ウーマン・トーキング 私たちの選択のレビュー・感想・評価
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未来を見据えるために必須な知性と知恵がそそぎ込まれている。
二度目に観直して、いったいどれほどの知性と考察が込められているのかと気が遠くなった。女性たちのディスカッションが、幾重にもレイヤーが重なって、われわれが考えなければいけない諸問題をあらわにしていく。それでいて、ちゃんと壮大な世界観を持った物語であり、そこには確実に生活があり、時間が流れていく。女たちが、人生の切羽詰まった話し合いをしながらも、ユーモアを寄り添う気持ちを救いにし、根を詰めすぎる前にちょっと気を抜く知恵を持ち、それでいて、断固とした決意で結論を見出そうとする。劇中で起きていることは実話をもとにした忌々しい悲劇だが、より普遍的な、混迷する現実世界の先を見出そうとする強い意志をストレートに描いた監督の決意に打たれた。てか、サラ・ポーリーはこれまでの監督作を並べてみても、映画作家としてとてつもないポテンシャルを持っているな。
何もしないのは論外
作品の舞台は2010年ではありましたが、女たちはまるで近代に生きているようにみえました。彼女たちは、教育を受ける権利や自主性が奪われており、字を書くこともできません。男たちによる性虐待は《悪魔の仕業》《作り話》に置き換わり“無かったこと”とされていました。
例え字を書くことができなくても難しいことが分からなくても、女たちは話し合いを続け自分たちの未来を2日で決めます。話し合い“トーキング”は、暴力の対局にあり、だからこそ話し合いに確かな希望を持たせたストーリーになっていました。
私がとても心に残ったのが、“何もしないのは論外”“赦しは時として許可と混同される”というセリフです。“私たちは決して受け身では生きられない”ということ、“赦しは強者に都合の良い言葉でもある”ということを気づかせてくれました。
女たちが出した最終結論は男たちから去ることでしたが、男たちの顔は最後まで見えません。それは、サラ・ポーリー監督が個としての男ではなく、暴力的な男性社会の概念を表していたからだと思います。
そして、女性が身体の痛みや苦しみを訴えても罰や病気に都合良く置き換えられて、女性が自分自身を責める仕組みになっているということも強く体感することができました。
フロイトによると、女性のヒステリーの原因は、“幼少期の性的虐待”とのことですが、この研究はフロイト自身がウィーン上流階級のタブーに触れるのを怖れたとしてこれを公にはしませんでした。女たちの声は研究者にも無視されていたのですね。
劇中の女たちは話し合いで出した結論を行動に移しましたが、長い歴史の中で男性社会から女たちが“去った”ことはありません。しかし、これからは女性が行動を起こす時期なのではないかと、そんな問いを作品から投げかけられた気がしました。
14歳の男ですら驚異になる。
100年くらい昔の村が舞台の映画かと思ってた・・・。
国勢調査の車が「2000年の国勢調査のため・・・」と放送を流しているシーンで、現代の話なのか!?と驚いてしまった。これだけ男尊女卑えぐい村は100年以上前の話かと思ってたよ・・・現実のキリスト教コミュニティでの連続レイプ事件が元になっているらしいが、調べたら事件を隠蔽してた男達の証言といい、本当に胸くそ過ぎる事件だ。
映画でもレイプした男に罰を与えたりコミュニティから追い出すのではなく、保釈金を支払いに行くのだから男達がクソでしかない。
キリスト教の教えは素晴らしくても、キリスト教組織ってことごとく男尊女卑で組織のトップは男ばかり、現代でも少年や尼さんへのレイプを隠蔽するなどろくでもない。保釈金を支払いに行くのだから男達がクソでしかない。
何もしないは論外として、出て行くにしても何故レイプ事件を起こす男たちや事件を知ってて見て見ぬふりしてた男たちが出て行かずに、女が出て行かないと行けないのか。
食卓にある塩を取って、とも、出産時に背をさすってとすら頼んだことすらない男達に出てってと頼むことが悲しすぎて笑ってしまうほど現実的ではないにしても。
そしてそんな父親、夫、兄弟、息子、加害行為を「赦し」を誤用して「許可」してきた女達も罪深い。そんな男児ママに育てられた男児がろくな男にならないどころかまた加害する側になる世代を超えた負の連鎖も描かれている。
事実、サロメの息子なんて母や妹が父親にボコボコに殴られている野を観ているだろうに、出て行く琴を決めた母と妹について行こうとしないのはどうかしている。それを麻酔薬で眠らせて無理に連れて行ったところでまともな男に育てるにはもう手遅れじゃないのか。他の女の子に加害する危険のが大きい気がする。
男達からの(性)加害にうんざりして「女だけの街」がツイッター(X)で話題になるたび、サロメたちのように自分の息子を無条件で連れて行けると思ってる男児ママにうんざりするのはここだ。本気で教育して加害しない男に育てようという気概が足りない。母親からしたらどんなに可愛い息子でもよその女児女性からしたらただの男だ。オーガストが言うように男は14歳だって驚異になるのだ。もっと言えば5歳児でさえ園の女児に性暴力を起こす事件が起きている。ムクウェゲ医師のドキュメンタリーで語られているように、女性は赤子から90歳をすぎても性暴力の被害者になる。
出て行く一生分の荷物をまとめるのにすぐ終わってしまう悲しさ。このコミュニティで女がそれだけ持てる財産がないことの証左である。
残された村でオーガストが教育係になったところで、女に加害するのをよしとしてきた男に囲まれたコミュニティでまともな男が育つとは思えない。残ったわずかな女性が犠性になるか、新たに犠牲にするための女を呼び込むだけだろう。ミサイルでも落とした方が良いんじゃないだろうか。
タイトルなし(ネタバレ)
解説を読まずに鑑賞したので、途中国勢調査のシーンでかなり驚いた サラ・ポーリー監督・脚本の映画。
カナダ生まれのサラは23才の頃の『死ぬまでにしたい10のこと』で知ったが、監督や脚本の才能まであってこれからが楽しみ。
メノナイト(Mennonite、メノー派):ヨーロッパ由来のキリスト教プロテスタントの分派アナバプティスト派の宗派で、電気を使わず古い伝統様式を重んじた封建的な社会(コロニー)の中で、現代的な生活から隔絶された生活を送る人々たちの事。
タイトルなし(ネタバレ)
会話と少しの回想でこんなに酷い世界があるのか…と唖然とする。
宗教が男たちにとって便利なモノになっている村から去る決意をするまでの、抑圧された女達の二日間の話し合い。
おばあちゃんの馬の話で、溝がある道は手前を見るんじゃなくて遠くをみることで怖くない、って話は全てに通ずる話だなー。
それぞれの信仰心や考え方、生きることへのリアリティ、ラストの決意と行動を起こした彼女たちが幸せになってますように…。
そんで村の男性たちが、女性を誘拐して同じことを繰り返したりしませんように。
主人公は、キャロルのかわい子ちゃん。
相変わらずかわいい
ほとんど会話しているだけで終わったので驚いたけど
色を抑えた映像のなか、暗がりの部屋でぼんやりと浮かぶ女性たちの不安げな顔。途中、国勢調査の車が走ってくるところで、現代が舞台だったのを思い出した。
宗教のコミュニティで生活するなか、自分で選択して選んだのではなく、生まれながらにしてここで生きることを選択せざるを得なかった人たちがいる。自分と同じ目に合わないよう、娘を守ろうとする母親の姿がいたたまれない。
しかし、結婚と、公然と行われる性的暴行と、どう両立しているのかが不思議だった。
江戸時代まで、日本では性に慣用で、誰の子供かよくわからなくても、コミュニティ全体で子供を育てるという意識だったようなことを聴くが、少なくとも暴行が横行していた訳ではないだろう。動物用の麻酔で眠らせて行為を行うというのは、どういう感覚なのだろうか。
美しい映像は直接的な暴力や悲劇は映さないが、この悲惨な状況でも、何度言葉を重ねても、ここに残ろうとしてしまう人の姿が悲しい。彼女たちの、他では生きていけない、という絶望感が伝わってくるからこそ、ラストの大勢での旅立ちのシーンには大きな希望が感じられた。
考えたこと
彼女たちの会議を聞きながら自分でも考える映画。
架空の話で昔の価値観だと安心して見て映画の評価するのは違うと思った。
今も、ここまで極端ではなくても力の差を感じることを理解できるから。
(実際は2010年あたりでそもそも古くない)
女性はこの問題は怖いし、今でも無力感を味わってる。
男性は自分が加害者ではなかったら他人事でいたいと思う話題ではないか。
社会のルールが生み出したことだから、彼らもある意味で被害者、というのはわかる。
でも、傷つけたことの罰を受けた後で、教育などのフォローが必要で、罰なしは納得いかないと思う。
全員を敵に想う必要はない。悪いことだと皆んなが認識して、悪人だけを非難する。
なぜかこれが徹底されないのが問題だけど。
徹底されないから、社会が信頼されないと思う。
みんなが減らしたい犯罪だと意識するにはどうしたらいいのか。
当事者ではないと高みの見物で、冷静に話せる。でも、他人事でわかってないだけかも。私は他人だけど、被害者にはとことん寄り添いたいと思った。
属性や立場が違くても理解できると思ってる。
教育が大切な描写がある。
セリフで「支配教育の優秀な生徒だった」とある。皮肉で女性も優秀な生徒だったと言ってた。我慢して許すのが当然だと思ってる女性もいた。
自分一人だと我慢してたことも話して共有することで違う考えになる。
キリスト教の考えで天国とか、今の生活の居住区とかが足枷になってるように見えるが、そもそも発言権がない女性たち。
宗教は足枷のようで、心の支え。
邪魔なようで必要なものなのが悲しく思う、のは傲慢か。
信仰があるから道を踏み外さない選択をする女性たち。
日本は宗教や生活のせいで告発しないわけではないと思う。
告発するのにはそもそも勇気が必要で、その後の労力もかかる。見合わない罰のために費やす時間を思うとやる気が出ないのではないか。報われるイメージの方が湧かない。
的外れの意見かもしれないし、私の狭い世界の考えを言っても仕方ないけど、映画は見て考えるものだと思うから、問題に向き合いたい。
今何ができるかわからないので、ただ味方だといいたい。
最後彼も連れて行って欲しかった。連れていく子供たちの先生として。
残る役目もわかるけど、一人では荷が重すぎる。
彼の不安と彼女たちの別れを思うと悲しかった。
女たちが、話し合って、結論を導き出した2010年のあの日。
実話を基にした小説の映画化作品です。
ミリアム・トウズが2018年に発表した小説
『Women Talking』を原作として、サラ・ポーリー監督が
ルーニー・マーラーなどを出演者として映画化しました。
ボリビアの遠隔地で孤立したメノナイト
(電気や機械を出来るだけ使わずに生活するコミューン)
で2000年代に起きた実話は、就寝中に家に侵入して、
馬に使用する麻酔スプレーを女たちに掛けて暴行する行為が、
300人もの女性被害者に約4年間に渡って行われた。
本人たちが意識がなかったこともあり、
「悪魔の仕業だ」
「女の妄想だ」と
発言を抑え込まれていた。
事件は明るみ出て、女性たちは怒り、代表者たちが、
今後取るべき行動を3つに分けてディスカッションする。
そんな舞台劇のような映画です。
選択肢の①
何もしない(男たちを赦して今まで通りに暮らす)
選択肢②
ここで闘う。
選択肢③
ここを出ていく。
①はすぐに除外されて②と③を話し合います。
それぞれの利点と欠点を挙げて。
メノナイトの女性は読み書きも教えられず、教育を否定されていた。
緊迫したディスカッションは続く。
そんな時「Day dreamBiliever」が聞こえて来て、ホッと息を吐く。
地図も知らない女性たちは大学教育を受けて議事録の記録係に任命された
オーガスト(ベン・ウィショー)から南十字星をみて
南を知る方法を学びます。
メノナイトを出て自由を求める・・・
新天地には、どんな希望が?喜びが?不安が?
この映画が投げかけている主張とは?
女性がこのような性的搾取をされる非人道的な行為は決して
あってはならない。
いっとき問題になったアフリカのイスラム国で若い女性の誘拐が
多数、頻発して性奴隷として売られた事件。
人身売買は今でも公然と行われている。
それらを、
ヨーロッパ並びに文明国家では《あり得ない》と決めつけるのは
早計だとも思います。
日本でも手術中に麻酔をかけて性的暴行を行った医師の例があります。
男が女性に酒を多量に無理強いして意識を無くした状態で行われるレイプ。
それだって日本でも未だに多い。
女性の地位の向上。
男性より非力な女性が立ち向かえない暴力に
どう対処するか?
問題の根っこは深い。
そして根絶もまた容易ではない。
女性の発言権や権利を考える上で貴重な映画だと思います。
作者のミリアム・トウズさんはカナダ在住の女性で、
18歳までメノナイトの集落に暮らしていて18歳で
脱出したそうです。
調べると実際にはボリビアの被害女性たちは村を出ていないし、
状況(原始的生活や教育を受けていない)
は、何も変わっていないそうです。
子供たち(特に男の子)は、女性を労わり権利を侵さない教育を
根気よく続けるべきだし、
女性の権利が守られて、自活できて、発言できる
より良い世界のための提言をこの映画は果たしたと思います。
12人の怒れる女達
・宗教に民主的多数決はありえない。それが大前提だと思う。
・選択した結果が間違い。
『主の御霊に』で『タイタニック』の様に『逃げる選択』はありえない。現在の科学では、生物学的に、男を否定して女だけでは人間社会は維持出来ない。
・サロメが『銃』を受け取り、自分の『中二病の息子』を拉致まがいに連れ出そうとするが、DNAを考えた場合、暴力のDNAは途絶える事は無い。そもそも、サロメのDNAにも暴力的な物が混じっている。
・人種や階級等の外世界の存在を無視している
・女性だからと言う既得権は無い。
・逃げるは女性の権利を放棄した事になる
では、どうしたら良いか?
・行政に訴え続ける
・社会からあらゆる武器を無くす運動を起こす
・年齢、男女の区別なくDNAの力を克服する様な完全な教育を施す。
・規約等をしっかり作って、
新しい宗教団体として法人化登録する。つまり、バ賢明にならない男を追い出す。
・男に対する司法を変える。共同体外の社会も変える
兎に角、女性どうしは仲良くやるべきだ。神の存在を理由に、天国へ行く事を最終目的にすべきではない。
それは兎も角、この映画の様に直ちに逃げる必要があるのは、ロシアとウクライナの戦いに挟まれた人々だと思う。勿論、ウクライナ人だけではなく、ユダヤ人もロマ人もルーマニア人も、そして何よりもロシア人もである。ロシアにも終末を迎えた少女は沢山いるわけだから。
『デイドリームリヴァー』って
『モンキーズ』って
知っている世代としてはなんか軽すぎる。
鑑賞動機:あらすじ3割、脚色賞6割。まさか「男たちの知らない女」?1割。
南十字星があれだけの高さになるなら、そりゃあ南半球っすね。
「これまでの男はもういらない」といったところか。最初はアーミッシュのような特殊なコミュニティかと思ったが。
男性(除くベン・ウィショー)の描写は本題ではない造りなので、このコミュニティの全体像が見えにくくはあるのだけれど、妻や娘を所有物のように考えている男なら、「俺のものに手を出しやがって」的な思考にならないのかな。
あとできればマクドーマンドのような保守派(考えることをやめた派?)も、話し合いに参加し続けて欲しかったかな。
【”女性の尊厳と未来への勇気。”男性支配の宗教コミュニティーで、長年虐げられ、尊厳を奪われて来た女性達が話し合い、ある選択をする過程を描いた群像劇。今作は現代社会に鋭い警句を投げかける作品でもある。】
■舞台は2010年(と、途中に分かり驚く。)時給自足を営むキリスト教一派の村。
この村では、若い女性が一派の男性にレイプされる事件が続くも、”悪魔の仕業”と言って秘せられていた。
だが、或る少女が犯人に気付き、警察は男を逮捕。他の男達は保釈金を払うために一時的に村を出る。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・南米のコミュニティーで起きた実話がベースと知り、驚く。
・宗教コミュニティーの男性達に虐げられて来た女性達が、文盲である事にも更に驚く。
ー 何処まで、虐げられていたんだ!-
■だが、女性達は男達が居ない間に、納屋に集まり三つの選択肢を掲げる。
1.男達を赦し、何もしない
2.コミュニティーに留まり戦う
3.コミュニティーを去る
結果、2.3が同数となり代表8人の女達が、納屋内で”自分達の未来をどうするか”を延々と議論するのである。
2.はセクハラ告訴に踏み切る勇気ある女性達の姿を想起させ、
3.はDVから逃れるために子供と家を出る母親を想起させるのである。
序でに言えば、彼女達は文字が読めなくとも聡明であり、勇気があり、仲間への思いやりがある事が会話劇の中で分かって来るのである。
・女性達の会議に唯一、記録係として招かれた教師をしている男オーガスト(ベン・ウィショー)がレイプ被害に合った妊婦オナ(ルーニー・マーラ)に地図の観方、方角の見分け方を伝授するシーンは、このシリアスな物語の中での一服の清涼剤である。
<最後までコミュニティーに留まり戦う事を主張していたサロメ(クレア・フォイ)も最後はコミュニティを去る事に同意するが、ハッキリ言ってここら辺の描き方がとても粗く、観ている側はついて行くのに必死である。登場人物も多いしね。
だがラスト、早朝にコミュニティを出ていく多くの女性達と小さな子供の姿は彼女達の新たなる未来を予感させる。
又、この作品が伝えようとしたメッセージは現代社会にも大きな意味を持つ。
故に、私は今作を3.5としたのである。>
<2023年7月22日 刈谷日劇にて鑑賞>
違和感だらけ
違和感だらけの映画。
教育を否定され、読み書きもできなければ考えることすら禁じられてきた彼女たちが、あれほどロジカルで巧みな会議の運営ができるのだろうか。
「書記」として参加したオーガストは2010年の外の世界を知っている大学卒の男なのに、どうして逃げ込める保護施設などの情報を与えないのか。大雑把な地図だけ与えて「ここがこのムラ」とか丸つけたりするだけ。
女たちも「出ていく」と決めたなら、まず安全な行き先を確認しないか、小さい子供も妊婦もいる、世間から隔絶された社会しか知らない自分たち、という自覚もあるでしょうに。
オーナは道端で出産したようだ。なのに、赤ん坊を抱いた母の声には一抹の不安もない。
ずっと放浪の旅? 捕まって連れ戻される心配もあるのでは?
監督によれば「寓話」として作った、ということなんだが、どんなことへの教訓なのか? 弱い立場のものを好きなように虐げていると逃げられてしまう、という男たちへのそれか?
弱いものでもヒトとしての誇りを持って団結すれば大事を成し遂げることが可能だ、ということなら、成し遂げた成果まで含んでいないと寓話として成立しないと思う。(この映画ではまだ道なかばで脱出劇の結末/成果が見えない)
大人数で行う大事を決めるなら、ぎりぎりまで外部に秘密にして綿密な計画が必要、でないと失敗する(あてどなく放浪する様なことになる)とか?
実話をもとにした原作は寓話ではなさそうですが、サラ・ポーリーの映画としては細部にはこだわらない、おとぎ話で良い、「寓話」だからそういうもの、ということなのでしょうか?
この映画を世にはなった意義はなんだろうか、と思ってしまった。
性暴力に耐えるのをやめて宗教コミュニティから出ていく決意をした女性たちという、現実的なテーマなので、どれほどの知恵と勇気と工夫をこらして脱出に成功したか、というリアルなところを描くほうがしっくりくるのでは。テーマが生々しすぎて寓話にそぐわない気がする。
ただし、女たちの発言にはいちいち頷いて感心させられました。
「赦しを許可と勘違いするものがいる」まさにそうです。
2010年 無知との遭遇
殆ど予習なしで鑑賞
会話劇で、実際に起きた事件だという事ぐらいしか知らなかった
パワー・オブ・ザ・ドッグみたいな重厚で暗い映像
序盤で120年ぐらい前の設定かな…? と思って観てたら、2010年設定なのでビックリ
ここでジワジワ違和感が…
2010年なら、キチンと入れ歯を作りましょう
子供は小児科に連れて行きましょう
家族の身の心配をするのなら…涙
でも、それすら知らないのか…?
大勢がレイプされたのに、行政は動かず…?
パトカーも来なければ、現場検証もしない…
警察も村の中にあるのか?
2010年度の国勢調査…明らかに大勢の村人がいるのに、やはり行政は動かず…?
マスコミが騒ぎそうだが…
10代の娘2人が車を見て、車そのものに興味を持たないのは、外の世界や文明の知識が少なからずあるから?
好奇心旺盛な10代の思考回路を、宗教だけで抑え込めるのか?
実際にはレイプが長年横行してたけど…
序盤、喧嘩腰の女性2人が同一人物だと思ってた…
カメラワークで気付く
この時点で やや混乱…
お婆さんも読み書き出来ず…
村はいつから出来てたの?
読み書き出来ないのに、聖書は丸暗記…
聖書って文字や言葉を覚えるのに凄く便利だと聞いた事が…
そして難しい言葉を多用
神父や検察官並み
どうやって言葉と意味を覚えたの…?
「対峙」みたいな濃厚な会話劇を期待してたけど…
時間は過ぎるが会話は進まず
堂々巡りの痴話喧嘩
だんだん訳が解らなくなっていく…涙
声が変わった? ルーニー・マーラ
こんな低い声だっけ…?
覚えてないけど
美人なのか判らないけど、出演してたら必ず観たい女優さん
ベン・ウィショーが泣き過ぎ
ここは泣くシーンなのか?と困惑
Q役から老けたなぁ…
ジェシー・バックリーはどっかで見た顔だなぁと思ってたら、MENのヒロインだった
少しふっくらしてお母さん顔に
会話劇では、シーラ・マッカーシーが1番良かった
入れ歯のシーンで涙
1番、役に説得力があった気がする
チラリズムだが、かなり凄惨なレイプ後のシーン
劇中でいきなりBGMが鳴り始めると、自然と怖くなった
終盤のサクランボの種で、老若男女、幼児、実子問わず…ゾッとした
マクドーマンドの出番が少なかったのが1番残念だった
会話劇に参加してたら号泣してたかも…
マクドーマンドの顔の傷
精神疾患の娘?
孫娘?の片目…麻酔薬で失明、精神疾患の後遺症?
1番悲痛な家族に見えた…
序盤の違和感が徐々に、重いモヤモヤになっていった
2010年設定じゃなければ、もっと素直に楽しめたかも…
どの家族も、誰1人、そっくりな顔の親子がいなかった…
キャスティングの都合もあるのかもしれないが、違う意図も垣間見える
登場人物の家族構成等、予習してから観れば良かったかも
会話劇だと事前に知ってたので、あえて予習しなかった事に後悔…
モヤモヤが拭い切れなかったが、ラストは良かった
逃げるのは恥ではないけれど、大人数で動くのは大変だ
三つの選択肢で投票して、残って闘うのと出て行くが同数になっても、対面の話し合いになると、闘うという意見を主張できるのは一人だけで、赦すのか、許すのかという宗教と尊厳をめぐる話になっていく。モンキーズの懐かしい歌が流れて、2010年の国勢調査だというアナウンスに、そんな時代で、男性たちが出払っていて、女性たちが屋内に籠もっているときに、顔を出した者だけでそんな調査をして良いのかとも思ってしまった。そのうちに、男性の一部が村に戻り、闘うことを主張していたと思われる女性が、目の周りを腫らしてみんなの前に姿を現した。どうやら、闘っても勝つ見込みはなさそうである。現代の日本や欧米先進国における男性の DV でも、これくらいのことは予想され、逃げるのが賢明だろうが、村じゅうの女性たちが男の子も連れて一斉に出て行くのはなかなか困難であり、一部察知されたりしながらも、概ね荷物の取り纏めは手早くできたらしい。逃げるならば、少人数の方が効率的であろうけれども、分散して逃げるのでは、残った者たちが酷い目に遭うことは、当然予想される。大人数で行動する意義としては、男性たちの反省を促す効果も期待したいところである。残った男性教師が子どもたちの教育を託され、三つの権利を確認できたところは良かった。
考えること、信念を貫くこと
残忍な話でありながら、前向きな展開で進んだことが救いでした。
女性たちの議論は、痛々しい言葉とともにではありながら、建設的に答えを導き出していき、時々痛快さすら感じさせてくれました(ちょっと「十二人ね怒れる男」みたいにも)。
それでも、被害者である女性が「その地を出て行く」ことを選択せざるを得ない状況が苦しかったです。
後半の南十字星に向けられた拳が、決起のしるしと重なり、新天地での自由と安全を確信させてくれるような演出でした。
そしてこの日はきっと、残された男性たちの新たな出発点にもなったはずで、その辺りも少しだけ気になりました。
悔い改めないものを赦すのは…
私にとってですが、観る前から満点決定な題材なので、期待しまくっていましたが、期待通りというか、期待以上に精緻というか。
2010年ら辺に、メノイストという宗派のキリスト教のムラで、家畜用鎮静剤で眠らされた女が、ムラの男たちにレイプされる風習があって、その出来事が長年夢か幻かのように扱われてきたけど、目撃者が出たため逮捕者がでた。その逮捕者をムラの男たちが保釈させるために、外出している2日の間に、女たちが自分らの処遇を話し合う、という話。
作中では集団をコロニーと、呼んでいたけど、私は日本のムラ社会の支配構造に類似性を感じたので、ムラと変換してみていたけど、多分それはだいぶ違う。
ムラ=宗教=思考停止というのが、私の固定観念で、それを根拠に地元(ふるさと)を嫌っているのだけど、作中で語り合った女たちは、思考停止してなかった。
フランシスマクドーナントは思考停止した系の人として描かれていたし(顔の傷って男たちにやられたものよね?)、ジェシーバックリーも暴力によって思考停止していたけど、そうではない人がいて、その言葉に考えを変えた。というか、考えることを手に入れたというか。そこにいた人は、私がイメージするムラの住人(だけ)ではなかった。
読み書きできなくても、制限された生活の中でも、思考も批判もできる。
知性とは、知識と必ず重なるわけではない。
された事の傷を抱えながら、とった行動で娘や姪や孫を(間接的に)傷つけたことを自ら省みた。
被害者に選択肢などなかった。
あなたたちには選択肢はなかった。
赦しが信仰の根幹なのだとして、赦してきたが、男たちには赦しではなく、許可として作用した。
悔い改めない者は赦されない。悔い改めないものを赦すことは、不可能である。
彼らが変化した時、赦すかどうか決めよう。
今は赦さない。留まることで、怒りが抑えられず男を殺してしまうのも、信仰に反する。暴力を使わない、使いたくない。だからみんなで去る。
彼女らが積み上げた議論に、感動した。こんなに傷ついたなかで、信仰を失わず、暴力で従わせた男のやり方を真似ず、娘や息子を、傷ついた自分を守るため、みんなで去る。それしかないと思った。このような議論が我々には必要なんだと思った。
残した男の子たちは、オーガストが頑張って教育する。だからオーガストは留まる。
微妙な年の男の子をもつ母親の一人は、息子の目に劇薬を振りかけて無理やり連れ出したみたいだった。オーガストは彼女に銃を渡した。
これは、問題はこれからも残るという暗示だと思う。
綻びはあるだろう。またさらに誰かが傷つくだろう。
でも、わたしが目指さなければならない世界の方向性、可能性が見えた。また、信仰は思考停止ではない場合がある、と思えた。
この映画で特にルーニーマーラーが、すごいって思った。みんな熱演だけど、ルーニーってこんなに、印象的だったっけ?って思った。えくぼも印象的だし、彼女はなんでこんなに理知的にみえるんだろうって思った。
国勢調査の運転手、ブラピっぽかった。サイドミラー越しだったけど。デイドリームビリーバーが現代の出来事だと知らしめる印象的なシーンだったね。
あと、トランスジェンダーの男の子がいて、彼も暴行の被害者なんだけど、女の名前で呼ばれるからか、大人とは話さなくなった。でも、ラストで年上女性からメルヴィンってゆう男の名前で呼ばれて、やっとその名前で呼んでくれたねって返事するところも、よかった。
サラポーリーありがとう。
南十字星
北アメリカではその星座はみえない 唯一みえるのはハワイだけ ということはここはあの実際の国、ボリビアなのではないだろうか 天文航法に簡易として劇中に行なっていた、あの腕を上に上げての拳のつきたては勇気を鼓舞するポーズそのものであることも又メタファーとして興味深い そして何より、ボリビアはチェ・ゲバラが最後に参加した革命戦争の場所でもある 偶然とは言え、思想や宗教の中で、何より民主主義を体現した今作の意義はとても強大である
素朴で牧歌的な生活を営む宗教コミューンであるメノナイト内で起きた醜悪な事件で、女性達が選択した行動は?という筋書きだが、中身はとても意義深い深慮に富んだテーマであった 会話劇でもあり、演劇でも充分表現は可能であるが、しかし映画作品としての画の強さはこの作品を雄弁に語る手立てとしてこれ以上ないものであろう
有るネタバレサイトでは、『迷わずに去れ!』なんていう、全く以て劇中での寄り添いのようなものが感じられない乱暴なテキストが掲載されていたが、彼女たちの身上を推し量る、又は置かれた環境を考えれば、それは集団自決に等しい選択なのが全く理解できていない○○警察みたいな短絡的思考なのであろう そしてそれが劇中の事件を引き起こす種だと気付かないのかと暗澹たる思いである その暗澹を打ち消すように突如現われるモンキーズの♪デイドリームビリーバー♪ あの古風な出で立ちや暮らしからタイムスリップしてきたかのような国税調査の車と大音量の彼の曲は、将来の期待や絶望の前触れ、そんな陰と陽が綯い交ぜになった一言で言い表せない曲調である 議論は踊り、在らぬ方向にも寄り道をする その全てが勿論大事な語りであり、不要なモノはなにもない それほど彼女たちには今迄こうして語り尽くす場が無かったからである なんで男達全員がその犯人の釈放を要求するために拘留先に向かったのかの理由は不明なのだが、数の力を利用しようとしたのだろう 逆にそれが女性達への機会の譲渡となることなど考えもせずに・・・ あのストーリーの中で心身とも苦しんでいる人達は等しく非人道的扱いを受けたという事実を基礎とするならば、今作を酷評する輩とどうやって話し合いをすべきなのだろうかとそのアイデアが思いつかない位、合意形成は難しい 日夜国会で行なわれている議論は果して少数派に寄り添った手順を踏んでいるのか 暴力的に多数決が正義と言わんばかりの輩がネット上に溢れている昨今では、ジェンダーやLGBTq+の法案をバックドアが沢山ぶら下がった醜悪な形に作り替えている
ネタバレサイトで大変秀逸なテクストをみた 『差別を誰が決めるのか、それは合意形成で決める』 そしてその中で対応策を探す方向性へと発展していくことなのだと・・・
勿論、今作中でもその合意形成に相容れない人物が存在する そもそも去ることを拒否する者、闘う意志を表し、しかし最終的に従うが、その強引さは女性達を苦しめた魔酔スプレーを我が子にかけるという元も子もない所業 尚且つピストルの譲り受けが将来への新たなる火種に成り得る予感 一筋縄では行かないそれらの思考や行動も、その全ては未来に引き継がせない、悪夢をここで断ち切るという覚悟と勇気を今作では説いているのであろう 戻ってきた男達はこの顛末を、唯一残った教師から訊かされた時にどう考えるのだろうか? 先ずはあの教師を血祭りに上げて、女性達を追いかけるのだろう 男達の未熟さを棚に上げて、顧みない所業に気付かず、憐れな性別は己の正義のみを信じて血眼になる 確かにその性別を躾けるのは"教育"なのであることを力強く今作は訴える メッセージ性の強さ故、今作に胃もたれする観客もいるかもしれないが、そういう人達に相応しい四文字熟語を 『虚心坦懐』
ルーニー・マーラが可憐
ルーニー・マーラというと「ミレニアム」が強烈だったのでメイクも全く違い、可憐で眼差しがいやしの人であった。オーガストのはにかみも切なかった。強烈な設定であるが少女らの生活含め平穏で淡々としているがこの子らを守るために母親らがとった手段には共感できたし、そうするしかないと思ったのだろう
未来の選択
南米の宗教コミュニティーで実際に起きた事件をもとにした作品。これがつい最近の出来事と知って驚いたが、中東の国なんかでも女性は車の運転はおろか、自転車に乗ることも最近まで禁じられていた.。
それこそ先進国などでは女性への人権意識は向上したものの日本を含む途上国ではまだまだ後れている。
本作ではこの事件を受けて女性たちが今後の身の振り方を決めるため集まって投票をする。そしてこのまま村に残って男たちと戦うか、この地を去るかで意見が二分される。そこで女性たちの代表が集まりどちらを選ぶべきか討論する。
今まで虐げられてきた恨みから憎しみを爆発させる女性、かたや暴行で出来たお腹の子供を愛し、去ることを主張する女性。戦いを選ぶか平和を選ぶか。閉鎖的コミュニティーで行われる議論がまさに普遍的意味合いを持つようになってくる。
本作で最も興味深いのは散々議論を重ねた末に、女性たちがこの地を去ると決めたこと。これは無益な争いを避ける賢明な判断だったといえる。戦えば自分たちもただでは済まないし、相手だけではなく自分の子供たちにも被害が及ぶ。
去ることはけして逃げることではないし男たちへの「赦し」でもない。無言のまま立ち去ることで男たちへ罰を与えることになるだろう。
信仰による「赦し」というものに縛られて今までどんなに虐げられても無理矢理それを許容させられてきた女性たち。この地を去るということは自分たちを縛るそんな「赦し」というものから自分たちを開放することにもなる。
これが何よりの解決策。虐げられ、教育も受けさせてもらえなかった女性たちのなんという賢明さであろうか。
思えば、過去のあらゆる戦争は愚かな男たちが起こしてきたもの。男は命を奪う争いをずっと続けてきた。かたや女性は命を産むことからも未来を紡ぐ存在だと言える。平和を望み争いを避ける賢明な判断は女性特有のものといえるのかもしれない。
周辺危機をやたらと煽り立て軍事化を目指す為政者たちに彼女たちの判断を見習ってもらいたい。あるいは為政者がすべて女性であれば世界は平和になるのではないか。
本作では討論の中で男性たちも被害者だという言葉がある。古い慣習に縛り付けられ、女性を虐げてもいいように教育されてきたのがそもそもの元凶なのだと。
本作で唯一の男性理解者である教師のオーガストはまさに正しい教育によってもたらされた象徴的存在だ。
彼は学業を学んだだけでなく倫理道徳も身につけている。けして女性を虐げることはない。だからこそ彼は筆記係に選ばれた。
彼は言う。子供たちの競争心をあおるのではなく思いやりを持たせることが子供たちにとっては重要だと。女性を含む他者への思いやり、それは必ずしも自然に身につくことではない。それは大人たちが教えてあげなければならないのだと。
特に年頃の男子は血気盛んでともすれば道を踏み外すこともある。そんな子供たちに相手への思いやりを持つことを学ばせる。そうすれば将来DV男ではない思いやりのある大人になるのではないか。そしてそういった教育がしいては争いのない平和な世界につながる一歩となるのではないか。
今の世の中は新自由主義の下、激しい競争社会で他者を思いやる余裕が失われている。大人たちは政治家を筆頭に噓を平気でつく始末。そんな社会で思いやりを持った子供たちが育つわけがない。オーガストの言葉は暗に今の社会の問題点を指摘してるように思える。
争いをせず、未来を選択した女性たち。作品のラストで生まれた赤ん坊の世界は今までとは違うはずだとオーナは言う。
賢明な判断を下した女性たちが育てる子供たちが平和な世界へつながってゆくと信じたい。
赦しは許可じゃない
まず、2010年という舞台に驚き。
100年前かと思うような農村の世界に、突然のデイドリームビリーバー。
当たり前に自由な外の世界が集落の中に音楽とともに入ってくるシーン、窓を閉めて閉じこもる女たちと、対照的に駆け寄っていく好奇心旺盛な娘たちの描かれ方が、集落のかたちを示唆しているよう。
事件は、最初に短く叙情的に説明される。
それだけでも十分に酷い状況は理解できるのに、話し合いが進んでいく中で、女性たちそれぞれが無理やり飲み込んで自分の中に封じていた記憶や痛みが、決壊して表出する。
1人1人の痛みが層を成して、悲しみが胸に突き刺さった。特にネティのエピソード。
陰鬱な空気の中、オーナをはじめ、ときおり見せる女達の笑顔がはっとするほど強く輝いて見えた。
自分たちの、子供たちのこれからを自分たちで話し合った結論は、利益不利益や復讐ではなく、善に生きる信仰や、愛に従って選んだもの。
強大な理不尽に虐げられても、善に生きることを諦めない勇気ある選択ってなかなか1人ではできないと思う。
大人の男の顔はオーガストしか映らない。
少年たちのいろんな顔がアップで映るシーン、加害者側になることでこの子達も顔をなくしていくということなのかな。
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