「ジョーカーというジョーク」ジョーカー フォリ・ア・ドゥ Hiroshiさんの映画レビュー(感想・評価)
ジョーカーというジョーク
今作を観て感じたのは、
人々が祭り上げて神格化した「ジョーカー」をただの人間が「演じる」という構造だ。
しかし前作と今作の違いを探していたら、この構造は前作から存在していた。
そこで前作と今作を一連の流れとして観たら、このシリーズで描いているのは、ジョーカーというキャラクターではなく、ジョーカーという「現象」なのだと思った。
人々の不満からジョーカーという虚像が産まれて、アーサーが実体として現れることで、ジョーカーが顕現する前作。
人々はジョーカーを求めるが、実体はアーサーでしかなく、ジョーカーが虚像であることが分かる今作。
前作はジョーカーの最初で、今作はジョーカーの最後。
一連の物語として時系列が違うだけ。テーマは一貫している。物語の目線もずっとアーサーの目線だ。大した違いは無い。
しかし全く違う映画に見えてしまうのは、視聴者である自分に問題があった。
映画を観ている自分も、ジョーカーの虚像を観に行っていたのだ。
「悪のカリスマ、ジョーカー」「ダークヒーローのジョーカー」「カッコいいジョーカー」
映画を観ていればアーサーには自分の求めるジョーカーの要素が無いことは分かっていたのに、彼がジョーカーであるというだけで、映画の中の民衆と一緒になって、勝手に彼に期待した。
そして当然その期待は裏切られる。
「ジョーカーは居ない。ただのアーサーだ」
「ジョーカーという現象」「ジョーカーという虚構」「ジョーカーというジョーク」
正直期待外れだったが、こちらが勝手に期待しただけであって、物語として素晴らしい出来だ。
ストーリーとして一切ブレる事なく、淡々と「ジョーカーという現象」を描いてある。
こちらが勝手に感情移入して勝手に期待して勝手に裏切られた。
翻弄されてしまった。
翻弄させてくれるエンターテイメントとしては、これほどの完成度の映画はなかなか無いだろう。