「怖すぎるだろ」関心領域 moviebuffさんの映画レビュー(感想・評価)
怖すぎるだろ
見てない方はこのレビューはネタバレ含みますので、見てからにした方が良いかと。
さすがに昨年の話題作だったし、予告編からどういう設定かはわかってはいたが、いやー、それでも最後は驚かされた。
どういうエンディングにするのかと、見ている最中は考えていた。例えば住んでる家族がソ連軍の侵攻で因果応報な目に合うのかとでも思っていた。イングロリアスバスターズじゃないけどさ。もちろんタランティーノみたいに笑えるトーンにはしないと思っていたが、ミヒャエルハネケのような抑制の効いた、乾いた見せ方で家族が殺されるとか。
ただ、そのような因果応報のオチにすれば、本当の意味でのこの「関心領域」というタイトルの意義が無くなってしまうわけだ。観客にカタルシスを与え、遠くで起こっている悲劇をドラマとして消費すること。復讐は果たされたと溜飲を下げ、消費した後、我々は日常に戻り結局その悲劇について考えることもないと。
で、この映画はそれをどのように避けたのか。それがラスト間際、いよいよ最終的なユダヤ人を地上から抹殺する計画が決まり、主人公が暗闇を見つめてのあのまさかのアウシュビッツの内部へのジャンプである。
しかもポイントは現代だということ。我々は先ほどまでここで何が行われたかを見ていた。その後に見せられるこの圧倒されるような物量の被害者たちの遺品。そして実際に何万という人々が焼かれていった焼却炉。映画を観ていた我々はそこに目がいってしまう。
ところが、それらには目もくれず、普通の美術館のオープン前のようにその前でただ清掃する人々が映し出される。毎日接してる彼らにとって、そこは職場であり、悲劇の場所ではない。同じ場所なのに文脈がちがうのだ。ここで我々は気付く。人間てひょっとして、本質的にこういう生き物なんでは、という恐ろしい事実に。ここがこの作品の二重構造であり、肝になっているゾクッとさせられるパートだと思う。(ここでそんな意図はあるはずはないと思われた方がいたら、ではその反論として言うが、なぜわざわざ清掃されている人がいる時間を最初から最後まで撮っているのかを考えてみてほしい。普通であれば、誰もいない時間に撮影するはずである。そこに意図が無いと考える方が不自然だ。)
戦争という非常時でなくとも、我々はもともと「意味の無化(Decontextualization)」の能力を持っているのだ。つまり、意識しなければ、抗わなければ、人間は普通にこれが出来てしまうんだと。そこがこの映画の批評性だなと思った。
ハラリのサピエンス史で述べられていたように、人間は何事にも意味や背景、物語、文脈を見出すことのできる生き物である。が同時にそれを無化する事も出来る生き物なのだ。
実はこの映画の前に、ウクライナのセルゲイ・ロズニツァ監督のアウステルリッツ という作品が既に存在している。その映画はかつての強制収容所をダークツーリズムで訪れる観光客たちをただ淡々と映すという批評性のあるドキュメンタリーだった。ただ、関心領域ではドキュメンタリーのシーンを劇映画からの突然のジャンプでエンディングに持ってくることで、観客たちにより違和感とショックを与えることに成功している。もっと自分事として突きつけられるしかけになっているわけである。
私は前から思っていたのだが、ジョナサン・クレイザーにはスタンリーキューブリック的な遠くから出来事を客観視して見ているような視点があると思う。(映画のテーマによって映画のフォーム自体を変えてくるところも似ている。)そして、キューブリックが得意としていたのが、音楽やカメラの演出によって、前からそこにある物が全く違う意味を持つものに見えてきてしまう、あるいは人がただの物でしかないように見えてしまうという、まさにこの「意味の無化」作用や異化効果を狙った演出方法だった。それをある意味受け継いでいるジョナサンクレイザーの持つ作家性が生かされた作品だったと思う。