「アンナ・デルヴェイの」アシスタント 蛇足軒瞬尖太さんの映画レビュー(感想・評価)
アンナ・デルヴェイの
見たかったのは、
「ozark」のルースの、
アンナ・デルヴェイの、
ソローキンの怒りや哀しみの、
芝居の別パターン、
と、
映画界の描かれ方。
プロミシング・ヤング・ウーマン的に、
抵抗の表現文脈には踏み込まない、
無形力のような、
【有形力の行使】の作品とは、
解釈できなかった。
積極的客観性、
静かな抵抗、
とも解釈できなかった、
と言えばいいか。
【非暴力不服従】
【沈黙の抗議】
から、
不服従と抗議を引くと、
残念ながら、
見て見ぬ振り、
が成立する。
(見て見ぬ振りの、
鬱積がmetooにつながっている、
という意識があるなら、
こんな描き方をする?
イメージを技術に昇華できないのは、
しかたないにしても、、、)
その根拠、
映画界の描かれ方の1例。
OPシーンで、
早朝に家の前に、
車が停まっている、
玄関から出てくる、
右後部座席のドアを開ける、
荷物を入れる、
ドアを閉める、
反対側のドアから乗り込む、
ドアを閉める、
出発。
ここで全体を推量できる。
冗長性の高さというのは、
良い意味でも、
悪い意味でも、
使用される。
意味のない無駄なシーン、
意味のある無駄なシーン、
意味は無いが味わいのあるシーン、
意味はあるが無味乾燥なシーン、
解釈のしかたはそれぞれ。
意味が無くはない無味乾燥のシーンの連続は、
作品のテーマと、
絵作りが乖離しているように感じる、
が、
姿なき遠くの会長よりも、
デスクを並べる人たちの配慮の無さや気持ちの見えなさは、
より際立った。
だがそれだけ。
【沈黙】が素晴らしいなら、
誰でもできる。
【沈黙の抗議】をみせて観客を唸らせる、
または、
社会に問う、
のが、
沈黙を続けてきた事こそが問題、
を扱う、
映画なのではないだろうか。
ルース、
ではなく、
ジェーン、
ジュリア・ガーナーの
たった1カットの笑顔は良かった。
更なる別パターンを見たい。