「壁一枚隔てて描かれる、天国と地獄」関心領域 緋里阿 純さんの映画レビュー(感想・評価)
壁一枚隔てて描かれる、天国と地獄
1945年、アウシュビッツ強制収容所の隣。壁一枚を隔てた家で、幸せに暮らすヘス一家。壁の向こうからは、昼夜を問わず聞こえるホロコーストの“音”。しかし、彼らはその音を物ともせずに、“無関心”の果て、豊かな“楽園”を築き上げていた。
本作を鑑賞する前に、事前予習として2022年のドイツによるテレビ映画『ヒトラーのための虐殺会議』を鑑賞したが、本作を理解する上で非常に役立った。ナチス親衛隊や事務次官らが、如何に効率良くユダヤ人を“処理”するかについて議論を交わす作品なのだが、本作のアウシュビッツ強制収容所はまさにその答えとなった舞台。ガスで一度に400〜500人を毒殺し、そのまま焼却炉として遺体を焼却するのだ。
本作中では、ルドルフと役人達との設計図を用いた会話により、より具体的にその内容が語られている。炉を左右に分ける事で、片方で焼却処理をし、もう片方では炉の冷却と灰となった骨の排出が行われる。焼却と冷却を交互に繰り返す事で、一定のペースで決まった人数を処理し続けるのだ。焼却炉が稼働する様子は、絶えず収容所の煙突から立ち込める煙で表現される。
そう、本作では強制収容所で行われる全ての行為が映像では一切示されない。地獄の様子は、“音”によって表現される。それは、平穏なヘス一家の生活の中に、常に流れ続ける。
しかし、彼らに収容所にいるユダヤ人達の“痛み”や“叫び”は届いていない。
本作を通して1番に感じたのは、【好きの反対は嫌いじゃなく“無関心”】とはよく言ったものだなという事。“嫌い”という感情は相手に対するベクトルが向いているが、“無関心”はそもそもベクトルすら存在していない。それはまさしく、本作におけるヘス一家の生活態度そのものだ。
収容所とヘス家の間にあるのは、僅か一枚のコンクリート製の壁。そんな壁一枚隔てただけの場所であるはずなのに、そこに自分達の楽園を築き、何不自由ない生活を送っている。壁一枚隔てさえすれば、その向こうにどんな地獄が存在しようと、築き上げた楽園での生活を謳歌出来てしまう人間の恐ろしさ。そして、一度手にしたその悦楽から離れる事は出来ないのだ。
そうしたヘス一家の歪んだ生活を、色彩や左右対称の構図等、拘りを持った画面構成で鮮やかに表現してみせる。
冒頭のタイトルシーンは、最初こそ白く光り輝いていた『THE ZONE OF INTEREST』の文字が、次第に輝きを失って燻んで行き、やがて消えて行く。その様子は、まさしくヘス一家の収容所内への“関心が薄れて行く”様を表しているかのよう。
また、ヘス家の面々が穏やかな日常を過ごすシーンは、ポスタービジュアルにあるように彼らは多くの場面で画面の中央にいる。それはまるで、「自分達が世界の中心である」という彼らの傲慢な心理を映したかのようだ。しかし、そんなシーンのどれもこれもが色彩豊かで美しく、穏やかに映るというのが皮肉。まさか、鮮やかな色彩や計算された画面構成に一種の嫌悪感を抱く日が来るとは思わなかった。
音楽も非常に大きな役割を果たしており、暗闇にゴォォと不気味に響く様子は、まるでホラー映画のよう。この曲は要所要所で耳にする事になるが、終盤ではあの音の奥に収容所のユダヤ人達の怨嗟の声すら聞こえた気がした。
ヘス一家の中でも最も醜悪に描かれているのが、ルドルフの妻ヘートヴィヒ。ユダヤ人から接収した衣服やダイヤを当たり前の如く身に付け、夫がアウシュビッツ強制収容所の所長である事から“アウシュビッツの女王”と呼ばれている。彼女は自分の母を家に招き、拘って作り上げた家庭菜園を見せて、自分が今どれだけ満たされているかを見せる。
しかし、そんな生活の裏で、夜中まで行われる収容所の“焼却処理”。夜空を真っ赤に染め上げる異様な光景は、ヘートヴィヒの母を家から離れさせる。翌朝、ヘートヴィヒが見つけた母の書き置きに何が書かれていたのかは何となく察しが付くが、彼女は母が黙って家を離れた事に不満を漏らし、使用人に当たり散らす。無関心の極地に達した彼女には、最早自らの生活の歪さに気付く事は出来ないのだろう。
ルドルフの転属によって住居を変えねばならないかもしれないと知った彼女の台詞は強烈だった。
「ここが私の楽園なの。昔からの夢だったの。ここを離れるくらいなら、あなた一人で出て行って。」
しかし、私が作中最も恐怖し、同時に悲しさで一杯になったのは、幼い次男のある日の姿だ。収容所内のユダヤ人達の為、夜中に林檎を埋め込むレジスタンスの少女の姿が映し出されていたが、その林檎が発端となって収容者が暴れ、看守によって鎮圧される。
その“声”を、その“音”を聞いた彼は、窓ガラスに向かって一言。
「二度とするなよ。」
まるで親が子供を躾けるかのよう。幼い彼にとっては、今生きている場所こそが世界の全て。親や周囲がユダヤ人を差別し出した後の世界に生まれた彼にとっては、それはごく自然な発想、自然と漏れた言葉だったのだろう。だからこそ、それは途轍もなく恐ろしく、同時にあまりにも悲しい。“人間の悪意の再生産”が詰まっているこのシーンは、間違いなく本作の白眉だろう。
終盤、ヘートヴィヒの要望を聞き入れ、ルドルフは一人転属地で過ごす。再びアウシュビッツに戻れる事になった彼は、階段を降りる際に嘔吐し、現代のアウシュビッツの博物館の姿を見る。展示されている積み上げられた収容者達の履き物や、当時の品々を。
パンフレットによれば、あれは監督にとって“未来の今”なのだという。彼らの行為の果てに今がある。我々はそれをちゃんと見つめているのか?と。
何故、あの瞬間ルドルフは嘔吐したのか。もしかすると、あの嘔吐は地獄の隣にある楽園から離れた事で、僅かばかりでも良心を取り戻したルドルフの本能が告げたSOSのサインだったのかもしれない。しかし、彼は再びあそこに戻る。そして、あの生活が始まるのだ。
アウシュビッツのホロコーストは確かに過去の出来事だ。しかし、監督の言うように、我々は常にそうなる可能性を秘めているはずだ。いや、既になっているのかもしれない。壁一枚隔てただけで、地獄の隣に楽園を見たヘス一家のように。
また、ヘス一家の生活は“誰かの犠牲の上に成り立つ幸福”だ。しかし、それもまた現代の我々に通ずる問題かもしれない。
現代を生きる我々は今、誰の“犠牲”の上に生活し、何に対して“無関心”なのだろう?