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フィルム時代の愛のレビュー・感想・評価
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不在
小説を読んでいて、あるいは映画を観ていて、ふと自分が膨大な歴史の蓄積に接続されたような感覚に陥ることがある。これがいわゆる「間テクスト性」というやつなのだろうか、手元のちっぽけな冊子や画面が途端に巨大で深遠なもののように思えてきて興奮と疲弊が押し寄せる。しかし一体今のはなんだったのか、と思案する頃にはシラフの自分に戻っている。後に残るのは何かに一瞬繋がった、という事後的な認識と、絶対的な喪失感だけ。いや、喪失感というのは少し違う気がする。そこに感傷はないから。一番しっくりくるワードがあるとすれば、不在。何かが決定的にそこにない。何かとは?それはたぶん歴史。歴史の不在。
歴史は目に見えない。より正確に言えば現在という時制から現在の歴史は見えない。歴史ができあがるには途方もない時間がかかる。「ある程度遠ざからなければものごとの真実は見えてこない」と言ったのは侯孝賢だ(『少年(1983)』)。加えてワープロがMacBookに、フィルムがデジタルカメラに移り変わり、地球の裏側で巻き起こったできごとを誰もが即座に消費できるようになった現代においては、もはや歴史というもの自体が成立しなくなるかもしれない。現代においては、現在がいつか歴史になる日を期待することさえも難しいということだ。歴史が本当になくなってしまう日。そこでは何かに一瞬繋がったという感覚さえも生起しえないだろう。
だから淡々と、作業のように映画撮影をこなす監督に対して、若い音響スタッフが「あなたは映画が何なのかわかっていない」と言いたくなる気持ちもわかる。歴史の危機を自覚している若者は、監督の、歴史に対するイズムの欠落を糾弾する。ちょっと構図に凝ってみた程度で、気の利いた会話をさせてみた程度で、懐古ぶってフィルムで撮影してみた程度で、そんなのはすべてノスタルジーのごっこ遊びに過ぎない。そして若者は撮影現場からフィルムを盗み出す。
かといって進化のベクトルに逆行してみたところで事態は変わらない。古フィルムのざらついた質感は言ってしまえば「写ルンです」のようなエモーショナルな感傷の域を出ず、サイレント映画に倣って劇中の音を消してみたところでそれはどこまでも奇を衒った「技法」にしか映らない。過去の名作を引用してみても、それらはいっこうに文脈を結ばない。
試行錯誤のトンネルを引き返した場所に待ち受けていたのは、絶対的な不在だ。冒頭で繰り広げられたワンシーンを、無人のまま再演する。聞こえてくるのは音だけ。フィルムを盗み出した若者は、川辺に座り込む老人に「愛を信じますか」と問う。老人は何も答えない。若者はどこかに去っていく。彼の言う「愛」が「歴史」であることは疑いようがないように思う。
本作は歴史をめぐる文芸の現況をそのまま映像としてドキュメント化することで、作品としては一応の延命を遂げた。しかしそれは一度限りの捨て身の一手と言わざるを得ない。本作が映画に、あるいは歴史に対するチャン・リュルの諦観の吐露であるのか、あるいは決意の表明であるのかを判断するにはもう少し時間を置く必要がありそうだ。
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