証人は盲目の息子。
巧妙なサスペンスを予想したが
物語は公判を通して
家族の真実を深く抉り出していく。
他人が家族を理解することは出来ない。
真実は常に複雑に入り組んでいる。
都合の良いカタルシスを排除したからこそ
素晴らしい。
夫婦喧嘩の圧倒的な迫力が心に突き刺さる。
出演者の演技が犬に至るまで素晴らしかった。
退屈さに慣れる必要あり
ほぼ自宅と法廷のシーンだけで展開されて絵がわりも無く、派手なシーンもほぼ無く、説明と会話が延々と続く。
ワード数もメチャクチャ多く、フランス語ネイティブ以外は字幕を追い続けるのが疲れる。
全体的な雰囲気はいかにもフランス好みの退屈な人間ドラマ・・・
という印象だったけど、鑑賞後に1人で色々考えてしまう幅のあるメッセージ性を感じた。
この家族が抱える問題は日本でもありえるシチュエーションで、夫・妻・子供全員に感情移入出来るところがある。
安易に弁護士とのラブストーリーにせず、人間の心理にフォーカスしたところも見事だし、最終的に本当に夫の自殺だったのかを確定させる演出が無いのが素晴らしい。
ただ、他人に積極的に勧めるかと言えばちょっと難しい。
ショパンとアルベニスに象徴される母と父の不和と対立の物語。そこで息子の選んだ道とは?
雪の山荘に、お父さんとお母さんと息子の核家族、といえば、僕くらいの世代の大半は『シャイニング』をなんとなく思い浮かべるはずだ(笑)。
『落下の解剖学』の監督夫妻(夫が脚本)も、そのことには自覚的だと思う。
お父さんの作家という職業もそうだし、より正確に言えば「作家志望だけど作家になれずに教員をしている」ところまで一緒だ。さらに言えば、作家としてうまくいかないのを「家族のせいにしている」ところまで。
僕は、映画が始まってしばらくして、階段からボールが転がって来るシーンを見て確信した。ああ、これ『シャイニング』へのオマージュだ、絶対わざとやってる、と。
『シャイニング』もまた、作家への夢をかなえられない男の挫折と苦悩の物語であると同時に、夫と妻の苛烈な闘争の物語でもあった(そこにきわめて聡明な子供がからむ)。
『落下の解剖学』では、お父さんは妻と息子を斧で襲うほど頭がおかしくなるまえに、なんらかの理由で墜落死を遂げる。
常人とは異なる鋭い感覚を有する少年、クラシック音楽の印象的な使用、最終的に起きた出来事の全てが解明されるわけではないまま終わる宙ぶらりんの感覚など、ジュスティーヌ・トリエ監督が『シャイニング』を意識しているのは、まあまあ間違いないと思う。
なお、パンフでは本作の元ネタとして、オットー・プレミンジャーの『或る殺人』と某ミステリー映画(結末とかかわるので伏せる)が挙げられていて、さすがは映画評論家さんだと感心した。言われてみれば確かにそうだよな。
(ちなみに、ポスターアートは絶対『ファーゴ』を意識してると思うw みんなもそう思うよね??)
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それにしても、『落下の解剖学』とは面白いタイトルを付けたものだ。
僕はこのタイトルを見た瞬間、「これはそのうち観に行かなきゃ」と思わされたものだが、ここでの感想を見ると、意外に否定的な人もいるんだね(笑)。
個人的には、ちょっと意外な単語の組み合わせが、とても新鮮で良いと思う。
「落下」という物理っぽい単語に、「解剖」という生体的・動物的な単語を重ねてくるのはじつに詩的だし、邦題を敢えて直訳にしたのもセンスが良い。
ここで「解剖」される「Fall」とは、夫の「墜死」であると同時に、夫の権威の「失墜」であり、妻の成功からの「転落」であり、家族の「没落」でもある(『アッシャー家の崩壊』の「崩壊」も、原題では「Fall」だ)。
さまざまなフェイズで絡み合う「落下」の分析を通じて、現代の家族の在り方を照射するのが監督の意図ということになろう。
映画としては、正直前半は結構うとうとしてしまってよく覚えていない部分も多々あるのだが、裁判が始まってからは緊迫度も増し、最後まで集中して観ることができた。
多少睡眠不足でも、あんなヒリついたヤバい夫婦喧嘩につきあわされたら、眠気も吹っ飛ぶというものだ(笑)。
法廷ミステリー仕立てではあるが、謎解きの要素は想像以上に希薄だ。
そこを期待して観に行くと拍子抜けするのは確かだけれど、観ていればすぐに「そこがキモでない」ことはわかってくる。
要するに、監督は「家族」の関係性をとことん「腑分け(解剖)」して、誰もが感じながらも敢えて目をそらしているような暗部にまで踏み込んで、それを明るみに出したいのだ。
家族とは、畢竟、赤の他人同士にすぎない夫婦が、血縁のある子供を介してつながったユニットである。そこには常に「愛情」と呼ばれる得体の知れない何か(夢であり、希望であり、欺瞞であり、呪いでもある何か)があると同時に、意見の相違があり、感情の対立があり、マウントの取り合いがあり、主導権の争奪戦がある。
監督の意図としては、幸せだった(幸せだとそれぞれが信じていた)家族が崩壊(転落)していく様をつまびらかにするのがあくまで主眼で、法廷劇というフォーマットはそのために選ばれた最適の「手段」にすぎないのだろう。
なので、妙なトリックだとかどんでん返しなどは出てこないし、法廷での思いがけない証言で意想外な真相が明らかになるようなギミック重視の作りにもなっていない。
代わりに、裁判を通じて問いかけられる「家族とは何か」という問いには、深い洞察と思慮をもって、きちんと応えてくれる映画には仕上がっていると思う。
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この映画を観ていて僕がいちばん気になっていたのは、実は「言語」だったりする。
お母さんは外の人とはフランス語を話す。ここはフランスの田舎町であり、フランス語以外通じない。だが、家族と話すときは英語だ(かなり日本人にとっても聴き取りやすい)。夫に通じる共通の話せる言葉が英語だからだ。
でも彼女の母国語は英語でもフランス語でもない。ドイツ語だ。
彼女はドイツ人なのだ(言われてみればいかにもゲルマン的な風貌だ)。
お父さんはフランス語話者のフランス人だが、妻と話すときは英語で話す。これはイギリスで出会ったときからのルールであり、英語での会話が(ドイツ人とフランス人がフェアネスを守る上での)ふたりの妥協点なのだという。
息子はフランス語を話すが、お母さんは英語で話しかけ、時と場合によっては息子も英語で答える。ちなみに法廷はフランス語で進行し、被告としてのお母さんは当初フランス語を強要されるが、途中から自ら要求して英語に切り換える(ドイツ語には切り換えないのがミソ)。
要するに、この映画でお母さんは、ほとんど「本当の自分の母国語」を話さない。
相手に合わせずに自分らしくあろうとするときですら、英語という共通語で話し、何かしら「本当の自分」はさらけ出さないようにしている。
この映画で、お母さんの正体が最後の最後まで得体が知れないのは、ポーカーフェイスだけが理由ではない。彼女は言語においても、常にヴェール越しに自分を「制御」して発言しつづけているのだ(あの盛大な口喧嘩の際であっても、彼女はずっと英語のままであり、理性を喪い切ってはいない。小説家としても、彼女は英語で書いているらしい描写がある)。
グローバルな出自の一家として多言語が飛び交う環境は、そのままこの家庭の抱える「無理」と「不具合」にも直結している。
フランスは父親のホーム。母親にとってはアウェイだ。
母親側には、夫の希望を汲んで敢えてアウェイに身を投じたという「貸し」の感覚がある。
さらには、単純に雑談するだけでも自分の一番気楽に話せる母国語を話せない窮屈さが、この夫婦にはある。もともとが「無理に無理を重ねて」「理性で制御して」なんとか保ってきた家族なのである。
「仮面家族」とは言うまい。彼らは本気で愛し合い、このルールのもとで幸せになろうと努力してきたのだから。しかし、結果的には重ねた無理がほころんで、こんなことになってしまった。作家志望どうしの国際結婚は悲劇に終わった。
ともあれここで強調しておきたいのは、「言語のストレス」がそのまま「家族のすれ違い」のアナロジーとして用いられているという点だ。
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以下、箇条書きにて。
●終盤に再現される、長大な夫婦喧嘩のやりとりはなかなかの衝撃度だった。
最近だと、ブラッドリー・クーパーの『マエストロ その音楽と愛と』での、バーンスタイン夫妻の交わす激烈な口論シーンもインパクトがあったが、今回はあれと匹敵するかそれ以上にえげつなかったような(少なくとも長さと粘着度は倍くらいあったしw)。
この二つの映画には、よく似たところがある。
まずは両作とも「夫婦ともに創作者としての優れた能力がありながら、片方が巨大な成功を収めたがためにもう片方が一歩引かざるを得なかった」話である。
それから、愛情あふれる表面的には幸せな生活の水面下で、嫉妬とマウントの「澱」がどんどんと夫婦間で溜まっていった結果、やがてぎくしゃくとぶつかり合うことになる流れも同じだ。
なにより、浮気したほうが浮気したことを大っぴらに正当化していて、あまり意に介していないらしいところもよく似ている。
ただ『マエストロ』の場合は、成功者であるレニーを妻がやりこめるという流れなので、まだ旦那のほうにも立つ瀬があるが、『落下の解剖学』の場合は、成功していない夫が成功者である妻に喧嘩をねちねち吹っかけた挙句に徹底的に撃退されコテンパンにされる流れなので、余計に報われないし、やりきれない(笑)。
劇中でも示唆されているとおり、旦那は事前に録音を仕掛けていることから考えても、敢えて妻を「挑発して」「怒らせて」それを記録しようとしている。
実にいやらしいやり口だ。女々しくて、根性のさもしい夫である。
でも、これだけ性根が捻じ曲がるまでには、夫サイドにも大変な苦労があったのだろうことは察するに余りある。息子の視覚障害に関する後悔の念(さして旦那が悪いとも思わないが)や、家族に対する責任感、いつまでも形をとるに至らない小説群、焦るほどにうまくいかない家内分担、気づくとどんどん引き離されている妻との格差。人間、病めば病むほど後ろ向きになるし、性格も暗くひねくれていくものだ。
僕もこういう思考回路に陥らないように、頑張って生きていかないと……。
●メインの夫婦以外でいうと、僕は細面のイケメン弁護士以上に、やたらねちっこく責めてくるスポーツ刈りの少壮検事のほうが印象に残った。やなヤツだけど、この俳優さんうまいよね!
映画ならではのフィクション仕様なのか、フランスの法廷のリアルなのかは知らないが、これだけ検事も弁護士も感情剥き出しでスタンドプレイに徹していて、判事も時々の気分を隠さずに恣意的に進行してるのって、どうなんだろう? そういえば昔、ガストン・ルルー原作の『黄色い部屋』やサッシャ・ギトリの『毒薬』を観たときも法廷シーンの恣意的な展開にびっくりしたものだけど、フランスだとこれが普通なのか。
法曹家の「個人的な技量」で有罪・無罪の結果がころころ変わりそうな裁判とか、実際には結構ヤバいんじゃないのか?? ちっとも事実と証拠だけに基づいて審理されてる気配がしないんだけど……。こんな裁判なら、訥々とした弁護士と検事が事務的に型どおりの審理をやる裁判のほうがなんぼかマシな気がするなあ。
●お母さんが得体の知れない人で、お父さんがダメ人間で、じゃあ息子にシンパシーを集めて来るのかと思ったら、犬を毒殺しかけるろくでもないDQN児童で(サイコパスかよ)、誰にも感情移入させてくれないトリエ監督の鉄壁のツン仕様に驚嘆。
●このワンちゃんがホントに芸達者でびっくり。どういう指示を出したらあんな動きが出来るのか。顔までなんか演技してるように見えるんだけど……。
●母親の性格描写や終盤の展開、息子のキャラクターと証言内容などから、個人的に「真相はこうだったのではないか」という推測はあるのだが、敢えて書きません。
●最初にかかるうるさい曲については全く知らないが、少年とお母さんが連弾で弾いているのはショパンのプレリュード第4番。このときは母親が主旋律を片手で弾いて、息子が和声をつけているのだが(もちろん本来は一人が二手で弾くピアノ曲)、法廷に出廷する前に少年が一人で弾くシーンでは、少年自身が主旋律のほうを弾いている。ここには「主従関係の逆転」を見て取ることが可能であり、これは母と息子の「頭をなでるシーンの逆転劇」とも呼応している。
ショパンが母親を象徴する曲とするなら、少年がしきりに練習しているアルベニスの「アストゥリアス」は、彼と父親との想い出のこめられた楽曲だ(タイトルクレジットでも練習中の音が流れ、のちに父の死を悼みながら少年が弾くシーンも出てくる)。
結果として、映画のラストでは、ショパンのプレリュード4番を変奏した映画用の編曲が延々と流れる。最後の最後で少年が結局「誰を選び、誰を守ることにしたのか」を、冒頭の音楽との対比で明らかにする、じつに面白い選曲だと思う。
リズム重視で攻撃的だがどこか繊細で神経質なアルベニスと、美しく静謐ながら手の込んだ半音階進行に毒をひめるショパンの対比。それはそのまま、この映画で対立せざるを得なかった二人の心的世界を象徴しているのかもしれない。
「推定無罪」感覚のリトマス試験紙映画
配偶者を殺したという容疑をかけられた主人公の女性。
価値観や人生観、性癖などをあげつらう、検察側のありとあらゆる印象操作で有罪風に映し出されますが、結局は決定的な証拠がなく無罪となります。
2時間半のこの作品で、どれだけ主人公を有罪だと感じたか、そして結末に納得できたかは、疑わしきは罰せずという刑事裁判の原理原則が身についているかを自分自身で確認するのに有効な映画だと思いました。
さすがパルムドール
これほどずっと法廷劇とは思ってなかったが、さすがパルムドール!2時間半まったくダレ場なくずうっと惹きつけられる。
法廷で新たな要素が明らかにされる毎に、観客の予想(?)も有罪になったり無罪になったり陪審員と同じ経験だし、最終的には実際の裁判と同様にただ受け入れるしかないあたりもね…
途中で時間的なジャンプもあり、そこでの変化というのもありそうだしで、考察しちゃう面白さ。
役者はやっぱり全員素晴らしいが、特に子役と犬!犬には最優秀助演犬優賞をあげたい!
裁判ってめっちゃ疲れるんだね
裁判ってめっちゃ疲れるんだなってことがよくわかる映画。長きにわたり法的紛争が続くが、勝訴しても特に何か達成感があるわけでもなく、得るものがない結末がとてもリアルだった。
あとワンコの演技がすごい。
フランス、冬のリゾート地グルノーブルの町から離れた雪山中にある山荘...
フランス、冬のリゾート地グルノーブルの町から離れた雪山中にある山荘。
暮らしているのは、ベストセラー作家のサンドラ(ザンドラ・ヒュラー)と教師で作家志望の夫、それに視覚障害のある11歳の息子ダニエル(ミロ・マシャド・グラネール)。
あと、スヌープと名付けられた犬が一匹。
ある日、文学専攻の女子学生がサンドラを訪問、論文執筆のためのインタビューのためだ。
山荘の屋根裏部屋では改装作業中の夫が大音量で音楽を鳴らしはじめ、「いつものこと」とサンドラは気にしないが、インタビューは続けられない。
女子学生は帰り、ダニエルも犬を連れて散歩に出た。
ほどなくして、散歩を終えたダニエルは犬のただならぬ気配に怯え、近づいてみると、果たして転落した父親の姿が・・・
大声で助けを呼ぶと、サンドラが自室の窓から顔を出した。
昼寝をしていて気づかなかったという。
慌てて救急車を呼ぶが、すでに死亡していた。
警察がやって来、事件/事故の両面から捜査を開始する・・・
といったところからはじまる物語は、言ってみれば、2時間サスペンスなどでおなじみの導入部。
物的証拠はないが、殺人の可能性あり、状況的にはかなり疑わしい、ということでサンドラは起訴される。
まぁ、疑わしい状況でこいつが犯人!と決めつけるのは、日本映画『疑惑』を思い出しました。
で、裁判の行方がどうなるのかが焦点なのだが、大体予想は付くよねって感じで観ていました。
といっても、裁判でのやりとりはかなり面白い。
米国以上に、証人への検察側の質問に対して何度も何度も弁護士が反対意見を言い、またその逆もあるが、日本の法廷ドラマのように「意義あり」なんて言わない。
で、裁判では隠されていた秘密の事柄があきらかになり・・・と展開するわけですが、映画の焦点が事件の顛末から、親子の関係、夫婦の関係へと移されていくあたりが本作の見どころ。
終わってみれば、死んだ夫があまり好ましくない人物なのだが、こういうタイプはどこにでもいるわけで、そこいらあたりがフランス的ミステリという感じがします。
かなり面白かったです。
日が経つと、面白さが増幅される類の作品かもしれません。
主役のザンドラ・ヒュラー、ドイツ出身の女優さんのようですが、フランス語と英語を使い分け、どちらの台詞にも感情を乗せての見事な演技。
個人的には、アカデミー賞主演女優賞は、このひとへ贈りたいです。
映画が伝えたかった事とは無関係なのですが、欧米人は、裁判で自分の考えをハッキリ伝えることが出来るんだなと思って感銘を受けた。
疑惑を向けられた妻のサンドラが、裁判で検察官の追求にひるまずキチンと自分の意見を主張し述べる。
11才の息子ダニエルも例外ではない。証言台で自分の意見、考えをシッカリ述べ、検察官の問いにもキチンと答える。
「さすが欧米人、小さい頃からの教育のタマモノだな」と思った。
うろ覚えだが、ヨーロッパとアメリカでは小学校の頃から、授業で自分の考えをまとめ発表したり、議論、討論を行ったりするらしい。
だからサンドラとダニエルが自分の主張を堂々と述べ、検察官にも思ったことをシッカリ反論する場面に違和感がなかった。
以上、映画の主題とは関係ないけど、「さすが欧米人、自分の考えをシッカリ言えるんだな」というのがこの映画を見て1番印象に残ったという話でした。
あと、サンドラが無罪で良かったと思った。だってサンドラが刑務所入っちゃたらダニエル坊や可哀そ過ぎね?
夫婦の問題は当人にしか分からない
至極当たり前ですが、そう言うことかと。独善的な精神科医を黙らせたのは、観ていて痛快ではありました。
さてこの裁判は、疑わしくはあるけど、ほぼ状況証拠のみで物的証拠は血痕だけという、そもそも無理のある起訴。検事も主観ばかりのヌルい揺さぶりしかかけられず、被告の反論を許して逆に黙り込んでしまう始末。これを有罪に持ち込むのはほぼ無理だなーと言うのは観ていて大体分かります。つまりこの裁判はその行方は割とどうでも良くて、裁判を通して両親の隠しておきたい部分を無理なく、詳らかにするための方便なんでしょう。夫婦の秘密をほじくり返して、子供の前に曝け出す残酷さこそがこの映画のキモ。子供は、小さいうちは親をある時期までアイドルのように偶像化しているものだけど、大人になる過程で親も完璧ではなく、ただの人間だったのだと理解していくし、自分はセックスの産物だったのかと驚きながらも受容していく。それをこの映画は、一足飛びに息子くんに見せ付けます。それは本人が望んでいた結果とも言えるかも知れませんが、その意味を本当に理解していたかは疑問ですよね。親への愛情に応えたい自分、それ故に目を背けることも出来ず、親への信頼や愛情が壊れてしまうかも知れないと怯えていますが、その辺もよく描けていたのではないでしょうか。ホント悪趣味だなー(笑) でもラストは立派に自分の果たすべき役割を務め上げていましたね。良い映画だったと思います。
夫婦で子供を育てるということの真実かも
あまり予備知識なく鑑賞した。観終わって、この監督と脚本家が既婚なのか、子育て経験者かが気になった。結果、子供がいるパートナーの映画監督ペアの脚本と知って、とても納得。
夫婦生活のリズムは子育てを機に大きく変質するものと経験的に理解できるから、迫真の事故前日の夫婦喧嘩シーンのリアルに圧倒された。そしてそのすれ違いが他者には絶対に理解できない全てのパートナー同士のそれぞれの距離感に置いて発生すること、そこには他者の善悪の物差しでは絶対に測れない正義などがあることがすごくライブに表現されていると感心しました。俳優さんの演技も素晴らしかったと思った。
気になったのは検察側の毒々しさ。これがフランスの実際の法廷のやり取りに近いのかもしれないけれど、少し悪意が多めに感じられ、米国の法廷モノの演出濃いめの弁護士のようだと思った。
でも社会派映画として見応え十分でしたし、私は上映時間が長いとは感じませんでした。
レビューの評価が思っていたより低くて意外。
チャンスがあればもう一度鑑賞して夫婦喧嘩のやり取りをじっくり聞いてみたいと思った。
なんだか、モヤモヤする解剖学
予想とちょっと、違ったかな。
検事の質問が、偏見に満ちているように感じたし。
文化の違いかもしれないけど、夫婦の経済バランスって、どうなってるんだろう?
う〜ん。
どうにも釈然としないから、解剖というよりは、暴露かな〜
疑わしきは、
序盤から物語に引き込まれました。
絶妙なセリフ、時々ブレるカメラワーク、出演者たちの見事な表情(特に息子ダニエル)に、リアルな展開を見せられているようでした。
特に夫婦の口論はドキュメント?と思わせる感じで見事でした。
古畑任三郎でも登場したら別の展開があったのかもしれませんが笑、事件?事故?の描写から、家族のありよう、裁判の進み方、その間の登場人物の移ろい、裁判後の空気まで、リアルを追求した表現が、個人的に惹かれる作風でしたし、ハラハラさせてもらいながら、真実とは?ということを改めて考えさせてくれる作品でした。
落下の解剖学は淡々としたフランス映画だった
謎が謎を呼ぶサスペンスかと思いきやそうではなかった。
感想としては、フランス映画を楽しむ素養はまだまだ自分の中には育っていないようだ。
・物語
ある日、父が死んでいるのを息子が見つけ、妻には殺人の嫌疑がかけられる。
そのため、裁判では段々と複雑な夫婦関係が明らかになって行く。
・ああフランス映画
フランス映画は同じ物事を表現するためにアメリカ映画より2倍か3倍ぐらいの時間をかける。この映画も例に漏れずそうだった。
たとえば裁判の公判でひたすら話し合うシーンに30分ほどかけたりする。
そして映画全体は2時間半ほどもある。
まるで編集という概念がなくなってしまったみたいだ
もちろんフィクションなのだが、それよりはドキュメンタリーの記録に近いテイストだ。
一体なぜなのだろう。
フランスの人はこれを普通に楽しめるのだろうか。やはり文化や趣向の違いが根本にあるのだろうか。
世の中には様々な映画があるが、フランス映画はきっちり「フランス流」を貫いている。
・観客の民度
この映画を見ている間、やたらと周りのマナーが良いことに気づいた。ひどく咳き込む声が聞こえることもなかった。静かな映画なのに。
フランス映画を観るぐらいの映画好きは鑑賞マナーが良いのかもしれない。
意志というものの混沌
宣伝文句、キャッチコピー、チラシの短文、タイトル。これらを考えるのは日本側の配給会社なのだろう。これらを見るとどうも本作品が真犯人探しのサスペンスであるかのようで、レビューを書く人もそれと作品とのギャップに戸惑っているようだ。この作品はそんなかつてのアガサクリスティーやヒッチコックのような作品ではないように思う。登場人物自らでさえ心の底に隠し通した「感情」の錯綜する「意志」のサスペンスに見える。答え合わせなどできない混沌としたものを味わってこそ醍醐味なのだろう。さすがはパルムドール作品だ。ことごとく周到に設られた設定や運びは今後の映画の教材としても素晴らしいのでは。
広報が悪いのかな…
「あの日、あの場所で、いったい何があったのか?」
これが広告としてのアオリではなく見た人間の中に残る疑問になるなんて予想していなかった…
もしかしたら色んな瞬間に意味があったのかも知れないけど、やっぱりサスペンスだと思って最後の最後まで見ていたから、正直あの素晴らしい役者犬が主人公の隣に添い寝して、クレジットが出始めた時にえっっっ……と思ってしまった。
息子が視覚障害という設定も重要だと思ったから、現場検証のシーンで記憶に間違いがあった時、誰かがあの時テープを貼り替えていた?などと考えてワクワクしたが特にそういうわけでもなかった。
帰宅して50セントのPIMPを聴いたら、「音楽が一度止まってまた鳴り始めた」というのはPIMPインストバージョン自体の構成だった。
でも現場検証の時にずっと流してるはずだし気がつかないわけないよな?とも思うし。
とにかく、出て来る設定がことごとくあんまり活かされないまま気持ち悪いまま事態は終息を迎える。
しかしそれはある意味でリアル。映画の中で誰もが知り得ないことを、観客である私たちも知ることが出来ずに終わるだけ。
考えれば考えるほど湧いて来る違和感も、これは制作上の意図?あるいは天然でこんなことに?という不快感も、重要になりそうな設定が特に意味を帯びないリアルさも、
「そういう映画」だと思って見てみたらよく出来ているのかも知れない。
でもこれはチラシ見たら「ある男の不可解な死、その真実のカギを握るのは視覚障害のある息子ただ1人ーーー」という、東野圭吾的な最終的にパーッとスッキリ全部が解明されるサスペンスドラマだと思って見てしまうのもしょうがない…
「落下の解剖学」というタイトルもあんまりピンと来ない(原題直訳ですが)。
犬の演技は本当に凄かった。
全445件中、221~240件目を表示