怪物のレビュー・感想・評価
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怪物になりたくないなら考えてください。
なんだこの作品は。どうやったらこんな作品作れるんだ。
一体誰が怪物なのか。母親か、息子か、担任か、校長か、友人か、友人の父か、はたまた鑑賞者か。
一体いつから自分は大人になったのだろうか。子供の世界と大人の世界は断続的なのかもしれない。大人は、子供のためと言いつつ大人の理屈で物事を考える。子供は、ただただ無邪気なだけなのかもしれない。
火災を起こしたのは誰なのか。作文にはなんて書いてあったのか。最後の子供たちの笑顔の意味は。決して答えを明確に示さない映画。私たち自身が考える必要がある。頭を使って考えなければならない。私たち一人一人も怪物なのだから。
怪物はだれ? 世の中、勘違いだらけなのかもしれない。
ひとつの事象に対して、解釈(見え方)は無限に存在する。
きっと人は、良くも悪くも、自分に見えるものや想像できる範囲でしか物事を捉えられないし理解することはできないのだろう。
相手をどれほど大切に想っていても、自覚のないままに大切な人を傷つけ追い詰めてしまっていることもあるのだろう。
子どもは身近な大人のものさしで測られ、それが正しいと刷り込まれ、そこから外れると自分が間違っていると思ってしまう。
この作品では『性』がその中心にあり、問題として捉えやすかったが、実際はもっと身近で当たり前だと思っている小さなルールなども同じなのではないかと思う。
校長の言葉:
『誰でも手に入れられるものを"幸せ"と言う』
幸せは他人が決めるものではなく、自分の心が決めるものだと思った。
ラスト、涙が流れました。
2人が本当に楽しそうにしていて、嬉しい気持ちと悲しい気持ちが入り乱れました。
永山瑛太の演技はもちろんのこと、子役2人の演技が素晴らしかったです。
怪物は…
僕の心だ!!と思いました!
まんまと!!まんまとやられました!!
人は自分のみたいものを見ようとしてしまう生き物ですね!
僕は全く情報ない状態で見ましたが、それが一番楽しめた気がします!
めちゃくちゃ良かったので是非みんなに観てもらいたいです。
下記、心打たれたシーン。
拭っても拭ってもすぐ泥に覆われてしまうあのシーンがすごく象徴的で印象的でした。簡単には光はさしてくれない。
あとナマケモノのシーン。みなと君にはわかってるんだね。
あと。なんか小さな恋のメロディ感のあるキラキラと美しいラスト。
最高過ぎる。
僕は泣きまくってましたが、隣の彼女はカラッカラ。
怪物め…。
酷く脆い“怪物”とは
現在も信州人の僕、見事砕かれる。
「あ、ここよく行く場所!」とかそんな余裕なかったぞ…。
第一幕は麦野君の母親視点の物語。
息子が先生にイジメられている?
息子が先生に体罰を受けた?
それなのに学校は無責任…いや、「無気力」とも言える死んだ顔の“怪物”。
第二幕は担任教師、保利先生の物語。
彼は「何もしていない」のに、
生徒の嘘によって翻弄され、他の先生からは責任を押し付けられ、
全てすべてが“怪物”。
彼を取り巻く全てが“怪物”。
第三幕は伏線回収がメインとなり、
度々顔を見せる二人の子供たちの物語。
さて、舞台は整った。
ここから始まるのは「無邪気さと葛藤」に住み着いた“怪物”の物語。
常に僕等に強烈な印象を与える星川君。
彼は普通ではない、彼は異常。
最初僕はこの意味の捉え方が上手くできなかった。
何故彼の父親は虐待してまで、星川君を律したいのか。
何故いじめっ子は二人の関係を「ラブラブ」と囃したてるのか。
それに怒る麦野君。
(この時点でほぼわかってたし、なんなら校長先生のシーンでもう確定したけど)
レビューやネタバレを見て確信に変わった。
(そのときは、「多分そうだろうけど解釈違いだったら殺してほしい」レベルでレビューを拝見していたので)
成程、これは「マイノリティなのか」と。
互いが互いを「特別」と感じている。
然しこれは単なる絆ではなく、「秘めるべき恋心」。
然し彼等には「普通ではない」としか言えない。
「豚の脳」、「治療」、「話しかけないで」、「俺が間違ってた(嵐の中で麦野家に叫ぶ保利先生の台詞)」、「普通」、「男らしく」―。
これらが「全員の価値観による『支配』」と捉えれば、
この物語の真意が現れてくる。
星川君の父親はノーマル。
ガールズバーにも行くし、普通に結婚して子供もできた。
そんな子供は「自分と全く違う価値観」。
「俺の子だから」と勝手な「支配」。
虐待による「支配」、それが治療という名目で。
保利先生は「教師」という職務からも、
中立的な立場に立たされる。
子供たちに常に正しく、そしてのびのびと清らかに巣立ってほしい。
だからこそ、マイノリティにはシビアにならなければならないし、「間違ったこと」を伝えるわけにもいかない。
自分らしくとは言葉だけに「男なら」、「男だから」と「支配」していった。
麦野君の母親は「ラガーマンの父」を亡くした女性。
そう…正に「雄々しい男性像」がそこにある。
自分の旦那のように、息子にも男らしく育ってほしい。
息子を「支配」し、知らずの内にお父さんを押し付けていた。
さて、こんな支配しかない世界で気付いてしまった「互いが互いを(違う意味で)信頼し合っている」真実。
彼等からしたら、こんな狭い世界よりも広く心地良い、温かい二人きりの世界が望ましいだろう。
ラストシーンで二人が駆けるのは、
「死の救済」か「無邪気故の希望的観測」か。
支配という“怪物”からの解放―。
誰にも知られてはいけないこの想い、
さて誰が始めに気付くのか。
まぁ少なくとも保利先生ではないだろう。
彼からしたら「麦野が星川をいじめている」という話の真実を知ればいいこと。
「俺が間違ってた=『麦野が星川をいじめている』と思ってしまっていたことが間違っていた」ことなのだ。
何故か。
なぜ誰も気付けないのか。
だってよく考えてほしい。
「みんな異性愛者」だから。
僕自身ゲイではあるが、だからといってこの作品に対して何か評価を変えはしない。
一言マイノリティを抱えるものとして言えるのは、 悩む人達の傍に居る人が「気付いて声をかけてあげること」なのだ。
そういう意味では、作中の良心は校長先生だったと思う。
彼女こそ、彼のもやもやを吐き出せる場所を作ってくれたのだから。
一人の視点から見る“怪物”というものは明確にわかるが、
全体を覆うと見えなくなる。
彼等は其々の想いを背負って盲目になってしまっている…。
分かれば単純なことも、自分達の価値観や責任感、自責によって“怪物”の存在に気付いていない。
そしてこんなレビューをしている僕こそ、
彼等から見る“怪物”なのかもしれない。
(追記)
そういえば麦野君が秘密基地で星川君を突き飛ばしてしまったのは、
明確に彼を想っていることがよくわかるシーンだった。
虐待から星川君を助けることも、
星川君が「お菓子をあげる」ことも。
傍から見たら微笑ましい光景。
でも彼等からしたら、「秘め事」。
言葉通り、お菓子を食べたことは内緒にしないとね。
(そう…「嘘」をつかないとね)
彼等はこれから、「社会」という”怪物”に立ち向かわなければならない。
その時、この二人が永遠に支え合える関係であることを祈るばかりだ
脚本を期待したが…ん〜
それぞれの視点で見え方が違う、という予備知識を持って鑑賞したので、後半に出てくる人物がキーマンとなるのが途中でわかってしまう。(小説、「藪の中」のように真実がわからない、という結末ではなかったのでそこは高評価)
釈然としないのは「怪物」という題名が甚だ疑問。いかにも怪物は誰だ的な描き方だしそのように見ていたが、結論として怪物は誰もでてこない。(若干、校長先生がそれっぽいが意外性は無し)これ、ユーチューブならサムネ詐欺ですよ。
それとミナト君が車内から飛び出すほどの動機づけも弱いし、先生を怪物扱いするためのミナトくんの大嘘「先生に豚脳と言われた」発言の動機は何?ここがわからないのは致命的。
細かい所だと、女児の発言「湊君が、死猫を運んでた」をのちに撤回したが、その理由は?描写無し。
地味にゲイ児君の鏡文字は必要ない。
担任、謝罪後も学校行って、湊君また怪我して、屋上でさまよってカット。その後は?描写無し。
以上がノイズとなり★3
良かったのは、校長、担任、ゲイ児の演技が素晴らしかった。
いろんな人種、障害者を起用したり、lgbt題材にすると、賞レースには有利になるみたいだが、その辺が平等になる時代が来たとしたら、純粋にもっと脚本の良し悪しだけが評価されるはず。そうなって欲しい。
追記、レビュー動画見て知ったがもともとの題は「なぜ」だったらしい。商業的な狙いで怪物にしたのね、納得。脚本家坂元氏の作品では常套手段らしく、ため息が出る。
この人はどんな人? この人はその人?
この人はどんな人?
そう考えながら、取り込める情報をかきあつめて組み立てている自分がいる。
早織も保利も校長も湊も依里も…出てくる人を全員。
主観で固めた人物像は、尾びれ、背びれをつけそれっぽく出来上がると満足気に頭のなかを生き生きと泳ぎだす。
泳がせながら訂正を入れ、また変貌させていく。
はて?
私が作りあげたこの人は、はたして本当にその人なのだろうか?
視点がかわったとき、はっとした。
それが事実にそぐわない歪みにみちていたこと、今ここで虚像をこしらえていたことに気がつく。
そのとき、虚像達は沈黙して私を取り囲み、つくりあげる行為そのものが〝怪物〟であり、世の中に与える影響は未知だよとささやく。
なんだかすこし気まずい気持ちを抱きながら、これまでを思い返す。
いつからだろう。
知らず知らずに使いこなしてきた想像の製造マシーン〝怪物〟。
〝怪物〟の産物が麻痺するほどに巨大化し、何処かで暴れたり、誰かを傷つけてたりするのを見聞きしても、人ごとのように意識にオブラートをかけ、まだわたしはそうでもない、大丈夫と変な自信を持って。
現世から離れたような空気感のあの美しい景色の基地。
湊と依里が〝怪物だ〜れだ〟と連想ゲームをする。
無邪気でほほえましい声がこだまする。
そんな小さな彼らの大きな罪をつくってしまったのはなに?
連想が走りすぎる大人たちがリードするこの世界をおもう。
立ち帰らなければならないところにすでにいることをわかって。
胸に伝う涙のようなピアノの音色が、2人を包んだラストシーンにやさしく切なく響いた。
修正済み
何が正しいのか…を考えさせられる
ただただ人々の動き、考えから目が離せなかった。
最初は誰しもがいじめか?と思うような展開だが、進んでいくにつれ、視点が変わり、正しいと思っていた見方、考え方が違っているのでは?と気づく。
瑛太さんはじめ、みなさんの演技乃たまものと思いますが、何より子どもたちの揺れ動く多感性に惹きつけられました。
一方だけの情報では正しいことはなにもわからない、当事者でなければ何をどう考えていたのかわからない。ネット社会の現代では、ほんとうに考えなければいけないことがたくさんつめこまれていたように思いました。
それはスタンド・バイ・ミーと同じ感情が湧く。
ラストの廃橋。柵が無かったように見えた。ということは二人は天国に行ったんかなぁ。是枝監督はそう見えるかもという演出してた様な気がします。
二人にはどちらも幸せになってほしいよ。でも天国行っちゃったんかな?
そう思わせる。
小学校の頃の友人を思い出しました。
それがこの映画の成功だと思いました。とても良かった。
映画『怪物』カンヌでパムドゥールでもよかったよね
全部の参加作品見たわけではないけど、少年期の細やかな心の動きや切なさが痛いほど伝わ
ってくる。だから題名も含めて直球勝負でも良かったよね、複雑な時代背景を盛り込んだあ
たりがしょうがないのかな。
オーソドックスなテーマなんだけど
見せ方と今風なLGBTという表現。
まあ、惹きつけるキャッチコピーは必要なんで。
それも今風ということになるのでしょうか。
少年同士の純愛。
言葉にするとなんか下世話な感じもしなくないのですが。
主人公の少年は、小学校五年生。
このあたりは、同性愛は普通でしょう。
同性愛なんて大げさな言葉使わなくても、ただ同性に惹かれるということで。
洋の東西を問わず、この時期の少年の性的志向の作品は多々あり。
別に目新しくはないのですが。
それをLGBTやいじめの問題とからめたところが、心憎い。
性的志向や性自認はまださき
異性に関心が向くのは、この先だと思うのですが。
だから、主人公の少年が、別に同性愛と決めつけることもなく。
このあと、性的志向が、異性にむくことだって十分考えられることだと。
ただ、この年齢でも自分の性に違和感をおぼえるとなるとそれは別の問題かな。
性同一性障害は、判定も難しいし。
だから、主人公とその友達が惹かれ合うのもごくあることだと。
それを同性愛とさわぎたてるには、年齢的に早すぎると。
ただ、学校という現場では。
また子どもたち同士では、どうなっているんでしょうね。
情報過多な時代ですから。
純文学的にこの時期の少年を描いた
爽やかなラスト。
みずみずしい少年の演技や心の動き。
秀逸な作品だと思います。
映画『スタンド・バイ・ミー』や『少年時代』に匹敵するかな。
ただ、多少カーブをかけた題名やキャッチコピーは、しょうがないかな。
直球勝負でもいいような気がするけど。
誰が怪物か
同じ時系列を3回、別々の視点で繰り返しますが、「最後の決闘裁判」と重なりました。
違う点は、「怪物」は視点が変わるたびに見える部分が変わり徐々に真実が明らかになっていくものだが、「最後の決闘裁判は」視点が変わると見える部分が変わるのと同時に同じ事実でも解釈も変わるということ。
怪物もなかなか良かった。
序盤はかなりドキドキさせられました。
特に、進路相談室に母親が入るとみなとがいなくて、戸が開いているシーン。
上から落ちてくるんじゃないかと思いました。
誰が怪物なのか?と考えながら見てましたが、みんな怪物ということですね。
「怪物だ〜れだ?!」
まさに観た後の感想そのものです。
上中下編に分かれる展開の上編、母親(安藤サクラさん)目線の流れは謎ばかりで、中編 ホリ先生(瑛太さん)目線では謎解きであり上編で思ったよりもキチンとした先生なんだと思い直させてくれてホッとしました。母親目線では『友罪』の瑛太さんを彷彿とさせる不気味さでしたが、恋人(高畑充希さん)とのやりとりや謝罪中に飴をなめるあたりはやはり??の感覚が残ります。
下編は観る人それぞれが考えてください!的な突き放し方(?)で最後まで目が離せない作品でした。
それにしてもやはり安藤サクラさん田中裕子さん恐ろしい役者さんたちですね。でもこの2人に勝るとも劣らぬ主人公の子供たち2人の素晴らしい演技に感動です。十数年前『誰も知らない』の時、やはり是枝監督がカンヌ映画祭で発掘した柳楽優弥さんみたいですね。
色々な命題を扱った作品で鑑賞しがいがありますが野党が言い換えた『ジェンダーアイデンティティ』でしたっけ?難しい題材ですね!面白かったですし、考えさせられます。
追伸
途中そしてエンディングの坂本龍一さんの音楽は見事にこの作品として融合してこれも感動しました。ご冥福をお祈りいたします。
怪物だーれだ
是枝監督の作品は最後ハッキリしないものが多く、見るものに委ねられている気がしていたので、そうか、そうだよね。のラストでした。
万引き家族は見始めて、割とすぐ寝てしまって見終わってないので、心配していたけど、終わりまで長すぎる感はなかったし、グイグイと見入ってしまった。
保利先生、かわいそうじゃないですか?濡れ衣。
日本の学校がこんな風だと、海外の人に思われたらやだなぁ。
みんな怪物
タイトルや予告から怪物当てサスペンス映画かと思ってましたが、内容は想像と違ってました(笑)
それでも期待以上に面白かったです。
安藤サクラは相変わらずの名演技でした。小学生2人も可愛いし、演技も自然だしで引き込まれてしまいました。
ある視点から見たら「怪物」に見えてた人が、別の視点から見ると良い人だったりする。
自分の視点からは、その人の一部分しか見えていない。
同性愛を自覚するシーンはすごくリアルでした。
好きなことを認めたくなくて離れようとしたりとかケンカしたりとか。
何気ない一言で「幸せになれない」と感じたりとか。
あの2人には幸せになってもらいたいなぁ。
自分の中にも「怪物」がいることを自覚して、コントロールして生きていかないといけないと感じました。
坂元さんが紡いだダイアログはやはり印象深い
坂元さんの脚本が好きです。人と人との会話の中で生まれる言葉に不思議なパワーや魂が宿っていると感じます。
最終的に少年二人の心に爽やかな風が入り込むようなラストだったのだが、1回観ただけでは消化不良になる点があるかもしれない。2回目3回目を見て、自分の中でゆっくりと各登場人物の心情を噛みしめていくような作品だなと思った。
目に見えていることだけが全てではなく、事実ではなく。自分から見た他者、他者から見た自分、それらはいつもすれ違いが起きている。他の先生からの視点や、星川くんの視点が描かれたとしたら、どんなだったのかなーと思う。湖、火事、廃電車、横たわる金魚、猫…人間以外のものが、どういう意味を投げかけているのか?とかも考え出したらキリがなく、やはり2回目を見なければ。
印象的なセリフを挙げてみる。(映画のシナリオ本、ぜひ欲しい…)
・誰かにしか手に入らない幸せは幸せなんかじゃない、誰にでも手に入る幸せが幸せなのだ
・牛丼は牛に戻って、うんこはお尻に戻る(笑
・親って気使うよね
最近、宮藤官九郎さんがラジオで言っていた。記憶はバケツのようなもの、と。ここ2〜3年の出来事はほぼ覚えていないのに、バケツの底にある昔の記憶はいつまで経っても忘れない。坂元さんは小学校時代の自身の同級生を思い出したそうだが、本当に、子供の頃のこういう記憶って消えないものだ。自分の幼少期を思い出し、切なくなったり、後悔が湧き上がってきた作品でもあった。
子供を怪物だと思い込んでいたのは周りの人達か…
なにが人を怪物たらしめるんだろう?視点によって怪物が変わる。
序盤は、いじめ?→母親が怪物?→先生たちが怪物だ…
と思ったら、息子の湊くんが怪物なのか!?→担任の先生ヤッバ…→あれ?誰も怪物じゃない???
→結論、中村獅童が演じる父親と校長教頭が、根っからの怪物だと思いました。
とかなり揺さぶられました。
そして、伏線がかなり上手く気持ちよかったです。
片方ない靴、水筒の泥、怪物のカード、耳の怪我などなど、見方によって捉え方が変わる面白い伏線でした。特に水筒の泥は感動すらしましたね。
最近の流行りなのか何でもかんでも伏線と叫ぶ人らがいますが、考え直して欲しいなと思いました。
・"人に潜む怪物"が伝播していたと感じました。
最初は湊くんの友達(星川依里)のクズゴミ父親です。
いじめがあり、対応が分からない湊も悩みを抱え、担任の先生にも誤解を産み、そこから母親まで…
・証拠がないことによる恐怖っておそろしいですね。特に担任の先生がガールズバーにいたらしいという噂から先入観を持ってしまい、もう冷静ではなくなっていました。誤解による怪物誕生。
ガールズバーにいたのは、クズ父親でも担任でもなく、前の先生じゃないかなって勝手に思ってました。
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不思議に思ったのは、
なんで飴を食べたのか?
湊のとなりの席の女の子
前の教師はただの教師か
ってとこです。
隣の女の子はたぶん、依里のことが好きなのかなと思いました。初めは湊のことが好きで猫の件を咄嗟に庇ったと思ったのですが、それだと猫の件を密告した理由が分からないので…
あの女の子は、湊が依里をいじめている→本当は仲良し、ってことに1番初めに気付いたんじゃないかな?
飴は流れ的に、周りの先生からの指示かな
前の先生は今の担任の先生との比較で出していたと思うんですが、結局面倒事が嫌なだけの普通の先生だったので、良いキャラでした。
映画館で観るべきかと言われたら、断言は出来ないけど、少なくとも1回は観るべき映画だと思います。
とにかく演技も、ストーリーの早い流れも、決して難しくない理解しやすさも、観客に考える猶予をくれるところも全部満足しました!!!
【追伸】
2回目観ちゃった
個人的には、ラストシーンあの二人は死んでいると思います。
立ち入り禁止表記や天気など全てが二人にとって都合の良い、二人だけの自由な世界に行けたんかなーって
脚本賞に納得
これはベストマッチだったのかもしれない。是枝的でありながら、どう見ても坂元裕二の脚本。自分が惚れたのはやはりドラマの構造と散りばめられた会話が繋がるところ。役者は永山瑛太がまたまた良かった。ラストの晴天の中の二人。嬉しく悲しいエンディング。
LGBT的な部分については、あんな子供の頃から自覚するのか、と改めて。控えめながら想像以上に決定的に描かれている。インティマシーコーディネーターが導入されたと聞くが、子役たちに充分なケアをしてもらいたいと思った。
映画ゆえ
最初の早織の視点の第一幕で映画館を出ようかと思いましたが、
最後まで見てよかったです。
結局は、いじめや児童虐待が良くないということになるのでしょうけど、
そこに、人の多様性、幸せ、などのテーマが絡んでいて
楽しめる作品ではありました。
事実が明らかになっていくことや、誰が怪物なのか、推理ゲームのようでもありました。
しかし、心を病んだままの校長を現場に復帰させることや、
教職にある人間が足をかけて子供を転ばせる事、
飛び降りようとしていた担任がなぜか管楽器の音に反応していたこと、
バスタブで体力失ってた子が悪天候の中、自転車も使わずに廃坑まで行ったこと、
などいろいろと疑問点も残ります。
また最後もなんだか悲しくなりました。
個人的には、親達にとってもハッピーエンドにして欲しかった。
考えさせられる作品でした。
怪物だーれだ
母、教師、子供たち、とそれぞれの視点から出来事が描かれる。
冒頭は湊の母に感情移入して、学校側に憤り、徹底した事なかれ主義に気味の悪さを感じたが、時系列がいったりきたりする中で少しずつ出来事のパーツが明かされていき、事件に対しての印象が次々に塗り替えられ、関わる人物たちの葛藤が肉付けされていく。
怪物は、得体の知れなさゆえに嫌悪し畏れる対象のことなんだろう。
それぞれにとってそれぞれの怪物。
依里の境遇に対しては無力なまま、依里との時間を心の拠り所にすごす湊にとっては、コントロールできない自分自身が怪物?
いや、そう思わせる周りの価値観こそが怪物なのかもしれない。
校長は、そんな怪物と対峙しながらいつしか慣れ親しんでしまった人物なのかも。
シングルマザーだから。ガールズバーに教師がいくなんて。適当でいいんだよ。男だろ。普通に結婚するまでは。
あちこちに散りばめられた無自覚な既製の価値観のワードとと、この線から出たら地獄だよ、というなにげない言葉が印象に残る。
誰かじゃないと手に入らないものは幸せと呼ばない、という校長の言葉がその中で力強く救いだった。
怪物探し
鑑賞中、この「怪物」というキャッチーなタイトルに惹かれて怪物探しを誰もがしたことだろう。御多分に漏れず私も怪物探しに没頭して上映時間中緊張感を持続できた.。
映画を鑑賞した際には観客は鑑賞した作品の内容を自分の頭の中で咀嚼し、自分の中でその訴えてるテーマを紐解こうとする。あれはこういうことだったんだ、あれはこうでは、などなど、本作のように暗に示唆するような表現が多用された作品なら尚更だ。
カンヌで賞を取った後の凱旋上映、特に映画好きにとっては外せない作品。鑑賞は気合入りまくりである。特に日本映画初のクィア・パルム賞となれば、当然本作のメインは二人の少年の物語だろう。
まだまだ幼い二人の性に対する戸惑いといったなんとも繊細な描写が見るものを惹きつける。
当然彼らは保守的な今の社会では歓迎されない。父親から虐待を受け続ける依里はとても純粋に見えてどこか危うい感じがする。その彼に惹かれる湊も自分は男らしい人間なのかと、髪を切り取ったりと戸惑いを見せる。
小学生という設定がまた微妙だ。性に目覚めるには幼すぎる気もするし。その点ではなんとも罪作りな脚本だと思う。監督はいったい子役たちにどういう演技指導をしたんだろうか。
結局本作はいろいろすったもんだを散々見せた挙句、ラストシーンは嵐が過ぎ去りまぶしく光る太陽の下、駆け出す二人の映像で終わる。これを見て希望的なラストだと思わない人間はいないだろう。
今なお性的マイノリティにとっては受難が続く時代。誰に迷惑をかけるわけでもない彼らを否定する保守的な権力者が巣食う社会では彼らの未来はけして開かれてはいない。
現にこの国でもLGBT法案が審議中だがその中身は差別を容認するものだ。そんな社会に住む彼らに作り手は希望を持って生きて行ってほしいとの願いからあのラストシーンを描いたのだろう。性的マイノリティーに限らずすべての子供たちへのメッセージとして。
依里が書いた作文の題名は品種改良だった。自分を「人間」にしようと虐待をする父親を暗に皮肉ったのだろうか。
今のこの国では権力者に忖度する官僚やマスコミばかりだ。教育現場も例外ではない。時の権力者が自分たちに都合のいいように人間を品種改良した結果であろう。
やっと怪物を探し当てることが出来た。怪物とは母親の悲痛な訴えに耳を貸さない教師たちではない。担任を陥れた生徒でもない。息子を虐待した父親でもない。怪物とはこの社会に巣食う品種改良を目論む権力なのだと。
それは普段は目には見えない。しかし、彼らがその権力を振るう時、それの脅威にさらされる人間に対してはその恐ろしい姿を露にするのだろう。
目に見えない怪物は今もそこにいることだけは間違いない。
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