せかいのおきくのレビュー・感想・評価
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心汲むよりウンコ汲め モノクロ!?オワイ?それはなぜ?
監督と脚本は『どついたるねん』『顔』『闇の子供たち』の阪本順治
阪本監督初めてのオリジナル脚本
何度目か覚えていないが貫一郎佐藤浩市親子共演
ただ一緒に映るシーンはない
流石にお互いやりにくいだろう
幕末江戸
安政五年夏から文久元年晩春(1858年から1861年)
現代と違い安政万延文久と目まぐるしく年号が変わる
所謂「災異改元」というやつだろう
菅原道真の子孫がいくつかの候補を提案し幕府と皇室の協議で決定するらしい
ちなみに明治になったは1868年である
江戸庶民の廁事情を描いた喜劇
かと思いきや浪人の父が侍に斬殺され駆けつけた娘おきくまで喉を切られ声が出なくなる悲劇
やはりウンコだけで90分近くもたせるには無理があったか
戦前の時代劇を意識したのかモノクロ
鮮明なモノクロ
なぜか一瞬カラーになること2回ある
すっかりカラーが当たり前になった30年代にあえてモノクロ映像を好んだ工藤栄一監督や98年公開『サムライフィクション』の中野裕之監督を思い出した
あまりこういうことには詳しくないがこれには工藤監督の頃と違いデジタル的なものを感じた
ちなみにチャンバラ映画でない
直後はあるがそういうシーンは一切ない
主人公の1人は元武家だが武士の世界はほとんど描いていない
幕末の底辺の暮らしを淡々と描いている
無理な値上げを要求する武家屋敷の門番が矢亮に仕返しをされるシーンはあるがそのくらいでカタルシスは殆どない
幕末だからホームレスやクルド人のデモのような光景はない
浮世離れした東京のマスコミ連中はエリートだからデモを支持するだろうが世間一般の多くは悲しいかなそれほど支持していない
少なくともマスコミは国民の代表ではない
なぜなのかこの映画を見て思うところがある
クソにまつわる話だがなぜか美しい日本
悲哀を感じるがそれだけじゃ収まらないリアル
日々の暮らしを反省しなければいけない一面はないことない
いやらしい意味ではなくいやらしく感じるかもしれないがまあそれでもいい
地味な着物姿の日本人女性が座ったときの丸みを帯びた部分が愛しい
あの曲線もまた美しい
長屋の通りで雪降るなか跪いて抱き合う男女の情景が好き
あと草履と草鞋って違うのね
『逆転裁判』の梯子と脚立を思い出した
配役
武家育ちだが父が浪人になったため貧しい長家生活になった松村きくに黒木華
紙屑拾いだったが商売替えし矢亮の相棒になる中次に寛一郎
下肥買いの矢亮に池松壮亮
おきくが寺子屋で読み書きを教える寺の住職の孝順に眞木蔵人
浪人になり娘のおきくと2人で長家暮らしの松村源兵衛に佐藤浩市
おきくと同じ長屋に住む元早桶屋の孫七に石橋蓮司
色彩のない世界を彩る青い春と糞便。
なぜ本作がモノクロなのか、確かにいきなり冒頭からの肥溜めのシーン、これを総天然色でみせられた日にはたまったもんじゃありません。モノクロはそのためかと思いきや、監督のインタビューに納得。
確かにモノクロの世界はフィクション、色彩を感じられる我々にとっては現実にはあり得ない世界。だが映画では色彩という情報をあえて省くことで人物の感情表現を敏感に感じ取れるのだという。なるほどこの言葉には何だか妙に納得してしまった。
ただ、元は環境問題を考えるプロジェクトから始まった本作、循環社会という観点から排泄物に着目した人々の暮らしという物語は必須だったわけで、やはり排泄物を描かないわけにはいかない。それを総天然色で見せるなら客足も遠のくだろう。排泄物の色彩再現も大変だろうし。そういう意味でも本作をモノクロ作品としたのは大成功だった。
江戸の町で底辺とされる汲み取り業を営む若者たち、虐げられながらも若さゆえの負けん気で逆境を跳ね返す逞しさ。二人の主演のバディ関係は絶妙だし、淡い恋愛劇も良かった。
さわやかな青春と淡い恋心が色彩のない世界に彩りを与えていた佳作。
ちなみに筒井康隆の小説で人間は口から肛門をつなぐ一本の管のような存在だというくだりがあった。その管の周りに手足がついてるだけの存在。そう考えれば百姓も武士も身分の違いなど気にするようなものではないのかもしれない。食い物を口に入れて肛門から糞便を垂れ流すのはみんな一緒だ。もちろん黒木華さんもね。
先日参加した大腸がんシンポジウムで権威ある医師の方が40を超えたら検便は年に一回欠かさずやってほしいとのこと。便を汚いものと目をそらさず、さっきまで自分の中にあったものとして慈しんでやってくださいと。便は教えてくれます、あなたの体調を。便はいまのあなた自身だと。
今や下水道が完備されて排泄物はさっと水に流してしまう時代。自分の便を汚いものとして目をそらす現代人は自分の本来の姿を見失っているのかもしれない。自分を見つめなおすためにも、水洗レバーを引く前に自分の便を一度見つめなおしてみるのもいいのではないだろうか。
なるほど、確かに朝に出る便を眺めることで自分の生活態度や食生活、その日の体調がわかる。下痢便かバナナのようなきれいな便か。ちなみに毎晩のように晩酌をしている自分は下痢便が続いている。飲酒は控えねば。
『おきく』と言えば番町皿屋敷ですね。落語にも有りますぜ。兄貴♥
『救命艇』と言うヒッチコックの映画を見た時、排泄の事をどうするのか?と考えた。それをテーマにした話のようだが、現代風に人間関係を捉えてだいぶ誤りがある。着眼点が良くて現実感はあるが、人間関係や社会事情だけで、生活感が逆にファンタジーになってしまっている。大変に残念な作品だと思う。
我が亡父の弟が『肥溜め』の上で遊んで、破れて落ちた経験がある。笑い話では済まない話だと彼は主張していたが、去年亡くなるまで笑いの種だった。
肥をまく行為は昭和40年代にも亀有辺りの常磐線沿線では普通にあったと記憶する。回虫と赤痢がまだ怖がられていましたからね。
しかし、インフラみたいな職業。どこまで差別され、大事にされていなかったか予想の範疇である。現代に置き換えて考えれば、廃棄物を回収する業者さんの立場。さて、現在はそう言った職業に対する差別は存在しないのだろうが?知る限りに於いては、賃金も社会的立場も決して高いとは言えない。
この映画を見て、そこまで解釈すべきだと感じた。もっとも、インフラで働く方々は廃棄物処理業者ばかりではないから、彼らだけが尊い立場だとも思わないが。
モノクロで描く異色の江戸のトイレ事情
なんとも変わった映画でした。
人間の糞尿を堆肥として使用したのはいつ頃までだろう?
1955年(昭和30年)代はじめ位まで使われてたのでは?
ないだろうか?もっと後までだろうか?
宮沢賢治が化学肥料がいかに良いものかを「銀河鉄道の父」で
語っていたが、
肥料として使われなくなったのは衛生面からだと思う。
その昔、人間にも寄生虫がお腹にいて【虫下し】なんて薬が
あった気がする。
汲み取り式トイレなんかも札幌で冬季オリンピックが開催された
昭和47年(1972年)にはまだ汲み取り式パキュームカーが
戸別訪問していたはずだ。
水洗トイレが普及したのは昭和30年代からだと言う。
昭和になって下水道及び浄化槽が急速に進んだからだ。
洋式の水洗トイレは昭和34年に日本住宅公団がはじめて採用した。
この映画は3R(リデュース、リユース、リサイクル)映画だそうで、
セットも古材、衣装は仕立て直し、撮影後は全てリサイクルとして
保管されたという。
阪本順治監督の30本目の本作は初めて脚本を書き監督している。
どういうキッカケで江戸の江戸時代の汲み取り業者
《糞尿のリサイクル》をテーマに
映画を撮ろうとしたのかは不明だが、珍品・珍作である。
非常に目の付け所がユニーク‼️
懐かしいような、思いだしたくないような、題材である。
序章・・・江戸のうんこは何処へ
第一章・・・無敵のおきく
第二章・・・せかいのおきく
第三章・・・むねんのおきく
(波乱の章・・・父親が仇討ちにあい、おきくはのどを切られて
声を失う・・・けれど仇討ちのシーン及び、
倒れて苦しむ父親・源兵衛(佐藤浩市)と、
喉を押さえてうめくおきく(黒木華)の姿を描写する。
第四章で・・・ばかとばか
第五章・・・ばかなおきく
(この章ではおきくが中次(筧一郎)に恋情を募らせる様子が描かれる)
第六章・・・そして船は行く
第七章・・・せかいのおきく
(この章は鳥の鳴き声が効果音として多用。
(ひばり、カラス、トンビなどの鳴き声と、
中次に握り飯を届けようと走り、荷車に激しくぶつかるおきくの
ガシャーンという音など、効果音とで描かれる。
終章・・・おきくのせかい
(中次とおきくが桜咲く公園を散策して、
(青春だなぁ・・・とつぶやく・・・長閑である)
☆★☆親子共演。
佐藤浩市と息子の筧一郎は阪本順治作品で2度目。
一作目は「一度も撃ってません」
これは楽しかった。
ジャズと紫煙とウイスキーと謎のハードボイルド作家。
殺し屋兼作家の石橋蓮司(今作にももちろん出演している)
佐藤浩市の役柄は覚えていないが、筧一郎は空気の読めない編集者
・・・だったような。
本作で筧一郎は主演の黒木華に続き二番目にクレジットされている。
三番目にクレジットされる池松壮亮の達者で生き生きした演技に比べると
演技力の力不足から見劣りしている。
佐藤浩市とは、同じ土俵で比べるのは失礼。
この映画の主役は糞尿。
糞尿のリアルさは食欲を無くす程‼️
モノクロ画面が美しく江戸の風情が珍しくも好奇心を刺激する。
素晴らしいけれど、やはり惜しいのだ。
「せかいのおきく」
この題名が意味するのは何なのだろう?
汲み取り業を仕事とする中次にも差別も偏見もない「おきく」の
《心の広さ》だろうか?
核となるストーリーが弱い。
声を失ったおきくの中次への思慕。
それだけではアクセントが足りない。
「一度も撃ってません」の妻夫木聡みたいな隠し玉が
どうしても欲しいのだ。
(私的お願いとしては、主役の男優を村上虹郎か北村匠海、だったら、
雲行きもガラリと変わり、魅力が増したと思う。
(が、本人たちが出演を断ったがなぁ・・・)
地味で華のない筧が目立ち過ぎず、良かったのだろうか?
阪本順治監督の意図はどこに?
(一生忘れられない強烈な映画になりました)
モノクロ
モノクロの映画で江戸時代。
何よりも殺戮シーンが少ないのが良い。
人々の生活には嫌がられ、煙たがれる仕事が必ずある。誰かが、やらなければ世の中は回らない。
おきくの表情と言葉遣いの表現は凜として良かった。矢亮の歌も格別。中次のひたむきな姿勢も尚更に善し。
下肥がまさか段ボールでとは圧巻。あと、考順役の真木さんが舞台挨拶で上手の3名を知らないと言っていた。それも新鮮である。
時折魅せたカラーシーンはインパクトがあったな。上手いよね!
人と人のぬくもりが伝わってくる映画でした。
江戸のトイレ事情
江戸時代
江戸で排泄物を買い取り、
農村へ売るということをなりわいとする
「下肥(しもごえ)買い(汚穢屋:おわいや)」
のお話。
タイトルの「おきく」は
[おわいや]ではなく
排泄物を持って行ってもらう側の
長屋の住人です。
こういった事をテーマにした作品って
今まで無かったと思いますので
下水道の無かった江戸時代は
こういうことだったのか、
ということがよくわかります。
興味深く見ました。
基本、モノクロ映像です。
糞尿の映像が頻繁に出てきますが、
そのおかげでそこまで嫌悪感は無いです。
見ていられます。
セリフでは「臭い臭い」言ってますが、
そこまで感じないです。
モノクロ大成功だと思います。
モノクロだからこそ出来た感じです。
細かく「章」に分かれていて、
各章の最後のカットだけカラーになってます。
なので途中から
カラーになると次の章ってわかるので
区切りになってて見やすいです。
章の長さが
だんだん短くなっていて
テンポよく見られるのもいいです。
ストーリーは
ある種コメディだし
ラブストーリーだし
江戸時代の格差事情だったり
うまく色々入っていて
面白く最後まで見ました。
「見てよかった」
「楽しかった」って感じ。
なんだか今までにない
チョット不思議な鑑賞後の感覚。
イイです!見て下さい!
斬新すぎる切り口
うんこがリアルにたくさん作られてました
まさか本物のうんこを使ってはないだろうよ。
でもうんこが本物のようでした。
うんこを作成した人は、自分のブツを参考に作るわけで(だって他の人のを見たことないのですから)、現場では「あ、〇〇さんのうんこはこんな感じなのね…」と思われるわけで、それは恥ずかしさの極致であり…。
私の大好きな坂本順治監督の映画!
いそいそと観に行ってきました。
どんなに最悪なクソみたいなドンづまりな日々でも、
仲間がいたら希望に輝ける。
これは映画「怪物」でも描かれていたことです。
これに加えて
「せかいのおきく」ではエコを、
「怪物」ではLGBTを題材にしていました。
結果。
今の世の潮流はLGBTに軍配があがった・・・。
でも私は「せかいのおきく」の方が好きな映画です。
役者寛一郎さん、
「鎌倉殿の13人」の時は気にならなかったのだが、
演技、下手くそやな~~~。
素人みたいやった。
うん、素人。
その素人が「ほんまに心からそう思った」時、
それは真実になる。
青い空の向こう、「せかい」を見たあの一瞬の寛一郎の顔。
あの時、
私もせかいを見ました。
あの一瞬。どこまでも広がる青い空、せかい。
あの顔が全編の下手くそをチャラにしました。
仲間がいたら、友達がいたら、
なんとか日々を乗り越えていける
「せかいのおきく」でも「怪物」でもまばゆく描かれていました。
そう考えると、
少し前にあった立てこもり事件の犯人が「ひとりぼっち」と馬鹿にされたという
誤解で殺人を犯したのも、それほどつらい事だったのかなと思いを馳せます。(犯人を肯定するわけではありません)
おきくという名前から
番町皿屋敷のモチーフが入ってるのかな~って想像して観に行ったら、まったくハズれてました!えへへ
あれのお話。
何がやりたいのですか?
阪本監督、何がやりたいのでしょうか?
なんでもいいけど、ちっとも面白くなかったです。
この映画の存在を知ったとき、まず『せかいのおきく』というタイトルに違和感を覚えました。その意味深な題名が気になったこともあり、映画館に足を運んだのだけれど、つまらない内容でがっかりです。
「青春時代劇」ということですが、ぜんぜん感情移入できませんでした。
監督はじめ、作り手たちが面白がってやっていることが、僕にはまったく面白くなかったです。
各章の最後の場面をカラーにするという手法も、大して効いているとは思えず、むしろ嫌味に映りました。
グッと込み上げてくるものがあるかないかを、僕は映画の評価の基準にしているのですが、そんなこころの動きはまったくなかった。
こんな「クソ映画」を観せられて、不満です。
でも、黒木華さんは相変わらず素晴らしかった。
それから石橋蓮司さんも(石橋さんは、余人をもって代えがたい貴重な存在です)。
江戸の青春
江戸時代末期、人々はいかなる境遇をも受け入れ、逞しく生活していた。
日本の映画製作チームと世界の自然科学研究者が連携して“良い日”を生きる人々を映画で伝えようという「YOIHI PROJECT」の第1弾作品だとのこと。
人は上から食べて下から排泄する。それが土とともに作物を育て、人の食料となる。
循環型社会=江戸を舞台に、若者3人が懸命に生きる様子を映し出した青春時代劇。
「江戸のうんこは何処へ」
全編通して”うんこ“の映画である。
モノクロだからリアルすぎない映像で、でもやっぱりリアルに描かれている。
だが、画面全体は汚いどころか、美しい。
当時、農家は人の糞尿を肥料にしていて、自家の排泄物では足りなかったので、農家に人糞肥料を売りにくる商売があった。
その商売を「下肥(シモゴエ)買い」と呼び、「下肥売り」とは呼ばれなかったようだ。
農家以外の人たちから見た呼び名なのだろうが、排泄物の汲み取りをした側が金を払うという、なんとも不条理な商売だ。
一般の町人より武家の排泄物の方が(いいものを食べているから)高価だったというから可笑しい。
この映画には公衆便所が描かれている。江戸時代の後期には江戸の町に公衆便所が設置されていたらしい。無料で使えるうえに意外と清潔に保たれていて、それなりに経費がかかったようだが、下肥を売った収益で賄えていたとか。
長屋の便所の汲み取りの様子も描かれている。住民の排泄物は大家の貴重な収入源だったそうだ。
世界最大の人口密度だった江戸の町が、同時期の世界のどの都市に比べても衛生的だったと、何かで読むか聞くかしたことがある。
下肥買いたちの労力が貢献したことは間違いなさそうだ。
私が子供の頃はまだ田んぼに「肥溜め」があった。あの中身は、農家がどこかから買っていたのだろうか…。
この映画で描かれる下肥買いの若者は、買う立場の時も売る立場の時も見下されている。
士農工商の身分制度にあって、農工商より低い身分の人たちの仕事だったのだと理解した。
白土三平の「カムイ伝」で、処刑された罪人や牛馬の死骸処理を仕事にしている非人の集落が描かれていたのを思い出したのだ。
だが、本作では身分制度には触れておらず、中次(寛一郎)は町中の長屋に住んでいて、後におきく(黒木華)が教える寺子屋で子供たちと机を並べていたから、非人ではなかったかもしれない。
矢亮(池松壮亮)と歩いていたおきくに通りがかりの女が言う「どうしてあんな人を連れてるの?」が、普通の感覚だったのだろう。職業に貴賤はあったのだ。
一方、おきくが住む長屋の連中は彼らを蔑んではおらず、臭くて鼻をつまむくらいだった。
「世界」という言葉はこの頃もうあったのだろうか。
安政から万延にかけての物語だから、既に黒船は来訪していて、安政の大獄が始まっていた。
江戸の人々は「異国」を意識していたと思う。
「世界」という言葉は中国伝来だろうとは思ったが、サンスクリット語の漢語訳で、仏教用語だったらしい。なんと「竹取物語」に「世界」という言葉が使われていたそうな。
おきくの父源兵衛(佐藤浩市)が中次に言う。
惚れた女に言ってやれ「世界で一番お前が好きだ」ってな。
…親子共演の貴重な場面だ。
おきくと中次と矢亮、三人の若者。
彼らの、虐げられても、惨劇に遭っても、前を向いて生きる活力を失わない逞しさに加え、恋する若者の純情を素直に表現していて、清々しい作品だった。
おきくに「世界で一番お前が好きだ」と声ではなく身振り手振りで伝えようとする中次の姿が、可笑しくもあり感動的でもあった。
せいしゅんだなぁ!
営み
食べて出して恋をして。
突き詰めると「生きていく」ってこういう事なのかと思える。とてもメッセージ性の強い作品だった。
主人公の2人は人糞を生活の糧にしている。抵抗感の強い職種ではあるが、それを担う人が居ないと社会は成り立たない。何億と稼いでる人も、巨大な権力を有してる人も、絶世の美女も空前絶後のイケメンも、彼らがいなければ生活もままならないのだ。
そう考えれば蔑む理由も、卑下する理由もないのだが、そうはいかない事情を彼らからの視点は物語る。
劇場から出て、すれ違う人達に親近感を覚える。着飾ったり踏ん反り返ったりしてはいても、根本的には変わらないのだろうな、と。
勝手に階層を作ってるのは滑稽にも思う。
おきくさんは言葉を失う。
読み書きもままならず、手話もない時代では意思の疎通をする術がない。万人が文字を読めるわけではないし、むしろ市井の人々は読めない人の方が多い。
重大なハンデを背負ってしまう。
半年程引きこもったおきくさんは、若干痩せたようにも見えたし、それでも生きていけるだけの糧は他人が与えてくれていたのだろう。
家賃を払えない店子を抱える大家も、収入以外の必要が大家さんにもあったのだろうと思う。相互扶助で成り立つ社会の原理を説かれてもいるようだった。
おきくさんは恋もする。
好きな人の名前を書いて照れ臭さに悶絶するおきくさんは、とてもとてもいじらしかった。
恋が成就し、彼の足音に聞き耳をたてる様は、塞いでいたおきくさんとは雲泥の差で、生きる事を楽しんでいるようにも見え、恋愛とはこんなにも人に活力を与えるものなのかと改めて思う。
おきくさんに役割があるように、作中の登場人物全てに役割があった。
クソみたいな世の中は、今も昔も大差はないが、野原に寝っ転がって惰眠を貪る2人をちょっと羨ましく思う。
生きていく事はそんなに複雑な事ではないと、複雑にしているのは寧ろ我欲に起因する事の方が多いのだろうと思う。
作中に散りばめられた台詞の数々は、噛み締めると深みが増すものも多く、全編にわたり糞が出てくるわけなのだけど、かなり高尚な文学作品でもあった。
阪本順治監督の感性の豊かさを物語る。
人の上に人を作らず、人の下に人を作らず。
こんな標語を残した偉人は誰だったろうか?
そんな原理を現代に問いかけた作品にも思えた。
⭐︎−0.5は必然とは言え糞のせいである。
…俺は監督ほど人間が出来ていないのである。
申し訳ない。
においたつ青春(潔癖症のワタクシが見ました)
タイトルなし(ネタバレ)
幕末の世。武家育ちでありながら、いまは浪々の身となった父・源兵衛(佐藤浩市)と、木挽町の貧乏長屋で暮らす娘おきく(黒木華)。
ある雨の日、寺での読み書き師範の帰りに、おわい屋の矢亮(池松壮亮)と紙くず屋の中次(寛一郎)と知り合う。
相棒のいなくなった矢亮は、あまり紙くず屋商売がうまくいっていない中次を相棒にと誘い、ふたりは肥たごを担ぎ合う仲間となり、武家廻りは矢亮、民家・長屋廻りは中次の分担となる。
ある日、雪隠で気張る源兵衛から「せかい」という言葉を教えてもらった中次。
それから程なくして、源兵衛は意見の異なる武家連中に斬殺され、おきくも喉を駆っ切られ声を失ってしまう・・・
といった内容で、序章から終章まで、いくつかのエピローグにわけられ、モノクロで描かれながら、エピソードのおしまいだけカラーとなる凝った趣向。
おわい屋というのは、江戸の武家や町家から糞便を買い取り、江戸郊外の農家に売る商いのことで、とにかく、臭い汚いと周囲からは嫌がられています。
当時は、汲み取り式だったので、おわい屋が来ないと糞便が溢れてしまう。
特に、雨の日などは、土中にしみ込んだ水のせいで、糞便桶が溢れてしまう。
その様子が前半のエピソードで描かれていて、非常に興味深いです。
なお、木挽町といえは、歌舞伎座の裏あたり。大店の多い日本橋の近くも、貧乏長屋があったんですね。
で、最終的には、声を失ったおきくと中次の淡い恋がほんのりと描かれるのですが、このエピソードは胸が熱くなります。
が、最終的には、ちょっと腰が弱いかなぁ、相撲でいえば「粘り腰」に欠ける感じ。
肝心の「せかい」が、あさっての方向に行っちゃっている感じがして、落語でいえば「ヘン」オチな感じで、妙に座りが悪いのが難点。
ここいらあたりは、阪本順治監督作品の特徴といえば特徴なんだけれどね。
とはいえ、悪くない出来。
ただし、食後に観るのは控えた方がよろしいでしょう。
なにせ、カラーでアレが映るシーンがありますから。
ものすごーく好きです。
黒木華さん、好きです
この空の果て、どこだか知ってるか?果てなんかねえんだよ。それがせかいってやつだ。
味噌まみれの若者と声を失った武家の娘の青春物語。モノクロには情緒もあるが、むしろモノクロにした方がいい理由の方が優先されているような気がしないでもない。(当然、アレです。)まあ、ちゃんとやってますよ的なシーンもあるので、見ているこっちは偽物だと安心していると面食らうこともある。
そんなことよりも、この、山本周五郎のような世界に満ち溢れた、じわっと胸に沁み込むような物語の清らかさがたまらない。(しつこいようだけど、清らかな描写だけでは決してないが。) それもこれも黒木華の存在があってこそだ。落語「井戸の茶碗」に出てくる長屋住まいの浪人親娘のような、その品の良さと気高さと慎ましさとケジメを兼ね備えた、武家の娘の佇まい。そりゃ、二人だって身分違いを通り越して惚れるさ。
そしていい言葉もある。ヤンチャな面影なんかどこかに消えてしまった真木蔵人演じる住職が「おきくさんには役割ってのがある。役割っていうのは役を割るって書きましてね」という。そして、できないことはできる者がすればいい、と諭す。その言い方が、説教じみてなく、当然高圧的でもなく、しみじみと寄り添うように語りかける。いい場面だった。将来の望みを失いかけた娘にかける言葉として、ちょうどいい熱量と重さだった。
ああ、なんか観た後の気分が清々しいっていいな。
江戸青春グラフィティ
あをによしの都・平城京が1240年前に廃都された理由の一つは、水の便が悪く排泄物処理に行き詰ったからと言われています。日本史の表に決して出て来ないけれど、ある意味で歴史を動かしてきた大きな要因でもある、日々の生活に必ずついて回る、深刻で、どこか滑稽な糞尿事情を経糸に、緯糸に江戸の若者たちの青春を紡いだ映画が本作です。
経糸の描写があまりにも鮮烈なだけに観客の目はそこに釘付けになってしまいます。一方でカットを細かく割らず、フィックスのカメラで引いたロングのカットで長回しを多用しているために、映画は実に緩いテンポで展開するので、総じて観客は寛いだ気分でスクリーンに入り込めます。
但し、肥溜めの糞尿の寄せアップの長回しには、やはり眉を顰めて閉口してしまい脳裏に残像として記憶されてしまったと思います。それゆえに本作はモノクロですが、モノクロに安心した観客を出し抜くかのように、各チャプターのラストカットのみカラー映像にし、一瞬の驚きと顰蹙をもたらし、ゆったりした映画のリズムに緊張感のアクセントを与えていました。
そして、物語はいつも雨天で起こり、観客を憂鬱な不安感へと煽った後、晴天で決着して晴れ晴れと安堵させるという循環を繰り返し、最終的に若者たち爽快感に包み込んで終えたように思います。
モノクロ仕立ては、主役のおきくを演じた黒木華の項の輝く白い美しさを、一層際立たせていましたし、ラスト近くの雪の長屋の場面では、清貧だが心豊かな美しさが映像から滲み出ていました。
それにしても、未だに用を足している際に、本作の糞尿カットが脳裏にフラッシュバックしてしまい、大いに難儀しています。
モノクロームの美しさが際立つが、食事時との兼ね合いは考慮したい一作
映像を見て明らかなように、この作品は単にモノクロームであるだけでなく、品質調整が行き届いていて、その諧調の豊かさには驚かされます。
「汚穢屋」という主人公、矢亮(池松壮亮)たちに由来する”モノ”も大画面で映し出されるので、思わずのけぞってしまいますが、この、「審美眼的な美しさ」と「生物の宿命である排泄」を並置しているところに本作の大きな特徴があります。それにしても阪本監督の有機物に対するこだわりは執着的だけど(当初はモノクロームだから正視できたのに、カラーになった時には…)。
コンパクトな上映時間はさらに細かく章立てされていて、物語の構成はすっきりとまとめられています。その中で織りなされる、武士(佐藤浩市)の悲哀、矢亮と中次(寛一郎)の掛け合いなどのドラマは魅力的です。もっとも矢亮ときく(黒木華)の逸話は、全編通じて様々な形で立ち現れるものの、終盤の展開はやや性急な印象が残り、もう少し時間をかけてもこの二人の物語を見てみたい、と思ってしまいました。阪本監督が敢えて恋愛描写を控えめにして、ドライな作品作りを心がけたのかも知れませんが。
それにしても、本作のような観点から江戸時代末期の人々の生活を描いた作品はこれまで観たことがなく、どの場面も非常に興味深いものでした。「汚穢屋」という観点で見れば、庶民も武士も、身分の差も関係なく描くことができる、という視点を提示したこと、そして「肥」を通じて街と農村のつながりを描いた、という点も非常に評価したい作品でした。
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