ミツバチと私のレビュー・感想・評価
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アイデンティティーをめぐる家族の不協和のゆくえ
身体的には男性として生まれたけれど、男性的な名前「アイトール」やバスク地方で“坊や”を意味する愛称「ココ」で呼ばれることに反発し、性自認に悩む主人公。オーディションで女の子約500人の中から選ばれたソフィア・オテロが感情の揺らぎと精神的な成長を繊細かつみずみずしく演じた。ベルリン国際映画祭が2021年から俳優賞を一本化して男優・女優の区別をなくしたが、性的区別をしないという映画祭の理念にも合致する本作で2023年に主演俳優賞を史上最年少で受賞している。 母親のアネはそんな末っ子が抱える性自認の問題にどう接していいのか悩むが、著名な彫刻家の父と同じ道を志す彼女自身も、芸術家としてのアイデンティティーを確立できずに苦闘している。 長編初監督・脚脚本を手がけたエスティバリス・ウレソラ・ソラグレンが映画の舞台に選んだのは、自身の出身地でもあるスペイン領バスク地方。フランス領にもまたがるバスクという土地もまた、独自の言語があるものの近年話者が減ってきているそうで、地域としてのアイデンティティーの問題を抱えるという点において映画のメインテーマに呼応している。 子と母の転機になるのは、自分の信仰を貫いた聖ルチアの伝説。内なる心の声を信じることで、家族の不協和が美しいハーモニーへと変わる展開が胸に響く。
言葉にならない思いを物語構造が繊細に奏でる
幼い主人公が違和感を抱えている。それはまだ本人が言葉で意思表示できるものではないが、この子は自分の小さな体で悩み、もがき続け、日常の至るところで信号を発している。大人達はそれに気づいているのかいないのか、まだきちんと正面から向き合えていない。フランスとスペインにまたがるバスク地方を舞台にした本作は、列車が国境を越える場面からして何かを隠喩しているかのよう。自分の名への抵抗、プールの会員証への嫌悪が示すように、何かをたやすく線引きするのは、ある特定の人にとって痛みを伴うものだ。もっと苦しいのは、自分の胸の内を誰も理解してくれないことかもしれない。水辺に放り込まれた聖ヨハネ像と、それを探し続ける人々がいる。本当の自分を探す主人公がいる。過去と現在、象徴と具象、さらに宗教的意味合いなども織り交ぜながら、細部が緩やかに重なっていく。そうやって見つめる、見つけるまでの洗礼的な過程が、繊細に胸を打つ。
子どもにとっての性自認
性自認に悩む子供の映画はこれまでも何作か観て来ましたが「子供にとっての性自認って何だろう」と本作で初めて考え始めました。(出生時の記録が)男だった子の「性的指向」?「女の子の服が来てみたい」という憧れ?「女の子と遊んでいる方が楽しい」という思い?「自分は男じゃない」という漠然とした気付き? それを口にする事はタブーなのだと何となく気付いていながら、その思いを正確に言葉に出来ない事はもどかしいだろうな。
8歳の子の自分を尊重する強さにしびれる。
私自身は、小さい頃から男の子に生まれたかった。 けれど、どんなに望んでも身体を作り替えることはできないので、早々に諦めた。 男の子になりたかったのは、友達付き合いや化粧、生理など、面倒なことが少ないから。 実利です。 アイトール(ルシア)は、男の子扱いされることに違和感を感じる。 その感覚を大事にして、髪型や服装、名前を選ぶ。 家族にも、それを表明する。 すごく、勇気がある行動だと思う。 母親は、ラスト近く、アイトールが死んだかもしれないと思った時に、彼のすべてを受け入れる。 母親にとって、子どもがどんな生き方を選んだって、生きていて欲しいのだ。 アイトールのこれからの人生を応援する気持ちでいっぱいになった。 犯罪行為でも、他人に迷惑をかけるわけでもないのに、自由に制限をかけるのはなぜだろう。 どんな服装も、髪型も、生き方も、社会のルールに反せず、他者の人権を侵害しないなら、それでいいんじゃないのかな。 100年前より格段に自由になっている今、100年後の世界は性別を意識しない世界になっているかもと想像した。
言葉で表せない涙があふれた
子供が主人公である。 その佇まいだけで、絵になるこの子を彼と呼ぶべきか、彼女と呼ぶべきか。 前から気になっていた映画ではあったけれど、観る機会を逸したまま、 残念だと思っていた。 ミニシアターでかかっていることを知り、大画面で、細かな音まで聞こえる場所で、 観たいと思い、迷わず予定を入れた。 ストーリーとしては単純なひと夏の出来事。 けれど子供だからこそ、言葉で表すことのできない葛藤を、 その繊細な優しさを、子供らしい無邪気さは残しつつも気遣う愛らしさを、 画面から受け取ることが出来るような映画だった。 映画館で映画を観る。 それは小説を読むように、ストーリーを追うだけのものでもなく それは小説を読むように、情景描写を味わうだけのものでもなく それは音楽を聴くように、その流れに身を任せるだけでもなく それは会話のように、画面越しに映画と向き合うことで 自分とも向き合うような体験だと思える映画だった。 映画を観る意味を一つ、私の中で増やしてくれた 感覚で捉えて好きだと思えた一作だった。
蜜蝋のキャンドルを買いました。部屋でほんのり香る明かりを見つめながら、このレビューをしています。
長い映画の終わりには アイトールがミツバチの巣箱をひとつひとつ、コツンコツンと叩いて回る。それは 「自分の新しい誕生をミツバチたちに告げる」という、ドキドキするシーンです。 アイトールがルシアであることを、ミツバチに打ち明けているのです。 お母さんとお兄ちゃんが森の中で「ルシアー!!!」と心の底から、ひと目など構わずに大声で叫んでくれたから、 ベッドの中のルシアは、ついに初めて形相がほどけて、柔らかい微笑みになっていたよなぁ・・ ・ ・ あの「巣箱へのノック」は、 実は「葬礼のための蜜蝋を採るためのサイン」でもあったのだから、僕はもうこの子はダメなのかなと 本当に、映画館のスクリーンの前で、うつむきながら、泣きそうになりながら、 固唾をのんでいたのです。 ルシアが死なないで 本当に良かった。 ・ ・ 自分のジェンダーを打ち明けられない苦しみに、ひとりの子供が死を選んだので、 監督はこんなことがあってはいけないのだと強く願って、この映画を作ったのだと。 東座の合木社長の上映前の、腹の底からの挨拶でした。 ・・・・・・・・・・・・・ 追記 長い長い追記です。 【性自認について】 「男を選ぶ」のか、 「女を選ぶ」のか。 これは無理をして誰かに合わせることはしないで、「ノンバイナリー」でいいのではないかー 僕は、もう、そう思っているのだ。 最近の通販のカスタマー登録は [ 男性・女性・その他・回答しない ] の4項目から選べるようになっている。 ついにいい時代がやってきたものだ。 性自認と、いわゆる「おネエ」とか「女装」の関係について、僕はずっと考えているのだけれど、それが、つまり、 「どこまでが本能由来の生来のものであり」、 「どこまでが後天的で、社会から教育された作為的なものであるのか」、 という問題だ。 教育の結果なら、教育のやり直しで誤謬は撤回され得る。 しかし教育の結果でないならば、性自認は何処から湧いて現れたものなのだろうか。 お人形ごっことか、ピンクのランドセルとか。 後天的でないなら、親や社会から引き離されて一切ほかの人間との接触がなかった場合、精巣や卵巣の存在が精神にどのように作用して来るのかが、とても知りたいのです。 昨夜、仕事場でずっとお喋りをした相手はアフリカのタンザニアから来た女の子。 彼女のヘアースタイルは「丸刈り」だったのですよ。 また僕と同じ職場には、日本人で、内股で走る男の子がいる。動作のすべてが「しなって」いる。ぴょんぴょん飛び跳ねながら手の甲を腰のあたりで羽のように広げている、小柄で色白の男子学生。 人それぞれだし、国によってそれぞれだ。 この世界を見渡してみれば、 男たちが主に赤い衣装を着ける部族や、男がスカートを履いて、しゃがんでオシッコをする民族はいくらでも存在する。 英国国王も、ショーン・コネリーも、タイの僧侶たちもスカートを履く。 暮らしの手帖の花森安治もスカートだった。 日本の浴衣だって、あれはスカートに近い風情だ。 また、男どもが留守番をして、子育てと料理は男たちが担い、女たちは野に出て狩猟をするグループなんてのも、実際に有るわけで。 いつの頃から 先進国やら、西側諸国やらでは「男らしさ」とか、「女らしさ」って色付けが、「言葉遣い」や「衣装」や「髪の長さ」で、性別を示す社会の記号になってしまったのか、 僕はそこに大変興味を抱いているのだ。 我が家では うちの“弟"が、小さいころ、「スカートを履いてみたい」と母に頼んだ。 うちには女の子がいなかったから、母はすぐにミシンを取り出して、“彼"のためにスカートを縫った。 紺地に黄色い星模様が散りばめられたミニスカートで、“弟"は嬉々として表に飛び出して行ったものだが。 うちの母の教えは 「人と違っていい」。 「人と違うほうが むしろいい」。 だった。 【フリードリヒ2世の実験】 赤ん坊に対する「後天的な刷り込み」、つまり「社会から加えられる教育」を完全に排除すると、人間は果たしてどのように育っていくのか・・ これを実験で探ろうとしたのが12世紀のヨーロッパの実証主義者、皇帝フリードリヒ2世だった。 人の心に生じる罪のさまを憂い、 原罪を負う前のエデンの園での最初の人類=アダムとイブが、誰からも教わらないのに、何語を喋っていたのかを、自らの手で確かめようとした賢帝だ。 つまり誰からも教えられずとも、最初の人類は「ヘブライ語」を発していたのかどうかを、フリードリヒ2世は2つにグループ分けした赤ん坊に対しての育児実験で、確かめようとしたわけだ。 ( 結果については、ここでは論旨がずれるので各自で検索されたし) 。 【ココ=男性名詞】と、 【ルシア=女性名詞】と。 映画の主人公が求めた「自分らしさ」にはモデルがいる。また、否定したかった自分の姿にも否定する形でのモデルがいる。 男の子扱いを拒んだアイトールの場合は、求めたモデルは女性で、聖ルシアがそれだ。 ココ(スペイン語で坊や)と呼ばれたアイトールが なぜ髪を伸ばして、シフォンのワンピースを着て、ルシアと呼ばれることを望んだのか? 「聖ルシア」が仮に、スペインではなくてタンザニア育ちの聖人ならば、アイトールは女の子らしくなるためには丸刈りに憧れるのだろうか・・ 女の子のようになりたいって、どういうことだろう。 「女の子風の格好」と、(アイトールのおじいちゃんが言うところの)自分で信じて信仰する「心の中の性自認」は一致しなければならないものなのだろうか。 女の子になりたいって何なの? 劇中、本人の苦悩や、家族の戸惑いをスクリーンに観ながら 僕の興味津々は、さらにつのった。 僕の母の教えは 「人と違っていい」。 「人と違うほうが むしろいい」。 だったけれど、はたと気付いたのだ 他人と似ていても、他人とおんなじでも構わないんだよなぁ。 違うかい? きみ。
大切な人を傷つけないために
映画の途中で、「クラスに女性器のある男子がいるよ」というセリフがサラッと出てくる。こういう言葉が、何の気負いもなく出てくるというのは、彼女をはじめとして、そのクラスやその学校では、そのクラスメイトの男子を当たり前のこととして認知しているということだ。 どの学校もそうであるべきなのは間違いないし、日本でも、きっとこうした対応が当たり前になっている学校もいくつもあることだろう。 ただし、もしそういう方向になっていないとしたら、どこに理由があって、何を変えていけばよいのか。そんなことを考えさせられた映画だった。 私自身も、4才の孫(男)がピンクの靴を好んで履いていたことがあって、「この子の性自認はどうなんだろう?」と、正直ドギマギした経験がある。 ドギマギする時点で、私自身の中に無自覚だった偏見が潜んでいた訳で、それに気づいたときは結構ショックを受けた。 映画に出てくる父や祖母が語る「甘やかし」という捉え方は論外だよなと断じている私自身だって、生身は偏見だらけなのだ。 偏見は、生活していると自然と形作られてしまう部分があるが、逆に人権感覚は、何もせずには絶対身にはつかない。大切な人を傷つけないために、知ること、気づくこと、考えることを通してずっと学び続けたいと思っている。 ところで話は全く変わるが、大学時代、私も、主人公の母親のように、蜜蝋を使った蝋型鋳造に取り組んでいたので、強烈に懐かしかった。 画面の向こうから、蜜蝋の溶ける匂いが漂ってくるような思いがして、きょうだいみんなで作品を作るあの工房のシーンは、自分にとってはめっちゃリアルで、いいシーンだった。
性自認に悩む少年と家族のリアルな物語
主人公ココの心理面の変遷や、ココのしぐさ、 ココの心理に寄り添えない親、理解者のおばさんなど すごくリアルに描いていると思いました。 ココの違和感を様々な場面で表現しているものの、 なぜ違和感があるのかココは悩むし、 周囲もおばさんしか気づけない、 あるいは真摯に向かい合わないところが実に苦しい。 母親は自分のこと中心だし、 父親も体裁を気にするから心ないことを言う。 ラストに向かう最後半はヤバいヤバいと思いながら、 ハラハラしながら観ていましたが、 少しだけ光明が見えるところが良かったですね。 でも、 もうちょっと両親がココに向かい合うことに決めた 心の変遷も丁寧に描くとより素晴らしい作品に 昇華できたんじゃないかと思いました。
自分は何者?と悩む小さなアイトールがとても愛おしい
第73回ベルリン国際映画祭で当時9歳にして史上最年少で最優秀主演俳優賞受賞の話題作。 ココ(アイトール)役のソフィア・オテロの表情・仕草がとても自然で自身のジェンダーに悩むココの存在感が際立っていた。まだまだ8歳の子どもが自分の気持ちを言葉で言い表せないもどかしさや身体の内に有るモヤモヤとした感情。そんなココに接する大人たちの戸惑いや否定や肯定。観ていて感じたことは、やっぱりヨーロッパは日本と違って人権が根付いていると言う事。日本なら「子供のくせに」「まだ子供なんだから」とか全く一人の人としては接してもらえないことも多いと思うし、私もそんな接し方になると思う。 映画の中では、大人だからと言って子供に対して一方的な物言いにはならず、一人の個人として接していることに目が行った。 大きな悩みを持った小さなココに寄り添いながら、周りの大人たちが変化していく・・ラストのベッドでの母アネの横で目頭に涙を浮かべたココが見せる表情。台詞も無いのにすべてが分かってしまうような素晴らしい演技。 ゆったりと時間が流れるスペイン・バスク地方の温かな、そして優しい物語で観た私も優しい気持ちになれた作品でした。
蜂ってな、2万種類おんねん
兄姉と共に母の実家へバカンスに訪れたアイトールの、一つの自立を描く物語。 アイトールは自分の体の性別に違和感をおぼえ、男として区分されることを拒むあまり学校で問題が続いているようだ。そうして日々沢山のサインを出してはいるのだが、母にはそれが上手く伝わらない。日頃「性別なんて関係ない」というジェンダーフリーの方針を主張する母は、アイトールが髪を伸ばしたりパステルやビビッドな色の服を着ることには寛容だが、寛容が過ぎるあまりアイトールが「女」「男」を口にしようとすると「そんなの関係ないでしょ」と言葉を封じ、発するサインも「子供のグズり」として処理してしまう。 主張や自認を否定されるのも辛いが、話を聞いてすらもらえないのはもっと辛いはずで、母の定型的な寛容さがかえってアイトールを傷つけているシーンが胸に痛い。またはっきりと自分の性自認を口にすると母を混乱させることを見抜いて、皆まで言えないアイトールの気遣いが哀しい。 家族の前では難しい顔をしているアイトールが、普段の自分を知らない地元の親戚や大叔母の前では緊張を緩めるのがいじらしい。 性自認の話題に限らず「寛容に振舞うこと」が、問題を明確にすることで波風が立つのを避け問題から目を背ける方便として使われている描写が端々にあり、人々が共存しようとする裏にある摩擦を抉り出していた。許容と無関心・無視の違いを親子三世代それぞれのエピソードを使って描くことで、本作の観点を性自認のドラマだけに留めないよう試みたのだと感じた。 摩擦を恐れない者、家族とであっても摩擦を拒む者、優しさ故に摩擦ですり減る者、三者のすれ違いは物語のものだけではないだろう。 近年の作品では性自認や指向の揺れを「私は私」という結論に持って行くことが多いが、本作はアイトールが「私は○○」と明確に自覚している。作中の人物たちが陥っている仮初の寛容さとの対比もあって鮮烈だった。
自己愛と家族
これは主人公のアイトールでありココでありルシアであり8歳でベルリン映画祭の最優秀主演俳優賞を受賞したソフィア・オテロくんを愛でるための映画です。とにかく可愛くて美しいのでこのまま大人になって欲しいです。父親みたいになりたくない?そりゃそうですよ僕らだって髭生えた君を見たくないもの(観客も自分勝手です)。内容的にはたまたまかもだけど「僕らの世界が交わるまで」と同じの自己と家族との距離感の話で、母親が意識高い系で自分のことで手一杯で子供にまで気持ちが回らない感じとか既視感がすごかった。テーマとか流れとか結論とかが曖昧だからどこに向かってストーリーが進んでいくのかわからないし正解も現時点ではないのでぼんやりした印象になってしまうのは否めないかな。個人的にはバスク州なのに誰もベレーかぶってなかったのが不満ではあります。ファーストデイとはいえ一本見るのに1,300円って映画は高い娯楽になっちゃったなあ。普通料金なんて絶対払えないもの。
エンドクレジットに注目
スペイン、ミツバチといえばビクトル・エリセの名作「ミツバチのささやき」をまず思い出す。あの映画でのミツバチは、フランコ体制下のスペインの圧殺と閉塞の象徴だったけどこの映画ではミツバチは家族と伝統的家族観を象徴している。 バスク地方は現在ではフランス、スペイン両国にまたがる。事情があってフランス側バスクからスペイン側バスクに移住してきたアナ一家。フランス側は比較的開明的なのに比べ、スペイン側は田舎で何かと固陋な部分が残る。アナ自身もいろいろ問題を抱えているところに末っ子の様子が何かおかしい。実はこの子は性自認の問題を抱えている。 映画の前半部分は、ココ(アイトール)自身が自分の気持ちを整理しきれない。それもあってかなりダラダラと話が続きます。 ココはまだ幼いので身体的には未熟。だから性自認に繋がる違和感は肉体的なものからではなくまずアイトールなりココなり男の子のような名前で呼ばれるところから始まります。それを本人が意識して、またルチアという名前が天啓のように降りてくることによって話は一気に動き始めるのです。 家族の結びつきが強く、伝統的な家族観も強いこの一家が、末っ子の望みを受け入れることができるのか。最終的には元々進歩的な母親はもちろん父親も「生きていてくれれば名前なんかどうでも良い」と言い出します。 注目すべきはエンドクレジット。この子の役名がルチアと表示されます。これはおそらく、家族がルチアを受け入れたことを示します。ルチア本人も家族もこれから様々な偏見や制度的不合理と戦っていかなければならないでしょう。でも家族とは受容と連帯そのものに本質があることをミツバチが教えてくれている、そんな話だと思います。
素晴らしかった
ドレスが着たいとか、 名前が嫌だとか、全部「わがまま」だと思ったり、 愛する人の為に忘れようと思って生きてきたけど、 それを覆してくれた映画。 色々な記憶が漏れ出して苦しい映画体験には なってしまったけれど、全ての人が観るべき映画。 (私の親が観ることは一生無いだろうけど。) おばあちゃんの存在に救われて。 「女の子のペニス」とか、 「死ななくていい。あなたはもう女の子。」とか、 数々の言葉に救われてしまった。
親の駄目さが許容できず。ただ主人公は素晴らしい。
かなり楽しみにしていて、初日に観に行きました。 主人公アイトール(ココ)を取り巻く世界が、もっと優しく描いているものかと思いましたが、親たちの無理解にただ苦しんでいるように見えました。 親子の信頼関係が構築されるところまで、しっかり描いてほしかったと思います。今回は辛口です。 イヤイヤ、家族寄り添ってないし!
ココと呼ばないで
昨今、物議を醸しているトランスジェンダー問題 個人的にはそういう性について悩んだことが皆無なので、例えば同性婚の国民投票YES or Noなら何も考えずに賛成票を投じるが、どこか人ごというのが本音 主人公の男の子(途中まで女の子だとばかり思ってた)の苦悩を淡々と描いており、中盤まで退屈だなぁくらい思って観てたが、最後は涙腺崩壊ですよ(´;ω;`) お兄ちゃんが良かったね〜(口火を切って○○○ー!と叫ぶところ) 地味ながら二回三回観ると色々発見のある映画ダネ ~オワリ!
リアル
一昨年のフランスのドキュメンタリー「リトル・ガール」と同様、幼い子供の性自認をめぐる物語。 こちらはフィクションだが、本人の戸惑いや家族・周囲の困惑などをリアリティたっぷりに描いている。 特に、一緒にいる時間が少ないために受け入れられない父親やどうしても理解できない祖母、喧嘩ばかりだったのに最初に受け入れる兄など実にリアル。本人の心の機微も丁寧に描写されている。 いっぽうで、母親の仕事(?)絡みの話は必要か?不要に長くしている要因だと思われる。 この内容で2時間を超えるのはなんといっても長すぎる…
ミツバチが導く先にあるもの
《ミツバチと私》 性自認に悩む8歳のココ。"本当の自分"は唯一人で名前なんていらない筈なのに揺らぐ自分を世界に繋ぎ止める為に"名前"にすがる矛盾。主役の子の演技は驚異だが実は本作で描かれるのは"周囲の戸惑いと受容"なのかと思う。森の中で母が我が子の名を叫ぶ時アルトールはルシアとなった。 罪の意識に苦しむアルトールに真っすぐ向き合い自然界の多様性を説くおば、ごく普通のことのように水着を交換するリコ。周囲が寄り添い共感する力を人魚姫の絵本のような絵空事ではない/してはならないなと。。 家族の反応がそれぞれ世間一般的な層に置き換えられる。厳格で不寛容な父。善き理解者でありミツバチの蜜蝋で道を照らすおば。頭で考えるより"愛"に溢れる母。先入観無く当然に受け入れる兄や友人。観るものが試されている様な緊張感は音楽が無いだけではない。
子どもの性自認と、その時の大人の対応の大切さ。
とにかく 主演のアイトール(ココ/ルシア)が ものすごーく素晴らしかった! 8歳の子どもの性自認を描くのって、 とても難しいと思うのに 演技も演出もお話しも 繊細で丁寧で じんわりと染みる作品でした。 養蜂場のおばさんに出会えたことは アイトールの人生でとても重要ですね。 と考えると、人との出会いって、一期一会だけども、 ひとつひとつ大切だということを深く感じました。
カーネルサンダース像
一緒にモヤモヤ体感した気分になった 家族も何だかスッキリしない人達、叔母さんは理解ある人だけど 最近こういうテーマの映画多くて慣れたけど、実際に家族に性自認で悩むメンバーが居るとこんなに葛藤するものだろうか 悲劇的な結末に向かうのか?とヒヤヒヤ テーマ違うけど作風といい、主人公の顔立ちといいミツバチのささやき風だなと思った
親(大人)は分かろうとしない、分かりたくない
親(大人)目線で子供を見ると、人格形成途上の幼子たちの性差が判然とせず、危うげでポキっと折れそうな繊細な心は、「きっともう少しすれば自分というものを分かるだろう」とか「この子は少しだけ人より優しいから」などとざわつく自らの気持ちの波を押さえつけてしまうのでしょうね。 もっと早くに寄り添えて、認めてあげたなら。 立場は違えど養蜂家のおばさんがルシアの母に放った「見ないふりをすることはお前の母親 と一緒だよ!」が心に染みました。 救いはおばさん、そしてお兄ちゃん、初めての友達ニコ! 受け入れる、それこそがバリアフリーなんだろうなあ。 ラスト、多分母親がルシアと呼んでくれて自分というアイデンティティを見つけられたアイトール&ココ&ルシアの笑顔がものすごくキュートでした。 素敵な作品でした。
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