マッドマックス フュリオサ : 映画評論・批評
2024年5月28日更新
2024年5月31日より丸の内ピカデリーほかにてロードショー
勧善懲悪というだけでは割り切れない清濁併せ呑むような複雑さ
人気映画の前日譚を描いた作品は、“答え合わせ”と向き合わねばならない運命にある。例えば、「スター・ウォーズ エピソード1 ファントム・メナス」(1999)にはじまる三部作では、アナキン少年が如何にしてダース・ベイダーになってしまうのかというプロセスを描かなければならなかった。「スター・ウォーズ エピソード4 新たなる希望」(1977)に繋がる、“答え”に対する整合性こそが重要だとされていたからだ。「マッドマックス フュリオサ」(2024)は、「マッドマックス 怒りのデス・ロード」(2015)の前日譚にあたる。つまり、本作においても“答え合わせ”は重要なのである。シャーリーズ・セロンが演じたフュリオサは、髪の毛を短く刈り込み、左腕を欠損し、メカニックに強く、射撃の名手というキャラクターだった。それゆえ、どのようなプロセスによって彼女の外見やスキルが形成されたのかということに対する、“答え合わせ”を描かなければならない運命にあるのだ。
一方で、“答え合わせ“に重点を置き過ぎたため、物語の面白みに欠けるという前日譚の事例も散見されてきた。その点で「マッドマックス フュリオサ」は、「行って帰ってくるだけの展開」と称賛された「マッドマックス 怒りのデス・ロード」の単純な構成を踏襲しようと試みている。基本的に今作は、「フュリオサが『怒りのデス・ロード』のフュリオサになるまで」という物語でしかない。物語を簡素化しながら、アクションを繋いでゆくことで、物語を転がしてゆく。あくまでもアクション主体という映画にすることで、バスター・キートンが主演した作品群にも通じるような作品になっているのである。
そして、喜怒哀楽を顔に出さないキートンの<ストーン・フェイス>へ倣うかのように、アニャ・テイラー=ジョイ演じる若きフュリオサもまた<無表情>なのである。台詞が殆どないフュリオサの内面を瞳の動きだけで表現し、シャーリーズ・セロンが演じたフュリオサとシームレスなグラデーションを形成させた、アニャ・テイラー=ジョイの役作りには驚嘆するばかり。これまでジョージ・ミラーが監督してきた「マッドマックス」シリーズは勿論、「ロレンツォのオイル 命の詩」(1992)や「ベイブ 都会へ行く」(1998)や、「ハッピー フィート」(2006)などでも一貫して描いてきた「己の運命と戦う主人公」という姿を、フュリオサにも投影させているのだから尚更だ。
さらに、カメラそのものが動いてゆくというショットが、アクションの主体になっていることも重要な点。例えば、カメラを揺らすことでアクションの躍動感を表現するような手法は用いていないし、カットを細かく割ってリズムを生み出すような編集も用いていない。ズームを使わず、レンズ(カメラ本体)そのものが被写体に寄るというルールのもと、アクション場面のショットが構成されていることを窺わせる。ゆるやかな移動ショットと、被写体を画角の中心にとらえた構図は、これだけの激しいアクションを実践しながらも、映像が“見やすい”という理由なのだろう。
とはいえ、フュリオサ、ディメンタス将軍(クリス・ヘムズワース)、イモータン・ジョー(ラッキー・ヒューム)、ジャック(トム・バーク)の4人が主要な人物となる「マッドマックス フュリオサ」は、単純明快な映画であるというわけでもない。時にフュリオサは、憎きディメンタスに助けられ、恨めしいイモータン・ジョーに守られ、彼らを血の繋がらない父親のように感じさせる場面があるからだ。それでいて、男には頼らないフュリオサの<強さ>との均衡が抜群なのである。また、ジャックは“マックスもどき”のような外見をしているのだが、内面の強さを感じさせるトム・バークの役作りが素晴らしく、悪が蔓延った世界における“灰色の存在”の象徴のようで、かつ勇猛果敢なのである。勧善懲悪というだけでは割り切れない、清濁併せ呑むような複雑さは、<物語>なるものを超越したこの映画の魅力の源。79歳を迎えてもなおキャリアハイを更新するジョージ・ミラー監督は、やはり偉大だ。
(松崎健夫)