「カルト先生と孤独な生徒と間抜けな大人たち」クラブゼロ ニコさんの映画レビュー(感想・評価)
カルト先生と孤独な生徒と間抜けな大人たち
いやいや、やばいでしょこの先生……早く何とかしないと……とモヤモヤし続けるこちらの気持ちがラストまで報われない、決して退屈ではないし考えさせられるがしんどい映画。作品紹介にはブラックユーモアを交えて描いたスリラーとあるが、ユーモアというより皮肉のような描写で、おかしくて笑える要素はほぼない。
制服やインテリア、建築物のセンスや色遣いの美しさ、それとワンコにどうにか助けられた。(ただ、終盤のリバースしたものをフォークで……はほんと勘弁……)
人が洗脳にはまる理由とは、また洗脳する側の動機とは何なのか考えさせられた。
序盤、ノヴァクの授業に集まった7人の生徒の中で、授業選択の理由に意識高い動機をあげず奨学金目当てと公言したベンが、あの空気感を打ち破ってくれる立ち位置なのかと思っていた。それがあっさり転向して、軽く絶望。
ベン以外の生徒のような裕福で意識高い系の人間が、極端なSDGs的教えに取り込まれるのかな、というこちらの先入観を早速打ち砕かれる。
そしてノヴァクの教えが「全く食べない」域に達した時点で2人脱落するものの、残り5人に刷り込まれたクラブゼロの思想は、ノヴァクがいなくなっても彼らの心から消えなかった。
そうした刷り込みが強固なのは、その根底に自分の存在を認めてほしいという欲求、連帯感への渇望があるからだという気がする。みんな寂しいのだ。
糖尿病を抱えたフレッドの両親は弟を連れて仕事で遠方にいる。周囲が裕福な家の子ばかりの中、ベンは母子家庭で奨学金を希望している。エルサやラグナの家庭も描写されたが、どちらも金銭的には贅沢な暮らしであるものの、成金趣味だったり意識高い系だったりしてなんだか息苦しい。
ラグナが密かに自販機の菓子を食べつつノヴァクに傾倒する態度を続けたのも、教えに共鳴したからではなく、あのクラスで優秀な生徒になれば先生や仲間に認めてもらえる、その絆に執着したからではないか。
ノヴァクの洗脳の方法は古典的とも言えるものだ。
生徒たちが従来当たり前にしてきたこと(食べること)に、一見もっともそうに見える極論で罪悪感を植え付ける(環境破壊などの罪)。その上で、今までの「罪」は「周囲の人間にさせられたこと」と責任を転嫁し、食べないことで「周囲の嘘に騙されず、自らが選択した正しい行ないをしている」という気持ちにさせる。こうすることで食事を摂らせようとする親は彼らの敵になり、クラスの絆が強まり、選民意識的なものが芽生える。
カルト教祖のようなノヴァクの気持ちは理解しづらいが、彼女もまた寂しさを抱え、洗脳が作り出す絆に依存していたのかもしれない。
カルトに取り込まれる人たちを愚か者と見なすのは簡単だが、愚かだから取り込まれるのではなく、寂しさが生んだ心の隙に忍び込まれるのではないか。それは誰にでも生じ得る隙間で、そこに現れたカルトの言葉が自尊心を満たし、孤独を埋めてくれるとしたら……宗教に限らず、現代ではネット上の言説などにもカルト的な影響を及ぼすものがある。そう考えると、とても身近で現実的な恐怖だ。
意識が高いはずの彼らの親たちや校長だが、ベンの母親を除き最後までノヴァクの真の危険性に気づかなかったのはある意味滑稽で、皮肉たっぷりの描写。
ジェシカ・ハウスナー監督は、ベンの母親も真実がわかっているのにそれを押し出して行けないところが滑稽だという。ベンの母親はちゃんと校長に直訴したし、あの父母たちに強く出られない気持ちも個人的にはわかるので、そこはあまり共感できない感覚だが、監督にとっては「カルトもクソ、それを止められない周囲の大人も全員クソ」ということなのだろうか。
最後のシーンが絵画「最後の晩餐」に似ていることを問われても監督は「そうでした? 『最後の晩餐』って何人いるんでしたっけ?」という反応。作品も監督も、なかなかの曲者だ。
返信ありがとうございます。
>これダメだろと自分が思うものが物語の中で悪いものに位置付けられないまま終わる感じで消化不良
まさにソレです。
劇中で罰を受けたり明るみに出る必要はないですが、何もなくみんなと失踪はシコリが残る。
絶食してる子供たちはみんな肌が黄色くなってた(メイク?撮影処理?)ので、ノヴァクは食べてますよね。
それでいて自分の正しさを疑ってなさそうなのが恐ろしいです。
チョコバーを食べていたラグナへの解釈、なるほど納得です。
でもだったら、罪悪感なり軋轢なり見せてほしかった…
というのは理解力不足を棚上げした他責志向なのでしょうか。笑